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倒れ伏した桜宮家当主の身体。御簾の隙間から赤い液体が流れだし、小さな水溜まりを作っている。
あまりにも唐突に訪れた最高権力者の死。突然過ぎて誰一人理解が追い付いていない。
この厳重なセキュリティに囲まれた部屋で、貴族街最強の存在をあっさり殺せる者なんて限られている。ぱっと思いつくのは目の前で虚ろな目をしている人物――
「環境と能力に甘やかされてきたマザコンにはこれくらいしないと駄目ですよ、王様」
そんな和幸の考えを肯定する形で、よく知る声が耳朶を打った。
男にしては高い声。棒読みではないにしろ、最低限の感情しか乗せられていない声。
和幸たちが本家に来ることになった理由っでもある声の主は御簾の中から姿を現した。
「健が二人っ⁉」
「ん? ああ、あれの悪戯か。ほんっと性質が悪い」
苛立ちを乗せて小さく呟きながら健はもう一人の自分が立っていた場所へ視線を送る。
そこに健はもういない。まとっていた巫女を模した衣装と、健の形を成していた土塊があるだけだ。
登場の時点で偽物だと薄々気付いていた和幸には驚きはない。
「マザコンな上に人形遊びが趣味なんて救えないよね」
その人形遊びに自分が巻き込まれていたことへの怒りを滲ませながら、健は五人へと向き直る。
「ともかく数日ぶり。心配かけたみたいでごめんね」
「本当ですよ。連絡も全っ然寄越さないからこんなところまで来る羽目になったんですから。本当の本当に心配したんですよ」
「だからごめんって。全部あれが出しゃばったせいだから」
勢いよく迫る悠へ呆れたように返す健。
貴族街の中心とも言える場所で悪びれることなく不敬を口にするなんて芸当健にしかできない。
そもそも数秒前に当主を殺しているのだから不敬も何もないわけだが。
どこにいても健は健で、健がいれば悠は悠になる。見慣れた光景に和幸は息を零した。
「屋敷の主を差し置いて随分盛り上がっているようだな」
「何? 拗ねたの? 死体は大人しくしててくれると助かるんだけど」
不意に聞こえた声に、誰に向けることもない不機嫌な声色を返す健。
健は桜宮家当主を嫌っている。健が苦手意識を抱いている者はいても、ここまで嫌悪を露わにする相手はそういない。
とはいえ、いつもならもう少しオブラートに包んだ態度をしているはずだが、知らないところで当主の何かあったのだろう。敬語が外れているのがその証拠だ。
「お主こそ、与えた部屋で大人しくしていたらどうだ?」
「自分が当事者じゃなくて、あんたが余計なことをしないなら大人しく引っ込んでいるよ」
御簾に映った新たな影を睨みつけるようにして健は立っている。
影は先程よりも幾分か小柄で、声も少し高めだ。明らかに別人である。
「盛り上がっているところ悪いのだけれど状況を説明してくれる? どちらが本当の当主なのかしら? それともどちらも偽物?」
終始、我を貫く夜は場の空気に呑まれる面々の代わりに問いかけた。
相対する健と当主の迫力に圧迫された空気に軌道修正を促す。
「どっちも偽物だよ」
そっと視線を外した健は映し出していた表情を消して答える。
「本体は離れた場所で偽物の身体を操ってるよ。あれの場合、貴族街内なら有効判定だし、状況を把握するのも簡単だからね」
「宮様のお姿を知っているのは貴族街でも限られています」
「そのほとんどが本家に軟禁状態。外に出られる人なんて片手で数えられるくらいだよ」
和幸は当主の顔を知らない側の人間だ。顔を合わせるときはいつも御簾越しで、操られた偽物の顔すら目にしたことはない。
ただ会うたびに影の形も、声も微妙に違っていたので偽物なのだろうとは思っていた。
「いくら偽物って言ったってそんな簡単に……殺してもよかったのか。その、操られてただけなんだろ」
「偽物は全部死体だからね。死体収集と死体遊びが趣味なんて罰当たりだよね」
「お前、本当に恐れ知らずだよな」
わざと人聞きの悪い表現を選ぶ健。他の者が同じことを口にすれば、間違いなく瞬殺だ。
殺されはしないことを知っていて、逆鱗に触れるぎりぎりの綱渡りをしているのだ、健は。
「恐れる必要のないものを知っているだけですよ」
「であれば、お主の恐れるものを知りたいところだな。大方予想はついているが」
「貴方には用意できないものだから知ったところで無駄だと思うよ」
「それはどうであろうな」
含みを持った言葉に健はその目を細める。
警戒を滲ませた表情は出来ないと侮ることも、はったりだと流すこともない。本気でその可能性を考えている顔だ。
「お主の弱みを我は握っている。今、お主の命を握っているのは我だ。それを忘れるでないぞ」
今まで強気の態度で相対していた健が押し黙った。
貴族街の中枢。本家に足を踏み入れた時点で当主に命を握られているようなものだ。
しかし、今の当主の言葉はそれを意味したものではないのだと健の態度が物語っている。
やはり健は今、本調子ではないのだ。そのことを知られたくなくて押し黙るしかないのだ、と。
きっと陰鬼を遠ざけたのも同じ理由で、和幸以外にもそのことに気付いた者はいる。
「それでこれからどうするつもりなの。私は健に会えただけで満足だし、このままお開きでもいいのだけれど?」
「僕も健兄さんの無事を確かめられたので十分目的は果たせました。後は健兄さんの判断にお任せします」
和幸の他に気付いた二人は己のリズムを刻むように言葉を投げかける。
夜は先程のように場の流れを戻すように、悠はそんな夜に乗っかる形で。
これが処刑人のいつもの形なのだろうと見て取れた。健を抜きにしてもこの二人は相性がいいのだ。
「そーだね。俺は――」
今回の主な目的は健に会うこと。健の無事を確かめること。
目的が達したその先の動きは健が主導するものとなる。和幸たちの判断は健の意見を聞いてから。
宣言の通り悠は全肯定で健の判断に従う。夜は今までと変わらず自分を貫くために行動する。
案内人である沙羅は傍観に徹しており、和幸は健の言葉を聞いてから判断すると決めている。
星司は星司で自分の考えを持っているはずで、当主が静観していることに少し不気味さを感じる。
苦手を言いつつも注目されることに慣れている健はいつも通りの態度で言葉を続ける。
「俺は帰らないよ」
「――は?」
唯一、その答えを予想していなかった星司が怪訝な声を漏らした。
「ここまで来てくれて悪いけど俺は帰るつもりはないよ。今はね」
小さく付け加えられた言葉を和幸は辛うじて拾った。耳がいい悠辺りには聞こえているだろうが、離れた位置に座る星司にはきっと届いていないだろう。
肝心な部分を暈して健が何をしようとしているのか。
その思惑がなんとなく分かったので和幸は黙して成り行きを見守ることを選んだ。
無表情の中に微笑を混ぜた悪魔の顔はよく知っているものだ。
「でも、それだと納得いかないよーだから一つ提案するよ」
自分のペースに持ち込んで、譲歩しているように意見を押し通す。
「俺たち、処刑人に勝てたら何でも一つ望みを叶えてあげる。帰ってきてほしーならそれに従う。他にあるならそれでもいーよ」
健は縛りも多いが、持っているものも多い。大抵のことなら叶える手段を持っている。
これはある意味、夢のような提案と言えるだろう。高い障害が提示されていても、乗るという選択肢が消えないくらいには。
「俺と悠、後は夜かな。こっちは三人が相手するよ。そっちは何人がかりでも、王様のチョイスに任せます」
基本的に相手の判断に委ねることの多い健は、今回に限っては考える時間を与えない。与えさせないように言葉を畳みかける。
健はどこか焦っているように見える。
時間を与えないのは断られたくないからではなく、健自身に時間がないからだ。
巧妙に隠された焦りは近い付き合いの和幸にはささやかな違和として感じられる。
「分かった」
意図をすべて理解したわけではない。焦っている理由も想像の域を出ておらず、それでも十分だと思って和幸は提案を呑んだ。
「準備の時間も必要だろーし、そーだね。二週間後くらいがいーかな。八潮さんにも連絡しておくから頼って、拠点の鍵も開けておく」
必要な言葉だけを並び立てる健。淡々と告げられる言葉は我々が割り込む隙などないと告げているようだ。
「その興に我も乗ってやるとしよう。精々、我を楽しませてくれることを期待しておるぞ」
物言いたげな健の視線を楽しげに躱す当主。噛みつきたくなるのを堪えるように健は口を噤む。
今回の件は当主の協力が必要なので下手なことは言えないのだろう。
「沙羅、お主に案内役を任せよう。二週間後の朝に」
悠と夜を除いた三人が本家を去ったのとほぼ同時に健の身体が崩れた。文字通り崩れた。
着ていた服もろとも土塊へと変化する。
これが健の焦っていた理由だ。遠隔で操る限界が近付いていたのだ。
普段の健ならば問題なかっただろうが、今の健は万全ではない。おそらく桜宮家当主によって何らかの制限も課せられていることだろう。
「で、健兄さんはどちらに?」
「そう急くな。久方ぶりに言葉を交わすのだ。心悠よ、あれも会いたがっておったぞ」
「知らない名前ですね。僕の名前は悠ですよ」
心悠なんて名前はとっくに捨てたものだ。そもそも捨てる前にだってほとんど呼ばれることのなかった名前だ。価値はない。
来たくなかった場所に来て、会いたくなかった人に会い、呼ばれたくない名前で呼ばれ、嫌いな人物の話題に触れられる。
隠さない苛立ちとともに当主と相対する悠は無遠慮に御簾へ歩み寄った。
「貴方とまともに会話したことなんてありませんでしたし、あの人が僕のことを気にするとも思えません。くだらないことを言ってないで、とっとと健兄さんの居場所を教えてください」
「では、私が案内しましょう。こちらに」
音もなく現れた執事服の青年がそう申し出た。上等の生地で作れられた執事服と、不思議な雰囲気をまとう紅い目。微笑を浮かべた口からは八重歯が覗いている。
特徴的なその見た目は視線を外せば朧げとなり、記憶から零れ落ちていく。
その事実には気付かず、本能的な不審で青年を睨めつける。
「素直に信じ難いですけど、まあ信じますよ。騙したら承知しませんよ」
疑念を宿したままで後に続く悠。その後ろで先へ進む執事服の青年と御簾の先にいる人物を見比べて夜は微笑した。