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6-3

 暗闇から意識が浮上し、健は目を開けた。知らない場所だ、と肌を撫でる空気で判断する。


 久方ぶりに夢を見なかったお陰か目覚めはそう悪くない。意識を失う前のことが思い出せないことを除けば、概ね良好だ。不思議なことに。


 健の記憶は陰鬼を撒いて森の中へ足を踏み入れたところまでで終わっている。

 あの後健は誰かと会い、その人物によってここへ連れてこられたのだ。


「……知らない場所。いや、知らないけど知ってる」


 矛盾した感覚を味わう健は五感を研ぎ澄まして出来得る限りの情報を集める。

 無音にして無臭。健以外の人間の気配がしない。探知系の術も軒並み使えない。


 直接確認しないと駄目らしい。脳内で場所の候補をいくつかあげつつ、ベッドを覆う薄い幕に手をかけた。


 このベッドには天井から吊るされた幕で全体が覆われている。四柱はないものの、俗にいう天蓋付きベッドというやつだ。

 かなりの値打ちものであることは手触りからも明らかなまでに分かる。


 そんな薄布を捲った先にあるものを見て目を見張る。


「結界、ねえ」


 薄布を捲った先は透明な膜が張り巡らされていた。膜には複雑かつ緻密に刻まれた術式が浮かび上がり、奇怪な模様が描かれているようにも見える。


 刻まれた術式があまりにも複雑で健でもすべてを理解するには至らない。少なくとも探知系の術式を妨害しているのはこの結界のようだ。

 ここまでの術式を組める存在を健は片手で数えられるくらいしか知らない。


「……」


 既に上がっていた候補からさらに候補を一人に候補を絞ってベッドから降りる。

 得体の知れない結界を抜けて――全身にかかった負荷に膝をついた。


 忘れていた倦怠感が健を襲い、油断していたことを嘲笑うように馴染みの痛苦が牙を剥く。

 呼吸もままならず、酸素を取り込むために喘ぎを漏らす。込み上げるものを食いしばって堪え、倒れ込みそうになるのをそれだけは膝をつくまでで耐える。


「き、しん」


 絶え絶えの呼吸の合間で内に潜む存在へ呼びかける。ほとんど音になっていない声だが、彼には届いているはずだ。


 この不調は相手の攻撃ではない。救いがたく、腹立たしいことを分かっているからこその呼びかけだ。


 しかし共犯者たる鬼神からの応答はない。深く深く眠りについているようで、掠れた声で何度呼びかけても応じてくれる気配はない。

 おそらくは人為的なもの。あの結界が関わっていることは容易に想像できた。


「くそっ」


 結界を仕掛けた者が分かれば、沸き起こるのは怒りだけだ。

 不調だけが理由ではないらしくなさで悪態をつく健の上にふと影が差した。

 扉が開けられた音もしなければ、気配もなかった。健は刹那だけ驚き、すぐに怒りをまとう。


「苦しそうですね。大丈夫ですか」


 朦朧とする意識が妖しい響きを持った声を捉えた。

 喘鳴を零しながら意識を手放さないこと全集中を注ぎ込む健を紅い目が覗きこんだ。


 鬼たちの真紅とは違う、神秘的な何かを感じさせる紅。よく知っている紅。

 けれども覗き込む顔はよく知る顔よりも若く、初めて見る顔だった。


「っどの口が……っく、はぁ、はっ……ひゅっ、死ね!」


 辛うじて留めていた意識の中で紅き目の青年へ掴みかかり吐き捨てる。

 正直、もはや五感はまともに働いておらず、相手の顔もよく見えていなければ耳も遠い。


 それでも十分だった。鬼神以外にその紅い目を持っている人物なんて一人しかいない。

 そのくせ執事服で白々しく敬語を使う姿に苛立ちが募る。


「あまり興奮してはお身体に触りますよ」

「うる、さい……」


 意識を保つことに残りの体力を割いている健には悪態をつくしかできない。

 こんなのは子供の癇癪だ。


「心配はいりません。後のことは私に任せて今はお眠りください」


 囁き声を睨む。睨んだつもりだが、限界に近い健にはもはやそれすら分からない。

 執事服をまとう青年はそれを見て、四本の牙を見せつけるようにただ笑った。

 紅い目が楽しげに細められるのを横目に健は青年の胸に倒れ込む。


「ここまで耐え抜いた精神力は大したものだな」


 敬語で彩られていた声が低く紡がれる。


 自らの胸に身体を預ける健の顔を持ち上げ、堪能するように舌なめずりをする。


 瞼は閉じられ、表情は苦悶を描き出し、薄い唇は浅い呼吸で必死に生き足掻いている。

 起きているときは感情を見せないように徹している顔が、今は誰よりも人間らしさで溢れている。


 それが愉快で堪らないと青年は口を緩め、幼くも整った顔を見つめる。


「こんなときでもなければお主を手に入れるなぞ叶わんからな」


 喉の奥から笑声を零しながら青年は健を抱き直してベッドへ向かう。

 他でもない青年が作り出した結界の中へ、健を寝かせる。


 間もなくして呼吸は安定し、苦悶に満ちていた顔に安らぎが宿る。珍しい油断しきった顔だ。


「お主のことは我が最後まで買い殺してやろう」


 眠りの中で遠くに青年の声を聞く健は「ああ、そうか」と今更ながらここに来るまでの経緯を思い出した。


 〇〇〇


 盗撮事件以降、大きな事件もなく、健は多くと変わらない日常を過ごしている。

 この国で暮らすほとんどが当たり前に過ごす日常を健が得られるのはほんの一瞬。


 それを悲観はしない。一瞬のものすらも健は自らの目的のために使い潰しているのだから。

 けれども、今ある一瞬は使い潰すよりも先に終わりを予見する。


「っ、キング、悪いけど先に行ってもらえる? 急用ができたから」

「分かった」


 処刑人であることも、鬼神の宿主であることも知っている優雅は物分かりがいい。

 詳しく聞くこともなく頷き、一人離れる健を黙って見送ってくれる。


 人の流れに反して歩いていく健は周囲に人の気配がなくなったところで立ち止まり、長年の付き合いとなる護衛を向き直る。


〈健様、何か……?〉


 真っ直ぐに見つめる無機質な目に陰鬼は不審の色を返す。


「ごめんね」


 謝罪の意味を理解する間もなく、陰鬼の視界を黒に染め上げる。視界だけではなく、耳も鼻も五感のすべてを刹那のうちに奪った。


 十秒にも満たない短い時間、それだけあれば健には十分だった。


 陰鬼は護衛で監視だ。鬼神の宿主である健は本当なら軟禁に近い状態で春野家に管理されているはずの人間だ。

 それを処刑人という枷を自らつけることで自由を得た。そしてその処刑人の仕事で無茶をしたせいで監視をつけられたのだ。


 監視を退けることは手に入れた自由を自ら捨てることを意味する。だから健は今まで煩わしい監視を日常の一部として受け流してきた。

 今更遠ざける理由は実に単純な話だ。


「ふっく……は」


 五感をすべて奪われた陰鬼から距離を取るように健は森の中へと逃げ込む。

 人の手によって整えられていても森は森。箱入りのお貴族様ばかりのアカデミー生が進んで足を踏み入れることもなく、人の目を避けるには絶好の場だ。


 誰の目にも留まらない、陰鬼すらいない状況が張り詰めていた糸を緩める。

 連なる木々に手をつき、健は緩慢な足取りで奥へと進む。


「っ、ごほっごほごほっ…ごふっ、ぁ」


 咳込み、せりあがった液体が口元を押さえる手の隙間を縫って零れ落ちる。

 茶色の地面に赤い斑点。掌にべったりとついた血を憎むように強く握りしめる。


 これが理由だ。こんな姿、誰にも見せたくない。見せるわけにはいかないのだ。


「この、ガラクタがっ」


 吐き捨てるように呟く健は口元の血を拭い、込み上げる咳を呑み込む。


 健は所謂、虚弱体質である。鍛錬を積み重ねても、体力がつくことはなく筋力も上がらない。

 些細なことでもすぐに根を上げて熱を出す。大怪我と別に寝込んだことは数知れず。


 創造神に課せられた大きなハンデは、本来なら日常生活もままならないものだ。

 寝たきりのままベッドの上で人生の大半を終えるはずだった健が人並みすら外れていられるのは身に宿す存在のお陰だ。


 鬼神。万物を操る力を持つ出来損ないの神。

 眷属では足りないと口説き落として宿主になった。宿主の座を和幸から奪った。


 使い物にならない身体を万全な状態に保つ。そういう契約を結んだ。


 故障した機械を無理に動かし続けたらどうなるか。そんなのは説明しなくとも分かるだろう。

 手の施しようのないほど壊れる。神の力も届かないほど壊れる。


 今の健はそういう状態だ。


「まだっ」


 そう、まだ。まだ終わるわけにはいかない。目的を果たすまでは終われない。

 壊れたからなんだと言うのか。限界を迎えたからなんだと言うのか。


 こらきれなかった咳の中に赤い霧を混ぜながら、健は崩れそうな膝を奮い立たせる。


「鬼神」


 呼びかければ内なる存在が応じ、少しだけ身体が軽くなる。

 気休めのものでも万全な状態を演じてみせると戻るために全身に力を入れる。

 時間をかければそれだけ誤魔化すのが面倒になる――。


「っ……」


 目端で捉えた銀閃を反射で避ける。

 すぐに滑り込む黒い影へ対抗するため剣を生成するが間に合わない。


 身体が追い付かないことを早くに判断した健はただ目を紅くさせた。

 健の意思に応えて周辺の草木が踊り、襲撃者を捕らえる。


「なるほど……。あれのっ、差し金か」


 黒いマントで全身を覆い、のっぺりとした白のお面をつけた小柄な人物。

 その見た目は処刑人の容姿として噂されるもので、実際に先代がまとっていた衣装だ。


〈避けられるとはな〉

「――。あの程度、舐めてるの?」


 マントの人物の傍から現れた紅い光をまとう水晶。

 世界で二番に嫌いな存在を睨み、冷たさを宿して見つめる。

 彼には別の意味で弱みを見せるわけにはいかない。


〈見え透いた虚勢は愛いものだな。もう限界なのだろう?〉

「なんのこと?」

〈はぐらかずともよい。その状態で我の相手は苦しかろう? 恥ずことはない。貴族街は我の庭で国だ〉


 マントの人物を縛り上げていた草木がいつの間にか元の位置に戻っている。

 鬼神の宿主である健は多くの眷属の頂点に立つ存在だ。健自身に課せられた制約の枠に収まっていれば上書きすることができる。


 それは不調でも揺るぎなく、ただ相手が彼だと話が変わってくるだけ。


〈心配せずとも後は我に任せるがよい。何、悪いようにはせぬ〉

「信じられる、とで、も……っぁ」


 瞬きのうちに迫った拳が叩き込まれ、健はついに膝をつく。

 普段なら反応できたものも、気休めで奮い立たせた身体では間に合わない。思考は闇の中へと落ちていく最中、健はただ音にならない恨み言を吐き捨てる。


「し、ね」

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