6-1
弟が実は弟ではないこと知ってから数週間が過ぎた。胸の内に湧いた複雑な気持ちを星司はただ変わらない日常を過ごすことで忘れたふりをした。なかったことにした。
アラームで目を覚まして、二度寝を敢行する。夢と現実の狭間を漂っていれば、居候中の恋人に叩き起こされる。朝食を食べてすぐに学校へ向かう。
授業を寝てやり過ごし、いつもの面子で弁当を食べてまた睡眠学習。部活も終えて今に至る。
今日は月も海里もバイトなので早々に分かれて一人で帰路についた。
そんな星司を玄関先で迎えたのは息を荒くして廊下に転がる弟の姿。汗だくである。
「何やってんだ、友希」
「お、おお、星兄。全力疾走で家まで帰って、きたっ、から……ちょい、休憩ぃ」
「全力疾走って……馬鹿じゃねぇの」
「いやっ、じゃんけんで負けったか、ら」
末の弟、友希は友達が多い。星司も学校内で交友関係は広いが、友希はさらに友達まで行くのだ。
ノリの良さもさることながら、人との付き合いに真摯に向き合う性格がそれを支えているのだろう。
自然と警戒心が解けていくような人柄をしている。
「若いねぇ……」
星司が同じ年齢のときでも全力疾走で帰るなんてことなかったが。
ともあれ疲れ果てた弟を“若い”の一言でまとめて通り過ぎる。
「星兄、健兄と何かあった?」
「……っ…なんで?」
図星を突かれた気分で思わず声が上擦る。
「最近暗い顔してるとき多いからさ。そういうときって大体健兄と何かあったときだろ?」
床に寝た状態のまま、友希はそう言った。
こういう変化に気付くことも友希に友人が多い理由なのかもしれない。
「別に何もねぇよ……」
事実、今回は健が原因ではない。星司の心に引っ掛かっているのは健ではなく、悠のことだ。
実の弟だと思っていた人物が本当は血が繋がっていないと知った。それどころか性別すら違ったのだ。
身近な存在が急に得体のしれない怪物になったような感覚。
「俺さー、ずっと気になってたんだけど」
起き上がった友希の目を見るのが怖かった。続く言葉が怖かった。
それでも立ち去らず、誤魔化さずに友希の言葉を待った。
「なんでみんな、健兄のことを遠ざけてんの?」
今までタブーのように触れられてこなかった問いかけ。
家族で唯一原因を知らない友希が真っ直ぐにこちらを見ている。
「俺も最初健兄のこと怖くて遠ざけてたけど……でも健兄優しいじゃん。すげぇ優しいじゃん」
それは知っている。健の優しさは星司も何度も触れてきた。
言われなくても分かっていて、だからこそ星司たちは遠ざけるのだ。
真っ直ぐな友希の目に答える言葉を星司は持っていない。だってそこにあるのは甘えだから。
納得させる答えなんて持ち合わせておらず、ただ言葉を詰まらせて沈黙を返すことしかできない。
――だからタイミングよく玄関扉が開いたことは星司にとって救いだった。
「二人して何してるのよ。邪魔なんだけど」
大学から帰ってきたらしいの姉の有紗が玄関先で立ち止まったままの二人に不審を向ける。
「なあ、お姉はなんで健兄のこと避けてるんだ?」
「……っ、そんなの、どうでもいいじゃない」
「よくねえよ。俺だって知る権利くらいあるだろ」
拒絶を示す有紗の態度に納得いかず、友希は詰め寄る。今にも掴みかかりそうな勢いだ。
健のことを思うと同じに、自分だけが何も教えてもらえないことに憤っているのだ。
対する有紗は星司よりもはっきりとしたものとしてあの日の後悔を覚えている。
どちらの気持ちも分かるからこそ星司はどちらにも味方できない。
「健兄は怖いどころか優しい人だっ。それなのになんで――」
「優しいからよ」
声を荒げる友希へ返された言葉は必死に感情を抑えた声だ。
その目は後悔と葛藤、複雑に絡み合った苦悩が見え隠れしている。
「健は、許してくれるから。私たちの弱さを肯定して、甘やかしてくれるから……だから遠ざけたの」
健を見ると思い出してしまう感情がある。胸の内に疼き、鈍い痛みを訴える。
傍にいるだけで苦しくなって離れてしまいたいという心を健は肯定してくれる。
なんでもない顔をして。こちらは何も悪くないと告げる態度で。元々交わるものではなかったと告げる態度で。
罪悪感を抱く余地すら与えずに距離を取ってくれるのだ。
「悪いのが私たちなのは分かってるわ。でもっ、でも健は優しいから」
これがただの言い訳だとちゃんと分かっているのだ。でも踏み切れない。
「お姉たちはいつまで健兄に甘えてるつもりなんだ?」
当然の問いかけで、当たり前の質問で、答えが用意できていない質問だった。
それこそが長年にかけて甘えてきた弱さなのだ。甘やかされてきた弱さだ。
「分からない。もうどうすればいいのか分からないの」
「健兄とちゃんと向き合えばいいじゃん」
「でも……もうあの子は、私たちの可愛いあの子はもういないの。私たちが消してしまった」
その昔、健は普通の子供だった。愛されるのが得意で、身体が弱いこともあって壊れ物のように大切にされていた。その昔、健は岡山家のアイドルだったのだ。
それが失われたのは――。ともあれ、今はもういない可愛い弟の姿が蝕んでいるのだ。
「私にとっての健はやっぱりあの子だけなのよ」
家族総出で守り続けた小さくて弱い弟。
再会したその姿はかつての面影を少しも残していなかった。まるで中身だけが入れ替わったようで、幼い頭には理解できなくて。
今の健でいた時間の方が長くても有紗の心にはかつての健が残り続けている。
健は優しい。けれど弱さを肯定して甘やかしてくれても、かつての健を演じてくれはしなかった。
完全に失われた過去は光り輝くものとして美化されて存在している。
「そうやってこれからも健兄を蔑ろにしていくのかよっ⁉」
叫びに近い訴えに有紗も星司もただ息を呑む。目を震わせて、何も返せなかった。
肯定も否定もできなくて、沈黙を返すのが精一杯だ。逃げ出さなかったことは褒めてほしい――。
「そういう話は玄関先でしない方がいいと思いますよ。近所で噂になっても知りませんからね」
空気を読まずに三人の中に入ってきたのは今、星司の頭を一番悩ませている人物だ。
執事服をまとった少年風の少女、だと数週間前に知った。
無邪気さで彩られることの多い顔は三人の呆れだけを宿している。
「悠、お前いつから……?」
「あの子はもういないの――辺りですかね。僕は耳がいいから聞こえただけなのでそこまで気にしなくても大丈夫ですよ? 気を付けた方がいいってだけの話です」
語調は変わらず、けれどもその空気はいつもとどこか違う。
何が違うかは上手く言語化できないものの、違和感だけは明確だ。
星司が真実を知ってしまったからなのか、もっと別の理由があるからなのか。それすら分からない。
「話が白熱しているようですが、健兄さんは自分が被害者だとは思っていませんよ。みなさんの考えを変えようとも思っていないし、このままでいいと、むしろこのままがいいと思っているでしょうね」
淡々と並べられる言葉にはいつも無邪気さが少しも感じられない。
「正義感も、逃げもご自由にって感じですけど、それが独善だと忘れないことですね」
冷たい物言いで姉弟の言い合いを締めくくる。突然現れ、場の空気を搔っ攫われた状況を呑み込めていない面々は言葉を返せないでいる。
理解して言葉を返すだけの時間を悠が与えていないというのもある。
悠が場を掻き乱すなんてよくあることだが、口を開く余地を与えないなんて初めてだ。
「ところで健兄さん帰ってきてませんか? 町で見かけたとかでもいいですよ」
「いや、帰ってきてねぇと思うけど」
「まあ、帰ってきてたらあんな話してませんよね。でも一応確認はさせてもらいますねー。横、失礼します」
そう言って悠は友希と星司の間を割って階段を方へ歩いていく。
誰にも気付かれないまま健が帰っていることは珍しくない。悠の行動に不審さはないが、やはり違和感は付き纏う。
悠が健を探している。以前ならよくある光景も、貴族街からわざわざ来たことを考えると違和感の理由付けには十分だ。
星司は一度有紗と友希に不安げな視線を寄越し、悠を追いかけた。
「ここにもいませんか。一度拠点に、いや夜さんに連絡を――」
「悠」
向けられるのは刹那だけの冷たさ。すぐに形ばかりの熱をまとって悠は星司に向き直った。
「健に何かあったのか」
「お気になさらず。星司さんには関係のないことなので」
悠が二重の意味で弟ではないと知ってから悠は“兄”の呼称を使わなくなった。
それだけが理由ではない離れた距離に怯みつつ、ただ向かい合った。
「関係ないことないだろ。健は俺の弟なんだ」
「はあ、家族とかくっだらないですよね。僕、急いでいるので来たければ来ればいいんじゃないですか」
無邪気で猫かぶることも忘れた悠は吐き捨てるようにそう言って星司の横を通り過ぎる。
普段とのギャップに呑まれながらもなんとか我を忘れず言われた通りに後へ続く。
岡山家へ用はないと潔く玄関を開けた悠は不意に顔を歪めた。
「あら、人の顔を見るなりそんな表情するなんて失礼な人ね」
傾国の美女がそこに立っていた。黒々とした髪をサイドテールにして結い、美しさも相俟って悪目立ちする漆黒のドレスをまとった少女。
切れ長の目は細められ、赤い唇は妖しく弧を描いている。
ありふれた住宅街、見飽きた風景が彼女が立っているだけで高名な絵のようだ。
美しすぎる少女の姿を目に納めたと同時に歪められた悠の顔が不機嫌を映し出す。
「八潮さんから聞いて来たんですか。口が軽くて困りますね」
「知られたくないなら口止めくらいするべきね。それでも八潮なら私や健に話すでしょうけど」
「連絡を取る手間が省けたのでいいですよーっと。わざわざ来てくれたんですし、僕の求めてる情報を持っていると思ってもいいですか」
不機嫌の中に混ぜられた期待を黒い少女は笑みを持って応える。
「健の居場所なら知らないわよ」
人の目を惹きつけてやまない微笑でばっさりと切り捨てられた。
「本当ですね?」
「肯定したところで完全には信じないでしょう? それより建設的な話がしたいわ」
「それもそうですね……。ところで夜さんは何故こちらに?」
「余裕のない貴方の姿を拝みたくて。いいものが見れたわ。ありがとう」
本当かどうか分からない返答とともに魔貌を笑みを装飾する。
薄い笑みでもなく、嘲笑でもない笑顔。前の台詞がでなければ、整いすぎた顔を完成させるものとして賞賛できそうなものだが、敵対する悠にその気配はない。
言葉よりも雄弁に物語る目が夜を睨んでいる。
「……。夜さんの性格の悪さを置いといて、さっさと行きますよ」
「貴方に言われたくないけれどそうね」
今の今まで中身に触れた会話をしていない二人に互いに納得したように歩き出す。
ずっと蚊帳の外に置かれていた星司は展開についていけずに戸惑うばかりだ。
「どこに行くんだ?」
「海里さんのお宅ですよ。星司さんがいる分、口を滑らせやすくなってくれることを期待したいですね」
「海里はそういうのに絆されるやつじゃねえよ」
吐き捨てるような言葉は言ってて少し悲しくなる事実だ。
可愛らしい見た目から想像できないほどに海里は強かで頑固だ。
たとえ親友が頼み込もうとも情を理由に一度決めたことを覆しはしない。