5-11
「ん、帰ってきたんだ。おかえり」
恋バナの渦中にいた人物が相変わらずの淡白さで恋する乙女二人を迎え入れた。
彼が発端となり作られたもっとも新しい派閥。その拠点となる小屋で一人、本を読んでいる。
その横には今日一日で読んだと思われる本が積み重なっている。小説から学術書まで、その種類は様々だ。
いつも傍で騒がしくしている人物がいなかったので、さぞかし読書も捗ったことだろう。
「ただいま。健一人なの?」
「んー、もー夕方だからね。みんな帰ったよ。梓さんも夕食の準備があるし」
小食を通り越してほとんど食事を摂らない人物の食事の準備なんてマメなことだ。
優秀な人物でもあるらしいので、健が食べる量を計算して作っているのだろう。手がかからないようでかかる彼の世話をするメイドの苦労が偲ばれる。
表面的に手がかからない健をわざわざ世話をしているくらいだから、その苦労に幸福感を覚えるような変わり者だろうが。
「これ、お土産。駅前に新しくできたワッフル屋のだよ。食べたいって言ってたでしょ」
「期間限定品か。流石のセンスだね」
クリームの上に季節もののフルーツが盛られたワッフルを見て顔を綻ばせる健。
度を越した甘い物好き。小食な彼だが、甘い物は別腹らしく普段からは考えられない量を食べる。ある意味の偏食家だ。
「食べるのは夕食の後にしなさいな。東堂梓が準備しているのでしょう?」
「夜って時々お母さんみたいなこと言うよね」
「こんな面倒な子供はいらないわよ」
愛しい相手とは言えども世話を焼きたいわけではない。夜にはやたらと世話を焼きたがる悠の気持ちは分からない。まあ、自然と世話したくなるタイプなのは否定できないが。
人を遠ざけようとするのに本質的に甘え上手なのだ。
「女子会楽しかった?」
なんてことのない口調での問いかけ。
依愛は健に呼び出しの手紙を送ったと言っていた。服は乱れを残したままで夜に至っては頬に分かりやすく傷を残している。
それを気付かない健ではないし、監禁されていたことを知った上で問いかけているのだ。
「楽しかったよー。紫苑ちゃんともいっぱい話せたし」
対して、監禁されたことすらも楽しかったの一言でまとめる星。
ナイフを向けられ、人が死ぬところを目の前で見たのにもかかわらず。ネジの一本や二本くらい外れているのでは、とすら思わされる。
「夜は?」
「ただの買い出しよ。楽しいも何もないわ」
依愛を誘き出すためと言ってはいても、星と出掛けたのは材料を買うためだ。
それ以上のことは何もない。昔のことを話したのはほんのついでに過ぎない。
「楽しかったならよかった」
人の話をまったく聞かない健の言葉を否定する気にはならず、ただ息を吐いた。
からかうようなその笑みすら愛おしく思えてしまうのだから恋の熱病とは厄介なものだ。
「二人が仲良くなってくれてうれしいよ」
「仲良くなんてなってないわよ。貴方が見誤るなんて珍しいわね」
「夜がここまで意固地なのも珍しいね」
笑声すら聞こえてきそうな想い人へ、もう一度吐息を返す。勝ち目がないと分かっているから息だけで降伏宣言だ。
無表情なことが多いその顔が楽しそうで、親しい者の前だからこそリラックスしているのが分かる。
油断しているのとは違う緩んだ空気。それを作り出すのに貢献しているのは夜ではない。
「ハンドメイドの材料のお店とか初めてだったからすっごく楽しかったよ。私も何か作ってみたいなあ」
「どーせならお揃いで作ってよ。ハンドメイドなら夜が詳しいし、ね?」
「時間があったらね」
断ることはもう諦めた。曖昧な物言いだってどうせ現実にされるだろう。
今の夜に出来るのは潔くちょうどいいものを探すくらいだ。
お揃いにするならキーホルダー辺りがいいだろうか。シンプルなデザインにすればアクセサリーでも男性でも抵抗なくつけられるだろうが、健の場合はやはり身につけられる類のものはやめた方がいいかもしれない。
戦闘に身を投じることが多いからうっかり失くしてしまう可能性が高い。
気乗りしない言葉を返しながらも真剣に考える夜。その姿を見て星は笑みを乗せる。
「それじゃ、そろそろ私は寮に戻ろっかな。二人ともまたね。夜ちゃん、約束楽しみにしてるよ」
「うん、また明日ね」
ひたひたと手を振る健の横で夜は無関心を貫く。それすら気にせず、星は笑顔のまま立ち去っていく。
婚約者と、彼に想いを寄せる相手を二人きりにすることにも抵抗はないらしい。
信じているとか、舐めているとか、そんな生易しいものではない。二人きりにしたところで何にもならないと知っているのだ。
健の在り方と夜の在り方を知っているが故の確信が背後にいる。
「本当に食えない子ね」
圧倒的な何かを感じるわけではないのに勝てないと思わされる。
影に寄り添うのではなく、光でいることを突き通して生まれた強さと言えるだろう。
光が強ければ強いほど深い闇も照らすことができるということだ。
「健」
違う意味で波立たない目がこちらを向く。感情を読ませないことを最適化したような目。
踏み込ませないための目でも、長く傍にいた夜には見えない感情の波が読み取れる。
ただ、今この目には何も映っていなかった。本当の意味で波立たない目だ。
「けじめをつけてきたわ。依愛とも、朝陽とも」
「そ。よかったね」
反応は淡白。予想はしていたので失望はなく、むしろ変わらないその姿を愛おしく思う。
冷たい反応は額面通りに冷たいものではない。微かに込められた優しさがいじらしく夜の心を擽るのだ。
「あまり吹っ切れた顔してないね」
「そうね。けじめをつけるべきことだったのは事実だけれど、私の中では思っていたよりも大きなものではなかったようね。やっぱり私には貴方だけみたい」
心を大きく掻き乱してくれるのは。
そんな甘い囁きにも健は動じない。受け流されるのはいつものことで夜はただ笑みを深めた。
「ねえ、どうして私を選んだの?」
今まで一度として聞いてこなかったことを今更尋ねる。
どんな理由でもよくて特に気にしてこなかった。今更聞いたのは別に心境の変化があったというわけではなくて、本当にただなんとなく聞いてみたくなったのだ。
「夜の力が使えそーだと思ったからだよ」
「貴方ならそう答えるでしょうね。質問を変えるわ。私が断っていたらどうするつもりだったの?」
「それならそれで目的を果たすだけだよ。夜がいない分、楽はできないだろーね」
健の言葉は夜が特別ではないことを示している。
絶対に夜ではないといけない理由もなければ、夜がいなければならない理由もない。
たまたま有用だから選ばれただけ。それくらいの方がちょうどいい。
消えてしまえと願い、消えてしまうはずだった夜自身。
垂らされた蜘蛛の糸を掴み取った理由だってなんとなく。そんな曖昧さが本物を生み出すことだってあるのだ。
「私との契約を覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ」
健の協力者となって夜は母の死の真相を知った。
事故死でもなく、自殺でもなく、母は殺されたのだという真実を。
夜の母、流菜は処刑人だった。先代の処刑人――殺しの才能に溢れた人だったのだ。
黒い服ばかりを着ていたのはその名残なのだろう。黒い服は返り血が目立たないから。
処刑人として命令されるがままに人を殺し続けた女はある日、作曲家と出会う。
日向の存在と出会い、恋に落ちる。そして暗い世界から抜け出した。
ロマンチックな物語は見る角度を変えればとんでもない裏切りだ。
処刑人は貴族街の根幹を知る者。そんな人間が日向で生きることを貴族街の主は許さなかった。
母は裏切った末に処刑された。家を空けることが増えたのは次々に寄越される刺客を退けていたから。
父が見たという、一緒に歩いていた男もおそらく貴族街の関係者だったのだろう。
最終的に母は事故に見せかけて殺されたのだ。
これらすべてを調べ上げるのに健は契約通りサポートをしてくれた。元々知っていた情報のようだったが、そんなこと今はどうでもいい。
ともかくあの日交わした契約のうちの一つはすでに果たされている。
「覚えているのならいいわ」
残されたもう一つの契約はきっと果たされない。
あの日、健は嘘を吐いた。夜は嘘の契約で縛られている。
それを指摘しても健ははぐらかさないだろうし、それで夜が離れていくとしても引き止めはしないだろう。
だから、夜は指摘しないことを選んだ。このまま騙されたままでいようと。
今の夜には真実なんてものよりももっと大事なものがある。
「ねぇ、健」
呼びかければ、その目が向けられる。無感情で無機質な目が夜を見ている。
「どーしたの、夜?」
男にしては高い、声変わり前の少年の声が夜の名前を呼ぶ。
愛する人の目に自分が映り、その声が自分の名前を彩る。どれが当たり前にある日常こそが今の夜にとって大事なことだ。
「愛しているわ」
そしてもう一つ、自らの愛を伝えられること。
多くが手に入れられるわけではない、愛のための環境。それを手にした夜は誰よりも幸せと言えるだろう。
「知ってるよ」
甘い囁きに健はそう答えて、夜の頬に触れる。撫でる仕草とともに治癒が施される。
綺麗になった夜の顔を見て、薄い唇が笑みを作る。
「やっぱこっちの方が綺麗だ」
天然でこう言うことをするのだから、本当にこの男は性質が悪い。
五章終わりです