5-10
ノック音が耳を擽った。祖父か来る時間にしては早く、使用人たちが来る時間でもない。
何かあったのか、と考える耳に今度は金属が擦れ合う音が聞こえた。
そこで気付く。ノックをしたのは祖父でも使用人でもないことに。
一体、誰なのか。あの祖父が、他人をこの部屋に案内するなんて考えられない。
「気配は一人だけね」
当たり前のように気配を読んで、傍に誰もいないことに不審を募らせる。
不意に音が止んだ。無音の数秒ののち、一斉に鍵が開けられる音がした。
ゆっくりと扉が開けられ、警戒を宿らせる夜の前にその人は現れた。
「こんにちは」
呑気に言葉を紡いだのは小柄な少年だった。拍子抜けなんてこと思えないくらいに圧倒的な気配を持った少年だ。一目見て思考が飲み込まれた。
恐らく夜よりも年下だ。年下のはずだ。
身体は小さく、華奢な身体付きで顔も幼く、見た目だけで判断するなら年下だ。
けれども、まとうその風格はその判断を揺らがせる。
見た目と中身の年齢が伴っていない。目の前にいるのは何百年も生きた老人だと錯覚させられる。
「初めまして。俺は春野家当主の付き添いの岡山健と言います。貴方が紫ノ宮夜さんですね?」
「私のことを知っているのね。春野家の関係者なら当然なのかしら」
「王様は関係ありませんよ。これは俺の独断です」
悪びれることのないその口調はやはり幼さを感じさせない。
「庭を散歩していたら綺麗な方を見かけたので話しかけてみたくなったんです」
「嘘ね。この部屋の中は外から見えない。窓がないもの。それに私の名前を知っていた。元々私に用があったんじゃないかしら」
指摘すれば、少年は肩をすくめて薄く笑った。嘘を吐いた理由を教える気はないらしいその仕草に夜は別の疑問をぶつけることを選ぶ。
彼については気になることが多すぎる。謎が人間の姿をしているみたいだ。
「どうやって鍵を開けたのかしら」
「ちょっとした裏技ですよ。ここの鍵は単純でしたし。閉じ込めるためならあれくらいで問題ないんでしょーが」
閉じ込められていることくらいは夜の現状を見れば明らかだ。ただ静かに見据えるその目はそれ以上のことさえも知っているような気がした。
「ところで中に入っても?」
問いかけに逡巡する。この部屋の中には人を狂わす甘い香りが充満している。
夜自身にも抑えられない魔の香りで満たされた空間に人を招き入れるのは憚られた。
同時に冷え切ったその目が熱に浮かされるのを見てみたいと思った。
「ご自由に」
何があっても責任は取らないという意味を込めた言葉に少年は躊躇なく足を踏み入れた。
甘い香りに体内に取り込み、味わい、微かに口角を上げた。
「興味深い体質をしているんですね。貴方という人がますます欲しくなりました」
充満した甘い香りは判断力を奪い、欲のままに動く獣へと変える。
獣となった人間は香りの根本でもある夜を求める。彼もまた口では夜を求めた。
けれど、その目は熱に浮かされていない。むしろ冷え込んだままで、機械的に夜を見ている。
「初めてね。貴方みたいな人は」
「たまたま条件に当てはまらないだけですよ」
「条件……」
知らないことだ。甘い香りについて分析しながらも、夜は自分の体質について理解が追い付いていない。
少しでも知識をつければ、煩わしいこの体質も制御できるようになるかもしれない。
「魅了の術が元になっているよーですし、条件は貴方の容姿に好意を持つこと、ですかね」
なるほど、と内心で頷く。夜は自分の容姿が非凡なものである自覚がある。
美しくないと否定する方が相手に失礼だと思うくらいに。
人並みを外れた美貌に少しも、露ほども好意を持たない人間なんて少数派だ。
小学生に興味なくとも、成長した姿に思いを馳せはするだろう。
そんな些細な心の揺らぎを甘い香りは囚らえてしまう。
今の今まで目の前以外に影響を受けない人がいなかったのも頷ける。
「その体質を煩わしいと思っているのなら、俺が制御する方法を教えますよ」
「必要ないわ。この部屋にいるならどっちも変わりないもの」
この部屋を訪れるのは世話を任された使用人と祖父だけ。風呂やトイレも備え付けなので外に出る必要もない。
今の生活に特別不満を抱いているわけでもないのでこのままでも構わないのだ。
何より少しのヒントがあれば、自力で制御できるだろうという確信がある。
自尊心とは違う判断力による考えを健は静かに見ていた。
無機質な目は何も映していないようで、夜のすべてを見透かしているようにも見える。
長く感じる数秒を経て、健は再び口を開く。
「誘い文句を間違えたよーですね。すみません」
淡白な口調を変えずの謝罪はもう間違えないという意思表示でもあった。
「次はどうやって口説くつもりなのかしら?」
「そーですね。母君が亡くなった本当の理由を調べるのをお手伝いする、というのはどーですか?」
「……それで私が受けるとでも?」
拒絶を込めた言葉に無表情は小動もしない。それが妙に腹立たしく思えた。
精一杯の強がりすら見抜かれている。刹那の動揺さえも知られている。
中身を捨てるように生きてきた夜の中に残ったものをただ見ている。
「お母様のことが好きだから、お母様のふりをして生きているのでしょう? 自分が消えてしまうことを恐れず、むしろその方がいーと思っているのでしょう?」
すべて知られている。ずっと考えていたものが音となって夜に突き付けられた。
「今の生き方に迷いがない。今と未来なんてどーでもいーものだから。貴方にとって大事なのは過去だけ」
奥底でずっと思っていたことを、まるで台本でも読んでいるようにすらすらと言葉にしていく。
読心術でなくとも、それに類似する能力を持っているのではないかと錯覚してしまう。
「お母さまが生きていて、もっとも幸せな時間。誰にも触れられない大事な過去さえあれば貴方は満足なんでしょーね」
「後ろ向きだって説教するつもり?」
「まさか。過去を見ることは必ずしも後ろ向きだとは言えません。過去を見たまま、前へ進むこともできる」
「そうね。でも私は立ち止まったままだわ。終わらせたまま、進む気はないの」
「ですから俺は貴方を誘うんですよ、紫ノ宮夜さん。いいえ、本条夜さん」
目の前に立つ少年は貴方の心を揺らすのが得意らしい。
表情一つ、声色一つ、紡がれるの言葉の順番さえ、計算しつくされている。夜が次に何を返すかも知っていて、用意していた言葉を音にするのだ。
「貴方はどこまで私を知っているのかしら。まさかタイムリープでもしてきているなんて言わないでしょうね」
「繰り返しているのならもっとうまく交渉しますよ」
人の心情まで当ててておいて、さらに上があるという。向上心があるとは違う姿はただ底知れない。
「――ここで終わるだけの貴方の人生、俺に使わせてくれませんか。俺の目的が果たされたらきちんと終わらせてあげると誓いましょー」
「人殺しよ?」
「躊躇するよーに見えます?」
「見えないわね」
すでに何人か殺したことがあると言われた方が納得できる。
幼いながらいくつもの修羅場を知っている目をしている。潜ってきたではなく知っているのだ。
「それで? 貴方の目的とやらについて教えてもらえるのかしら」
「秘密です」
即答に息を吐く。それでよくもまあ人を落とせると思ってくれたものだ。腹が立つ。
「目的を言わず信用が得られるとでも?」
「貴方はそーいうの気にしない性質だと思っていましたが? 信用とか信頼とか関係なく自分の感情のままに進む道を決める方かと」
正解だ。夜の行動理念に他者を納得させられる根拠は必要ない。
間違っていると誰かに説かれたとしても、夜が納得しているのならそれでいい。
別に他者を納得させるために生きているのではないのだから。
母の代替品として生きていることもそうだ。
つまるところ、今ここでぶら下げられた選択肢のどれを選び取るかは、今まで通り本能のままに決めるのが夜の真であるということだ。
メリット。デメリット。そんなものはどうでもいい。今までだって気にしたことはない。
こうして会話をして、示された選択肢のどちらを取りたいと思ったのかが重要なのだ。
「条件があるわ」
今から提示する条件だって一種の茶番だ。
「一つは母が死んだ理由の調査を手伝うこと。それと、役目が終わったら貴方の手で私を殺して」
「分かりました。その条件を呑みましょう」
その言葉がどれだけ信用できるか分からない。真摯なふりして平気で裏切られる可能性は十二分にある。
事実、夜はその後数年の付き合いを経て、彼がこの約束を守ってくれはしないだろうと確信している。
嘘つきで、悪魔のように優しい人だから。
ともかく夜はその日から優しすぎる悪魔の協力者となった。冷たいその手を取って。
〇〇〇
「あの頃はまだ健を愛していなかったけれど……今も忘れられない記憶だわ」
夜の恋は雷に打たれるような圧倒的なものではなかった。少しずつ身体が沈んでいくような、細雪が胸の内に積もっていくような、そんなもどかしくて抗いがたい恋だった。
「この指に赤い糸はないけれどそれでもいいのよ」
聞き役に徹していた恋敵へ目を向ける。婚約者との出会いの話を聞いて、むしろ笑顔を浮かべているような恋敵へ。
勝ち誇る笑みではなく、同じ人を愛する同士を見つけられた喜びを映す笑顔を正面に迎える。
「私は私のために健を愛しているわ。だから結ばれることよりも傍に居ることを選ぶ」
これは宣戦布告とは違う。降伏宣言でもない。
「貴方が踏み込めない場所で健のことを支えるわ。それが今の私の望み」
「夜ちゃんが傍にいてくれるなら私も安心だよ。健は強いふりばっかりして、本当はとても弱くて脆い人だから」
適材適所という言葉がある。何も知らない無垢な少女のふりをしている星には処刑人としての健の傍にいてはやれない。
最大の理解者であるが故に距離を取る場面も多くある。
そんなときに彼の一番近くにいるのが夜の望みで願いだ。
恋人としての一番はいらない。ビジネスパートナーとしての一番がいい。
「弱みに付け込んで奪ってしまうかもしれないわよ」
「夜ちゃんはそんなことしないよ。でしょ?」
大した付き合いでもないくせにあっさりとそんなことを言う星。
本当に彼女と彼は要所要所でよく似ている。とはいえ彼女のことは嫌いなままだが。
「そうね」
諦念したように息を吐き出して肯定を口にした。あの悪魔と、この見た目だけの天使に振り回されるのが今の夜の人生だ。
(まあ、悪くはないけれど)
過去を振り返っても今が一番充実している。あの頃には感られなかったことで、これを人は幸せと呼ぶのだろう。
入れ忘れのシーンがありましたすみません(2021/0717)