5-9
地下へ続く階段を登りきった夜の顔をオレンジ色の光が照らし出す。
空は青とオレンジが混ざり、完全に日が落ちるまでそう時間はかからないだろう。
「捕まっている間に結構時間経ってたんだね」
少し前に殺人を目にしたとは思えない暢気さで言葉を紡ぐ星。彼女に関してもはやつっこまないと決めている。
つっこんだら最後、星のペースに持ち込まれているのは目に見えている。
なるべく視界にも入れないようにしながら、久しぶりに感じる新鮮な空気の肺の中に入れる。
「駅裏のようね。思っていたより遠くじゃなくて安心したわ」
女子一人で三人を運ぶには妥当な距離とも言える。史源町の中であれば、知らない道はなく、脳内で安全かつ最短の距離を叩き出す。
「行くわよ。時間を無駄にする気はないわ」
「うん。紫苑ちゃんと二人で散歩もいいね」
相変わらずの暢気さだ。今まで時間が置かれていた状況を理解していないようで。
作られた純粋を本物のように振る舞う。そこに無理を感じないから不思議だ。
夜が沈黙を返せば、星もまた何も言わない。気を遣っているのとも違う自然な空気。
気まずいわけでもない沈黙がむしろ落ち着かなくさせる。
「貴方」
そんなつもりなかったのについ言葉を紡いだ。彼女に乗せられた気分だ。
「どうしてあの時話さなかったの?」
恋バナをしよう、と依愛は星に話を振った。ナイフをちらつかされて死を目の前にぶら下げられた話題に星が応じることはなかった。
夜がそうしたように、いや、夜よりも誠実に真っ直ぐに断った。
「健との思い出は全部大切なものだから。あんな場所で、あんな状況で軽はずみに話したくないなって思ったの。大切なものを共通できる人と恋の話をするのがいいんだよ」
何気ない口調で当たり前かを口にするように言葉が紡がれていく。
きっと星の目には、人には見えないものが映っているのだ。人より多くのものを見ていながら、純粋な眼差しのままでいられるのは一種の才能だ。
本能的に取捨選択をして、望む自分であれるものだけを手元に残している。
「だから紫苑ちゃんならいいよ。私も紫苑ちゃんの話聞きたいし」
「私の話なんて面白くないわよ。まあ、私も貴方の話は興味あるわ」
夜は基本的に他人への興味はない。唯一、興味が向くのが最愛の彼のことで、彼を取り巻く環境のことで。
すべてを知りたいと願いはしないけれど、知らない彼のことを知りたいと思う。
「私が健と会った日はとても寒い、雪のちらつく日だった」
過去の懐かしむ星の目は、思い出し笑いをするように綻ぶ。
幸福を象徴するその表情は内から溢れ出す愛で満ちていた。
「急に人が窓から入ってくるんだもん。すっごくびっくりしたよ。足を滑らせたんだって健は言ってた」
「健らしくない失態ね」
「そうかも。やっぱり運命なんだって落ちてきた健を見て思ったの」
星の言い方に引っ掛かりを覚えて首を傾げる。幸せを映し出した表情は恍惚としていてなお、冷静さを失っていない。冷静に、恋に溺れている。
彼女はある意味、近い人物と言えるかもしれない。不本意ながら。
「やっぱりって?」
「私、あの日よりも前に健に会ったことがあるんだ。内緒なんだけどね」
健は一時期、春野家に滞在していたという。短い間過ごした中で健の存在は秘匿されていた。
鬼神の宿主は貴族街にとって重要な存在だ。それでいて外の人間でもある健は貴族街に処刑人になるという道を健が示さなければ、今も自由を奪われたままだっただろう。
「貴方の存在も健を繋ぎ止めるものなのね」
愛する人がいれば、離れることはないという単純な話だ。
愛する人の存在は時として枷になる。健相手なら必ずしもそうとは言えないけれど。
「健が相手じゃ私は枷にならないよ」
「あっさり言うものね」
「本当のことだもん。でも悲しいことではないんだよ」
言葉に説得力を与えるように星は先程から表情を変えない。
春野星はいつも日常の一部のように言葉を紡いでいく。
そこには岡山健という人間の生き方を知っていて、それでも傍にいることを選んだ人間の強さがある。
「私の隣は健のもので、健の隣は私のもの。それを譲る気はないから」
真っ直ぐ前だけを見て、可愛らしい声は似合わない強い言葉を紡ぐ。
「健の心が誰かへ移ったらどうするの?」
そんなことあり得ないと夜自身も分かっている。傾国と言われる美貌で、どれだけ都合のいい女を演じても、彼を振り向かれることはできないと痛いほど知っている。
知っていてそれでも聞かずにはいられなかった。あまりに揺るぎないから揺るがしてみたくなった。
「んー、演技でも作戦でもないなら取り戻すだけ、かな。また私の方に向いてもらうの」
葛藤なんてなかった。頭の中にある確固としたものをなぞるように言葉にしただけだ。
「私はね、健が欲しいの。他の何を手に入れられなくても健だけは欲しいの。永遠は無理でも、十年二十年でも傍にいたい。終わりのその時まで一番近くに」
声にも、その目にも星は悲しみを宿さない。波一つ立てずに真っ直ぐに前だけを見つめている。
彼女は知っている。誰にも語られない終わりの日を本能的に知っている。
それを嘆かず、ありのままとして受け止めている。
「欲深いことね」
健気とは違う星の在り方を夜はそう名付けた。
星は「えへへ」と場にそぐわないが、その容姿にはよく似合う照れた笑みを浮かべた。
「恋する乙女は欲深いものなのだよ」
気取った口調の星は数歩前に出てくるりと振り返る。金に近い琥珀色の髪で軌跡を描きながら無垢な笑顔を向ける。
「私は欲深いから紫苑ちゃんの話を聞きたいな」
「仕方ないわね。まだ時間はあるもの。特別よ」
〇〇〇
紫ノ宮家に売られた夜はまず服を着替えさせられた。安物ワンピースから素人目にも高価だと分かる生地で作られたドレスを身にまとう。
母がいつも着ていた黒を基調としたものだ。
生地だけではなく、黙々と付けられる装飾品もかなり値が張るものだろう。お金はかなりあるようだ。
貴族街の一角に居を構えているだけはあるということか。
「こちらです」
初老の男性に案内されてようやく、夜を買った人物と対面する。
「よく帰ったな、流菜よ」
男は夜を見て、開口一番にそう言った。
この時の夜はまだ小学校である。いくら容姿が似ていたとしても間違えようがない。
それでも男の目には夜の姿が母に見えているようだ。
「お前のために特別に部屋を用意してある。今日は疲れているだろうから休むといい」
言われて案内されたのは牢屋のような部屋だった。中だけは豪華に作られた部屋には窓がなく、唯一の扉にはいくつもの鍵がかけられている。
夜が勝手に部屋から出ないようにするためだろう。そんなことをしなくたって夜はここから出る気はない。
「悪く思わないでください。大切な人を立て続けに失い、心を病んでしまわれたのです」
「別に気にしていないわ」
どうでもいい、とまでは言わなかった。
かの使用人曰く、彼――夜の祖父にあたる人物は妻と二人の娘を失ったのだという。
この広い屋敷で暮らしているのは彼と、数人の使用人のみ。
最初は娘だった。物心ついた頃、仕えるべき人がいると当然に言い出して家を出て行った、と。
未練の一つも抱えず、出て行ったが、最後まで帰ってこなかったという。
その主というのが春野和幸だと知ったのは健と出会ってからだ。いやはや世間とは狭いものだ。
次に妻。下の娘を生んですぐに亡くなったのだと。元々あまり身体が丈夫ではない人だったらしい。
下の娘――夜の母である流菜はたった一人の家族として愛を注がれて育った。過度の愛を、と言ってもいいのかもしれない。
それを苦にしたのかまで分からないが、母、流菜もまた家を出た。
残された祖父は心を病み、大切な娘の忘れ形見である夜に希望を見出したということだ。
そんな深い事情なんて夜にはどうでもよくて、ただ言われるがまま母の代替品を演じた。
「流菜、歌を歌ってくれ」
「お父さんったら本当に私の歌が好きね」
母のことはよく知っているから演じることは難しくない。思い浮かべた姿をなぞるように演じる。
祖父はいつも歌をねだった。眠れないのだと言う祖父に気紛れで歌ったのが始まりだ。
この世でたった三人――そのうちの一人はすでに亡くなっている――しか知らない歌を。
心を込めた歌は素晴らしいと言うが、この時の歌には心なんて込められていない。
込める心などなく、ただ本能的に高められた技術だけが支えていた。それで十分だった。
母を演じることで、いつか夜自身が消えてしまっても構わない。むしろ消えてしまえと願いながら夜は日々を過ごしていた。
毎日のように訪れる祖父を檻の中であやす日々に闖入者が現れた。
その日、紫ノ宮家の屋敷には三人の人間が訪れた。春野家当主とその従者二人だ。
とはいっても、夜は相変わらず籠の鳥で外の状況など知る由ではない。
この情報はその日に部屋へ訪れた人物が教えてくれたことだ。
「こんにちは」
いくつもつけられた鍵をあっさり開けてみせたその人物は場の雰囲気に似合わない語調でそう言った。
あの頃から健は健だった。今はほとんど変わりなく、もうすでに完成されていたと言っていい。
「初めまして。俺は春野家当主の付き添いの岡山健と言います。貴方が紫ノ宮夜さんですね?」
どんな空間でも自分のものにしながら、夜の人生を変えた悪魔は無表情で目の前に立っていた。