5-8
「殺し、たの」
「そうね」
震えた問いかけに一も二もなく頷いた。嘘偽りの余地もなく依愛の命は失われた。
そして奪ったのは夜だ。誤魔化せはしないし、誤魔化すつもりもない。
「なん、なんで……」
声と同じく、その目を震わせて朝陽は夜の前に立った。
夜が依愛と戦っている間、悠によって治癒を施されている。暴行の跡は乱れた服と髪だけに残るのみだ。ほとんど万全に戻った朝陽の目には無理解が映し出されていた。
「確かに怖い人だったけど、なにも、殺さなくても……っ」
「心配しなくても私には戸籍がないから裁かれることはないわ。あったとしてもこれくらいなら揉み消すのも難しくないでしょうね」
朝陽が気にしているのは別のことだと理解しながら言葉を返した。
今の夜は常識や倫理観を欠如した人間を演じなければならない。幸い、身近にいる手本を真似するだけでいいので楽だ。
人を殺すのは悪いこと。道徳で教えられる当たり前を知らないとでも言うように。
懸念材料である悠は成り行きを見守るに徹してくれているらしい。
「そうじゃない。そうじゃなくて……」
必死に言葉を紡ぐ朝陽に首を傾げてみせる。
分からないと最初に示して、逡巡のために一拍、少し時間をかけてようやく理解が追い付いたと瞬きをする。
「依愛の、彼女の望みは私に殺されることだった。だから殺したのよ」
「なんでっ、そんなこと。自分が死ぬことを望むなんてそんな」
朝陽には理解できない世界のことなのだろう。その目には綺麗なものしか映っておらず、澱んだものはすり抜けてしまう。
どんなに言葉を尽くしても決して相容れない。だからこそ、夜は真正面から言葉を紡ぐ。
「あの子は私を愛していたから。愛する者に自分自身すら壊してほしかった。それが佐久島依愛の愛」
「そんなの愛なんて呼べないよ」
「そう言えるほど貴方は愛を理解していると言えるの?」
無垢なその目を真っ直ぐに見据えて言い放つ。あまりにも冷たい声音に息を呑む朝陽。
もうあの頃の関係にはもう戻れないのだと態度で示す。
「……夜姉は変わったね」
「そうね。私は変わったわ。変えられたの、悪魔に」
鋭い目が細められ、冷たい印象に温かみが宿る。どこか冷めていて、一歩引いているように見える少女の中にようやく火が灯ったように。
世界を斜め見していた人物がようやく本気を見せたとそう思わせられるほど、美しさに拍車がかかる。
恋する乙女の顔だ。恋は人を美しくすると言うが、夜だって例外ではない。
ただえさえ、人並みを外れている美貌がさらに引き立てられ、目を逸らすことを許さないものへと昇華する。
「心を奪われた。捧げてしまったの、あの悪魔に。愛して、しまったの」
恋に落ちたなんて生易しいものではない。夜を形成するものすべてを一瞬にして奪われた。
気付けば、自分のものと言えるものが何一つ残っていなくて、それを心地いいと思ってしまうから性質が悪い。
「もう私はあの頃には戻れないし、戻る気もないわ。だから諦めてくれるとありがたいのだけれど?」
「嫌だ。夜姉はそんなところにいるべきじゃないよ」
「貴方にそんなこと決められたくないわ。私のいる場所は私が決める」
聞き分けのない義妹に息を吐いて、言葉を返す。そこにはもう恋する乙女の顔はない。
いつものように冷たく彩られたい美貌がそこにあるだけだ。
「お母さんのこと怒ってるの?」
夜は朝陽の母親に売られた。その時点で普通の少女としての人生を奪われたと言えるだろう。
「いいえ。むしろ感謝しているわ」
しかし、夜は怒っても恨んでもいない。あのまま小柳家で暮らすより、紫ノ宮家で過ごした短い時間の方がマシだと思えるくらいだ。
たとえ母親の代替品として扱われていた日々だったとしても。
何より紫ノ宮家に売られていなかったら、彼に会うことはできなかっただろう。そこが夜にとって一番重要なことだ。
「だったらっ、その悪魔さんに騙されているの?」
ただ必死な朝陽の言葉に夜は目を細める。
温かみを含んだ先程とは全く違う、冷たく、ただ冷たく。怒りとも違う感情が添えられている。
「そうね。彼はそんな人ではない、そう言えはしないわね。そういうことが得意な人だから」
その言動で他者を自分の都合のいいように動かすのが得意な人だ。
夜自身、いいように使われている自覚はある。そこに立っている悠だって思い当たる節はたくさんあることだろう。
「でも、それでもいいと私は思っているわ。私は彼のためなら、いいえ、愛のためなら何だってできる」
騙されていたとしても構わないと紡ぐ声に朝陽は悲しみで顔を歪めた。くしゃくしゃになったその顔には涙が滲んでいる。
「そんな、の……おかしい! 歪んでるよっ!」
「愛なんてすべて歪んでいるものでしょう?」
愛のためならすべてを犠牲にできる夜も、愛する者を守るためだけに生きる悠も、愛する人が望むままに無垢でいることを選んだ星も、みな歪んでいる。
純愛と言われるものだって歪んでいるというのが夜の自論だ。
「種を残したいという本能に愛なんて言葉を使うのは人間だけだわ。本能とは別に他者へ心を砕くなんて、歪んでいる以外に何と言うの?」
愛は別に綺麗なものではない。美しくはあるけれど。
真実を知った夜の目にはいつだって澱みや歪みが映し出されていた。そんな中で愛と呼ばれるものはどれだけ歪んでいても美しいものだった。
その美しいものが自分の中に目覚めるなんて彼に出会うまで思いもしなかった。
「歪んでいるから間違いというわけじゃないわ。私は貴方の考えを否定しない。だから、私は私の考えを貫くわ」
多様性なんて高尚なことは言わない。自分の考えを押し通すために相手に条件を示すのだ。
「私はもう戻らない。何を言われてもこの心は変わらないわ。諦めなさい」
高慢に言い放つその姿に圧倒され、朝陽は何も言い返せないでいる。
その姿を見ながら夜は柔らかく微笑んだ。
「私、恋をしたの。幸せなのよ、今。だから心配はいらないわ」
朝陽と過ごしていたときよりも、母の代替品であったときよりも、もしかすると何も知らなかったあの頃よりも今の夜は幸せだ。
無知は周囲を不幸にする代わりに自分を幸せにする。けれど、夜の幸せは真実を知った先にあった。
知ることは必ずしも自分を不幸にするわけではない。
夜は朝陽へ歩み寄り、その頬に手を添える。悲しみと不安、その中へ夜を思う心を滲ませた義妹を慈しむように。
「貴方は貴方の幸せを探しなさいな。私と貴方は別々の道を歩いていくの」
交わるはずのない道が交っていただけなのだと語り聞かせる。これは別れの挨拶だ。
あの時はできなかった別れを今ここで伝える。
純粋で、無垢で、愚かな義妹のことを嫌いではなかったと改めて考える。
「これでお別れよ」
「夜姉……」
「悠」
涙声に応えることなく、後ろに立っているであろう人物の名前を呼ぶ。
正直、知り合いの中でもっとも性格の悪い人間に借りなんて作りたくはない。今までさんざん尻拭いをしてきたので、それで帳消しということにしておこう。
「夜さんの妹さんですし、特別に手厚くしてあげますよ。今までお世話になっていますから借りだなんて思ってくれなくてもいいですよ」
「恩着せがましいこと言ってないでさっさとしなさい」
「頼んでいる側とは思えない態度ですね。夜さんらしいですけどっ!」
相変わらずの騒がしさで言葉を返す悠は夜と入れ替わる形で朝陽の前に立つ。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。――すぐに終わるので」
無邪気な笑顔とともに伸ばされた指先が朝陽の額に触れた。それだけで朝陽の身体が崩れ落ちる。
床に倒れるよりも先に朝陽を抱きかかえた悠は役目は果たしたと夜へ目を向ける。
「正直、夜さんが大事な妹を僕に任せてくれるなんで思いませんでしたよ」
「貴方の腕だけは信用しているから。腕だけはね」
「二回も言わなくてもいいじゃないですかあ。夜さんは意地悪ですね」
頬を膨らませ、涙を溜めてアピールする悠へ零すのはため息だ。
「それにしても夜さんもあんなに可愛い笑顔するんですね。ずっと見せてくれてもいいのに」
「悠、朝陽を送ってあげて。私の笑顔を見たんだからおつりがあってもいいくらいじゃないかしら」
ころりと表情を変える悠に冷たく返す夜。いつも通りのやり取りで、悠は不満げながらも朝陽を抱え直して了承を示す。
「夜さんも、ちゃあんと星さんを送り届けてあげてくださいよ」
「分かっているわよ」
本音を言えば、星と二人きりなのも嫌だが、比べればこちらの方がマシだ。
朝陽を送り届けている間にあの女と鉢合わせする可能性もある。記憶を消去する手間が増えるのは面倒だし、希少な術を無駄遣いはしたくない。
「さて、死体をこのまま置いておくわけにはいかないし」
一度言葉を切った夜は指輪を外して弾く。キラリと光る指輪は放物線を描いて依愛の死体に落ちる。
赤い石が嵌め込まれた指輪は最後の贈り物だ。
「起動――火葬システム」
処刑人が殺した者は血の一滴、髪の毛一本たりとも残らない。都市伝説と言われる所以を支えている術式を発動された。
肉も骨も血も、灰すら残らずに燃やし尽くす。そうして行方不明者を作り出すのだ。
砕け散った赤い宝石が瞬間的に発生した火の周囲を美しく舞っている。
「これで人払いでもすれば当面は大丈夫でしょう」
死体がなくなっただけでは誤魔化しきれない痕跡は後日片付ければいいだろう。
人払いの術式を込めた指輪を弾いて起動する。これで数日くらいなら放置しても問題ない判断として夜もまた薄暗い空間を後にした。