1-7
目を開いた先に広がっているのは完全な闇の世界。何気なく持ち上げた手の先すらも見えない世界は、健にとって慣れた場所である。
不安を掻き立てるような闇に抱く感慨は何もなく、ただ「またか」と小さく呟いた。
そんな呟きさえ、この闇の中では瞬く間に無に変える。
現実の健は現在、眠っている状態だ。これからくるであろう怒涛の日々に向けての仮眠だ。
処刑人としての仕事を任されたときは、いつも隙を見つけて眠るようにしている。肝心なときに電池切れで動けなかった、なんてことは万が一にもあってはならない。
眠ると、健は決まってこの場所に立っている。例外は星の傍で眠っているときだけだ。
ここがどこなのかと聞かれて答えられる言葉を健は持たない。
夢と言われれば確かにそうだし、心の中と言われても間違いではない。界の狭間と言われても正解だ。
それら全てが入り混じって出来上がった世界。強いて答えを出すのならば、その言葉が一番近いだろう。
「よーやくあれが動き出したみたいだよ」
先日の白い光を思い出しながら、言葉を紡いだ。
実はこの空間にいるのは健だけはなかった。自分の腕すらはっきり見えない闇の中で、長身のシルエットだけが浮かびあがっていた。
黒に捕食された世界で、一対の紅い瞳だけが鋭く輝いている。
声をかけても、彼は答えない。長身のシルエットはただそこにあるだけで、健は一度として声を聞いたことも、動いた姿を見たこともない。
それでも、言葉はちゃんと届いていることは知っていた。理屈とは違う。おそらく、本能で。
もう少し力を引き出せるようになれれば、変わるのだろうか。
この力は欲望のために奪い取ったものだ。奪い取った責任が、健にはある。
必ずものにして、必ず目的を叶えてみせる。そうでなければ健は罪を償うことができない。
優秀すぎる脳が叩き出したたった一つの贖罪の道――。
ぴちゃん
水音が耳朶を打った。誰かが水たまりを踏んだようなその音に、健の身体は強張った。
何があっても、何が起こっても、冷静さだけは失わない健はただ動揺だけを表情に映し出す。
呼吸が乱れる。見開かれた瞳が震え、全身が恐怖を表す。
会いたくない人がそこにいる。見たくない人がそこにいる。
必死に酸素を取り入れても頭は回らなくて、この状況を打開する策が分からない。ただ駆け抜ける恐怖に身を流すことしかできない。
「――――」
その人がゆっくりと口を開く気配を感じて、肩を大きく震わせ――。
「……っ……はっ」
何か温かいものが頬に触れた感覚を呼び水に目を覚ました。広がるはずの天井を隠すように顔を覗き込む男の顔がある。
心配げな表情をした顔から逃れるように身体を起こす。乱れた呼吸を落ち着けるように深呼吸を一つし、表情を完全に消し去る。感情を切り離すのは健の特技だった。
「また、夢を見たのか?」
「……そーですね」
深くは聞かない和幸の気遣いに肯定だけを返す。
夢は目覚めれば、記憶から零れ落ちていく。微かな記憶は少しずつ朧気になって、気がつけば全てを忘れている。
だったらあの世界の記憶だって、目覚めた瞬間に消えてしまえばいいのに。
はっきりとした形で記憶に残っているのは、やはり夢というわけじゃないからだろうか。
「それでどーしたんですか。何か用でも?」
「行方不明者がまた増えた。夏凛も含めて二人だ。……それと、ほら。どうせお前のことだから、まともな食事とってないだろ?」
「別にお腹空いて……あ」
断ろうとした健の前に白いプレートが差し出される。生クリームに埋もれたパンケーキが乗っていた。余りものと思われる苺が彩りに華やかさを齎している。
甘やかな香りが鼻孔を擽り、空腹ではないはずのお腹を程よく刺激する。
長い袖に隠されていた手で差し出されたフォークを受け取り、一口分のパンケーキを口に入れる。
「ん、おいしーです。さすがですね」
口の中に広がるのは絶妙な甘さ。一口、一口、味わいながら口に運び、やがて食べきる。
クリームすら残らない皿を受け取った和幸は、先程とは打って変わって幸福そのものな健の姿を見て笑みを零す。
ヘアメイクが得意だったり、美味しいパンケーキが作れたり、春野家当主に必要ないスキルばかり持っている気がする。
年相応の表情を浮かべた裏側で健はそんなことを考える。
「にしても、お前が制服着てるなんて珍しいな」
「ちょっと学校に用があって」
学園長の許可を得ている合法不登校の健は、制服を着ていることは少ない。ちょっとした用事であれば私服のまま赴くことも少ない。
休憩や放課後など、多くの生徒が自由になる時間は注目されるのを避けるため、制服で行くこともある。今回もまたそのパターンである。
「そーだ、百鬼を借りることになると思うんですけど構いませんか」
「ああ、好きにしろ」
元々、百鬼は史源町に入り浸っている。貴族街の防衛に彼女が欠けたくらいで困ることは基本的にない。
本当にまずいことになれば、主である和幸が呼び出せばいいだけの話だ。
その辺の事情もよく知っている健は静かに首を縦に振り、立ち上がる。
「んじゃ、俺は学校に行ってきます」
その言葉を最後に、軽々と窓から屋根へと飛び移る。健が窓枠を蹴ったのに少し遅れて窓は自動的に閉められ、鍵がかけられる。
健が操ったのである。貴族街で最も価値がある能力をこんなことに使う健に今更言うことはない。
あるから使った。健にとってはそれくらいのことなのだから。
人間とは思えない速度で次から次へと屋根に飛び移る健が目指すのは春ヶ峰学園だ。身体強化の術がかけられた健の動きは素早く、同時にかけた認識阻害の術のお陰もあって、視認できる人はまずいないと言っていいだろう。
できる人がいるとすれば、それは健と同じで化け物の域に達している者だけだ。
高速移動する健は周囲に気を配りつつ、今後について思考を巡らす。
まずは夏凛を救出する。夏凛があちらについていた場合は別の作戦を考えるとして、当面はそれを一番の目的とする。
そのために必要になるのは『夏凛の王子様』の存在。星に探りを入れて分からなければ、最後の手段を使うことを踏まえつつ、別口で情報を探る。
と同時に、主犯格と思わしき白髪の青年についての情報も集める。
「と、ジャストタイミングかな」
ちょうど昼休憩が始まった時間のようで、遊びたい盛りの少年たちがボール片手に走っていく姿を屋上から見届ける。
今の今まで時刻の確認をしていなかった健はここで自分がどれだけ眠っていたのかを知った。
思っていたよりも長い間眠っていたらしい。それだけ疲労が溜まっていたのだろうか。それとも――。
「さて、と、どこにいるかな」
思考を無理矢理に切り替えた健は目的の人物を探すために歩き始める。
口では疑問符を浮かべながらも答えは出ていた。
春ヶ峰学園部棟の二階。小等部から高等部まで、ほとんど全ての部室が集う建物は微かに人の気配を漂わせている。
休憩中でも仲のいい部員同士で集まっていることもあるので、放課後ではなくても意外と人がいるのだ。
扉越しに聞こえる楽しげな声を聞きながら歩く健はやがて止まった。扉には『新聞部』という札がかけられている。
ノックをして返ってきたのは溌溂とした少女の声だ。
「先輩ならまだ……あ」
「こんにちは」
新聞部小等部部長(部員は一人だけ)、村越澪はその口をぽっかり開けて来客を見つける。
学園一の問題児が目の前に立っている。てっきり先輩が取材をとりつけた相手が訪ねてきたのだと思っていた澪は眼鏡の奥の瞳を驚きで溢れさせる。
いや、まだ先輩が彼に取材をとりつけた可能性が消えたわけではない。様々な噂が絶えない彼の取材であれば、澪も是非に参加したいところだ。
「ええと、何の御用でしょうか」
「村越さんに少しお聞きしたいことがありまして。今、大丈夫ですか?」
同い年にもかかわらず、お互いに敬語を使う奇妙な空間を作り上げながら、澪は緊張の消えない面持ちで座るように促す。
荒れた机をいそいそと片付けながら、驚きと困惑と緊張の三重奏を奏でる脳内をどうにか落ち着ける。切り替えの早さが密かな自慢の澪は一呼吸とともに、正面に座る健に向き直った。
「それで、聞きたいことって……? 私が知ってることなら岡山君も知ってると思うけど」
健についての数ある噂の中に、情報屋をしているというものがある。
噂は所詮、噂。真実ではないケースも山ほどある。けれど、澪はこの噂が真実であることを知っていた。
人に伝わるうちに尾ひれがつき、嘘に塗れた噂の本当を見つけ出すことが澪の趣味なのだ。
それは健についての噂も例外なく、それどころか面白さは他の比べ物にならないので、優先して調べていたりする。
「俺だって全てを知っているわけじゃありません。村越さんが知っていて、俺が知らないこともたくさんありますよ。学生の間に流れる噂とかね」
こと噂話に関していえば、健よりも澪の方が詳しい。その上、信用できる。
健はそこら中で飛び交う噂話を把握するほど暇ではない。その上、それらの信憑性を一つ一つ吟味していく時間を作るくらいなら、有能な人物の知識を借りる方がずっと早い。
誰かに頼ることが有効な手段なら、健は遠慮なく誰かに頼ることを選ぶ。それが今回は澪だったというわけだ。
「ここ、二週間で聞くようになった噂があれば教えてもらえますか」
「二週間か……」
澪は制服のポケットから使い古された手帳を取り出し、ペラペラと捲り始める。
調べてきたことは全て手帳にメモしてある。四冊目になる手帳の中から目ぼしいものを見つけ出し、信憑性の高いものをピックアップしていく。
「駅の近くで不思議な男の人が望みを叶えてくれるっていう噂があるよ。悩みを持っている人の前に突然現れて、幸せな世界に連れていてくれるとか……」
「その男の人って白髪だったりします?」
「え、と、うん。白い髪で、毛先が赤いって。後は優しい声をしてるとか」
間違いなく、夏凛を連れ去った男だ。
求めていた情報を得られた健は少しばかり考え込み、すぐに更なる情報を催促する。
澪自身も、この噂に思うところがあったらしく、想像以上に有益な情報がいくつか得られた。
どうやら男は駅付近、特に駅裏によく現れるらしい。その中でも、よく出入りしている建物までも教えてくれた。
「ありがとうございます。助かりました」
真剣な表情で耳を傾けていた健が微笑む。本当に「微」としか言いようのない笑みは一瞬にして健の雰囲気を和らげてみせる。
本当に同い年の少年なんだと、澪はここで初めて実感した。
いくら見た目が幼くても、健の纏う雰囲気は数百年前から生きていると言われても納得できるほど老成している。
なるべく自然を装って話を続けていた澪は拍子抜けする思いで、健の笑みを見ていた。
「これはほんのお礼です。喜んでいただけるかと」
差し出されたのは白い紙。二つ折りにされたそれの中身をあらためて驚く澪を横目に、微笑の健は新聞部の部室を後にする。これで、学園を訪れた一番の目的は果たせた。
このまま駅裏の建物を調べに行くか、とまで考えて思い直す。一度止められた足の向きを変え、直感に従って動かしていく。
今は休憩時間。廊下を歩く生徒など珍しくもないはずなのに、健へ向けられるのは奇異の視線だ。
あまり登校しないのに姿まで知れ渡っているのはどうしてだろう。そこまで目立つ外見はしていないはずなのに。
「健サンじゃないデスカ。今日は来てくれたんデースね。嬉しいデスヨ!!!」
誰もが遠巻きに健を眺める中、悪目立ちする口調の人物に話しかけられた。
外国人を彷彿とさせる片言の日本語につられて視線を向けた先に立っている人物は、純日本風の顔立ちをしていた。
学園に在籍する者は生徒、教師かかわらず全員把握している健は己のデータベースの中を検索し、彼の名前を見つけ出す。
「……村中先生」
「Oh、名乗る必要はアリマセンネ。これから一年、ヨロシクお願いしマース」
「よろしくお願いします」
差し出された手を、長い袖で隠された手で握り返す。変わった人ではあるものの、悪い人ではないようだ。
少なくとも、歴代の担任の中では一番好ましい人物かもしれない。
「今日は授業に出席するんデスカ?」
「いーえ、俺には必要のないものですから」
「授業というのはただ教科を学ぶものではアリマセーン。ソーメイな貴方なら言わなくても分かっていると思いマスが」
「それを含めて俺には必要のないものですよ」
分かりやすく拒絶すれば、踏み込んでこないだろうと言葉を返す。
教師の多くは健を遠ざけたがる。そうでなければ熱血を振りかざすか、同情を持って接してくる。
村中はそのいずれとも違う。健の真を理解したその目は不用意に踏み込むことを是としない。
「必要ない。そう判断するのはソーケイですよ? 人生はまだまだ長い。ロング、ロングです。必要ないと思っていたものが、悩みを解決することもたくさんアリマース」
「……教師みたいなこと言いますね」
「私はティーチャーですから。そして貴方の担任デース」
悪戯っぽい笑みでそう言った村中を見て、健は密かに確信する。
この人は苦手なタイプだ。同時に村中がどうして担任に選ばれたのか悟り、心中で和道への恨み言を吐く。
「貴方も私の大切な生徒の一人ですから」
そう言って笑う和道の姿が脳裏を過った。さすがは和幸の兄。
小さく息を吐いた健はここでまた予定を変えることに決めた。