5-7
「私はあの女、朝陽の母親に売られたの。貴族街に売られたの」
夜を欲しがっている男がいた。それは紫ノ宮の当主で、母の父親だった。
母は駆け落ち同然に家を出て、母の姉に当たる人物は幼少の時点で家を出たらしい。妻にも先立たれた男は夜に代わりを求めたのだ。
金で頬を叩かれれば、あの女なら喜んで夜くらい差し出すだろう。
「そんなのっ、私、知らない。お母さんも夜姉は家出したんだって」
「貴方の前ではいい母親だったもの。金遣いは荒かったけれど」
やはり自分の子は大切だったということだ。他人の子供には冷たく接するなんて珍しい話じゃない。それも夫の連れ子なんて尚更だ。
「その後は紫ノ宮で過ごして、連れ出してもらったの。悪魔に」
懐かしむその笑顔の横で星はこの場に似つかわしくない笑みを浮かべた。
彼女には悪魔の正体が誰か分かっているのだ。優しくて、冷たく恐ろしい彼のことを。
「さぞかし情熱的な出会いでいやがったんでしょうね。アタシも聞きてぇなあ、なんて」
「話はこれで終わりよ。続きはないわ」
「冷てぇこと言いやがりますね。女は恋バナ好きでいやがるもんでしょう? もっと楽しもうぜ。次はお姫様でもいいですが」
くるくるとナイフを回す依愛はその切っ先を星へと向ける。銀の輝きと相対する目が瞬きをする。
鋭い刃をすぐ傍に、依愛は星の顔を持ち上げる。色が複雑に混ざるその目で見つめる。
始まりから変わらず、星はただ光を湛えた目で見返すだけだ。
「私も話さないよ。ごめんね」
「へえ。ナイフをちらつかされてもびびらねぇんですね。てめぇを壊すのは骨が折れそうだ」
言いながら口角を上がる。
「壊しにくいヤツほど壊しがいがあるってもんです。じっくり、たっぷり、壊してやりますよ」
「そんな時間、貴方にあるとは思えないわね」
「ああ。そういえばそろそろ愛しの健君を呼び出した時間になりやがりますね。メッセージを送るために腕の一本くらい切り落としてやった方がいいですかねぇ。キャハッ」
「そんな時間、貴方にあるのかしら」
同じ言葉をただ繰り返す夜に依愛は眉を寄せた。
彼女は知らない。けれど、夜は知っている。
呼び出しに健は応じないし、依愛の描いた勝ち筋は最初からないことを。
「大した作戦じゃないわ。ただ使いっ走りが来るだけよ」
「へぇ!?」
この部屋には男が入れないように結界が張られている。
処刑人のメンバーが来させないための対策だ。
依愛の戦闘力は高いが、健じきじきに鍛えられた処刑人たちは及ばない。八潮辺りが来れば、術封じをしていても意味がない。
しかし、依愛は一つ勘違いをしている。その勘違いこそが、夜の切り札だ。
「天使を守る会のヤツら程度じゃ、アタシに勝てねぇと思いますけど? アタシの後に余っ程優秀なのが入ったわけじゃねぇでしょうし」
「そうですね。件の組織はどっちかっていうと諜報方面が得意な人が多いですからね。ストーカー気質って感じがします」
そう依愛の言葉を肯定したのは夜でも、星でもましてや朝陽でもない。
ゆっくりと扉から現れるのは無邪気を具現化したような人物だ。いつもは執事服で包んでいる身体を今日は女物の服で包んでいる。
髪も愛らしく整えたその姿は、いつもと雰囲気がまるで違う。
「どういう、ことです? ここは男が入れないよう結界が張ってあるはずですが?」
「実は僕、女の子なんですよ」
あっさりとカミングアウトする悠。悠にとって大事なのは健の弟であることで、男であることではない。
自分が女であることは悠にとって隠すことでもないのだ。
「知らなくても無理はないわ。私や八潮と違って、健に会う前の情報なんて手に入らないでしょうし」
悠の出生は少々特殊だ。生まれてすぐから健に会うその日まで、存在を完全に秘匿されていた。桜宮家本家の最奥で一人きりの幼少期だったという。
夜もまた詳しい話は知らず、健から概要を聞いたくらいだ。悠本人があまり話したがらないので、それ以上を知ろうとも思わない。
「にしても遅かったわね。お陰で必要のない話までしちゃったじゃないの」
「仕方ないじゃないですか。荷物持ったままじゃ動きにくいですし、汚したら絶対怒るじゃないですか」
買ったドレスの材料を置いてきてくれたらしい。悠を荷物持ちにしていて正解だったと夜は密かに考える。
「GPSも曖昧で……ここまで来るの、すっごく大変だったんですよ?」
苦労アピールをするいつもの姿に小さく笑む。その耳で揺れる桜の花弁を模したイヤリングがGPSの役割を持っている。
術的なGPSでもあり、電気的なGPSでもある。ここは術封じがあるので後者を頼りにここまで来たのだろう。やはり健謹製の術に比べれば精度は落ちる。
「正直、一番嫌なヤツが来やがりましたね。人質が役に立たねぇじゃねぇですか」
「降参してくれるなら僕としても楽でいいですけど」
「そんなつまんねぇことしねぇですよ。夜ちゃんやクズ虫はともかく、お姫様はスルーできねぇんじゃねぇですか」
「できますが?」
逡巡すらない即答。問いかけに疑問符すらつけているほどだ。
「見たところ、そのナイフでは即死は難しそうですし、即死でないならいくらでも方法はありますから」
「術封じされている場所で、しれっと言いやがりますね」
「ああ、そういえばそうでしたね。じゃあ、ぱぱっと無力化して、事件解決といきましょうか」
一蹴りで大きく跳躍した悠は言葉が終わると同時に依愛へ接近する。
大きく見開かれてる不思議な色彩の目が無邪気に笑いかける。勢いを消さないままに蹴り上げる足の軌道を読んで、依愛はわずかに後方へ下がった。
爪先が掠める。避けられたことへの動揺を見せないままに悠は往復で依愛を撫でた。
ようやく地面に足をつけ、悠は感心するように息を吐き出した。
「さすが四番さんですね。聞いていた以上です」
「どんな話を聞きやがったのか知らねぇですけど、そっちこそ聞いてた以上じゃねぇですか。面倒事は嫌いなんで帰ってくれやがると嬉しいですが?」
依愛は別に戦うのが好きというわけではない。素直なその言葉を受けて悠は迷いを映し出す。
「健兄さんの指示ではないので僕的には帰ってもいいですけど、うーん、でも星さんもいますからねぇ」
本気で迷っているらしい悠に夜は小さく息を吐いた。
夜の頼みを聞く義理はない、と角度的に見えない目が物語っているのは想像できた。
悠を従わせることができるのは後にも先にも健一人だけ。それを理解しながらも夜は口を開く。
「くだらないこと迷ってないで縄を解きなさい。その子の相手は私がするわ」
呆れを混ぜた夜の言葉に振り返る悠は茶目っ気たっぷりに舌を出す。
別に悠は本気で迷っていたわけではない。頼みを聞く義理はないが、それが聞かない理由にもならない。
「夜さんってば捕まってるのに相変わらずですね。僕はどっちでもいいですけどっ!」
答えながら悠は思考を依愛を倒すことから夜を解放することへ切り替える。しかし、そこでもやはり依愛は立ちはだかる。
「夜ちゃんを解放されんのは困りますね」
ナイフを構える依愛。その刃のきらめきを見る目は静かで、依愛を外側のものとして見ているようだ。
目的を果たす。それだけが悠の目に映し出されている。
そこからの行動は迅速だ。息を吐き出し、吸い込んだと同時に悠の姿が消えた。
「っ……」
瞬き一つの間に眼前まで迫った悠に息を呑んで、ほとんど反射で回避行動に移る。
「これを避けるんですね。すごいです」
先程までがお遊びだったのだと思わせる動きの悠を、依愛は紙一重で避けてみせた。
あまりにもギリギリすぎる回避だ。態勢も整わないままに避けたせいでバランスを崩し、ナイフを握る手が無意味に舞う。
なんとか態勢を整えようとステップを踏む足が誰かに掴まれた。
「えい」
可愛らしい声とともに足を引っ張られて、依愛は完全にバランスを崩した。
「ナイス、星さん!」
尻餅をつく依愛が落としたナイフを拾い上げる悠はそのまま夜を縛る縄を切断する。赤い痕と擦り傷を残した手首を撫でつつ、数時間ぶりに立ち上がった夜は地面の感触を確かめる。
コンクリートの地面を高いヒールで叩き、尻餅をついたままの依愛へ向き直る。
「これで形勢逆転といったところかしら」
「はっ。勝手に決めねぇでくれやがりますか」
「悠、二人のことお願いするわ」
まだ戦意を消さない依愛を慈しむように微笑む夜。武器はないままだが、問題はない。
スカートの中から二本目のナイフを取り出した依愛は低い姿勢から斬りかかる。
一本目同様に鋭い刃が宙をなぞり、夜は軽い挙動で避けながらその手を掴む。
「一緒に踊りましょう?」
掴んだ手を引いて、横腹に蹴りを叩き込む。見た目以上の威力を生み出した蹴りに依愛の身体は吹き飛ばされた。間際、奪い取ったナイフを夜は回すように持ち替えた。
いつも扱っているものとは違う重み。それを計算に入れ、勢いよく壁へ投げつける。
この部屋の四隅には術を封じる呪符が張ってある。その一つでも失われれば、かけられた術は解ける。
「させねぇっ」
術が使える状態になれば、形勢は夜に大きく傾く。
ダメージから回復できていない状況でなお、諦めない姿勢の依愛は踏ん張る足で地面を蹴った。
一直線に飛ぶナイフへ伸ばされる手。根性があるとは違う諦めの悪さを夜は笑った。
「遅いわ」
その笑みは嘲笑とは違う。もっと柔らかく、愛しいものへ向けるような優しい笑みだ。
「起動――つむじ風」
ナイフが呪符へ突き刺さったと同時に美しい声が紡ぐ。
突如として巻き起こった風が、地面を蹴って宙に浮いた依愛の身体をさらう。
宙でなす術のなく風に翻弄される依愛へ、夜はステップを踏むように歩み寄る。踊ろうと誘った言葉通りに。
「愛しているわ、依愛」
「なに、を」
不思議な色合いの目が驚きで大きく見開かれて震えた。薄い唇も震えて、掠れた音を紡いでばかりだ。
「起動――縛布」
美しすぎる声が再び紡ぎ、出現する霊力の縄が依愛を縛り上げる。
つい先程まで夜が縛り上げられていたことを考えると本当の意味での形勢逆転と言えるだろう。
「なんで……いや、夜ちゃんなら気付いていやがっても不思議はねぇですね。っはぁ、アタシの一人相撲じゃねぇですか。だっせぇ」
「私は嫌いじゃないわ。愛にもがく人はみんな好きよ。愚かしくて」
甘く囁きかける。
愛は人の欲を詳らかにする。醜く、愚かしい人の姿を見るのは好きだ。
人間の本能を見せてくれるから愛は尊い。だから、夜は天使を守る会を作ったのだ。
「貴方は健のファンとして天使を守る会に入った。けれど、本当は違うのよね」
身動きのとれない依愛へ歩み寄り、その頬に触れる。頬にかかる不揃いの髪をそっと払い、冷たい指先を優しく添える。
「春野星を殺そうとしたのも、今こうして私や朝陽までもを監禁したのも、私を怒らせたかったからでしょう?」
「その、涼しい目を、アタシが歪めてやりたかった。憎悪で満たして、アタシを、アタシのことを……」
「壊してほしかった?」
続く言葉を魅惑の声が彩ってやれば、依愛は喉を鳴らした。生唾を呑み込み、期待と不安を映し出したその目で見つめる。
「起動――白斬刀」
向けられる視線に答える代わりに紡いだ。腰にぶら下げていた大きな石が砕け散って、生み出された白い刀を夜はその手で握り締める。
普段使うことのない刀の慣れない感触を味わいながら、切っ先を依愛へ向ける。
この世のものとは思えない、白き光をまとう刀。霊力のみで構成された刀だ。
その切れ味は、依愛が持っていたナイフなど比にはならない。
「愛しい人に終わらせてほしい気持ちは私にも分かるわ。私も同じだもの」
照明のない部屋の中で白だけの刃は美しく輝いていた。
黒い少女は美貌に笑みを浮かべて、その手に持つ白い刀を静かに振る。
「愛しているわ」
最後にそれだけ言って、夜は自分を愛してくれた人物へ別れを告げる。最上の愛を込めて。
白い刀身が依愛の首を滑り、胴体と切り離す。それで役割を終えたように刀は塵となって消えていった。
小さな白い粒が魂の欠片のように高く高く昇って――やがて消え去った。