5-6
母が亡くなってから三ヵ月ほど経った頃、父が見知らぬ女を連れて来た。
黒く美しい髪を持つ母とは対照的に、茶色い癖毛を長く伸ばした女だった。
質素な母とは違い、ブランド物でその身を包んでいる、愛想だけはいい女だった。
「お父さん、再婚しようと思うんだ」
「よろしく、夜ちゃん」
慣れ慣れしく話しかけてくる女の顔を冷たい目で見る。
別に父が再婚しようが夜にはどうでもいい。幸福だった日々はもう取り戻せない過去として心の奥にしまってある。だから、もうどうでもいいのだ。
こうして目の前で、夜に気を遣うような視線を寄越す父はもう過去の存在だ。
大切なのは、夜にとって大切なのは大切に仕舞われた過去だけ――。
「好きにすればいいわ」
続いていく今とその先の未来は夜の人生にとってただの余分。無為に流れていくだけのメロディーに過ぎない。
無理矢理に見せられるエンドロールのその先だ。
終わりきった人生がどうなろうとも、もう興味も持てない。
「そうか」
やはり気を遣うように頷いた父はやはり、あの頃の父ではないのだ。
そうして、間もなく父はあの女と結婚した。
「夜姉! いっしょに学校に行こう!」
女には連れ子がいた。
小柳朝陽。今は本条朝陽と名前を変えた少女。今は義理の妹。
無垢で純粋で綺麗なその子は瞬く間に夜に懐いた。理解に苦しむほどに。
冷たくて素っ気ない義姉のどこがいいのか。
羨望の眼差しが愚かしくて、反吐が出るほどに嫌いだった。
何も知らない子。何も見えていない子。
かつての自分を見ているようで大っ嫌いだった。
ところで夜はあの日から、世界の真実を知った日から一つの才能に目覚めた。
頭脳。運動神経。歌声。美貌。元々持っていたありふれた才能とは違う、特別な才能だ。
――人を魅了する才能。
美しすぎる容姿と、漂う甘い香り。蜜につられる虫のように人々はその香りに誘われる。
独りを望み、他者を拒む気持ちとは裏腹に他者は夜を逃さない。
「俺、本条さんのことが好きで……」
「勘違いよ」
学年でもっとも人気のある男子からの告白だった。
一言でばっさり切り捨てた夜のことは瞬く間に噂になった。人気の男子を振るというのは、学年中の女子の恨みという非常に面倒なものがついてくる。
仮に受けたとしても、同じものがついているので告白された時点で終わりだが。
学校で孤立するのはあっという間だ。ただ孤立するのならむしろその方がよかったが。
「……っ」
履き替えるために靴を持った指に痛みが走る。見れば、靴の中に画鋲が敷き詰められていた。
細い指先にぷつりと浮かんだ赤い液体。艶やかな赤い色に魅了されるよう、じっと見つめる。
「夜姉?」
聞こえた声から隠すようにその手を握りしめた。
「やっぱり夜姉だ。今帰るところ? だったらいっしょに――」
「用事があるから先に帰っていて」
癖のある毛まで落ち込ませる朝陽は肩を落として一人で帰っていく。
その背中を見送り、夜は靴に詰め込まれた画鋲を一つ残らず掬い取る。
そして下手人たちの顔を思い浮かべ、優しい夜は彼女たちの下駄箱に返してあげた。
悪魔の微笑みを浮かべる夜は颯爽と立ち去り、分かりやすく落ち込んだ背中を追いかける。
「朝陽」
ただ一言、声をかけただけで落ち込んでいた背中がたちまち元気になる。馬鹿らしい。
道を歩く夜の香りに釣られた人々の視線が突き刺さる。短い間でも、常にあるそれにはもう慣れきっていて、今更思うこともない。
これだけ注がれる視線にも朝陽は気付かない。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は二人で帰ってきたのね」
「お義父さんは? 今日はいないの?」
「仕事で遅くなるそうよ」
母子の会話を聞きながら、夜は無言で自室に戻る。
かつては無理にでも仕事を終わらせて帰ってきていた父はここにもいない。
むしろ、母がいた頃以上に仕事に力を入れるようになっていた。まるで罪悪感から逃げているようだ。
「お母さんを裏切ってまで手に入れたものなのに、それも蔑ろにするのね」
「それは違うわ」
聞こえた声に肩を震わせて振り返れば、あの女が立っている。勝ち誇った顔で。
「先に世人さんを裏切ったのは貴方の母親なのよ」
朝陽には見せない女の顔で、父には見せない悪女の顔で、女はそう言った。
「世人さん、言ってたわ。貴方の母親が男と歩いているのを見たって」
「そうですか」
競争意識を宿らせた目にただ短く言葉を返した。
あまりにも淡白で中身の欠如した言葉に女が怯んだ。それを横目に夜は自室へ入る。
もう終わった世界の、終わった話をされたところで夜には少しも響かない。
当時の夜はいろんなものが欠落した、空っぽの人間だった。ただ無気力に、終わらせようとも思えない人生を歩んでいた。
だから動揺一つなく、波立たない心しか持っていない。
早く、すべてが終わってくれたらいいのにと願いながら。
その日、家に帰った夜を迎えたのは美しいピアノの音色だ。母が死んで以来、一度も使われることのなかったピアノは久しぶりにその役目をはしている。
何度も聞いた音だ。目を瞑れば、流れるメロディーに声をのせて歌っていた日のことが鮮明に蘇る。
父がピアノを弾き、夜が歌って、母が鼻歌を重ねる。そんな日々のことを。
「今日はいつもより早いのね」
今、この家で夜以外にピアノを弾くことができるのはただ一人、父だけだ。
考える間もなく答えを導き出した夜は静かな顔でピアノを弾く父へ話しかけた。
夜が学校から帰るより早く父が帰っているのはいつぶりだろうか。少なくとも再婚してからは一度としてない。
「……夜」
驚いた顔のまま固まる父に一瞥だけくれてそのまま通り過ぎ――その腕を掴まれた。
反動で舞う黒髪が甘い香りを撒き散らす。人を狂わす甘い甘い香りが。
何かを言おうとした口が甘い香りに誘われるように口を閉じる。迷いを映し出していたその目に、人が普段抑え込んでいる感情が滲んだ。
どこか熱に浮かされるようなその目を急かすように、抑えきれない甘い香りが溢れ出す。
人を惑わすこの力を制御する術を夜は知らず、ただ全身から立ち昇る色香が父の鼻腔を犯した。
父の呼吸が荒くなる。何かを堪えるような呼吸を嘲笑うように、甘い香りは父を抱き締めて離さない。
ここまで強い香りを、これほどまでに至近距離で嗅いだ人は父が初めてだ。
だから、これから先のことは仕方がないことだ。
甘い香りは人の心を囚らえ、犯し、脳をどろどろに溶かし、理性を壊す。
内に潜む欲望を曝け出され、人は己の欲を満たすことだけを考える獣と化す。
普段、理性で着飾って、誤魔化して、取り繕っているものを夜のまとう甘い香りは一瞬で剝がしてしまう。
「……っ」
抑えられない情のままに腕を引かれ、押し倒される。冷たい床の感触で冷え切った夜の脳内とは対照的に、目の前の男は果てしない熱だけをその目に宿していた。
荒い呼吸が夜の首筋に熱を吹きかける。父が息を吸うたびに、甘い香りは入り込み、侵食していくことだろう。
「お父さっ」
似たようなことは今までにも何度かあった。理性を失った人間に襲われそうになることは。
それだけ夜のまとう香りは危険で、魔性で、人の心を狂わす麻薬なのだ。
それでも夜の身体は未だ清いままで、守ってきたのは夜自身の才能だ。
襲われることに恐怖すら抱かず、冷静なままで夜は獣とかした人間を撃退してきた。
誰に教えられるでもなく夜は護身術を、身を守る術を知っている。
今だって退けることはできる。香りに犯された人間は欲に支配された獣になる代わりに、隙だらけになってしまうから。
小学生ながらに成人男性に打ち勝つ術を夜は知っていて、それができる才能もある。けれど。
「流菜……っ」
熱に浮かされた父の口から零れた名前を聞いて夜は抵抗することを止めた。
涙を浮かべた父の目には今、夜が母に見えているのかと思うとおかしさが込み上げてくる。
あの女の顔が脳裏に過った。夜の前で勝ち誇っていたあの女の顔が。
どうしてあんな顔をできたのだろう。父の心はまだ母に囚えられたままだというのに。
滑稽で堪らなくて、口の端から笑声が漏れる。その気になっている父には悪いが、抑えられそうにもない。
「ふふ、あは、あっはははは」
こんなに声を出して笑ったのはいつぶりだろう、と冷静な部分で考えながら笑う。
突然笑い出した夜に父は驚いた顔で固まっている。この時だけ、夜はあの頃の夜だった。
母の幻覚を見ていた父は我に返ったようで、その目の熱は完全に冷めている。
「夜、俺は……」
「気にしていないわ。慣れているもの」
罪悪感に襲われた顔で、夜から距離を取る父。母が死んでからの、いつもの父に戻った姿を見て、夜もまたいつも通りに冷たく返した。
この日からだ。父はより家に帰らなくなった。そこから半年も経たず、離婚届だけを置いてあの家を去っていった。
父は家を出ていった。かつて幸福の象徴だった家を出ていった。夜を置いて。
夜に対してあれだけ勝ち誇っていた女は、明らかなまでに夜への態度を変えるようになった。
朝陽の前では優しい母親でいながら、夜には強く当たった。朝陽のいないところで暴力を振るわれることも珍しくない。
家にも、学校にも居場所なんてなくて、それすらどうでもよくて。
いつ終わりが来るのだろうと考える夜の人生に再び変化が起きたのはそれからすぐのことだ。
夜は何度か名前を変えてきた。最初は本条夜。両親が離婚して小柳夜となり、そして次は紫ノ宮夜となった。