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5-5

 夜が生まれたのは多くが理想と掲げるような家だ。


 それなりに裕福で、仲のいい両親に愛されながら過ごす日々。

 何故か、母の親戚とは疎遠だったが、そんなことは気にならないくらいに幸福な家庭で日常を送っていた。


 父は有名な作曲家で、クラシックの世界ではそれなりに名の知られている人物だ。夜が生まれる少し前に人気アイドルグループに楽曲提供をしたのをきっかけに邦楽の世界にも手を出すようになり、一気に知名度が上がったらしい。


 母と出会ったのは町中で、その美貌に一目惚れしたのだという。幼い頃、何度も聞かされた。

 そのときはいつも饒舌で、母はいつも照れたように笑っていた。


 父の名前は本条世人。母の名前は本条流菜(ほんじょうるな)。夜の名前は両親から一字ずつ取ったのだという。

 名前だけではない。艶やかな黒髪も、切れ長の目も、美麗な声も、その他何もかもが両親のいいとこ取りをしたものだ。


 恵まれすぎた才、そのすべてが両親からの贈り物だ。


「あら、今日は遅くなるって言ってたのに」


 父、世人は妻と娘を心から愛し、忙しい中でも家族との時間を当たり前に作ってくれていた。

 わざわざ仕事を早く終わらせて、少しでも長く一緒にいられるように。


「お父さん、おかえりなさい」

「ただいま、夜。いい子にしてたか」

「うん。きょうはピアノであそんだのよ」


 ピアノと言っても、おもちゃのピアノだ。鍵盤の数も少ない小さなピアノを好き放題音を鳴らすだけのお遊び。


「そうか。夜は天才だな」


 親馬鹿な父に褒められる形で夜の才能は伸ばされていった。

 この頃の夜はまだ四歳。にもかかわらず、世人は娘に嬉々として楽譜の読み方を教えるようになった。


 有名作曲家による、ある種の英才教育が当たり前に施されるのが幼い夜の日常だ。


「まだ夜は四歳なのよ」

「こういうのは早ければ早いほどいいだろ。な、夜」

「うん。わたしね、おおきくなったらおうたをうたうひとになるの」


 毎日のように口にしていた夜の夢だ。


 常に音楽が傍にある生活の中で、当然のように歌手になる夢を掲げた。

 大抵は夢のまま終わるそれはいつも一番近くにあった。


 芸能関係者が訪れることも多い家の中で、本気で夜をデビューさせようと考える人も何人かいた。

 幼いながらも片鱗を見せる美貌と、まだ拙くとも美しい歌声に商品価値を見出して。


 まだ幼い夜をデビューさせるなんて両親が是とすることはなく、ただ夜は恋するように夢を見た。


「おとうさんのきょくとおかあさんのかしでうたうの」


 母、流菜は作詞家だった。といっても、父ほど有名ではなく、むしろ知名度はかなり低い。

 専業主婦の傍ら、趣味でやっているようなものだ。才能はあっても、本人が知名度をあげることを望まなかったのだという。


 子育てに専念したいからだろうと多くの人は納得する。少し前までの夜もそうで、今は違うと知っている。


 思えば、母は外に出ることをなるべく避けるような節があった。


「これ、私たちからのプレゼントよ」


 次の歳の誕生日。夜は両親からいくつもの曲が綴じられた空色のファイルが贈られた。

 父が作った曲と母の書いた歌詞の歌を歌いたい。そんな世迷言を実現するために作ってくれたのである。


 この頃には完全に楽譜を読めるようになっていた夜は目を輝かせてそれらを見た。

 小さな少女に向けられたものとは思えないクオリティの曲ばかりがファイルには綴じられていた。


 空色のファイルの中に綴じられていたのは輝く夢だ。


「ありがとう!!」


 この日から毎日楽譜と向き合って、綴られているメロディを口ずさんだ。幼いながらも美しい歌声が、家の中を彩った。


 伸びやかな歌声を聞きながら、母は家事を行う。

 それは幸福な時間だ。汚いものを知らない、不安を持たない日々だけがある。


 綺麗なものしか知らない歌声は、それが壊れ始めていることに気付かなかった。


 大きく動き出したのは夜がちょうど小学校に入った頃だった。


 外に出ることを避けているようだった母が家を空けることが増えた。

 仕事が忙しいなんて言っていたが、作詞家としての知名度は変わりない。その小さな矛盾に、当然ながら気付くことなく、幼い夜は近所のお婆さんの家に通う日々を純粋に楽しんだ。


 歌を歌うことの次に、裁縫が好きになった。

 学校から帰ってすぐにランドセルを背負ったまま、お婆さんの家を訪れる。空色のファイルをもらったときと同じように目を輝かせて、皺塗れの指による魔法を見つめる。


「夜ちゃんもやってみるかい?」


 柔らかな問いかけに二つ返事で、夜は新しい好きを自分のものにした。


 夜は器用な性質で、才能に恵まれている。勉強で苦労したことがないように、運動で劣等感を抱いたことがないように、伸びやかな歌声を奏でられるように、裁縫すらもものにした。

 細い指は教えられたことを忠実になぞり、基礎がすぐにできるようになった。覚えが早いと褒められたものだ。


「お母さんの誕生日にワンピースをプレゼントしたいの」


 出来ることが増えた頃、お婆さんにそう持ち掛けた。八歳のときのことだ。


「どんなワンピースにしようかしらねぇ」

「白がいいわ。いつも黒いのばかり着ているから」


 昔から着ているから、今は黒が一番落ち着くのだと言っていた。

 綺麗な人だから、黒ばかり着ているのは勿体ないと思うのだ。もっとたくさん、いろんな色の服を着てほしいとそんな願いを込めたい。


「白だったらこういうのがいいかしら」


 雑誌の切り抜きを見せてくれて、夜はその中からイメージに合うものを探す。

 頭の中で何回も着せ替えをして、理想に近いものを探していく。


「これ、これがいい!」


 そこから実際に理想を形にしていく。今までも簡単なものは作っていたが、やはり誰かのためとなると気分が変わってくる。


 一針、一針に思いを込めて、大好きを込めて。

 受け取る母の顔を思い浮かべ、それを着ている母の姿を思い浮かべて胸を弾ませる。


 ――その一報は、そんな幸福の絶頂の中に訪れた。電話を取ったお婆さんの顔がみるみる変わっていく姿は、今でも鮮明に覚えている。


 動揺を悟らせないように抑えた、けれども震えた声。

 今の今まで気付かなかった幸福の終わりが、愚かな少女にも分かる形で降りかかってきたのだ。


「夜ちゃん、病院に行きましょう?」

「何かあったの?」


 無垢な問いかけに陰りのある表情が返される。愚かな娘はこの表情を見てもまだ気付かない。


 気付いたのは病院で、同じく駆けつけた父によって告げられた父の言葉を聞いてからだ。

 白い部屋の白いベッドの上で、黒い女性が寝かされている。ピクリとも動かない母と、悲しみを詰め込んだ父の顔が異常事態を教えてくれていた。


「夜、よく聞いて。お母さんは遠いところに行ってしまったんだよ」


 選ぶような言葉をゆっくり理解して――そこから先のことはよく覚えていない。

 慌ただしく日々が過ぎていったからでもあり、いろんなことが見る間に変わっていったからでもあるだろう。


 忙しなく流れていく日々の中ではっき覚えていることがある。


「流菜さん、赤信号に飛び込んだらしいわよ」

「知ってる? 世人さんって外に女がいたんだって」


 葬式で聞いた噂話だ。葬式というものは不思議と人の噂が集まるものだ。


 人の死というネガティブな要素はネガティブなものを呼び寄せるのか。

 死んでしまったからもう時効だと言いたいのか。


 陰に隠れて他者の悪口を言うのは麻薬のような心地よさがある。相手が死人ならより口も軽くなるというものだ。


 死人に傷つく心も、反論する口もなくても、残された者には心も口もあるというのに。

 心ない噂話が、一時の快楽を得るための話が、小さな少女に真実という毒を与えた。


 現実を教えてくれたことを今では感謝している。けれど、あの頃はそんな風に考えられる余裕なんてなかった。


「お母さんはお父さんに裏切られたから死んだんだ」


 噂話から夜はこう結論付けた。

 思い当たる節はあった。母が家を空けることが増えたように、父もまた遅く帰ることが増えた。

 昔はどんなに忙しくても、早く帰るための努力を惜しまない人だったのに。


 一度、母へ無邪気に訪ねたことがある。

 父はどうして帰るのが遅いのか。聞いたとき、母はとても悲しそうな顔をしていた。


 何故、このときに気付かなかったのかと自分の愚かさを呪った。


 そして知る。この世界は別に綺麗でも何でもなくて、歪みや穢れが常に隣り合っているのだと。

 敏い目は、聡明な頭は気付いてしまえば、簡単に歪みを見つけてしまう。今まで気付かないでいたことが嘘のようだ。


「私の愚かさもお母さんを殺したのね」


 無知とは罪だ。知らないことは自分を幸福にするけれど、同時に周囲を不幸にする。

 真実を気付かないでいた夜にもまた、償うべき罪はある。


 だからこそ、夜は父を恨むことはしなかった。そんな資格はないから責めることもない。

 両親が夜のために作ってくれた曲たち。それを綴じた空色のファイル。作りかけのワンピース。


「くだらない」


 目を輝かせて見ていたそれらをたった一言で切り捨てた。

 美しいものを見るように、奏でていた夢が陳腐なもののように思える。歪みだらけの世界で何かを思い描くことなんてもうできない。


 無垢であることをやめた夜は同時に夢見る少女であることをやめたのだ。

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