4-21(幕間)
目を覚ましたとき、自分は岡山健に助けられたのだと聞かされた。
それを聞いて和音の中に広がったのは「やはり」という確信と諦念だけだった。
和音は春野家次期当主と言われていた時期がある。大好きで、憧れの父の後を継げることは和音の誇りで、向けられる期待すらも嬉しく思えた。
けれど、春野家を継ぐ人間として公表されたのは妹の星だった。より厳密に言うと星の婚約者となる人物が春野家の次期当主となるのだ。
その人物は公表されていない。まだ決まっていないのだと多くの者が婚約者の座を得ようと躍起とする中、和音はその人物のことをずっと前から知っていた。
彼が次期当主と定められるよりもずっと前から。
初めて彼と会った日のことは覚えている。
彼は一時期、春野家で暮らしていた。身寄りのない子供を父が引き取って面倒を見ることは珍しくなく、彼が違ったのはその存在を隠されていたことだ。
父がやたらと誰かを気にしていることには気付いていた。執務室の隣にその誰かがいることを使用人たちの噂で知った。
確かめたかった。多分、始まりは嫉妬だ。
父が仕事で不在なのを見計らって開けた扉。簡素な部屋の中でまだ小さい少年が眠っていた。
三つか、四つくらいだろうか。死人のように白い肌と小さな呼吸音に死んでいるのではと不安に駆られている。
慌てて駆け寄った和音が触れたと同時にその目は開かれる。
人形のような、無機質な瞳。感情が抜け落ちたその目に心臓を鷲掴みにされる。
「あなたは、王様の……?」
子供特有の高めの声が似合わない冷たい音を奏でた。
眠っていたときは年相応だった姿に中身が宿り、無機質な目が和音を射抜く。
年端もいかない少年の見た目をしながらその佇まいに幼さはない。何百年も生きてきたような老成した空気が和音の心を囚えた。
一目で分かった。父はきっと彼を次期当主にするつもりなのだと。
血反吐を吐くほど努力を重ねても、和音は彼に勝てない。分かってしまった。
その日から先、和音が積み重ねてきたものはすべて茶番だ。
無意味に努力を重ね、逃げるように海外へ留学した。春野家も、父も関係ない世界へ。
帰ってきたとき、何も変わらない自分に絶望し、足掻くように反抗した。
それで敵の手に落ちて、反発していた相手に助けられていたら世話ない。
「失礼します」
「和音か。身体は大丈夫なのか」
「お陰様で体調は元に戻りました」
親子にしては距離がある会話。父は歩み寄ろうとしていて、和音が自ら距離を作っているのは分かっている。
「あの、健はいますか……?」
「健? 隣の部屋にいると思うぞ」
和音が健の話題を出すとは思っていなかったのか、和幸は驚いた顔をしている。
無理からぬ話だ。和音は極力、健との関わり合いを避けてきた。逃げて、きた。
「珍しいな。健に何か用でもあるのか」
深くは聞かない和幸の気遣いに何ともいない複雑な感情が渦巻く。その感情から視線を逸らすように和幸からも視線を逸らす。
「助けてもらったお礼をまだ言っていなかったので」
逃げてばかりもいられない。少しずつでも向き合うことに前向きになっていかなければ。
遠くない未来、健は和幸の後を継ぎ、和音はその補佐をすることになる。
少しずつ歩み寄ろうとする和音へ向けるのは期待だ。和音にとって期待を向けられることは苦ではない。
むしろ、まだ期待されるところにいることに安堵する。
心配と期待の入り混じる視線を受けながら、健がいるであろう部屋の扉をノックする。
「どーぞ」
淡白な声が扉越しに小さく聞こえて、開けた。
「珍しーですね。何かありましたか」
迎え入れる健は特に変わらない。他の人たちにそうしているように和音へ言葉をかける。
声にも表情にも驚きすら映さず、日常の一部として和音を迎え入れた。
気にしていたのは和音だけだということを思い知らされる。
「お礼をまだ言っていないと思って。助けてくれてありがとう」
「律儀ですね。俺は俺の仕事をしただけですから礼は不要ですよ」
謙遜する健の姿はその淡白な声音もあって冷たい印象を与える。
人形や機械と言われても頷ける健が見た目通りの人物ではないことを、和音は長い時の中で教えられてきた。
ずっと目を逸らし続けてきたものが今は目の前にある。
「俺はずっと君に嫉妬していた。居場所を奪われたと子供じみた感情を向けていた」
紡いだ言葉は感謝とは程遠い。
無機質な目は突然の言葉に驚くこともなく、冷たいようで見守るような柔らかな熱をまとっている。彼はいつもそうだ。
「初めて見たときから君に勝てないと分かっていたから、嫉妬を向けるしかなかった。努力も意味がないと分かっていたら、逃げるしか、なかった」
選ぶような言葉を聞いて健は口を開き、和音は身構える。
「春野家に俺の居場所はありませんよ。今も、和音さんの居場所のままです」
感情を読み取らせない声音は機械的ながらも優しさを灯す。
遠く離れた位置から注がれる温かさが和音のよく知る彼の優しさだった。
「キングもそーでしたけど、俺に勝つ必要がどこにあるのか正直分かりませんね」
優しさを灯したのと同じ声で、和音の言葉へ冷たさを向けた。
「俺に勝って、何かが得られるわけじゃない。少なくとも和音さんの欲しいものは俺に勝っても手に入らない」
「俺の、欲しいもの?」
「王様からの愛情でしょう? それはもう、ちゃんと手に入ってますよ」
当たり前のようにそう言って、健は初めて表情を変えた。
笑みだ。悪魔の誘いに近い、恐ろしさをまとった笑み。
恐ろしいはずのそれは和音の中に恐怖心を生み出すことはない。ただ魅了された。
「王様が和音さんではなく、俺を選んだ理由って何か分かりますか」
「鬼神の宿主だからだろう?」
鬼神の宿主が春野家の当主になることは何十年も前から定められたことだ。
健が一時期、春野家にいた理由も宿主であることが関わっているのだと思う。
「それも理由の一つですけど、王様の心情はまた別にあります」
考えないようにしてきた和音の、父の心情を健はゆっくりと開く口で語る。
「和音さんは人を殺したことってあります?」
語るよりも先に健は変わらぬ口調で問いかけた。
何てことない口調で問いかけるものとは思えない問いかけ。どんな意味があるのか分からず、和音の中に湧くのは困惑だ。
「ない、よ」
「だからですよ」
含みのある言葉で片目を瞑る健。意味が掴められず、首を傾げる。
「春野家当主の仕事は貴族街の管理。貴族街の法の下に冷酷に、理不尽に人を殺さなければならないときもある。直接、手を下さずとも引き金を引いたことに変わりはない」
貴族街は日本の法律が使えない治外法権の土地。この地の法律は権力者たち。
上の都合だけで下の者たちを裁かなければならない。時に死をもって。
「春野家当主の手は多くの血で汚れている。そんな職業を大事な息子に継がせたくはないでしょう?」
「それを言うなら健だってそうだろう? お父様は他人の子供にでも愛を注げる人だ」
「それはそーですね。でも、俺の場合は少し違います。……俺の手はあの時にはもう多くの血で汚れていましたから」
過去を思い出すように目を細める健に何が映っているのか、和音には分からない。
その目にはやはり感情は映っていない。
あの時とは健が春野家に滞在していた頃のことだろう。健はまだ三つか、四つくらいだったはずだ。
その時点で血濡れていたというのは信じ難いものがある。
しかし、健の目は嘘を言っているようには見えず、あの時点ですでに完成されていた健ならばあるいはと考える心もある。
「もうすでに汚れた子供なら人身御供にはちょーどいーでしょう?」
残酷な言い方は和幸の印象を悪くさせるのとは別の意味がある。
「王様はそれでも優しーから、俺なんかのこと気にかけてくれてますけど。犠牲だなんて気にしなくていーのに」
健の言葉はすべて自分から周囲を遠ざけるためにある。遠巻きに言葉を選んで、相手の意識を少しずつ変えていく。今はきっと和音の意識を変えようとしてくれている。
和幸を優しいと評する健もやっぱり優しいのだ。
和音の心根を知って、関わらないようにしてくれていたように。
こうして掛け違えた親子仲を正しく掛け直してくれているように。
「和音さんは綺麗なままでいてください。汚れる必要がないなら、汚れなくてもいーんです。代わりに」
健はそっと手を差し出した。長い袖に隠された指が覗いている。
「表の仕事で助けてくれると嬉しいです。和音さんほど優秀な人が補佐してくれるなら助かります」
今の和音は春野家当主になりたいとは思っていない。根底あったのはきっと健の言う通り、和幸からの愛情が欲しいという気持ちだったのだ。
当主になれば欲しいものが手に入る気がしていた。けど、それは間違いだ。
愛情はいつだって傍にあって、それを見ないふりをして健を妬んだ。
和音は子供で、隣の芝生は青く見えた。ただそれだけの話で、向き合おうとすれば簡単に進む話で。
一歩、踏み出す覚悟の証として、和音は健の手を取った。その手の冷たさが和音の頭を冴えさせる。
「俺に楽をさせてくださいね」
「頑張るよ」
あの後、少し話して和音は別れた。数秒前に和音が出ていった扉を見つめ、ついと目を細めた。
「そろそろ隠れてないで出てきたら?」
言えば、廊下に通じている方の扉が開かれる。執事服をまとった人物は沈鬱とした表情をしている。
悠は和音が来た少し後に扉の前まで来ていた。扉を開けようとして、漏れ聞こえる話し声を聞いて入るのを止めた。
この部屋の壁は厚く、廊下から話を聞くのは不可能。とはいえ、悠なら声を拾うくらい容易いことだ。
盗み聞きをされていることに気付きながら健は和音との会話を続けた。
悠が部屋を訪れた理由は分かっている。身体の調子を見に来たのだろう。
先の一件で体調を崩した健はここ数日、寝込んでいた。怪我をしていないと思ったらこれである。
疲労が原因で、貧弱すぎる身体には本当にうんざりする。
「もう熱も下がったし、毎日来る必要はないと思うよ」
悠は健の主治医を自称している。自称しているだけで、医師免許を持っているわけではないが、その知識と技術は下手な医者よりずっとある。
「健兄さん……」
暗い表情と同じく暗い声が健を呼んだ。
珍しいことだ。基本的に悠は健が戯言のように言った設定を守り続けているから。
何故、そんな表情を見せているのか理解しながらも健は気付いていないふりを貫く。
「春野家にも岡山家にもないなら、健兄さんの居場所はどこにあるんですか」
「ないよ、そんなもの」
震える問いかけに当たり前のように言葉を紡いだ。
岡山家にとって健は異端だ。健がいない方があの家は上手く回る。健がいることで家族が苦しむのなら最大限距離を取る。そこに居場所は必要ない。
春野家の場合はもっと単純で、健は和幸に目をかけてもらっているだけの部外者だ。血縁ですらない健がこれ以上奪うわけにはいかないのだ。
居場所なんて必要ない。なくても困らないし、目的を果たすためにむしろない方がいい。
「処刑人は健兄さんの居場所ですよ。健兄さんが作った健兄さんの居場所ですっ。夜さんも、八潮さんも、僕だってそう思っています」
縋るような、泣きつくような声に悠を見た健はぎょっとする。
大きな目から滂沱と涙が溢れ出る。大きな粒が次から次へと零れ落ち、高価な絨毯に斑点を作った。
「何で泣いてるの?」
「健兄さんが居場所なんてないとか言うから、うわぁぁぁぁぁん」
声を上げて泣き出す悠。立ち上がった健は歩み寄り、抱きしめる。
自分より身長の高い弟を、背伸びして抱きしめる。
「ごめん」
「悪いと思っていないなら謝らないでください」
「……そーだね。もー謝らないよ」
口先だけの謝罪は時としてどんなナイフよりも鋭利な刃になる。
目的を果たしたその先で健は誰よりも悠を傷つける。どんなに泣かれても、悠の願いだけは叶えてあげられない。
だから今だけはと抱きしめる健は悠の頭を優しく撫でた。
血は繋がっていなくても、思い付きの設定だったとしても、悠は確かに健の弟なのだ。
「……健兄さん、熱下がったなんて嘘じゃないですか。本っ当に油断できませんね?」
「下がったのは本当だよ。またちょっと熱があるだけ」
赤くなった目に不満をまとわせて、悠は強く抱き返した。
「捕まえちゃったので言い訳は後でゆっくりと聞きますよ」
いつもの無邪気さを取り戻した悠の言葉に健は諦めたように目を瞑る。もう好きにしろと観念する。
正直、そろそろアカデミーに復帰したいところだが、今日は聞き入れてもらえそうにない。
特別授業は失格扱いになったので、今は堅実にポイントを溜めるしかない。頭の中で効率よくポイントを集める方法を考えつつ、今は悠に身を委ねた。
4章はこれで終わりです