4-15
ふわりと鼻先を擽った薄紅の花弁。無機質な目がそれを追って、先にある大きな木を見つけた。
何人かの人が両手を広げてようやく収まるくらいの木は薄紅で彩られている。桜の木だ。
「下ろしてください」
突っぱねるのと違う言葉に言われるがまま、健を下した。
地面に足をつけた健は危なげない足取りで桜の木へ歩み寄る。ちらちらと小さな花弁を零す木の幹に触れて瞬きを一つ。
「アカデミーにあるものと同じですね。これにまつわる逸話となると……鬼神、心当たりある?」
〈ふむ、あれと幾度か言葉を交わしたくらいだな〉
鬼神の言葉を聞いて、また健は瞬きをした。その一拍の間に健の頭は凄まじい勢いで状況を分析して組み立てていることだろう。
「海里さん、さっきゆっくり話せる場所が――って言ってましたよね」
「え? ああ、うん。言ったよ」
首を傾げた海里に健は納得したように頷いた。
「一先ず、情報交換といきましょーか。話せる場所を用意してくれたみたいですし」
詳しい説明のない言葉。反感を覚えて、説明を先にしろと迫る人もいるだろう。
海里はそうしない。素直に頷いていつもの笑顔を浮かべる。
そこにあるのは人柄を知っている故の信頼と、並外れた能力を知っている故の信用だ。
「正直、海里さんが来るとは思っていませんでした。レミさん辺りが派遣されてくるかと」
「レミも来てるよ。今はバラバラになっちゃったけど」
「ああ。触れてたら一緒に飛ばされる可能性もありましたけど、やらなかったんですね」
「リスクがまったくないと言えなかったからね。レオンは心配性だから」
一緒に飛ばされる可能性。一緒に飛ばされない可能性。
飛ばされないにしても、触れている部分がどうなるか。そのまま一人ずつ飛ばされたらいいが、触れている部分が切り離されて飛ばされる可能性も十二分にある。
処刑部隊の面子は治癒の術の長けていない。少しのリスクも海里に負わせたくないという過保護な発動された結果だった。
「心配性なら海里さんが行くこと自体、渋りそーですけど」
「実際、渋ってたよ? でも、ほらレオンは俺に甘いから」
「うわあ、この人、性質悪いなあ」
周囲から向けられる愛情も理解して利用している。計算高さとは異なる強かさはただ自分の欲を満たすだけのものとは違う。だから、健は性質が悪いと称した。
「健君には言われたくないよ」
健もまた周囲が向ける感情も巧みに利用する性質だ。
愛情ではなく感情であり、利用の仕方は海里とまったく違う。もっと利己的で、どこか優しい。
「海里さんとレミさん。後は、夜と悠の辺りも来てるか。他には誰が?」
「後は星司と優雅君かな」
「なるほど」
予想外だっただろうに驚く素振りもなければ、不満の色もない。
情報の一つとして咀嚼して、巡る思考の糧とする。感情を切り捨てた機械のように。
「健君の方は何か情報掴めた?」
健の見解が聞きたい。それが海里が健に会いたいと望んだ理由だ。
戦力的不安から早く合流したい人はいる。それ以上に健と合流して、健の作戦に協力した方がより早く事件を解決に導けると思ったのだ。
ここの時間の流れ方は分からないが、健はこうして合流までの時間を無為に流すタイプではない。
「目新しい情報は特にありませんが、そーですね。時間はあったので考えをまとめるくらいは……」
そんな前置きとともに健は話し出す。
「この事件の犯人は容姿にコンプレックスがあるようですね。男女の複数人、二、三人くらいですかね」
「紫苑さんの調査だと男女の二人組って話だったよ。後は神具を三個持ってるとか」
「ああ、調べていたんですね」
知らなかったらしい健の言葉。紫苑もとい夜自身も教えていないと言っていた。
「処刑人って健君中心で回っているのかと思ってたよ」
「組織というわけじゃないのでこんなものですよ。俺が指示しなかったから報告されなかった。分かりやすくていーでしょう?」
成功も失敗もすべてが健の責任になる。確かに分かりやすい。
それでうまく回っているのは健の頭脳と、協力者たちが等しく健に強い信頼を持っているお陰だろう。いろんなものが上手く噛み合っているのだ。
「神具が三個か。俺の見立てと同じですね。流石、夜だな」
当たり前のように知らされなかった事実を情報として取り込んでいく。
不確かだった推測に実態を持たせていく。
「おそらく犯人の許には神具が三つ、妖具が一つあると思われます」
「妖具も……大判振る舞いだね」
「まぁ、自分が動けない分、そっちでサポートしよーって考えなんでしょーね」
変わらない口調に仄かな苛立ちを宿らせる健。
いつも巧みに己の感情を隠している健にしては珍しい。
「この件には帝天が深く関わっています。先の一件で消耗して直接の関与はないとは思いますが」
神具が関わっている以上、帝天の関与は予想していた。
創造神たる帝天。健と折り合いが悪いことは度々、見せる態度からも推測できる。
「帝天は望む容姿が手に入るって言って誑かしたんでしょー。渡された神具を使うには霊力が多く必要になるので、それを集めるために他二つの神具を渡したのかと」
一つは肉体を入れ替える神具。肉体を入れ替えるともなれば、多くの霊力を消費するであろうことは想像に難くない。そして残りの二つは――。
「気配を消すのが一つ。霊力を吸い取り、溜めるものが一つ。こちらは遠隔で操作できるものでしょーね」
「じゃあ、この空間を作り出しているのは……」
「妖具ってことになりますね」
てっきり神具だと思っていた。
処刑部隊がこの事件の調査をしているのは、史源町に持ち込まれた神具を突き止めて回収するためだ。そこに妖具も絡んでいるとは考えてもいなかった。
妖具と神具はよく似ている。違いは、帝天が作ったものである故に神器は理に触れることもできるというくらいだ。
「俺も最初は神具だと思っていましたが、海里さんの話を聞いて変わりました」
どの話がそれにあたるのか、思い当たるものがない海里は首を傾げた。
「海里さんがここに来るまでの話ですよ。鬼神と話していたでしょう?」
「聞いてたの?」
「鬼神と俺は感覚器官を共有していますから。眠っていても朧げに記憶には残っているんですよ」
自分の記憶にない記憶というのは恐ろしいもののように思える。知らないうちに記憶が増えていれば、自分の行動に疑問を覚えることもあるだろう。
しかし、健はまったく気にしていないようで、当たり前のように振る舞う姿には宿主と神の繫がりの深さが感じられる。
藍髪の子は龍王の宿主なんて言われてはいるが、海里には今のところ縁のない話だ。
「まあ、朧げなので確信を持てたのはここに来る前の海里さんの言葉のお陰です」
「来る前……あ、さっき確認してたのってそういうことだったんだ」
この空間に辿り着いてすぐ、問いかけられたことへの謎が解けた。
「この妖具は龍王が残したものだと思われます。だから海里さんの言葉に応えるように動いたんでしょー。龍王の妖具はご存知の通り、藍の子には優しいですからね」
藍の子。武藤家出身の藍髪の者はみな、そう呼ばれている。
数十年に一度現れ、武藤家を繁栄へ導くとされて丁重に扱われている。海里は故あって武藤家で暮らした時間は一年足らずで、それでも藍の子には変わりない。
その証明、健の言葉の証明は海里が愛用している武器、龍刀がしてくれる。
持ち主の意思に応える刀は藍の子だけが扱える妖具だ。
「万物を紡ぐ能力らしい妖具とも言えますね。龍王由来なら出来損ない神にまつわる話があっても不思議はありませんし。……あれが手を加えているよーですが」
何かあったらしい健の言葉には棘がある。先程よりも冷静さを残す健は言葉を続ける。
「敵を永遠に彷徨わせるのにも、目的の人物だけを自分の許へ招くにしても便利な妖具ですね」
「目的の人物を招く……もしかして和音さんたちを誘い出したのはそれが目的?」
「ご明察です。敵拠点に行って行方不明ともなれば、来ると見込んだってところでしょー。そして、それは間違っていない」
「今いる中に目的の人物がいるってことか」
可能性として一番高いのは健だろうか。健と帝天の確執なんて表現したが、帝天は度々、健の命を狙っている。今回もその例に漏れないはずだ。
「犯人の目的は海里さんと夜――紫苑の二人だと思われます。ついでに俺ってところですかね」
「ついでなんだ」
「整っている方ではありますけど、俺は身長が足りないので。あれの命令と、霊力を搾り取るためってところだと思われます。ちまちま集めるより手っ取り早い」
健の霊力総量がかなりのものであることを海里は知っている。
町一つを浄化し、神が作った軛を打ち直してようやく尽きるくらいの量である。
神具を使うのにどれだけの霊力が必要かは分からないが、健一人いれば十分だろう。
「紫苑さんは分かるけど、どうして俺が……」
「海里さんも十分整った顔立ちしてますよ? ……まあ、ランキングですよ」
「ランキングってもしかしてサイトの?」
盗撮した写真が販売されていたサイトには人気ランキングというものがあった。
海里は特に気にしていなかったが、あれにも意味があったのだ。健がサイトを見ていたのは海里よりもずっと短い時間だったはずなのに流石の一言だ。
「金銭目的でないのなら他に盗撮写真を売る理由があります」
「あ、なるほど。盗撮は器探しの意味もあったのか」
容姿端麗な人ばかりを狙っていた理由も頷ける。
ランキングはより多くに好かれる容姿を知るためにあったのだ。
犯人が持つ容姿へのコンプレックスは他者から与えられたものなのだろう。
「海里さんは男性部門の一位でしたよ?」
悪戯めいた笑顔と楽し気な声音に彩られた声に半眼を返す。
「素直に喜びづらいなあ」
ともかく、自分が犯人の狙いである理由には納得した。
それが盗撮写真の販売数ランキングでなければ、もう少し喜べたのだが。
「でも紫苑さんは盗撮されてないよね?」
「まあ、彼女の美しさは誰が見ても一目で分かるものですから」
確かに、と頷く。美男美女に免疫のある海里でも思わず目を奪われるほどの美貌。
彼女が持っているらしい特殊な体質を差し引いても、申し分ない美しさだ。
「健君の口からそんな言葉が出るなんてちょっと意外だよ」
「そーですか?」
惚ける声はいつも通りで笑ってしまう。健の掴みどころのない、はぐらかすような態度は作り上げた虚像を守るためのものなのだろう。
誰よりも強く見える少年の弱いところを見つけて海里は笑う。
敏い黒目は海里が笑う意味に気付いて不満を視線に灯した。
「一先ず、ある程度の情報交換は終わりましたし、その先は歩きながらしましょーか」
「身体はもう大丈夫なの?」
「話している間に十分休めましたよ」
今度は無理しているわけではなさそうだ。とりあえずは信用しようと健の言葉に乗っかる。
「そろそろ犯人に近付きたいところですね」
呟きはまるで誘導しているようで海里は息を零す。
「そうだね。次の部屋くらいに来てほしいなあ」
妖具が言葉通りに導いてくれることを信じて、二人は歩き出した。