4-12
立つこともままならないほどに焼け爛れた足を気にも留めず、悠は変わらず無邪気で笑う。
本当は怪我などしていないのではと疑ってしまうほどだ。
「何があったんだ」
煉鬼もまた悠同様に怪我はないような態度で問いかける。
心配しているのは星司ただ一人だけ。下手すれば、もう二度と歩けなくなる怪我だというのに痛がる素振りすらない。
「この部屋に飛ばされたと同時に木にくくりつけられたんです。火までくべられちゃって大ピンチでした。煉鬼さんが来なかったらどうなっていたか戦々恐々ですよ」
「そういうトラップもあるのか」
「僕がたまたま条件を満たしたからってのが一番大きいでしょうがっ」
考え込むような煉鬼へ、悠は無邪気を返す。意味もなく付け加えられた言葉に無反応なことにどこか不満げな様子である。
「ジャンヌ・ダルクって名前、星司兄さんなら聞いたことあると思います」
「確か、フランスの英雄とかっていう……」
「です。いろいろあって、処刑されて、十九年の人生を終えることになった方です」
ジャンヌ・ダルクといえば、ゲームで度々登場する偉人だ。友人にすすめられて、始めたゲームにも出てくるので、軽い知識程度には知っている。
しかし、それが今、何の関係があるのだろうか。
「ジャンヌ・ダルクが処刑される決定打となったのが異性装していたことらしいですよ」
「それで何で悠が?」
条件を満たしたから、と悠は言った。けれど、それのどこが満たしているというだろう。
異性装も何も、悠はまごうことなき男であるはずで――。
「簡単な話です。僕が男装麗人だからですよー」
いつもと変わらない調子で口にされた言葉は星司の思考に空白を生んだ。
知らない。知らないことはたくさんあると思ってはいても、これは予想していなかった。
十年以上、共に暮らしていたのにまったく気付かなかったなんてことあるのだろうか。
「えへへ、その顔は気付いてなかった奴ですねぇ」
「なんでっ、そんな……」
「だって、そっちの方が健兄さんの近くにいられるじゃないですか。健兄さんの弟であることは僕の誇りですもん。そのためにぃ王様に戸籍を弄ってもらいました」
悠の言葉に違和感を覚えた。隠すように忘れた記憶が疼いて、人形めいた表情を宿した幼子が脳裏を過ぎった。
「いつから、だ?」
「最初から、ですよ」
片目を瞑った答え。
最初。最初とはいつだろう。悠が生まれたとき? いや、違う。
答えを求めて、記憶を掘り起こす星司の心が真実に触れた。
星司は悠が生まれたときのことを知らない、と。
健が、悠が生まれたとき、星司はまだ一歳だった。覚えていなくても不思議はない。
今、星司が言いたいのとはそういうことではない。幼少期、悠と共に過ごした記憶が、ある時期から先がすべて抜けている。
「お前は一体、どこの誰なんだ?」
「僕は健兄さんの弟です。あ、今は執事ですかね」
飽くまで惚けるつもりらしい悠の言動はまるで空気を読まない。
シリアスをまとった問いかけを無邪気で強引に塗り替えた。
「悠。俺は幻鬼と違って空気を整えるのは得意ではないんだ。あまり掻き乱さないでくれ」
「むぅ、心外ですよ。僕はただ事実を言っただけです」
不満げに返す悠の興味が星司から外れる。
触れたくない真実に向き合わなくて済んだことに星司は心から安堵する。
知らなくても、今まで問題なかったのだから、これからだってそれで問題ないはずだ。
「――あの家の異端は健兄さんじゃなくて僕なんですよ」
聞こえた小さな声は逃げようとしている星司の心を咎めるように重く響いた。
「さて! ここでずっと話しているわけにもいきませんし、そろそろ出発しましょう」
「出発ってお前、その足じゃ――」
言いかけて星司は傷一つない悠の足を見て、続く言葉を呑み込んだ。
履いていたズボンは焦げて、膝から下が剥き出している。それはいい。
問題は剥き出しになっている足の方だ。少し前まで焼け爛れていたその足は綺麗な状態で、元の姿を完全に取り戻している。
「ズボンが焼けちゃって恥ずかしいので、そんなに見ないでくださいよぅ。エッチ」
ころりと態度を変えた悠は星司のよく知る悠だ。
無邪気で、マイペースに空気の読まず自由に掻き回す。どこか健に似ていて、下位互換の域を出ていない。その差に安心する。
「次はどんな仕掛けが待っているんでしょうね。心強い味方がいるので、どんなものでもどんと来いですけどっ」
自分が作り出した不穏な空気を明るいものへ変えるように悠は言葉を重ねる。
「後は僕らが知っている話がモチーフになっていることも祈るばかりですね!」
「……今までの奴らには元ネタがあったのか」
「ああ、そういえば煉鬼さんはずっとここにいるんですもんね。ここはちょっと情報共有するべきです?」
立ち向かってくる敵を残らず、燃やし尽くしてきた煉鬼へ、現状分かっている情報を話す。
知らないまま、ここまで無傷で生き抜いてこられたのは実力もさることながら、運がよかったのだろう。
潜入して早々、煉鬼と合流できた星司も運がいい。処刑されているところに星司たちが来た悠も運がいいと言える。
ここにいるのは運がいい人物ばかりだ。敵の拠点に乗り込んでいるのだから、運がいいにこしたことはない。
「童話か。生憎、俺は疎くてな。お前たちは詳しいのか」
「俺はあんまり。一応、ここに来る前ちょっと調べはしたけど有名なのくらいしか……」
「僕もそんな感じですかね。健兄さんとよ、紫苑さんの受け売りでちょこっと詳しいくらいです」
紫苑の名を聞いた真紅の目が細められる。
「紫苑とやらは信用できるのか」
「王様は信用すると決めたみたいですよ?」
その一言だけで煉鬼の視線に宿っていた疑念が納得へ変わる。
王様こと和幸は紅鬼衆の主だ。主が決めたことなら従うということだろう。
煉鬼はそれでよくても、下手に積み重ねられた星司の中の疑念は消えないままだ。
「紫苑さんは疑われてばっかりですねぇ。格好も言動もやたら怪しいから……あっつ」
次の部屋の床を踏んだ悠が熱風に煽られて顔を顰める。燃え盛る炎が掠めた鼻先を触りながら、悠は数歩後退る。
「なんというか、今日は火に縁がある日ですね。赤鼻になっちゃいましたよ」
赤くなった鼻を恥じるように撫でる悠。その横で煉鬼は炎が揺らめく石を取り出す。
「ちょっと待ってください。もう少し情報収集を……」
悠は再び炎が燃え盛る部屋を覗く。大きくて丸い悠の目は仄赤く照らされながら、冷静に情報を分析する。
そこにいるのは星司のよく知る無邪気な弟ではなく、健の協力者だった。
「ふむふむ、なるほど。むぅ、あんまりこういうの得意じゃないんですけどねっ」
「何か分かったのか」
「まあまあ、見ててください」
そう言って、手を翳した先で悠の霊力が渦巻く。
やがてひとまとまりになって、着物をまとった女性を朧げに作り出す。ぼやけた輪郭の女性は押し寄せる熱に喘ぎ、声なき声で絶叫をあげる。
狭い部屋の中を荒れ狂う炎が容赦なく女を焼く。まとっていた衣が焼け落ち、白い肌が呑まれていく。美しい黒髪を振り乱すその姿を悠は冷静に見つめている。
いや、悠が見ているのはその先だ。部屋を区切るような御簾の向こうに誰かが立っているのだ。
「煉鬼さん」
「ああ」
炎に呑まれた女の最後を見届けた悠の言葉に、煉鬼の持つ玉が鈍く光る。
赤く輝く煉鬼の目に応えて、部屋を満たしていた炎はうねりに動く。火の粉の一欠片まですべて玉が吸い込んでいく。
「さて、と先へ進みましょう」
一人だけすべてを理解している悠は一歩前に出る。黒く焦げた部屋の中を先導するように進み、くるりと振り返る。
「これは理想を叶えるために溺愛していた娘をも犠牲にした絵師のお話です」
無邪気に告げる悠の目はどこか遠くのものを見ているような気がした。
大きな目は哀切をはらんで、誰かを映し出している。きっと星司もよく知る人だ。
「僕にはちっとも理解できないことですね。――僕は絶対に一番大切なものを犠牲になんてしません。最後まで守り通します」
冷たく言い切った悠は迷いのない足取りで小部屋を抜け、ぽつんと残された絵の前に立つ。
「こんなもののために……くだらない」
吐き捨て、悠は巻き起こした風で絵を切り裂いた。
女が炎に呑まれた姿を恐ろしいほどに緻密に描いた絵はちりぢりになった風にとけていく。
娘を犠牲にしてまで描かれた絵の呆気ない最後。それを自ら作り出した悠がどんな表情をしているのかは、星司の位置からじゃ見えない。
「大切なものは大切にするべきですよ」
当たり前で、でも難しい事実を告げる声は星司の中で重く響いた。