4-10
この世にはその存在が原因で国が傾けるほどの美女が存在するらしい。
空想の存在だと思っていたその人物は今、目の前に立っている。
完璧に整ったパーツが集って作られた総合芸術。神が作り上げた最高傑作。
長い睫毛で縁取られた目が優雅を見つけ、赤い唇が笑みを蠱惑的に彩る。
「来たのね」
たった四つの音すらも流麗なメロディーと思わせる声が耳を擽った。
「夜さんが優雅さんを唆すとは思いませんでした」
「唆すなんて人聞きの悪いことを言うわね。少しアドバイスしただけよ」
のらりくらりと躱すように返す少女に悠は頬を膨らませる。
表情にも雰囲気にも無邪気に以外のものは感じられず、思っていたよりも怒っていないことに安堵する。
仕組んだのが彼女だからだろうか。健の協力者という言葉を証明するように悠は彼女へ強い信頼を寄せているようだ。本人が名乗っていた紫苑という名と別の名を呼んでいることも含めて。
「ごめん。少し遅れたかな」
そんな言葉とともにからかう紫苑と不満げな悠という構図に割って入ったのは藍髪の少年だ。
優雅の友人の兄である武藤海里だ。後ろにはレミと星司もいる。
無邪気を映し出していた瞳が星司の姿を認めたと同時に刹那だけ冷え込む。
「海里さんが来るとは思いませんでした。学校はいいんですか」
今日は平日なので、普通なら学校がある。優雅は特別授業の延長線上になるよう、和幸が取り計らってくれた。
元々、アカデミーは制度的に一日休んだところで大きな支障はない。
「大丈夫だよ。処刑部隊の仕事は学校よりも優先順位は上だから」
「その割り切り方は好きですけど、周囲の方々は不満でしょうね。……星司兄さんは何故ここに?」
「健の安否が分からないって聞いて……俺の実力じゃ大して役に立たねぇだろうけど」
「心配だから、ですか。相変わらず、ブラコンですねぇ」
一瞬だけ見せた冷たさを無邪気で覆い隠して、悠は星司と向かい合う。
変わらない、いつもの悠だ。だからこそ、優雅はそら恐ろしさを感じる。いつも通りなのに、いつもと違う空気が流れている気がする。
どこか緊迫した空気を感じ取ったのは優雅だけではないらしく、海里が助け船を出そうと――する前に厚底のブーツが地面を叩いた。
「武藤海里さん、レミさん、岡山星司さん、初めまして。私のことは紫苑と呼んでくださいな」
優雅の前に現れたときと同じようにドレスの裾を軽く持ち上げて礼をする。
まるで悠のことが見えていないように、空気をすべて自分のものに塗り替える。今日は不思議とあの甘い香りがないのに、その存在感は抜群だ。
「初めまして、貴方が連絡をしてくれた方ですね」
「ええ。協力感謝するわ」
「今回の件は処刑部隊の仕事でもありますから。むしろ健君たちが協力してくれることに俺の方が感謝したいくらいです」
魔貌とも言うべき美貌を前にしても海里は調子を変えない。多くに向けるものを同じ穏やかな笑みが紫苑にもまた向けられている。
きっとこの人は誰に対しても同じだろう。弧を描いた紫苑の唇がそのことを喜ばしく思っているのか、はたまた逆なのか、優雅には分からない。
「そろそろ出発しませんか。一秒無駄にする毎に健兄さんの命が危うくなりますし」
「あら、健なら一秒程度大したことはないでしょう。今にすべて解決して出てくるかもしれないわ」
「そうかもしれないですけど! そうじゃないかもしれないですよ!?」
「悠君の言う通りだし、そろそろ出発しようか。場所は紫苑さんが知ってるんですよね」
妖艶に頷く紫苑は先導するように歩き出す。からかうように隣を歩く悠と何か話しており、不満を訴える無邪気な声が聞こえてくる。
星司と共に少し遅れて歩き出した海里がそれを見て笑い声を零す。
「どうしたんだ?」
「いや、健君の協力者なだけあって紫苑さんは侮れない人だなと思って」
笑みを含んだ調子の海里に周囲が向けるのは疑問の視線だ。
紫苑だけが続く言葉を微笑とともに待っている。
「俺らは健君の交友関係を知らない。協力者なんて言われても本当か嘘かは分からない。突然現れて、協力者を名乗る人物なんて警戒の対象だ。それを理解して、悠君を連れて来たんだろうなと思って」
悠が親しくしている姿を見れば、不要の警戒だと言葉よりも理解できる。
すべてとは言えないが、悠は表でも裏でも健の交友関係を把握している。その悠が普通に接していることが何よりの証明だ。警戒される可能性も含めて、それらすべて考えて動いていたのなら確かに切れ者だ。
「貴方も貴方で中々ね。可愛い顔に騙されるところだったわ」
「……。俺はまだまだ足りないところばかりです」
可愛いという部分に複雑なものを滲ませ、海里は謙遜を口にする。
「あら、私の思惑をわざわざ口にした意図に気付かないとでも?」
「意図なんて大層なものは……。ただ空気が悪いままもよくないですからね」
「頭のいい人たちの会話って僕たちみたいな凡人にはちんぷんかんぷんなんですよね。まさか海里さんもそっちのタイプだとは思いませんでした」
どこか緊張した空気は海里の言葉を証明するようにどこか緩んだように思える。
良が凄い人だと、憧れだと言っていた人物は優雅の目で見ても明らかなほどに凄い人だ。
短い時間でもそれが分かる。何でもない顔で周囲の空気を変える姿は健と重なる部分もある。
無意識に多くの影響を振りまける人だ。優雅には一生届かない領域のもの。
暗い気持ちを膨らませて見つめる優雅の目と隻眼がかち合う。見つめていたことに気付かれたと跳ねる心臓を知ってか、知らずか、海里は微笑んですぐに目を逸らした。
そのことに安堵してしまう自分が情けない。
「ここね」
思い悩む優雅を他所に一行は目的の家に辿り着いた。
外から見る限り普通の家にしか見えない。本当にここが犯人の拠点なのかと疑いたくなるほどだ。
「ここからは危険ですから、みんな気を引き締めてくださいね」
無邪気な声に頷きながら、普通の一軒家に入るとは思えない緊張感で足を踏み入れる。
間隙、誰かの手が優雅の手を握った。
「えっ?」
驚きの声とともに視界は黒に呑み込まれる。柔らかく、冷たい手の感触は刹那だけ闇に呑まれた視界が晴れた頃にはなくなっていた。
「私たちは一緒みたいね」
聞こえた声はその姿を見えなくても誰か教えてくれる。
白黒と統一されたドレスをまとった絶世の美女。鎖をあしらったデザインはまるで拘束具のようだ。
まとうドレスは対照的に魔貌を彩る笑みは自由な自我を象徴している。
「知っていたんですか」
未だに感触の残る掌を握りしめて、妖艶な笑みを浮かべてばかりの紫苑の出方を待つ。
どこか健に似た人だから誤魔化されるかもしれないと考えながら。
「いいえ。ただの実験よ。触れていたなら一緒に飛ばされるかもしれない。五分五分の可能性を試しただけ」
拠点に足を踏み入れた瞬間、バラバラの場所に飛ばされるという話を芳鬼から事前に聞かされている。
あの場に紫苑はいなかったが、当然そのことを知っているはずだ。
「どうして俺を選んだんですか」
「貴方を導いたのは私でしょう。最後まで責任は持つわ」
向けられる微笑みで、やはり自分は足手纏いなのだと自覚する。
落ち込むわけにはいかない。分かっていてついて来たのだから。
沈みそうになる気持ちを切り替える優雅の横で視線を動かした紫苑が目を細める。
目の前に広がるのは海だ。広い海の向かう側に島があるのが見える。
頑張れば、泳いで渡れそうな距離ではあるが、海面から覗く背びれがそれを許さない。
無数の背びれは大量の鮫がいることを知らせる。
「そこの鮫さん。貴方たちと私の仲間、どちらが多いか比べてみない?」
何をモチーフにしたのか考える優雅を他所に紫苑が問いかけた。
悠々自適泳いでいた鮫の一匹が美しい声音を聞き入るように動きを止めた。
「貴方たちがあの島まで並んでくれたら、私たちが上を跳んで数を数えるわ」
「分かった」
頷くような動きを合わせて、海水が大きく波打つ。
紫苑と言葉を交わした鮫は身を翻して、仲間たちに伝えるために動く。間もなくして鮫たちが島への道を作るように並んでいく。
いくつもの背びれが同時に動いて列を作っていく様は壮観だ。大量の鮫に出会うことも人生でそうはないことなので少し新鮮でもある。
「さて、と渡りましょう」
妖艶な微笑みとともに鮫の背を渡ろうと足を踏み出しかけ、逡巡のうちにブーツに手をかける。
まとうドレスと同じように鎖があしらわれたブーツを脱ぎ、剥き出しになった足で鮫の背を踏む。
ドレスの黒とは対照的に白い足が鮫肌に触れる。ざらついた肌で足が傷つくことを恐れない足取りで一匹、二匹と歩いたところで立ち止まり、優雅の方を振り返った。
「さあ、貴方も。二人で数えた方が確実だわ」
あくまで数を数えるというポーズを貫くようで、それに乗っかる形で優雅も鮫の上に乗る。
元々、人が歩くことを想定していないので当たり前だが、バランスを取るのが難しい。
足を踏み外した先は海なので一歩一歩確かめるように歩いていく。紫苑にならって靴は脱いでいる。
迷いなく歩いていく紫苑が少し早く島に辿り着いて、次いで優雅の足も地面を踏んだ。
足の裏を軽く払って、ブーツをはきなおす紫苑の赤い唇が蠱惑的に歪む。
「騙されてくれてありがとう」
嘲笑を含んだ声に、鮫の巨体が影を作る。鋭い牙がいくつも並んだ口が二人を食らおうと大きく開かれ――。
「起動」
小さな囁きが聞こえたと思えば、鮫の身体を切り裂かれた。
無残な姿で着水した同胞の姿に怯んで後退る鮫たち。鉄臭い液体が透明だった海水を汚していく。
「あれが次の扉のようね。行きましょう」
辿り着いた島のその先で扉だけが立っている。所謂、ど〇でもドアのような形だ。
原始的な空間の中で突如現れた扉は異質そのものだ。
鮫から扉へ完全に意識を移した二人の耳が水音を捉えた。狙い目だと判断したらしい鮫の存在に気付いた優雅は剣の柄に触れる。
今回のことで和幸が貸してくれた真剣だ。鞘から抜こうと触れたはずなのに躊躇が生まれて上手くいかない。
「起動――氷雨五%」
肝心なところで怖気づく優雅の代わりに呟かれた声。
海の上に浮かんだ無数の氷柱が鮫を目掛けて降り注ぐ。氷柱が触れた先で海水が音もなく凍りついていく。あれではもう襲い掛かることもできないだろう。
「怖い?」
美しい声の問いかけは逃がさないように優雅の鼓膜を捕らえる。
「別に恥じることはないわ。それは刃の重さを知っていることだもの」
慰めるようなその言葉には心を柔らかに包む情が宿っていない。
どこか淡白さを感じさせる声音の紫苑は柄に触れたままの優雅の手に触れる。
細いその指先の冷たさを味わうのは今日二度目だ。
「健を刺した感触がまだ残っているのね」
「っ……知っているんですか」
「ええ。私もあの事件で動いていた一人だもの」
春ヶ峰学園に入学してすぐの話だ。優雅は兄に唆されて健を刺した。
いや、唆されたなんて言い訳だ。期待に答えることしかできない自分を見て見ぬふりをして、自由で周囲に恵まれた健を羨んでいただけ。
嫉妬の熱に浮かされて、この手で健を刺した。その感触、漂う鉄の香りも、生々しい赤色も、まだ鮮明に残っている。
「過去の過ちに心を震わせて、二度と味わいたくないと閉じこもる。思い出しただけで傷口を抉るものに触れないようにする。どちらも正常な反応ね。悪いことじゃない」
「でも健は――」
「貴方は健になりたいの?」
宝石を嵌め込んだ目で射抜かれる。その目は決して優雅を責めるものではなかったが、何故か責められているような気分になった。優雅の心の弱さが原因だろう。
「――なれないわ」
残酷な真実を淡白に、美しすぎる声が告げた。
「貴方は健にはなれない」
「そんなの……分かっています」
「いいえ、分かっていない。健になることは誰にもできないわ。並び立つことだって」
健がそれくらい規格外の怪物だと優雅も知っている。
努力を重ねてキングになった優雅には絶対に届かない領域だ。
目の前に立つ少女や、いつも健に付き従う悠のように協力者になることすらできない。
「私は健に頼まれてここに来た。悠は健を助けたくてここに来た。武藤海里とレミは仕事だからここに来た。岡山星司は言い訳のためここに来た」
暗い気持ちの胸に落として、俯きそうになった優雅を叱咤するよう並べられる言葉。
最初は意味が分からなくて、困惑とともに紫苑を見た。
「貴方は?」
「え?」
「貴方はどうしてここに来たの? 私に言われたから、だけではないでしょう?」
咄嗟に答えが出て来なかった。
別に優雅が来たからといって戦況が有利になるわけではない。むしろ足手纏いになる可能性が高い。
たった一人だけ特別授業に合格したことに負い目を感じたからか。それもある。
考えて考えて辿り着いた先にあるのは優雅が健の友達を名乗る理由だ。
「俺は健に恩を返したい。健の力になりたいんです。でも、俺にはいろんなものが足りない。だから少しでも経験を積みたい」
健は一桁の年齢の頃から処刑人をしているという。何にも動じないあの姿は元の性格だけではなく、長年の経験もあるのだろう。
箱入りのような世界に暮らす優雅にとって今はなかなか得られない貴重な機会なのだ。
「並び立つことができないとしても諦めたくはない!!」
見つめる闇色の目は値踏みしているようだ。静かで、すべての見透かしているようなその目はどこか健に似ている。それだけで健が彼女を見出した理由が理解できた。
健に似た目を持つ少女に、情で訴えてもきっと意味がない。そのために言葉を重ねたわけでもないし、紫苑が問いかけたのも納得させてほしいからではないのだろう。
優雅の心を整理させるための問いかけだ。
「欲深いことね。嫌いじゃないわ」
それだけ呟いた紫苑の目は優雅から扉へ、映し出すものを変える。
「一つ教えてあげるわ。健が動じないのは強いからじゃない。むしろ逆よ」
「……え?」
零れた声を背中で聞く紫苑は反応を見ずに扉の中へ消えていく。
闇に消えていく白い指先を追いかけるように優雅も足を踏み出した。
相変わらずの不定期更新だと思いますが、今年もよろしくお願いいたします