4-9
芳鬼と別れてからどれくらい経っただろうか。
この空間にいると時間の感覚が狂っていく。寝る時間も食事時間も毎回違う健の体内時計はそもそもあんまり当てにならない。
スマートフォンで時間を確認するが、示された時間が正しいという確証もない。
現実世界から隔離されたこの場所が、外と同じ時間の流れ方をしているとも限らないのだ。
妖界は人界よりも時間の流れが遅い。健と馴染み深い例の空間は逆に流れが速い。
ここがどちらなのか、はたまた貴族街のように同じ流れ方なのか。
「分からない以上、あまり長く休憩してられないかな」
自分の体力のなさは誰よりも理解している。長期勝負になりそうなときはこまめな休息が必要になる。
幸い、一度クリアしてしまえば安全なので、いい感じに休めている状況だ。
「本当はもうちょっとゆっくりしていたいけど、和音さんのこともあるし」
独り言を呟きながら立ち上がる。
紅鬼衆最強の煉鬼は放っておいても問題ないだろうが、和音に関してはそう言えない。
留学という形で逃げ続けていたお坊ちゃんだ。剣術の心得はあっても実戦経験はない。
「せめてキングくらいの腕前だといーな」
健は和音の実力を知らない。噂を少し耳にしたくらいで和幸から聞いたこともない。
そもそも和幸は健の前で和音の話をあまりしない。気を遣っているのだろう。
健ではなく、和音を。あの親子は不器用すぎて面倒臭い。
「俺も面倒見切れないよ……。まあ、俺のせいなんだけど」
きっと健がいなければ、二人の関係が拗れることもなかった。
自分が壊してしまった世界の一つを思い浮かべながら次の部屋に進む。
「これは……」
さしもの健も困惑して目の前の空間を見つめる。
目の前にいたのは一匹の豚だった。まるまる太った豚はおそらく食べ頃だろう。
入り口にはご丁寧にナイフが置かれており、あの豚を殺すことを示していた。
「豚を殺すのは初めてだなぁ。うさぎとかなら捌いたことあるけど」
いざという時のためにサバイバル知識は身に着けている。
両手で収まらない数の人を殺してきて、豚は殺せないなどと言うつもりもない。
筋力という心配要素を思い浮かべて握ったナイフとともに豚に近付く。
「ごめんね」
これがどういう話か、健は知っている。だから、これから先の流れを想像しながら豚の首筋を掻っ切った。
断末魔をあげる豚は健の手の中で幼い少年へと変わる。
躊躇なく、寸分の狂いのない一撃で事切れた少年。
「これで俺は裁判にかけられるはずだけど……ん?」
モチーフにされた話を思い浮かべて、冷静に自分の運命を見る健の前に現れた二つの扉。
右の扉の前には林檎が、左の扉の前には金貨が置かれている。
「こういう演出か」
これまた冷静に、右側の扉を開けた。無罪を示す扉を。
「そろそろ進展してほしーところだね……」
ぼやく健の視界を薄紅色の花弁が舞った。いや、舞った気がした。
広がるのは手入れの行き届いた森で、緑に覆われたそこに薄紅色はない。
「ここは……もしかしてはじまりの森?」
自信なさげに呟いた。森なんて大体同じような装いで大雑把な違いしか正直分からない。
目に入る景色よりも肌を撫でる空気から当たりをつける健は周囲を見渡しながら歩く。
はじまりの森といっても三種類ある。正確には、一つの森ではあるのだが、敷地が広すぎて三つに分断されているのだ。
この森はどれなのだろうと吟味する。
手入れをされている。ならば、史源町のものではない。手入れのされ方を見て、残された二択から答えを選ぶ。
「鬼たちが暮らしている方か」
自然を生かす手入れの仕方は鬼の手によるものだ。何度も訪れた森の中を進みながら、次を考える。
いる場所が分かったなら、次はここにいる理由だ。
今までの部屋にはモチーフになっている童話や神話――物語があった。
ならば、ここも何かの物語を下敷きに伝えられた世界なのか。
貴族街にも古くから伝わる物語がいくつかあり、当然健はそのすべてを知っている。春野家当主に次ぐ権限を与えられている健は貴族街にある文献すべてに目を通している。
さすがに桜宮家本家にあるものまでは分からないが、はじまりの森が関わる話にはいくつか心当たりがある。
問題はどの物語なのか。その答えを得るための場所へゆっくりと歩を進める。
「春華ではないな。何者だ」
よく知っている声はまるで他人のような響きを持って投げかけられた。
「初めまして」
営業スマイルのような微笑を浮かべて、誰よりも馴染みのある存在と向かい合う。
出来損ないの神の一人、鬼神。黒い髪を下の方で結び、古い時代の衣服をまとっている。
その身体付きは鬼の中でも細身な方だ。戦闘よりもサポート要員である幻鬼や陰鬼と近い。
ただ細い身体がまとう空気感、その迫力は彼らとは比べ物にならない。
血を零したような紅い目が値踏みするように健を見つめている。
「俺は岡山健といいます。少し道に迷ってしまって」
反射的に委縮してしまうような鋭い眼光を前にしても、健は一切動じることなく言葉を並べる。
生まれた頃からずっと傍にあった目だ。今更恐ろしいなんて感情を抱くわけがない。
「好奇心から森の中へ入ってきたか。ここは脆く弱い存在が立ち入ってよい場所ではない。とく去ね」
「心配してくれるんですか。お優しーんですね」
「……。あれと同じことを」
あれが誰のことか健は知っている。知っているが、今のはただの偶然だ。
健の知っている鬼神にまつわる逸話はどれも抽象的なものばかりで、そこまで詳細な情報は描かれていない。
当事者たちは語ろうともせず、ただ外枠だけを再現したものしか残っていないのだ。
それを詳細に映し出した世界を支えている者を瞬きした瞼の裏に映し出す。
(あれ由来の道具が作った世界なら不思議はない)
帝天もまた消え去った物語の当事者だ。刻銘にそのときのことを知る存在が作った道具ならば、完璧に近い形で再現することも可能だろう。
「それってもしかして先程言っていた春華さんのことですか。どんな方なのかお聞きしても?」
「変わった奴だ。我を恐れもせず、当然のように傍へ来る。……飽きもせず」
「好きなんですね」
春華について語るとき、その目が思い浮かべるとき、張り詰めていた空気が和らいだ。温かく、柔らかく、甘く。
冷たさを感じさせる表情が幸せに満ちている。それは愛する人に向けられるものだ。
「お前も変わった奴だな」
「そーですか? 自分ではよく分かりませんが」
自分という人間が一般的ではない自覚はある。変わり者と言われても否定はしない。
知り合いの変わり者たちと比べるとまだ常識の範疇だとは思っているが。
近付く健に鬼神は鼻を鳴らした。匂いを嗅ぐような仕草で紅い目を細める。
「鬼の匂い。お前、鬼と知り合いなのか」
鬼の嗅覚は鋭い。健の身体に染み付いた鬼の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
傍には常に陰鬼がいたし、紅鬼衆と交流する機会も多い。何より健の身の内には鬼が眠っている。
近付いてすぐに嗅ぎ取れるくらいには濃く漂っていることだろう。
この頃の鬼神は鬼たちの中で孤立していたと聞いている。悪い方向にいかないことを信じて出方を待つ。
紅い目は健を静かに見つめ、「いや、違うな」と複雑な色を映し出した。
「お前も帝天の簒奪者か」
「っ……」
今度は匂いではない。まとう気配から感じ取ったらしい鬼神の言葉に取り繕うことを忘れた。
沈黙は肯定だ。否定も、誤魔化しも忘れて取りこぼした刹那を悔やむ。
「何故、お主はここにいる。――何故……何のために生きている?」
続くように問いかけられて、鬼神がそういうことを気にしないタイプだったことを思い出す。
「異端たる我が身を多くは恐れ、怪物と呼び、遠ざけんとする。天すらもだ。偶然の果てに生まれ落ちた我らに居場所などない。我らの価値はどこにある。生きる意味は――」
「なるほど。貴方は自分が変えてしまう世界を恐れているんですね」
この世界はすべて創造神が定めた道筋の上に存在している。
それを歪められるのが出来損ないの神だ。道筋から外れて生まれ落ちた存在は、ただ生きているだけで世界を歪めていく。
死ぬはずだった者を生かすこともあれば、生きるはずだった者を殺すこともある。
「自分が行動することで変わる未来は普通のことです。多くにとって、天が定めた道筋なんて知識の外ですし、そう違いはないと思います」
右足から歩き出すか、左足から歩き出すか。そんな些細なことで変わる未来もある。
それをいちいち気にして立ち止まっていたら、何もできなくなってしまう。
「そーやって閉じこもるよりも動き出した方が建設的です。伸ばした手で誰かを救えることだってあります」
「その手が奪うこともあろう。お主とて、それを知っているはずだ」
「自分の行動による責任は常に誰もが負うべきものですよ。いーことも、悪いことも」
一般市民と大統領では負うべき責任の大きさも重みも全然違う。けれど、負う義務は誰にでも平等に降りかかるものだ。
一人で閉じこもっていても、閉じこもって何もしなかった責は降りかかる。
「誰かを助けるために伸ばした手がその誰かを崖から突き落としたとしても……すべてを負う覚悟はとうに決めました」
今まで健が奪ってきた命の数はもはや数えきれない。どんな悪人であっても、その手で殺めたことの責任から逃げる気はない。
健の行動一つが世界を歪めてしまうのなら、その歪んだ世界ごと背負う。
重みで潰れることも、歩みを止めることも絶対にしないと決めている。
「俺にはどうしても叶えたい、叶えなければならない目的があるんです。だから、先へ進みます」
その目的のすべてを話した唯一と同じ姿を取った存在へ静かに告げる。
鬼神のようで鬼神ではない存在は健専用の罠だ。健の心を折るために仕掛けられた罠。
そんなものには引っかからないと口の端をあげて、鬼神に並び立つ。
「春の宮さんとお幸せに。あ、息子の躾はきちんとすることをおすすめします」
この世界は過去ではなく作り物。言っても意味がない、ただの戯言だ。
言われた鬼神も理解できていない言葉に笑みを深めて横を通り過ぎる。再び森の中へ。
鬼神に会う前にはなかった迷いのない足取りで、静謐な森を進んでいく。
〈かつての自らを見る機会があるとは思わなんだ。不可思議な感覚だ〉
「起きてたんだ」
脳に直接響き渡る声は少し前に言葉を交わしたものと同じだ。
覚醒し、より鬼神との繫がりが強くなった今はこうして起きている状態でも言葉を交わすことができる。
妖華と妖姫と同じ状態とも言える。彼女たちほど頻繁に言葉を交わしているわけではないが。
「実際、あんな風に思い悩むことあった?」
〈はて、昔ことは覚えておらんな〉
「鬼神ってたまに年寄りみたいなこと言うよね」
神相手とは思えない気安さで返す健。
生まれてからずっと傍にいた相手だから今更気を遣うこともない。
鬼神は健にとって誰よりも身近な他人だ。
〈事実、年寄りのようなものだからな〉
小さく返した鬼神は「ふっ」と笑みを零して、さらに言葉を続ける。
〈あの頃の我は世界に興味などなかった。ただこの世に生まれ落ちたからそこにいただけ。死にゆく理由がないから生きていただけ。思い悩む心すらなかった〉
「春の宮さんが変えたんだね」
〈そう、だな。あれと出会わなければ、お主の共犯になることもなかっただろう〉
「なら、俺にとっても救世主だね。二人が出会ってくれてよかった」
鬼神の協力がなかったら、健の目的は果たし得ない。道半ばどころか、始まる前に終わっていた可能性も十二分にある。
二人の愛の果てに生まれた存在のことを考えると複雑なものも宿るのも事実。なので、一先ず考えないようにする。
「あ、ついたみたいだね」
思考を無理矢理終わらせた健を美しい湖が迎える。
森がそうであったようにこの湖もよく知るものだ。健が常に身に着けている桜の花弁を模した石はこの湖の水を結晶化させたものである。
聖水と呼べるほど清らかな水は貴重でいろいろと重宝している。
「飛び込めばいーのかな」
澄んだ水の中を覗き込む。湖の底まで見えるほど澄み切った水へ、そっと手を伸ばす。
冷たい。ひんやりとした感覚を味わった先で濡れた指先を見つめて健は息を吐いた。
「寒い時期じゃなくてよかった。後は濡れ鼠になって体調を崩さないことを祈るとしますか」
冷たい水に全身浸かって体調を崩さないと豪語できるほど、健は自分の身体に自信はない。
言葉通り、自分自身の可能性とこの空間の性質に祈りながら、湖の中へ飛び込んだ。
指先で感じた冷たさが全身を突き抜け、身体は下へ下へと沈んでいく。水の中でも呼吸はできる。
吐き出した息が泡となって上を昇っていくのを見つめる健の足が不意に底を触れた。
無重力のようだった世界に重量が戻り、薄青の空間が薄紅に塗り替えられる。
「よかった。濡れてない」
冷たい中に落ちた身体を術で温めつつ、濡れ鼠になっていないことに安堵する。
安堵して、変化した光景へ目を向ける前に反射で結界を張る。
「森の次は桜の園。鬼神に縁があるものが続くなぁ」
〈健〉
「分かってるよ」
短く応える健の目の前で結界に衝突した桜の花弁が美しく散る。
一歩、踏み出せばたちまち視界はすべて薄紅に覆われる。花弁は透明な障壁にびっちりと張り付いて、健の行く手を塞ぐために犇めきあっている。
「桜宮家の結界みたいで嫌だなあ。実際、それを模してるんだろうけど」
ぼやきながら、結界に張り付いた花弁たちを霊力の爆発で蹴散らす。が、それも一瞬。
すぐに集い始めた花弁たちは数を増して結界を突き破った。せっかちに飛び出した花弁が一枚、健の顔を傷つける。
「本っ当に面倒だな」
微かな痛みを気にもとめない健は花弁が押し寄せるより先に霊力へ命令を下す。
突如として巻き起こった炎が空間ごと花弁を焼き払った。