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女の子は砂糖とスパイス、それに素敵な何もかもでできている。
生まれたのは少し特殊な家だった。貴族街を治める春野家当主の三女として求められたのは、絵本の中に出てくるようなお姫様。
二人の姉は完璧で、嫌いではなかったけれど一緒にいると虚しくなる。
「今日は星様いらっしゃらないんですか」
「星は体調がよくないから部屋で休んでいるんです」
パーティの度に繰り返される会話。
同じ顔、同じ声、同じ体格。本気で入れ替われば、誰も気付けないくせに求められるのはいつも星の方だった。
ピンクよりも黒が好き。フリルやハートよりも鎖や骸骨が好き。恋愛小説よりも怪談が好き。甘いケーキよりも辛い料理が好き。料理や裁縫よりも占いが好き。血なんて怖くないし、幽霊とは友達になりたいとすら思う。
同じ親から生まれたのにどうしてこんなにも違うのだろう。
自分の出来損ないさを見せつけられるたびに苦しくなる。
そういえば、一度だけ逃げ出したことがあった。煌びやかな世界から逃げたくて飛び出した。
――お姫様じゃなくたって、君はかわいいよ。君は君のままでいい。
――俺はどんな君でも笑わないし、嫌ったりしない。約束する。
庭の隅で泣いていた自分を励ましてくれた少年がいた。優しい笑顔を浮かべた少年。
彼の言葉に夏凛は救われた。彼の優しさのおかげで、今の夏凛がある。
こうして自分らしく笑っていられるのだ。
「今はどこにいるんだろう?」
あの日以来、彼には会っていない。名前も知らず、顔も朧気で再会はきっと無理だろうと思っている。
もう一度会って、ちゃんとお礼を伝えたいという思いがある。父に頼めば調べてくれるかもしれないけど、自分のことで父の手を煩わせるのは憚られる。
「さーてと、早く星を迎えに行きますかっと……?」
時刻は放課後。とめどなく動かしていた思考を中断させた夏凛は立ち上がったところである人物を見つける。
よく知る、とは言えないものの、見知った人間だ。
帰宅する生徒が行き交う廊下で、目立つ外見でもないその人は誰よりも目立っていた。
華奢な体躯。一回り以上大きい制服を纏っているせいで、小柄な身体はさらに小さく見える。
夏凛を見る瞳から感情の波は一つとして見つからない。人形のように無機質で、機械のように平坦な瞳だ。
「健くん……? どうしたの。私に用なんて珍しいね」
星の婚約者。岡山健。例にもれず、夏凛ではなく星を選んだ少年。
けれど、夏凛は彼のことは嫌いではなかった。むしろ好感の持てる人物である。
彼は星と夏凛を比べない。自分らしくいることを選んだ夏凛を失望したり、軽蔑したりしない。
しかし、彼は夏凛を選ばないことを知っている。それは悲しいというより、むしろ喜ばしい。
「王様から呼び出しです。時間、大丈夫ですか」
「……うん、大丈夫だよ」
呼び出しの理由はなんとなく分かっていた。昨日のことだ。
父親は貴族街の一番偉い人で、あの街で起こったことはすぐに耳に入る。思っていたより早くて、自分の運の悪さに呆れてしまう。
「正門に車を待たせていますので」
その言葉通りに正門には黒塗りの高級車が止まっていた。傍らには見慣れた女性が立っており、夏凛の姿を見るなり整った顔立ちを破顔させる。
夏凛たちの世話をしてくれているメイド、東宮桐葉だ。メイドとはいったものの、身に纏っているのはメイド服とは程遠い、カジュアルなものだ。
浮かべる表情に宿るのは親しみばかりで、傍から見る限りとてもメイドには見えない。
「すみません、わざわざ」
「大丈夫よ。可愛い女の子の送り迎えならいくらでも大歓迎だから」
慣れた仕草で車の扉を開ける様は自然で、夏凛は促されるままに座席に座る。横に健が座ったことで反射的に強張った身体を誤魔化すように窓の外を眺める。
健のことは嫌いではない。嫌いではないものの、苦手意識があるのも事実だ。
健といるときはいつだって星も一緒だったから、桐葉がいるとはいえ、ほとんど二人きりの状態に気まずい沈黙が流れる。
横目で健の様子を窺う。変わらない無表情は沈黙など、気にしていないように見える。
「健くんも大変だよね。わざわざ私を呼び出すために使われてさ」
「なんだかんだ言って根っからの貴族ですからね、王様は」
素っ気ない返事が返ってくるだろうという予想は大きく裏切られる。
気まずさを感じていた夏凛を慮ってのことのようで、星がすごく優しい人だと言っていたことを思い出した。
「そーいえば星にうちに来るよう言ったの、夏凛さんらしーですね?」
「あー、えーっと、うん。よかれと思って言ったんだけど……ダメだったかな」
「いーえ。むしろ感謝してます。ありがとーございました」
仄かに緩んだ口元が世辞ではないことを証明している。まさか健に感謝されるとは思っていなくて呆気にとられる。
思っていたよりも親しみやすい人なのかもしれない。
そんなことを考えながら、ぽつりぽつりと会話をしていれば、やがて車が止まった。春野家の屋敷に着いたのだ。
「桐葉さん、ありがとう。健くんも」
「いえ」
「礼に及ばないわよ。ここで待っているから」
二者二様の返答を聞きながら、夏凛は屋敷の中に足を踏み入れる。目指すのは和幸の執務室。
呼び出された理由は分かっているから、歩を進めているうちにだんだん足取りは重くなっていく。
仕方のないことだ。父は悪くない。悪いのはいつだって――。
「お父様、夏凛です」
応えと受け取り、執務室の扉を開ける。出迎えたのは重厚な椅子に深く腰掛けた人物、夏凛の父親である春野和幸だ。
二十代後半にしか見えない若々しい見た目をした男性だ。一目で高級と分かるスーツを身に纏っている。
「そこに座れ」
「はーい」
努めて明るい声を出した夏凛は内に抱えた感情を隠して、応接用の席に着く。
厳しい表情をして席についた和幸を出迎えるのは天真爛漫な笑顔だ。
「お前、闇市に行ってたらしいな」
「バレちゃったかー。ごめんごめん、つい興味本位でね。安心してよ、もう行かないから」
闇市に行ったときから用意していた言葉を吐けば、和幸はわずかに眉を寄せた。
「……夏凛、お前はそれでいいのか?」
問われる意味が分からず、瞬きをする。
素直に観念して、もう行かないと誓えば十分のはずだ。
誓いを破るとでも思っているのだろうか。今までだってちゃんと言いつけを守ってきたというのに。
信用されていないのかもしれないという思いが夏凛の胸を小さく締め付けた。
「お父様はその方がいいでしょ? 闇市が危ないのは私だって分かってるし」
明るい声と表情を意識して和幸を見る。
ばれたら怒られるのは分かっていたことだし、覚悟もしていた。こうして、もう行かないと誓うところまで折り込み済みだ。
ただ和幸の複雑そうな表情だけが解せない。
父はこれ以上、自分に何も求めているのか。
分からない。何を言えば、何をすれば、正解なんだろうか。
「俺の意見は関係ない。夏凛自身は納得しているのか」
「……私が納得しているとか、してないとか、それこそ関係ないじゃん。お父様にとっていいことだけが大切なんだよ」
「そんなことない。俺はお前の――」
「あるよ、絶対にある。お父様には分からないだろうけど」
健は和幸を根っからの貴族だと言っていた。夏凛だってそう思う。
和幸は最初から持っていた人だ。周囲から求められることを、それ以上の結果を出してこなしてみせる。
どうやっても夏凛には届かない領域のものだ。
春野家の人間として出来損ないである夏凛にできることはいつだってただ一つ。
「お父様の言うことに従う。それでいいの。それで、ちゃんと納得できるから」
「……夏凛」
「ってことで話は終わりでいい? 大丈夫だよ、お父様に迷惑はかけない」
矢継ぎ早にそう告げ、何故か熱くなった目頭を隠すように立ち上がる。引き止める和幸の声を無視して、逃げるように執務室を出ようとしたところで腕を掴まれる。
見られないように顔を背けながら、「離して」と震えた声で訴える。
「言いたいことがあるならちゃんと聞く。だから話を――」
「私は納得してる! だからいいの。言ったってどうせ……っ」
言ってはいけない気がしたから先の言葉を呑み込む。代わりに潤んだ目で和幸を見る。
「一人にさせて」
手を振り払い、今度こそ執務室を後にした。