3-14
それは目覚めの感覚に似ていた。瞬き一つの間に眼前に広がる気配が様変わりしている。
脳が混乱する中、冷静な部分で今はいつのどこなのか、観察する。
一体、いつまで時間が巻き戻ったのか。
事前にきちんと話し合っておけばよかった。あれがちゃんと聞くとも思えないが。
「師匠? 突然立ち止まってどうしたんですか」
「壬那、さん……」
純粋なまでの尊敬を込められた目で見つめられ、小さく呟く。
隣に立つ壬那の存在。目に入る景色。行き交う人々の顔。聞こえる話し声。
そのすべてを、脳内に刻まれた記憶と照合し、一つの答えを導き出した。
(決闘を申し込まれる日か)
本当の本当に最初まで戻ってくれたらしい。怖いくらいの親切心を働かせてくれたようだ。
時間を巻き戻す前の記憶は健の手によって、すべて封じてある。
覚えているのは健と、桜宮家当主と帝天だけ。
記憶を残したこと、あの力を見せたことで貸し借りはなしと話はついたので、とりあえず気にしない方向でいく。
〈健様? 大丈夫ですか〉
考え込む健のことを陰鬼までもが不審に思い始めている。ここは一度誤魔化して――。
「っ……くぅ」
言葉を紡ごうとした健は耐え難い頭脳に襲われて蹲る。
大抵の不調はある程度隠しきれる健でも手に負えないほどの頭痛。締め付けられるような、焼けるような痛みが容赦なく襲いかかる。
周りを気に掛ける余裕の中で、これが力の代償かとぼんやりと考える。
――そういえば、さっきから壬那の気配がしない。
「――健様、大丈夫ですか」
「梓さん? どーしてここに……」
「文月様に呼ばれたんです。悠さんは不在だったので、代わりに私が」
ここから寮までそう遠くない。とはいえ、頭痛に翻弄されるうちに思っていたよりも時間が経っていたことに驚く。
「とりあえず、水も買ってきたので……その、どうぞ」
「すみません。ありがとーございます、壬那さん」
言葉を返せるくらいには頭痛にも慣れてきた。
「悠さんには連絡してありますので、一先ず寮に戻りましょう。立てますか」
「だいじょーぶ」
答えて立ち上がろうとした健はまた地面に座り込んだ。もう一度、試みて失敗する。
「健様、失礼します」
聞こえた言葉の意味を考えるより先に身体が抱えあげられる。所謂、お姫様抱っこの形だ。
別に羞恥心はないが、女性に平然と抱えられると複雑な気持ちが沸き立つ。
「梓さんって思っていたより力あるんですね」
「使用人は力仕事も結構ありますから、健様くらいなら問題ありませんよ」
なるべく振動を与えないように気を遣う梓の言葉に納得する。
「……意外でした。健様なら、大丈夫だと突っぱねるものだと思っていました」
「この状態で強がったりしませんよ。無駄な労力は使わない主義なので」
相手が違ったら、また健の態度も変わっていたかもしれないが。梓相手なら無駄に強がる必要はない。
頭痛も少しずつ治まってきたことを幸いに、話をさらに続けることを選ぶ。
健の脳裏には解雇を告げたときの梓の顔が映し出されていた。少し残念そうな顔が。
「俺の方こそ意外でした。梓さんがそんなこと言うなんて」
微かな息を呑む音に笑みを浮かべた。
「もうすぐ試用期間も終わりますね。梓さんはどーするつもりですか」
「どう、とは……」
「――俺は梓さんの唯一に選ばれるのか、どーか、少し気になりまして」
梓がどちらを選んでも健にはどうでもよかった。
真っ直ぐに理想を求める姿は尊いと思う。その理想が叶うことを願うくらいの良心は健の中にある。
「分かりません」
梓の答えに「そっか」と小さく瞑目する。そんな簡単に答えが出るものではないのは分かっている。
せめて、健が出来るのは唯一が見つかるまでの隠れ蓑になるくらいだ。
「――分かりませんが、貴方を唯一にしたい、とは思っています」
「はっ?」
予想してなかった言葉に健は驚いて梓を見る。
「唯一を見つけたとき、一目で分かるものだと思っていました。それを感じられる方に出会えるまで私は――けれど、そうではないと健様に出会ってから気付きました」
寮へのつき、健をベッドへ降ろした梓は深々と頭を下げた。
感謝が込められたそれに計算違いを戸惑う健はただ見つめる。
感謝される覚えはまったくない。ただ健は自分の思うままに生きてきただけで、何もあげたことはない。
けれど、ここで謙遜するのは梓に対して失礼なような気がした。
「もう少しだけお傍に置いてもらえませんか。――私の唯一になってください」
「梓さんの使用人人生を背負うのは少し荷が重い感じがしますが……いーですよ。それが梓さんが満足できる答えなら」
「いいえ。健様に背負わせるつもりはありません。むしろ逆です」
梓はそう言って笑う。使用人の仮面を被った笑顔とは違う、おそらく梓の心からの笑顔。
柔らかさの宿った笑顔は今まで見たどれよりも中身がこもっていた。
「私は健様の使用人です。背負わせるではなく、その重荷が少しでも軽くなるようにお手伝いするのが私の役目です」
「……梓さんってそーいうタイプだったんですね」
「健様相手ならこちらの方がいいと思いまして」
「……」
端的に話す梓に返す言葉が見つからず、健はベッドへ後ろ向きに倒れた。
「今はゆっくりお休みになってください」
それだけ言って、立ち去る梓を見届けてから小さく息を吐いた。
まさか、梓があんなに厄介なタイプとは思わなかった。健の命令には逆らえない悠や、なんだかんだ健に甘い陰鬼とも違って、一番面倒なタイプと言える。
再び息を吐いた健は意識を切り替えるために瞑目する。そして、宙からスマートフォンを取り出した。
「もしもし」
『かかってくる頃だと思っていたわ。天晶のことでしょう?』
当たり前のように返された蠱惑的な声に一つ瞬きをする。
天晶のことを彼女が知るのはもう少し後だったはずだ。
健の行動が変わったから、状況も変わったというわけではないことは理解していた。
「誤算だったな」
『あら、私でよかったでしょう?』
抽象的な言葉ですべてを理解した声の主に小さく肯定する。
『天晶はあと数日あれば手に入るわ。ガードが固いようでちょろいわよね、彼』
「相変わらず仕事が早いね」
『それで、前みたいに壊せばいいのかしら』
「そのまま、妖華さんのところに届けてもらえる? 話は通しておくから」
帝天由来のものを壊すのは難しい。できないわけではないのは前回で把握済み。
ただ壊した後の処理もまた面倒。今回は壊す理由もないので、妖華に封印してもらうのが最善だ。
『分かったわ。それにしても、今日は少し落ち込んでいるみたいね。何かあったの?』
いつも変わらない調子で話していたつもりだが、彼女には分かってしまうらしい。
「別に。何もないよ」
『何もないのならそれでいいわ。そういう貴方も好きよ』
そんな甘い囁きを最後に電話は切られる。こういうとき、彼女の愛の告白は救いになる。
彼女が愛する自分であれているのなら大丈夫。健は自分の望む健でいられている。
弱さも、脆さも、封印した強い健でいられている。
●●●
人間界とは少し違った空気が肌をくすぐる。何とも言えない感覚に長居はしたくないなと考える。
ここでも周囲を惑わす自分の体質は有効らしく、そこはいいと言えるかもしれない。
魅了の術で篭絡した妖に案内されながら、紫苑と名乗る少女は広い敷地内を歩く。
妖界の王が暮らすそこは春野家よりも格段に広い。
「ここまででいいわ。ありがとう」
そっと囁きかければ、案内をしていた妖は顔を赤くして去っていく。
ここから先はそこらの下っ端程度では案内するのは難しいだろう。とはいえ、話は健が通してくれているので、そこまで面倒なことにはならないだろう。
「貴族街の関係者です。妖界の王に会わせてもらえるかしら」
王宮内、一般解放されている場を抜け出した先に立つ衛兵へ声をかける。
確認のための待ち時間ののちに案内された先で紫苑はいよいよ妖界の王と対面する。
多くの人が委縮する存在を顔色一つ変えないまま、見上げる。
「貴方が健君の言っていた子ね。初めまして、私が妖華よ、よろしくね」
「紫苑と呼んでちょうだい」
妖界の王を前にしても紫苑の態度は変わらない。
この程度で気分を害するタイプではないことを感じ取ったのと、そもそもここで立場を悪くしたところで紫苑的には何も問題もないからだ。
「健君から話は聞いているわ。持ってきた神具を見せてもらえるかしら」
言われて差し出された巾着袋の中には至るから盗んだ天晶が入っている。特別苦労もせずに手にいれたそれを吟味する妖華を離れた位置から眺める。
幼い顔立ちながら、侮ることを許さない風格を持っている。見た目にそぐわない老成した空気は紫苑が愛する人とどこか似ていた。
「確かに受け取ったわ。妖姫なら封印も難しくないと思う。……それでここからは貸し借りの話になるわけだけれど」
「当然の話ね。聞かせてもらうわ」
貸し借りのことも健から一任されている。下手なことはしないという信頼と、妖華相手でも後れをとらないという信用。それを受け取った上で向かい合っている。
「大した話じゃないわ。少し健君に気にかけてほしいことがあるというだけよ」
「それだけでいいの? 甘いお話ね」
「帝天の悪戯に対処してくれるのは私としてもありがたいことだもの。でも、健君は貴族街の人間でしょう?」
処刑人として貴族街で起こることに対処できても、外のこととなるとそうはいかない。
心情というよりも、健の立場が邪魔するのだ。だからこそ、外で起こることを気にかけるのは妖華から言われたという大義名分が必要になる。
何の柵もない紫苑の立場からしてみれば、面倒の一言だが。
「それで? 健に気にかけてほしいというくらいなのだから、神生ゲームに関連することなのでしょう?」
「ええ。――史源町に神具が持ち込まれているみたいなの。私や桜は自由に動くことはできないから……」
申し訳なさそうに目を伏せる妖華に動く心はない。
健が矢面に立たされていることに対しても。悠なら話は変わってくるだろう、とだけ考えて密かにほくそ笑む。
「どういうものかまでは分かっていないのね」
「桜の式たちが探っているけれど、今のところは何も。何か分かったら知らせるつもりよ」
「そう」
短く答える紫苑は健に話すべきか逡巡してから再び口を開く。
「話はしておくわ」
そこから先のことはすべて健に委ねる。
世界の趨勢など紫苑にはどうでもよくて、愛する人が描く未来の方が価値がある。
そして最後は――とここまで考えて笑みを深めた。
「健が知れば悪いことにはならないでしょうね」
美しい声がそう言葉を紡いだ先で、紫苑の耳元でぶら下がるイヤリングが蒼く瞬いた。
3章終わりです