3-9
人生のほとんどを過ごしてきた屋敷をまるで初めて訪れたように進んでいく。
ここ、春野家の屋敷で今暮らしているのは至なわけだが、中はそこまで変わっていない。それほど日が経っているわけではないから当然か。
見知った使用人とすれ違うたびに緊張が走る。認識阻害をかけた完璧な変装でもばれるときはばれる。
せめて挙動に気を付けて、ばれる可能性を下げることに尽力する。
主人となる至との顔合わせはすでに済んでおり、今は紫苑という名の女性に案内されている。
「こちらですわ」
美しい人だと思う。傾国の美女という言葉は彼女のためにあるのだと錯覚してしまうほどに。
質素なメイド服をまとっていても、その美しさは微塵も失われていない。失われるどころかむしろ、より際立っているようにも思える。
案内された先の部屋にはもう一人の人物がいた。紫苑と同じメイド服をまとったショートカットの少女だ。
「こちらは悠音さん。私が教育を任されているもう一人です。悠音さん、こちらは今日入ってきた春幸さんです」
「春幸さん、初めまして。これからよろしくお願いしますね」
どこか見覚えのある笑顔に胸の奥がチクリと痛んだ。それには気付かないふりをして、和幸もまた営業スマイルで自己紹介する。
「では、二人でこの部屋を掃除してください。私は少し席を外しますので、後はお願いしますね、悠音さん」
最後にそれだけ言って部屋を後にした紫苑を見届け、空気が弛緩した。
過度な緊張がほどけた世界で和幸は悠音と呼ばれていた少女に向き直る。かつて和幸に仕えていたメイドを彷彿させる少女に。
「春幸なんて名前を縮めただけじゃないですか」
「お前だって似たようなものだろ。やっぱりここに潜入してたか」
天真爛漫から無邪気へ切り替えた姿に、和幸もまたいつも通りの振る舞いを見せる。
ショートカットのメイドの正体はずっと所在が知れなかった悠だ。予想していた通り、至のもとに潜入していたのだ。
和幸のようにメイクをしているわけではなく、短い髪を女の子らしく見えるよう整えているだけの姿。
「メイクは骨格を変えられて便利ですけど、メイクが落ちたときのリスクが高いですからね」
ということらしい。顔を大きく変えずに潜入するのもそれはそれでかなりのリスクと技術が必要になる。
今まで何度も潜入をこなしてきた悠なら心配は必要ないのだろうが。
「にしても、驚きましたよ。まさか王様が潜入してくるなんて思ってませんでした。あのまま引きこもって、ほとぼりが冷めるまでこそこそしているのかと」
「言い方に悪意を感じるのは置いといて、知らなかったのか?」
「知りませんよ? 健兄さんに解雇されてからこっち、ずっと至さんのところに潜入していたので、外の情報には疎いんです」
嘘を言っているようには見えない。嘘ではないように嘘をつくタイプの人間ではあるものの、今回ばかりは本当のように思える。
「……八潮に指示を出してたのは悠じゃなかったのか」
処刑人のメンバーは健を除いて三人いるという。最近は清雅も加わったという話だが、長いこと健とその三人で回してきたらしい。
もっとも長いのが今、目の前にいる悠。健が処刑人になると言い出したその日から一員となった。
八潮は健が突然連れてきたのを覚えている。あの頃はこの世の終わりのような暗い目をしていた。
最後の一人のことはよく分からない。とんでもない美少女だということだけ、話を聞いて知っている。
美少女――ふと和幸の脳裏に紫苑と名乗るメイドの姿が過った。
もしかすると彼女が最後の一人で、八潮に指示を出していたのかも――。
「情報共有しませんか」
和幸の思考を遮るように悠がそう言った。
「実は僕、今回の黒幕について目星がついているんですよ」
「黒幕? 至じゃないのか?」
「至さんを裏から操ってる人ですよ。天晶だって突然降って湧いてくるものじゃないでしょう」
悠の理屈は分かる。分かるが、どこか違和感を覚えるのは何故か。
ちゃっかり天晶のことを知っていること辺りが引っかかっているのかもしれない。
「話は聞こうか」
「では、まず王様がここに来た経緯を教えてもらえますか」
違和感は継続されたまま、和幸はこれまでの経緯を話した。
八潮の手引きによって逃げ延びたところから、今に至る経緯まで。
八潮伝手に聞いた話を交えた和幸の話を聞く悠の目に一瞬だけ複雑な何かが過った。
「なるほど、なるほど。八潮さんも動いてたんですね」
確かめるように呟く悠は嫌に無邪気な笑顔を見せる。
「では、僕の持ってる情報をお話ししましょうか」
口火を切った悠は目に見えて機嫌がいい。だからこそ、和幸は悠への警戒を募らせた。
思い当たる理由もないのに悠の機嫌がいいのはむしろ機嫌が悪いときだ。
見たところ悠は八潮が動いていたことを知らなかったようだし、一人だけ除け者にされたことを怒っているのかもしれない。
「王様は紫苑さんのことどう思います? ずばり第一印象で!」
「どうって、まあ、美人だと思うよ」
「ふむ、王様ならと思ってましたけどダメでしたか。男性だから仕方ないんですかね」
自己完結するように呟く悠を、眉を寄せながら見る。
「僕は紫苑さんが黒幕だと睨んでいるんです。紫苑さんは常に魅了の術を発動しているようで、それで周囲の人を上手く操ってるようですね」
「魅了の術か」
「です。魅了の術は基本的に相手の意識を自分に向けるものですが、紫苑さんは自分に好意を抱いた者をもれなく虜にしてしまう類のものみたいです」
条件付きの術は制限がある分、威力が強くなる。
好意を抱いた者という条件など、あの美貌を持ってすればそう難しくはないのだろう。
好意なんて大袈裟な言い方をしているが、要は少しでも好ましいと思わせてしまえば条件は達せられる。
悠の言う通り、彼女が黒幕ならこれほど厄介な相手はいない。
「魅了の術で裏から至を操っていると、お前は推測しているんだな?」
「紫苑さんって頻繁に至さんのところ行ってるんですよねぇ。夜なんか、お呼ばれしているようですし」
そういう関係だと悠は言いたいのだろう。
「至は星と婚約を結んだんじゃないのか」
「あんなの、春野家の力を手に入れるための形だけのものですよぅ。星さんはずっと軟禁状態で、至さんを数日に一度顔を出すだけですもん。父親的には安心できる情報でしょう?」
「まあな」
一先ず。星が手酷い扱いを受けていないことには安心した。
陰鬼が傍にいる話は八潮から聞いてもいるし、危険度で言えば、和幸の方が高い。
「それで紫苑がそうする動機はなんなんだ?」
「さあ。貴族街を手中に収めたかったたんじゃないんですかね」
「雑だな」
「むぅ、仕方ないじゃないですか。女の人が何を考えているかなんて、難しくて僕には分かりませんよ」
「お前がそれを言うか」と言葉を返そうとした和幸は扉に近付く気配に口を噤む。
使用人、悠幸の顔へと切り替える。傍に立つ悠も無邪気から天真爛漫に切り替えていた。
悠のその姿を見ると由菜を思い出して胸が痛む。別に悠も悪気があるわけではないだろう。
ただ由菜の記憶を基にして悠音という人物を作り上げているだけで。
「掃除は終わりましたか」
少し前まで話の中心にいた紫苑が顔を覗かせた。彼女は部屋の中に足を踏み入れ、和幸と悠もとい春幸と悠の仕事の出来栄えを確認する。
「完璧ね。私から言うことは特にありませんわ」
話に花を咲かせていた二人であるが、仕事はきちんとこなしていた。
健の執事として働いていた悠はともかく、和幸はその器用さで完璧なクオリティで仕上げていた。
「では、次は明日のパーティーの準備を手伝ってもらいます」
「パーティー、ですか」
「ええ、至様のお披露目パーティーになるので盛大にやることになっています。その分、準備に手間取っていまして……それを手伝ってもらいます」
そんな紫苑の説明を聞きながら、パーティー会場となる広間へ向かう。
少し前まで自分が暮らしていた場所を誰かに案内されるというのは奇妙な気分だ。
二人を広間に案内すると紫苑はまた用事があると立ち去っていった。悠の言うことを鵜呑みにするわけではないが、彼女が怪しいというのは確かだ。
「紫苑さんって優秀な方ですよね」
「そうですね。紫苑さんがここにきて一か月くらいですけど、私たちも助けられてばかりです」
見たところ、紫苑は使用人の中でも高い位置にいる。その割に至のところにいた期間はどこまで長くないらしい。
悠の言葉の信憑性を確かめる意味を込めて、和幸は他の使用人への聞き込みをしていく。
元々、泉宮家の使用人をしていたと思われる者を厳選し、怪しまれないようにさり気なく。
「お綺麗な方なのにどうして使用人をしているんでしょう?」
「至様に見初められたって話よ。確か、一年前だったかしら」
「何言ってるのよ。紫苑さんが入ったのは二年前でしょ」
こんな風に紫苑が至の使用人にになった時期について、みんながみんな言っていることが違う。
ほんの数週間前と言う者もいれば、十年も前からいたと言う者もいる。
混乱する以上に紫苑への不信感が募っていく。と、同時に思うこともある。
魅了で洗脳しているにしても、雑過ぎではないだろうか。まるで、その場しのぎとでも言うように。
「聞き込みは順調ですか」
「それなりだな」
そっと近づいてきてそんなことを尋ねてきたのは悠だ。
悪戯めいた表情を浮かべているものだから、つい疑いたくなっている。
悠の言葉を疑うより、信じる根拠の方が多く揃っているのに信じる気になれないのは悠の態度のせいだ。
何故、立場上は味方であるはずの悠までもが敵のようになっているのだろう。
「準備は順調のようだね」
聞こえた声に目を向けた先で和幸は目を奪われた。
和幸の視線は主人である至を通り過ぎて、その後ろに控えている少年に注がれていた。
今まで話には聞いていたが、洗脳された健を目にするのはこれが初めてだ。
その目には何も映っておらず、ぴくりとも動かない表情。かつての健に戻ったようだ。
いろんな人との繋がりを経て、少しずつ人間らしくなってきたと思っていたのに振り出しに戻った気分だ。
整った顔立ちが人形めいた無表情を宿していることに寂しさを覚えた。
「王様は健兄さんのこと大好きなんですねぇ」
聞こえた小さな呟きに、照れ隠しから反論しようとして場所に邪魔される。
したり顔を見せる顔を無性に殴りたくなったが、これも我慢した。