3-5
身体が揺さぶられ、意識が無理矢理に覚醒させられる。一時間前に寝たばかりの和幸は寝ぼけ眼で自分を起こした人物を見つめる。
側近の姿を思い描いていた和幸は、予想とはまるで違う人物に驚いて目を見開く。眠気が一気に覚めた。
「八潮⁉ どうしてここに……」
「少しまずいことになりましてな。隠れ家を用意したさかい、今すぐ荷物をまとめてもらえますか」
詳しい説明なんてない八潮の言葉を寝起きの頭で咀嚼し、「分かった」と小さく返す。
八潮がまとう空気に切羽詰まったものを感じ、それ以上の言葉を返すのをやめたのだ。
「夫人にもこのこと伝えてもらえます? 流石に俺が起こすのはちょっとあれやし」
その言葉に小さく頷きつつ、手早く身支度を済ませにかかる。
君江八潮という人間がどれだけ信頼に値するかはよく分かっている。
聞きたいことは山ほどあるが、悪いようにはならないという思いで後に回した。
行動を優先させた和幸は、八潮の手引きによって春野家の屋敷を後にした。
八潮の潜伏技術をもってすれば、誰にも気付かれずに春野家から出るなんで簡単だ。正直、屋敷の警備が心配になるレベルである。
元々、潜伏が得意だったところに、健のスパルタ修行を得た結果だと思って一先ず自分を納得させた。
そうして一行はスラム街を訪れていた。ここに史源街へ抜ける道があるのだという。
「スラムなんて久しぶりに来たな」
「王様がそうそう来るような場所じゃないからなぁ。むしろ、来たことあるのに驚きやわ」
澱んだ空気と漂う悪臭に顔を顰める八潮は壊れかけの廃墟の前で足を止めた。
「ここに、入るのか……?」
「気持ちは分かります。俺も初めて来たときは同じこと思いましたわ。せやけど、案外壊れたりしないんで安心してください」
言われて、恐る恐る廃墟の中へ足を踏み入れる。
体重を乗せたが最後、抜けてしまいそうな床へ、一歩一歩慎重に足を運んでいく。
軋む音は聞こえているものの、八潮の言う通り意外と壊れる気配はない。
「そういう術でもかけてるのか?」
「ああー、健ならありえそうやな。聞いたことないから分からへんけど」
「いや、いくら健でもそこまでしないだろ」
自分で言っておきながら否定する和幸は、妻の手を取ってエスコートしながら八潮の後を引く。
動きやすい服装を選んでもらったものの、箱入りの令嬢にこの道のりはきついものがある。
最終的に抱きかかえて進むことも考えている。
「ここです」
そう言って八潮が案内した先には何かの陣が描かれていた。数年前の事件で残ったものだという。
手続きをせずに自由に貴族外に出入りできるらしいそれは健と八潮によって管理されてきたらしい。
そういえば、こういう陣があったという報告を受けたことがあることを思い出した。今の今まで気に留めてなかったのは、健への信頼が大きいだろう。
八潮が陣に触れれば、今にも崩れそうな空間を満たすように光り出す。その光に誘われるように足を踏み出せば、眼前に見知った森が広がっていた。
「はじまりの森、か?」
停止した思考で呟いた和幸は見慣れた森でも史源町にある方のものだと遅れて気付いた。
「こっちです」
迷いなく森の中を進む八潮の後を慌てて追う。まもなくして仮設住宅のような簡素な建物が現れた。
森を抜けてすぐに建っているそれに、和幸は八潮が指し示すまで気付かなかった。
玄関で近未来という言葉が相応しいようなロックを解除した八潮が、扉を開けて中に入るよう促した。
認識阻害がかけられた建物に、おそらく健が作ったセキュリティ。
なるほど、確かに隠れ家としてこれほどのものはない。
足を踏み入れたそこは外から見たよりも、だいぶ広い空間が広がっていた。
貴族街と同じ原理だろうか。
「トイレは一番右、お風呂はその隣です。鍵がかけてある部屋以外は自由にしてください」
「誰かが住んでいるのか?」
「信頼できる人なんで安心してください。当分、帰ってこーへんし」
シンプルながら生活感の残る部屋に対しての問いかけに、八潮は言葉を選ぶように答えた。
煮え切らない態度ながら、嘘をついているわけでも、何かを隠しているわけでもなさそうだ。
「それで、そろそろ今回の件について話してもらおうか」
「その前に、夫人はお休みになられたらどうです? 早くに起こされて、ここまでの道のりも険しかったですし、お疲れでしょう? あっちに寝室もあるんで」
「そうですね。休ませてもらいます」
春野家当主の妻をやっているだけあって察しがいい。八潮が指し示した部屋へ来ていく姿に後で簡単な説明をしようと考えながら、改めて向き直る。
八潮は台所でお茶の用意をしているようだ。かなり勝手知ったる場所のように見える。
「ええと、茶菓子は……」
開かれた冷蔵庫が何気なく目に入った。タッパーに入った作り置きのおかずが丁寧に並べられた横に、様々な種類のお菓子が入っていた。
この部屋の持ち主は、几帳面で甘いものが好き、なのだろうか。
そんなことを取り留めなく考えていれば、お盆を持った八潮が姿を現した。
「そこまで気を使わなくても」
「まあまあ。日持ちせんもんやし、難しい話するんには甘い物も必要ですから」
低いテーブルの上に置かれたケーキは健のお気に入りのもので、なるほどなと一人納得する。
「王様も冷蔵庫のもんは好きに食べていいらしいんで」
「随分、親切な奴なんだな」
「あー、親切かというか、頓着してないというか……。まあ! 一先ず本題に入りましょか」
誤魔化すようにそう言った八潮はいれたてのお茶で舌を湿らせてから再び口を開いた。
「端的に言いますと、今、王様には桜宮家当主への殺人未遂容疑がかけられてます」
「なんだ、そのめちゃくちゃな冤罪は」
殺人未遂もなにも、和幸の実力では喧嘩を吹っ掛けるのも烏滸がましい。
霞に覆われた桜宮家本家への行き方も知らないのだ。来訪する必要があるときはいつも当主からの呼び出しで、直接扉を繋いでもらっていた。
もし仮に行き方を知っていたとしても、そう簡単に行けるようなものでもない。当主の許可なしでは足を踏み入れることもできない、らしい。
「いつもなら戯言やって切り捨てられるとこなんやろうけど、あの方が事実だっておっしゃられてなぁ。大罪人として、処刑人を送り込むとまで言ってるらしくて……」
どれだけめちゃくちゃでも、あの方が肯定してしまえば、それは真実になる。和幸がいくら濡れ衣だと訴えても意味はない。
「でも、なんでまた急にそんなことを?」
気紛れで理不尽なことを言い出すことは今まで何度もあった。しかし、その気紛れで潰せるほど、春野家当主の立場は軽くないはずだ。
「王様は天晶って聞いたことあります?」
眉を寄せる和幸の反応に八潮は声を低くして言葉を続ける。
「人を操ることができる代物らしいです。なんでも帝天由来のものだとか」
「それは、あの方を操れるほどのものなのか?」
「天晶には付属で小さな球がついてるらしくて、それを直接体内に埋め込めば、相手が誰だろうが従順な人形に仕立てあげられるって言われてるんです」
「それが事実だとしても、あの方の体内に埋め込むなんて無理だろ」
和幸ですら会うときは、いつも御簾越しだ。その姿を直接目にしたことはない。
とはいえ、そんな和幸の考えは八潮も当然一度は考えただろう。わざわざ口にしたということはその先があるということだ。
「その天晶の持ち主が泉宮至だとしても同じこと言えます?」
「泉宮至って……ああ、そうか」
脳裏に過った人物の姿に得心がいったように頷く。
至の傍には今、健がいる。健ならば本家へ自由に出入りすることもできるし、あの方と直接会うこともできる。
あの方は健を特別気に入っている。うっかり懐に招き入れても不思議はない。
「健にも天晶が使われているということか」
誰に命令されたとて、健が自ら桜宮家本家に行くわけがない。まして、あの方と対面するなんて絶対に。
そんなことを考えながら、和幸は口にした言葉をすぐに否定したい気持ちになった。
「計画のうちってことはないのか」
「違うって否定できるほどの情報は持ってないんやけど、操られてるって事実は変わりませんよ」
「ふりでなく?」
「ふりでなく」
しばし八潮を見つめ合った和幸は諦めたように息を吐いた。そろそろ認めなければならないらしい。
息を吐いた和幸ははたとあることに気が付いた。
「健が敵に回ってるならここも知られてるんじゃないのか。厳重なセキュリティも健相手じゃ意味ないだろ」
ここに健が出入りしていたことは、、健好みのお菓子が入れられた冷蔵庫を見ればすぐに分かる。
認識阻害にしろ、セキュリティにしろ、健の手によるものなのは仄かな霊力の残滓からでも読み取れる。
どんなに厳重なセキュリティでも、作り手ならば解くことはそう難しくない。あの健のことだから、自分だけにしか使えないキーの一つや二つ作っていてもおかしくない。
「当然の心配やろな。でも、安心してください。下手をこかない限りは絶対にバレへんと思いますよ」
「その根拠は?」
「王様なら健という人間を従える難しさは分かってますやろ?」
「従えていたつもりはないんだが。というか、あいつは誰かが従えられるようなタマじゃないだろ」
和幸はどちらかといえば、条件を付けて場所を与えているという印象に近い。
「そういうことです。健を健のまま従えるのは難しい。従えているつもりで、逆に上手いこと利用されていたことになりかねへんからなぁ。洗脳されてもそれは変わらへん」
そんな感じで、破滅を迎えた者たちを和幸は幾人も見てきたので無言でただ頷く。
「泉宮さんはその辺も抜かりないお人らしいし」
「制限をかけてるということか」
「ざっくり言うとそうなります。今の健は泉宮さんの命令を従順に守るだけの存在だと考えたらええと思います。ちょっとは希望が見えてきたんと違います?」
「少しだけな。健が敵なのは変わりないからな」
敵に回したくないランキングがあったら、確実に上位に食い込んでいるような人物だ。
多少のハンデがあっても、勝てるなんて少しも思えない。
「俺に送られるらしい処刑人はもしかしくなくても健じゃないよな」
「あれはポーズみたいなもんやし、実際は送り込まれてないと思いますよ? 春野家当主は処刑人を振り切って姿を消したってことになるんやろうけど」
その情報が出回れば、和幸の立場がさらに悪くなることは間違いない。いや、立場が悪くなるのは和幸だけじゃない。
「星や夏凛たちは大丈夫なのか」
和幸の行方が知れないとなれば、子供たちが人質にされる可能性が出てくる。
将棋でも、チェスでも、王が取られたら終わり。そして和幸は自分が王である自覚がある。
どれだけ大切な者が人質にとられたとしても、切り捨てる覚悟を持っている。けれど、それは非情な心を持っているのは違う。
「一先ず、梅宮家の屋敷に逃げる手筈は整えてます。桐葉さんに連絡がいくようにはなっとるはずやけど」
「確証はない、か。アカデミー内じゃ、すぐに動けないだろうしな」
「です。その上、アカデミーは泉宮さんの拠点。簡単にはいかへんやろうな」
ぼやくような八潮の呟きにそこまで周到にできていないのだと考える。
やはり八潮の裏にいるのは健ではない。かといって、八潮は単独で動くようなタイプでもない。
となると、一番可能性が高いのは――。
(悠か)
聞くところによると悠とは一切、連絡が取れていない状況らしい。
もしかすると至のもとに潜入しながら、八潮に指示を出しているのかもしれない。
そこまで考えて、和幸はあえて追求しないことを選ぶ。今はそれよりも優先すべきことが山積みだ。