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放課後となった六年二組の教室に一人の少年が訪れる。
春ヶ峰学園小等部の制服をきっちりと着込んだ少年だ。丸々とした目で教室を見回した少年は目当ての人物を見つけて破顔する。
年相応の無邪気さ宿した笑顔の先に立つ星は、長い睫毛で縁取られた目を文字通り丸くした。
相も変わらず周囲に集っていた面々に断りを入れて席を立つ。
「お久しぶりです、星さん。兄さんと同じクラスなんてすごい偶然ですね。ちなみに、僕は一組なんですよ。夏凛さんと同じです」
「久しぶりだね、悠くん。元気そうで何よりだよ。……健は元気?」
「そ、れ、を、今から確かめに行きませんか? 僕が家までエスコートしますよ!」
差し出される手は素直に取るべし。
夏凛の占いに背中を押されるように差し出された手――悠の誘いの手を取った。
彼が会いに来ないのならば、星が自分から会いに行けばいい。
「あ、夏凛に伝えておかないと……」
「それには及びませんよ? 僕にこうするよう言ったのは夏凛さんですから……。お優しい方ですよね」
「そうなんだよ。夏凛はすごく優しくて、すごーくいい子なんだよ」
妹を褒められた星は今日一番の笑顔で、その美貌を飾り付ける。自分を褒められるよりも、大好きな妹を褒められる方がずっとずっと嬉しい。
星の影に隠れててしまうことをよしとする性質だから余計に。
たとえ本人が諦めていても、星は夏凛がどれだけ凄い子なのか、訴え続けたい。そう思っている。
「お、悠じゃねえか。ちょうどいいところに……ってわりぃ。話し中だったか?」
「ううん。大丈夫だよ、ええと……」
「俺は中口航輝、同じクラスだぜ。ついでに言うと悠とは友達だ」
「ついでって何ですか!! うぅ……それで? 僕に何か用ですか? 星さんとの会話を中断させられて少ぉし不満なんですけど」
怒って、泣いて、不満げな表情で。
ころころと変わる悠の表情は見ていると面白い。
「お前の兄貴に手紙を届けるように頼まれてさ、一緒に帰ろうぜ」
「手紙なら僕が届けますよ――?」
「まあまあ、いいだろ? せっかくクラスメイトになったんだし、挨拶がてらってことで」
肩を組んでそんなことを言う航輝を見る悠の目に一瞬だけ冷たいものが宿った。値踏みするような視線だ。
面白半分で健に近付こうとするものは少なくない。
謎めいてからこそ、興味をそそられる。その気持ちは悠にも分かる。だからといって許容できるわけではない。
健に近付く余計な虫は出来る限り排除したいというのが、無邪気に隠された悠の本音だった。
「仕方ないですねぇ」
航輝がどうして健に会いたいと思っているのか、悠にはまだ分からない。
けれど、悪いことにはならない。むしろ、悠にとっていい結果をもたらしてくれるだろう。
今までの付き合いから航輝の為人を知っている悠は、そんな小さな確信を持って了承した。
●●●
カーテンが閉め切られた薄暗い部屋。様々な種類の本が所狭しと並べられた本棚の横には怪しげな薬が置かれ、異様な雰囲気を醸し出している。中心には書類や開かれたままの本が雑然と置かれている。
部屋の主といえば、ベッドの上に寝そべってパソコンを操作している。青白い光を受ける瞳は無感情で無感動で無機質だ。
不意に瞬きをした。鋭敏な聴覚がとらえた足音を対する反応はそれだけで、意識はすぐにパソコンの画面に向けられる。
「健兄さーん、入りますよ」
「ん」
扉越しで聞こえるか怪しいほど、微かな返事を受けて扉が開かれる。無遠慮に部屋へ足を踏み入れた少年は無邪気さを映し出していた顔に不満げなものを滲ませる。
「また、こんなに散らかして。部屋もこんなに暗かったら目が悪くなりますよ」
「部屋の暗さと視力の低下は関係ないよ。……それで何の用?」
パソコン画面から視線を外さないまま答える健の素っ気なさに悠が気分を害された様子はない。ずっと近い場所にいるから健の態度に一憂することなどないのだ。
素っ気ない理由を知っている。だからこそ、悠は素っ気ない態度を崩したいとも思っている。
「お客さんです。リビングで待ってもらってますけど、どうします?」
「誰」
「星さんと航輝さんですよ」
「不思議な面子だね」
ここで初めて健は悠を見た。紡がれた言葉は少なく、無機質な瞳は雄弁に物語っている。
どこか責めているようにも見える視線を受けた悠は「仕方ないじゃないですか」と涙を浮かべて答える。
「通して」
「分かりました。ちゃんと片付けてくださいね」
必要のない念押しをする悠を見送った健はその目を紅く瞬かせ、パソコンの電源を落とした。それでやることは終わりだ。
あれだけ散らかっていた本や書類は一か所に纏められ、部屋は元の寂莫とした雰囲気を取り戻した。
それも一分かそこらの間だけで、すぐに騒がしさがやってくる。
「連れてきましたよー」
「ん、入って」
出迎えの態勢を整えた健は無表情で三人を迎え入れる。
一瞬のうちに片付けられた部屋の小さな机の上には人数分のお茶と茶請けのお菓子が置かれている。
「どーぞ、好きに座って」
「お邪魔しまーす。お、本がいっぱいある」
きょろきょろと部屋を見回す航輝に続いて星が足を踏み入れる。一瞥、視線を交わしただけで二人は無言だ。
「お前と同じクラスになった中口航輝だ。航輝って呼んでくれていいぜ。んで、これ手紙な」
「わざわざ、ありがとーございます」
「敬語使うなよ、同い年なんだし。そうだ、健って呼んでいいか?」
腰を落ち着けるやいなや、遠慮なんて感じさせない距離感の詰め方を見せる航輝を前に健は苦手意識を抱いた。
親しい者しか分からない健の戸惑いに、悠は航輝を家に招いたことは正解だったと確信する。思っていた以上の効果を得られてご満悦である。
「ご自由に」
遠ざけるための素っ気ない物言いも航輝には効果はないようで、彼はさらに踏み込んでみせる。
「お前のこと気にったわ。友達になろうぜ」
「悪いけど、俺は君と友達になるつもりはないよ」
誰かと親しくするときは全て打算の上にある。不必要な慣れ合いは邪魔なだけ。
ただ一つの目的を叶えるために不要なものは全て切り捨てる。そして、友人とは健にとって不要なものだ。
冷たい覚悟を宿す健は不意に合った目に揺らされた心を抑え込む。
「それでもいいよ。俺の方で勝手に友達って言わせてもらうからさ」
「それ、わざわざ健兄さんに聞く必要なかったじゃないですか」
「細かいことはいいんだよ。友達なんてそんなもんだろ」
大分、吹っ切れた友達観を持っているらしい航輝を前に健は小さく息を吐く。こういうタイプは何を言っても無駄だ。
ある意味、健が一番苦手としているタイプである。分かっていて連れてきた悠を恨めしく思いながら表には出さない。
「さて、と。俺はこの辺で帰るわ。あんまり長くいるのも悪いしな」
「僕、送ります」
お茶を飲み干した航輝の言葉に同調するように悠が立ち上がる。
健の内心を無視して踏み込んできた人物とは思えない察しのよさを見せる航輝。
そして、嫌に空気が読める悠の配慮によって部屋には二人だけが残される。
訪れるのは静寂。気まずさではなく、気安さに溢れた静寂である。
何人にも邪魔できない二人だけの洗練された空気。二対の黒い瞳が交差する。
「久しぶり」
「うん」
数年ぶりに面と向かって話すにもかかわらず、交わされる言葉は淡白なものだ。
「……身長伸びたね」
「健はあまり変わってないね。私の勝ち?」
小首を傾げる星の言葉に健の目が据わる。悪戯めいた笑顔に向けられる頬の膨らんだ顔は、彼女にしか見せない素の表情だ。
「成長が遅いだけだから。すぐに追い越すから」
「本当かなぁ」
「俺は星に嘘ついたりしないよ」
「嘘」
一瞬のうちに見抜かれた嘘をつかないという嘘。
見抜いた星は笑顔で、咎める気配は少しもない。
星には健の嘘は通じない。いくら巧みに言葉を重ねて、どれだけ巧みに表情を偽ろうとも星だけは絶対に騙せない。
けれど、星が健を咎めない理由はそこにはない。健にならどんなに騙されてもかまわないと思っているからだ。
「学校で健の噂、たくさん聞いたよ。ヤクザと繋がりがあるとか、裏社会を牛耳ってるとか……美人の彼女がいるとか」
「嫉妬した?」
「しないよ。どんな子なのかなーってちょっと思ったけど」
一見、淡白にも見える言葉には信頼が詰まっている。その信頼はあって当然のもので重荷にすらならない。
お互いがお互いの想いが変わらないことに自信を持っている。それはもはや信頼を上回る確信と言ってもいい。
「星もそのうち会うことになると思うよ。きっと気に入る」
「うん、楽しみにしてる」
笑顔で頷いた星はその手で健の頬に触れる。抵抗なく受け入れた健はその手の温かさを味わうように目を瞑る。
元より低体温な健は人肌の温度が心地いい。相手が星なら尚更だ。
「ちゃんと休んでる?」
「休んでるよ」
目を開けば、顔を覗き込む星と目が合う。長い睫毛に縁取られた目は大きく丸く、薄紅色の唇はわずかに尖っている。ここに来て初めて見る星の不機嫌そうな表情だ。
「怒ってる?」
「怒ってないよ。健が忙しいのも大変なのも分かってるから……。でも心配なのは変わらないんだよ? ――だから」
真横に座る星を訝しんでいれば身体を横に倒される。髪の毛越しの柔らかい感触と見慣れない角度で見る部屋の景色で状況が見えてくる。
「今くらいはね」
柔らかく頭を撫でる手に促されるように目を瞑る。今の今まで感じてこなかった疲労が急に押し寄せ、こんなにも疲れていたのかと苦笑する。
前に眠ったのはいつだったか。それすら分からないほどに時間が経っていた。
自覚してしまえば、睡眠欲求はどんどん強まるばかりで健は抗うことをやめる。星の傍だったらきっと夢も見ない。
十分ほどで聞こえてきた寝息に星は口元を綻ばせる。
柔らかく閉じられた瞼。男にしては長い睫毛に悪戯で触れてみても起きる様子はない。
油断しきった表情は健を知る人が見れば驚くこと間違いなしだ。星だけが見える姿。
「膝枕は顔がよく見えないのは残念かも。すごく可愛いのに」
本人に聞かれたらきっと不機嫌な表情になるだろう。そんな表情すら愛らしく思えてしまうから星には何の不満もない。
健の背負っているものは大きくて重い。代わってあげたいと思っても、それは絶対に無理なことなのは分かっている。
だから星はどんな時でも健が安らげる場所であろうと思うのだ。
「……好き」
頑張ってでも、無理しないででも、ずっと味方だからでもない。星が伝えたい言葉はそのたった二文字だけ。
何があっても、二人の関係がどう動いたとしても、この思いだけは変わらない。それは星の絶対の自信だった。
航輝を玄関先まで送り届けた悠は、健の部屋へと続く扉に触れた手を静かに下ろした。
今は、もう少しだけ二人きりにしてあげよう。健の安らぎの時間を邪魔するようなことはしたくない。
「星さんはさすがですね。……本当に敵いません」
子供らしい無邪気さが鳴りをひそめた表情で呟く。
あんなにも簡単に健の心に踏み込んでしまう。悠には絶対にできないことで少しだけ羨ましい。
表には出さないと決めた感情を押し込み、悠はそっと踵を返した。