2-18(幕間)
桜稟アカデミーに入学してから一ヶ月弱、優雅は健の部屋へ何度目かの訪問をしようとしていた。
扉の前に立ち尽くした状態でどれくらいの時間が経っただろうか。
未だに健を刺したときの感触が掌から消えない。あのときのことを話そうと、きちんと謝ろうと決めた覚悟が今更揺れている。
「健兄さんなら春野家にいますよ」
「っ……」
突然の声に肩が大きく跳ねた。
振り返った先に立つのは健の執事をしている見慣れた人物で、無邪気な目がこちらを見ていた。
「謝りに来たんですか?」
人の心を無神経に触れるように悠は問いかけた。
「いい心がけだと思いますよ。謝るのはいいことです。僕を協力するのは吝かではありませんが、どういう心情が下敷きになっているかだけ聞かせてもらってもいいですか」
「どういうって……」
「別に難しく考える必要はありませんよ? 自分が楽になりたいから健兄さんを利用する、なんてことじゃなければ僕から言うことは何もありませんし?」
声にも、表情にも、無邪気さが詰め込まれているのにどこか冷たさを感じさせる。
優雅を見ているようで見ていないような、高慢に見定めているような、そんな視線。
決して逃がしてくれない視線だ。
「別に謝らなくたって健兄さんは気にしません。今まで通り普通に接してくれるはずですよ」
気にしているのは優雅だけだ、と言外に告げられ、言葉を詰まらせる。
健が気にしていないことはすんなり納得できた。
納得できてしまえば、どんな言葉で繕っても優雅の自己満足にしかなり得ない。覚悟が揺らいだように、優雅には違うと否定することができなくなってしまった
「……春野家まで案内します。どうせ王様に呼ばれる頃合いでしょうし、梓さんを呼んで来るので待っていてください」
答えを出せないでいる優雅を、刹那だけ静けさを宿した目で見つめ、息を吐くようにそう言った。
返事を聞くよりも先に部屋の中に入っていく悠。しばらくして梓を連れてきた悠はいつものように無邪気さを詰め込んだ姿で笑った。
「どうして案内してくれる気になったの? 俺は何も答えられていないのに……」
「迷って答えを出せないのも一つの答えですよ。僕好みではありませんけど、及第点ってところですかね」
道中、問いかけた優雅に悠はそう答えた。そしてこうも続けた。
「健兄さんを軽んじているわけではないならそれでいいんですよ」
向けられるのは無邪気な笑顔。いくつも見てきたそれは今までのものとは少し違う。
どこか偽物っぽさを感じさせた今までとは違い、本物らしい温かさを感じさせる。
岡山悠という人間に近付いた気分の優雅を他所に彼は「ここですね」と見つけ出した扉に手をかけた。
開かれた扉の中へ足を踏み込めば、前のときと同じように春野家の屋敷へと様変わりだ。
「おっ、今回は執務室の近くですね」
嬉々として告げ、悠は春野家当主の執務室へ続く扉をノックし、それとほぼ同時に開けた。
「どうも! 来ましたよ」
「ノックに意味を持たせろ」
「えー。別に問題なかったでしょう? ちゃんと行くって連絡もしてましたし」
悪びれる様子もなく答えた悠は無遠慮にソファに腰をおろした。
そこには春野家当主に対する敬意も、畏れも感じられない。どこまでも自然体で、どこまでも馴れ馴れしい。
「っとにお前ら兄弟は……後ろの二人も座ってくれ」
「健兄さんはどちらに?」
促されて座る二人を横目に悠が問いかけた。
健の名前が出て、微かに反応した優雅の肩に、悠も和幸も気付いているようだ。
「寝てるよ。陰鬼に伝えてあるから起きたらくるだろうさ。何か用でもあるのか?」
最後の問いかけは悠ではなく、優雅に向けられていた。反射的に目を逸らす優雅。
それを見て、何となしに察したのか、和幸は追及の視線を和らげる。
「優雅、お前が健を刺したという報告は受けている」
「……俺は罰せられるんですか」
「いや?」
罰が欲しい。そんな願いを和幸はあっさりと打ち砕いた。
「あくまで計画の一部という話だしな。公的にも私的にも俺が罰することはない。健にも責める気はないだろうし、お前が気にすることじゃない。といっても、簡単に折り合いがつけられることじゃないか」
息を吐いた和幸はふっと笑みを作った。前にしただけで圧倒されるほどの威厳が一瞬にして消え伏せた。
「何をやらせても完璧にこなすような奴に褒められたところで、劣等感が擽られるだけだからな。分かっててやってるのか分からないのが、ムカつくんだよな」
「分かります。こっちが何をしても、いっつも涼しい顔してますし、何考えてるのか分からないし、突然優しくしてきてもっと分からなくなりますし」
突然のように和幸が話し出した健への文句に悠が同調する。次々に文句を重ねる二人は楽しげで、それでいて言葉一つ一つに愛情が込められているような気がする。
二人が重ねる文句の数々は短い付き合いの優雅にでも理解できてしまう。
「周りやあいつ自身が思っている以上に健は情に流されやすい性質だよ」
零れるように呟かれた言葉が空気を静かに打った。
「お前の中には今、罪悪感が渦巻いているだろうが、少し軽くなっただろ」
「あ……」
今の今まで気付いてこなかった事実に気付かされて小さく声を漏らした。
手に残る感触が忘れさせてくれない罪悪感に隠されていたが、優雅の心の中にずっと積み重なっていたものが綺麗に消え去っているのを感じた。
ぶちまけたからだ。健に向かって、少しずつ溜まり続けていたものを一気に放出したからだ。
「今、優雅の中にある罪悪感だって健が上手いこと失くしてくれるだろうさ。後処理を怠るような奴じゃないからな。そうやって関係をゼロに戻して、お前は本来歩むはずだった平穏な学園生活を送ることができる」
和幸の言葉は理想を詰め込んであった。何もしなくたって優雅にとっていい方向に進んでいく。
なら、このまま大人しく流れに身を任せていた方がいいのではないだろうか。
考える優雅の中には罪悪感とは違う、もやもやとした感情が渦巻いている。これはなんだろう。
「でもそれって腹立たないか?」
ふと滑り込んだ声はいともたやすく優雅の心根に名前をつけた。
「好きなだけ利用して、あっさりと離れていく。こちらは健に振り回されっぱなしだ。たまにはやり返してやりたいと思わないか?」
「やり返すって……」
「別に物騒なことをするわけじゃない。――友人を名乗る、それだけでいい」
やり返すとはほど遠い言葉と裏腹に和幸は悪人さながらの表情を見せる。
健が人を遠ざけようとしているのは知っている。けれど、それがやり返すという言葉に繋がらない。
――航輝と俺は友達じゃないよ。
そう否定した健はどこか頑なさを持っているように思えた。
彼が人を遠ざけようとするのは、本人の性格とは違う何かがあるのだろうか。
そう思えば、和幸の提案も素直に納得できる。
「難しく考える必要はない。重要なのはお前が健と友達になりたいかだ。ま、あいつの優しさを知っているお前には聞く必要はないかもしれないが」
「……健の優しさ」
「ん? 心当たりないか?」
問いかける和幸は優雅が知っていて当然と思っているようにも見えた。
無表情で、無感情な健に優しさという言葉が遠いもののような気がするのに、やけにしっくりくるのは優雅が知っているからだろうか。
――健が優しいことを知ってるから、かな。
かつて柔らかな表情で語っていた良の言葉が聞こえた。
――俺は、誰よりも優雅が、キングに相応しい、と、おもって…る、よ。
消え入りそうな声で語りかける健の言葉が聞こえた。
優雅に対する皮肉だと逃げるように考えていた健の優しさに気付いてしまった。
気付いてしまえば、込み上げるものを止められない。
健は優雅に期待しない。応えられない優雅に失望しない。
あの言葉には真がこもっていた。健は心から優雅のことを、必死に培ってきた才能を認めてくれていた。
「俺は……健が恨めしかった。周りに恵まれていて、自由で……っ」
健が周りに恵まれているのは彼自身が周囲を恵んでいたからだ。
振る舞われた優しさの分だけ、周りは健に返したくなる。
家族の期待に応えるだけで自分からは何もしてこなかった優雅が得られるわけなかった。
そんな当たり前の事実に気付かせてくれた健に優雅も何か返したいと思ってしまった。
「俺でも健の力になれることがあるんでしょうか」
「さあな。でも近くにいたらそんなときもあるんじゃないか。ああ見えて健は足りないところもたくさんあるからな」
あくまでの優雅の選択に委ねるつもりらしい和幸は「さて」と空気を切り替えるために声をあげる。
「本題に入るとするか」
和幸が順繰りに見れば、一瞬で空気が引き締まった。
その場にいる全員の意識を一気に変えてしまうあたり、さすがは貴族街のトップだ。
「今回の件について健から報告は受けているが、一つだけ分からない部分があってな。そこを二人に確認したい」
春野家当主としての顔を見せながら和幸は二人に告げた。
一人関係ない顔の悠は横目で隣の部屋に続く扉を見ている。
そちらには意識を向けることはなく、緊張を表情に出す二人に和幸は相好に崩した。
「身構える必要はないさ。あの場にいた経緯を教えてほしいだけだよ」
「あの日は……メイドが訪ねてきて、健の正体を知る機会を与えるって言われて、それで」
「ついて行ったってわけか。そのメイドについて何か思い出せることはないか?」
わざわざそんな回りくどいことをするような人物だ。記憶を消されているかもしれないという疑いを込めての問いかけに、優雅が言葉を探すように眉根を寄せる。
無理に思い出す必要はない、と和幸が声をかけようとしたとき、
「――由菜様に似てらっしゃいました」
紡がれた梓の声が和幸の胸を貫いた。
「顔立ちまでははっきりと思い出せませんが、雰囲気がまるで由菜様のような方でした」
丁寧に言葉を選ぶような梓の声を聞いて、和幸は無関係面している悠へ目を向けた。
鋭い視線を向けても、気にしない悠は変わらず扉の方を注視している。
それは健のこと以外にまるで興味がないと示しているように思えた。
「お前なんだろ、悠」
呼ばれて、ようやく和幸の方を向いた悠はどこまでも無邪気な笑顔を浮かべた。
「怒ってるみたいですね。優雅さんや梓さんを危険な場所に導いたことに対してなら、僕も素直に謝りますけど――由菜さんのふりをしたことに対してなら、王様にそんな資格ありませんよね」
表情は無邪気なまま、声音だけは冷たい。その齟齬が悠の底知れなさを生み出している。
「まさか、僕に由菜さんを語ったりとかしませんよね?」
確かめるような問いかけで、場は完全に凍りついた。
威厳の中に気安さを混ぜていた和幸の空気に怒りとも、悲哀ともつかない激しさが宿る。
今まで以上の緊張感が降り立ち、優雅も、梓も、龍馬でさえも見守ることしかできない。
空気を変える誰かを待ち望む中、唐突に扉は開かれた。
「遅れてすみませんって、これ、どーいう空気?」
緊迫しきった空気をものともしない健はそれを作り出している二人を見て、首を傾げる。
普段通りで変わらない態度で、当然のように和幸の隣に腰掛ける。
「健……」
「他に座る場所ないんだから大目に見てくださいよ」
大きめのソファとはいえ、すでに三人が座っている中に座るよりも、空いている方を選ぶのはとても自然なことだ。
空気を壊す健は和幸へどこか的外れに言葉を返す。わざとなのか、わざとでないのか分からない。
得体の知れなさ、考えの読めなさで悠を上回りつつ、健は和幸の顔色を窺うように再び首を傾げた。
「すみません。どーせ、悠が性格悪くいじめてきたんでしょー? 後できつく言っておきます」
「性格悪くって酷くないですか! 健兄さんには言われたくないです」
「悠ほど悪くないよ」
「同感だな」
頷く和幸に悠がジト目で返す。そこには先程のような剣呑さは感じられず、優雅はほっと肩を落とした。
「話はどこまで進んでいるんですか」
「聞きたいことは聞けたって感じだな。後は、今後の話でもしておくか」
空気を変え、話の軌道を整えた健に和幸もまた肩の緊張を解いた。
「一先ず、優雅には一族の人間と婚約してもらうことになるだろうな。何人か候補は上がっているが、有力なのは本宮家だろうな」
今回の件は優雅を桜宮一族に引き入れるためのものでもあったのだと健が語っていた。
堕ちるだけだった鳳家を繋ぎ止める方法は、提示されるものを受け入れることだけだ。
元々、政略結婚されることは決まっていたので、特別思うこともない。恋愛経験がないのは幸いかもしれない。
「本宮家……巫女になれなかった失敗作の姫、ですか。キングと相性よさそうですね」
「失敗作の姫……」
「聞いたことありませんか? 期待に応えられず、巫女として生まれられなかったお姫様」
桜宮一族の中でも、上下は存在する。その中でもっとも分かりやすい指標は巫女の有無だ。
女児が生まれるたび、一族に連なる者たちは期待するのだという。
より強く、より有用な力を持った巫女が生まれることを。
「せめて、と巫女になること以外の期待を必死に応えよーとしているよーですよ」
その言葉を聞いて健が相性がいいと言った理由を悟った。
似ているのだ。優雅とそのお姫様は。
彼女となら政略結婚以以上のものをえがけるのだろうかとそう思った。