2-17
頭には霞がかかり、胸を中心に身体を駆け巡る激痛に蝕まれながらも、悠は目の前の光景を注視する。
変わらない無表情で、ローブを纏う人物と戦う少年。
ただ真っ直ぐに見つめる悠の目には親愛とは違う深い愛情が宿っている。
「弱味を指摘して相手を揺さぶる。悪くない手だ」
兄の姿を目で追う悠の耳に滑り込んだのは傍らに立つ清雅の声だ。
陰鬼が操る影によって拘束されながらも落ち着き払った態度を貫く清雅へと目を向ける。
「だが、無意味なことをしているようにしか見えないな。わざわざ揺さぶらなくとも、お前の兄なら楽勝だろう?」
「意味はありませんよ。意味のないことを意味ありげにするのが健兄さんですから」
殺意へと切り替えた攻撃を軽々と避ける健を目で追いながら表情を和らげる。
「強いて言うなら情報を得るため、といったところでしょうか。痛いところを突かれた人はいろんなところが滑りやすくなりますから。そうやって知識を、情報を積み重ねていつかに生かす。それが健兄さんの強みです」
有用な情報が得られる相手だと判断すれば、あらゆる手段で情報を引き出すのが健だ。
戦闘でも、日常でも、健のその目はささやかな情報すら見逃さない。
意味があるような行動に意味はなく、意味がなさそうな行動に意味はある。健の考えのすべてを把握するなんて悠には到底不可能な話だ。
「よく分かっているな。さすがは弟といったところか。いや、弟というのは嘘だったか?」
少し前の薬屋の台詞を思い出したらしい清雅の言葉。
毒を受けた状態でも、無邪気を貫き通していた悠の表情に分かりやすく複雑なものが混ざる。
「会話の流れ通りに受け取ることを推奨しますが」
「つまりそういうことか」
一転した悠の声は硬く、清雅は納得したように頷く。
「まあ、いいんじゃないか。自分にかけられた呪いを押し付けるような兄なんだ」
「弟を利用するうんぬんを貴方に言われたくありません。それに健兄さんは僕に押し付けたわけじゃありませんよ。これが僕に与えられた役目というだけです。僕の誉れですよ」
らしくないほど冷たく言葉を返す悠。声だけではなく目に宿る光も、その表情もどこか冷たさを感じさせる。
普段の悠からは想像できない姿に、今日初めて会った清雅は小さくを笑いを零した。
「お前の言う通りだな。弱いところを突かれるといろんなところが滑らせやすくなる」
「……別に滑らせたわけじゃありません。わざわざ隠すようなことでもないだけです」
「まぁ、そういうことにしておくか」
清雅の納得の仕方に不満げな悠の前で風が舞い上がった。
戦闘中の健が傍らに着地をしたことで沸き起こった風だ。迫る触手を一瞬で切り裂く健は横目で悠と清雅の二人を見る。
「清雅さん、あまり悠をいじめないでください」
次々と襲い掛かる触手をさばく傍らでの一言。切っ先から霊力の刃を放てば、薬屋との間に大きな溝を作り出す。
「健兄さん」
「すぐに終わるから」
素っ気なさを感じさせる声はいつも通りの、悠が好きな健そのもので小さく頷く。
すぐに終わるという言葉は嘘ではなく、溝を前に立ち止まる薬屋の足元が音を立てて凍りついた。
逃げる間を奪いながら、薬屋の周囲に展開されるのは透明な障壁。織りなされる四角の空間は内からの攻撃も、外からの攻撃もすべて通さない。
「閉じ込めてどうする気なのカナ」
「さてね」
片目の瞑り、とぼける健の目の前で炎があがった。
轟っ、と音をたてて燃え盛る炎は瞬く間に障壁の中を埋め尽くす。中にいた人間はひとたまりもない。
これで薬屋との戦いも終わったのだという悠の考えを否定するように、炎が障壁を突き破った。
荒れ狂う炎が広間を燃やし尽くす――その前にすべて凍りついた。炎が凍るという非科学的な状況の中で、氷は粉々に崩れ去った。
薬屋の死体すら残らない。いや、そもそも死体の片鱗なんてものはどこにもなかった。
「まさか自分の身体を炎を変えて逃れよーとするとはね。驚いたよ」
「こっちは炎が凍ったことに驚いているんですが」
正真正銘の終焉を見届けた健のどこか気の抜けた言葉に悠は呆れた声を重ねる。
「体調は?」
「毒はもうすべて分解しました。万全とは行きませんけど、ほぼほぼ回復しましたよ」
「そう。陰鬼、清雅さんの拘束を解いてあげて」
頷きとともに陰鬼の目から紅い輝きが失われ、清雅に巻き付いていた影が解かれる。
「いいのか。俺は一応、敵なんだがな」
「戦いますか? そこまで愚かな人間ではないと思っていますけど」
真っ直ぐな目を向けられた清雅は「そうだな」と息をつく。
力の差が分からないほど馬鹿ではない。清雅の実力では健を倒すところか、この場から逃げることすらできはしない。
「二人も合流したところですし、今後のことも含めてお話しましょーか」
陰鬼に連れられて、部屋に足を踏み入れたのは優雅と梓の二人だ。
とあるメイドの案内により、潜んでいた二人である。
「いつから気付いていらしたんですか」
「悠が来て少ししてから、かな。距離的に危険もなさそうなので放置させてもらいましたけど」
靄をかけていた毒を悠に移し、思考がクリアになったときにはすでに二人の気配に気付いていた。
ここにいる理由、というより原因に察しもついていたので黙認していたのだ。
「まぁ、とりあえず、俺が知り得ている情報を話ましょーか。推測も含めて」
ただ一人、状況をすべて読み切っている健は場をまとめる意味も込めてそう言葉を紡いだ。
「急に話をしても優雅たちには分からないんじゃないのか。さすがに話までは聞こえてないだろ」
「大丈夫ですよ。ちゃんと話も聞こえるように細工してあったでしょーから」
「まるでそれをした人物を知っているみたいな口振りだな」
「どーでしょーね」
惚ける健の視線を刹那だけ受けた悠は気付いていない振りを貫いていた。
視線を寄越しただけで行動に移す気のない健は改めて口を開いた。
「まずは薬屋さんについてお話した方がいーですかね。彼女の本名は大菅凛斗。医療系に力を入れている大菅家の一人娘でした」
「女だったのか」
「気付かなくても無理はありません。薬屋さんは変質の力を使って自らの身体を中性に作り変えているようでしたから」
それでも納得はいかなくて、ローブで全身を隠していたようだが。
性別なんてどうでもいいと口にしながらも薬屋は誰よりも気にしていた。矛盾もいいところだ。
そんな人間に同類と認識されていたと思うと反吐が出る。同じようにいじられた自分の身体を見下ろした悠は無邪気な表情を貫いたままで薬屋へ冷たい感情を落とした。
「どうしてそんなことを?」
「大菅家の当主は後継になる男子を強く望んでいたそーですから。コンプレックスが育つような何があったんではないでしょーか」
「大菅家の当主か。確か、数年前に殺されたという話だったか? 惨い死に方をしていたらしいな」
一時期、そこそこ噂になっていた事件だ。
大菅家の当主とその妻が遺体となって見つかった。それだけなら貴族街の中では簡単に消えてしまうだろうが、その惨い死に様から社交界の話題にのぼっていた。
曰く、当主は男性器を、夫人は子宮を切り取られていたという。
「下手人は娘という話でしたね。でも、薬屋さんの話は事件の前から聞いてた気がしますよ?」
「その薬屋と凛斗さんは別人だよ。きっと噂を聞いて真似するよーになったんじゃないかな」
「本物の薬屋さんは別にいるってことですか」
「そーだね。俺たちが依頼されたのは凛斗さんで合ってるけど。本物はまあ、今も闇市にいると思うよ」
お偉いさんに目をつけられさえしなければ、貴族街は比較的自由にできる場所である。
本物の薬屋は目をつけられない範囲というのをきちんと弁えているのだ。
「にしても、一体いつから薬屋の正体に気付いていたんだ? 最初からってわけじゃないだろ」
「話している間になんとなく、確信したのは素顔を見たときですが」
十年以内に起こった事件の資料を健はすべて目を通している。
大菅家の事件も例にもれず、下手人と言われている少女のことも写真という形で知っていた。
完全記憶能力とは違うが、健は覚えるつもりで記憶したことを忘れることはない。
(本当に規格外ですよね、いろいろと)
今回の件に関しても、健のその記憶力が十二分に発揮されている。
きっと戦いながら、頭の中で該当する情報を探していたのだろう。
「とまあ、薬屋さんのことはここまでにして本題に入りましょーか」
「それは楽しみだな」
健は薬屋という人間の本質を裸にした。今度は清雅の番だ。
分かっていながら、いや、分かっているからこそ、清雅は笑みを乗せて健の言葉を待つ。
「清雅さんは薬屋さん、凛斗さんのことも知っていたんですよね。鳳家は医療系に力を入れている。その手の噂に目を光らせていたんでしょう? 利用できる人材を探すために」
そうして見つけたのが凛斗だ。
法に引っ掛からない違法薬物の利用価値は計り知れない。
利用価値の高さと同時に不明瞭な部分も多く、正面から接触するに至るほど確たるものはなかった。
「だから大雅さんをけしかけたんでしょう?」
問いかけに答えない清雅はやはり続く健の言葉を待っている。
大雅は清雅が動かせるもっとも価値のない駒だった。その事実をあえて口にしない代わりに健は話を進める。
「処刑人に目をつけられたと知って初めて清雅さんは自ら動くに踏み切った」
それは尻拭いをするためではない。
弟を切り捨てることを想定していた清雅がそんなことのために動くわけがない。
鳳家を守るために動いたとも違う気がする。きっと、そもそもの清雅の目的が関わっているのだと考えて、はたと気付いた。
「そうか! 処刑人に近付くことが目的だったんですね。この場合は健兄さんに近付くための方が正しいんでしょうか?」
「別に大雅が立て直すならそれでもよかったんだがな。ま、結果は知っての通りだ」
大雅は死に、薬屋も死んだ。
一見、窮地に陥っているように思える清雅から余裕が消えないのは、当初の目的をきちんと果たしているからだ。
そして、そのことを健はどこかの段階で気がついていた。
「悠に情報を掴ませて、俺をあの場所まで誘き出したのも、密売人の一人を殺したのも、清雅さんですよね。理由は俺という人間の価値を見極めるためでしょーか」
「ご明察。期待通りどころか、期待以上の人間だったぜ、岡山健」
「それはどーも。続きを話しても?」
「いや、ここから俺が話そう」
不安を目に宿らせた優雅に一瞥をくれて、壇上に上がるように一歩前へ出た。
「その後の俺はしばらく事態を見守ることにした。弟に機会を与えるつもりでな」
機会はチャンスとも言える。失態を取り戻すためのチャンス。
結局、大雅は与えられたチャンスに応えることができなかったが。
「俺が動き出したのは稟王戦の後からだ。大雅が失敗したという話を耳にしたからな」
「失敗した大雅さんを犠牲にして、健兄さんに近付くことを選んだというわけですか」
回りくどい清雅の言葉を噛み砕く悠の言葉に誰かが息を呑む音が聞こえた。
「幸い、大雅は処刑人の正体を掴んでいたしな。いや、掴まされていたといった方が正しいか?」
「どちらでも」
「ご丁寧に待ち合わせの場所まで示してくれていたから、俺は優雅を使って答えたというわけだ。まさか、まともに受けるとは思ってなかったが。死なない確証でもあったのか?」
「どーでしょーね。死なないつもりではありましたけど」
交わされる会話の意味すべてを理解することは悠にはできない。分かるのは二人の間ではきちんと道理が通っているということだけだ。
清雅の言葉から推察するに、健は別に優雅に刺される必要はなかったらしい。そのことに対して文句を言いたい衝動に駆られるが、状況を読んで必死に堪えた。
「清雅さんはざっくり言うと味方だったということですか」
「本当にざっくりだね。遠巻きに協力してくれたという点ではそーかな。薬屋という手土産ももらったし、こっちから何か出した方がいーかな」
すっとわずかに目を細めた健の雰囲気が変わった。その小柄な身体からは想像できないほどに圧倒的な気迫。
空気が一気に張り詰め、悠ですらも思わず身を固くしてしまうほどに。
目を逸らせない一同の視線を一身に受けながら、表情を消した健は清雅に向き直って、
「――鳳家を桜宮一族に加える、なんてどーでしょーか」
貴族街で、最高の栄誉とも言える褒章を何でもない顔で示した。
「いいのか。そんな簡単に決めて」
「元々、そー言われてましたからね。鳳優雅が欲しいって」
「え……?」
ここで急に当事者へと持ち上げられた優雅に片目を瞑って答える健。
健が今回の仕事を受けたときからこの結末は用意されていた。清雅の介入により、複雑化してはいるが結果は変わらない。
「欲しいと言われるくらい、キングには才能があるってことですよ。あれの先見の明だけは信用できるからね」
桜宮家当主を「あれ」呼ばわりできる人間もそうそういないだろう。
相変わらず、不敬と罰せられても仕方のない言動ばかりするものだ。今更、肝が冷えることもないが。
「細かい部分は王様に指示を仰ぐ必要がありますし、今回は一先ずお開きとしましょーか。俺も疲れたし」
「最後のが本音ですよね、絶対」
「悠、キングと梓さんを送ってあげて。俺は清雅さんともー少し話していくから」
スルーされたことに頬を膨らませつつも頷き、状況に置き去りされている二人の背中を押し、手を取って廃墟を後にした。
「さてと改めて今後の話をしましょーか」
「わざわざ二人きりなるなんて、余程話しづらい事なんだろうな」
気配が遠ざかったことを確認してから口を開いた健へ、清雅は皮肉げに言葉を返す。
自分の立場を悟りながらも、清雅の表情も口調も軽い。
「曲がりなりにも優雅さんをけしかけたわけですし、全部を水に流すわけにもいかないもので。危険の芽はなるべく摘んでおきたいですし」
「今のうちに殺しておくってことか。まあ、仕方ないか」
「――いいえ」
あっさりと自分の運命を受け入れる清雅へ、健は否定を口にする。
「清雅さんには俺の協力者になっていただきたいなと思いまして」
物分かりのよさだけを見せていた清雅が初めて怪訝な表情を見せた。
今日初めて健の言動が清雅の理解を超えていた。
「危険の芽は摘みたいんじゃないのか」
「だから手元に置いておこうかと。貴方という駒をただ捨てるのは勿体ないですし。本当に危険な芽というわけでもないでしょう? 俺が清雅さんの期待に応えているうちは」
真を見抜く健の目は清雅の本質もきちんと見抜いていた。
そのことに思い至った清雅はふっと笑みを零し、
「さすがだな。お前に従おう、岡山健。これからよろしく頼むぜ」
そう言って健の提案に乗ったのであった。