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2-14

 昨日はあのまま、部屋に引きこもった。一日、何もせずにいる時間はむしろ、手に残った感触を鮮明に思い出させて優雅の心を抉る。


 これなら授業に出ていた方がマシだと、優雅は制服の袖に手を通した。

 あの後、健はどうなったのか知世がそれとなく調べてくれたらしいが、情報は何も得られなかった。


「本当に大丈夫ですか。もう一日、休まれても……」

「休んでるといろいろ考えてしまうから」


 落とした視線が捉えた指先が血に濡れているように見えて小さく息を呑む。

 瞬きの先にある指先には血なんてついていなかった。


 風呂で丹念に洗ったはずなのにまだ汚れている気がする。身体中から血の匂が漂っている気さえする。


「いってきます」


 罪の意識に囚われる心を誤魔化すように優雅は部屋を後にした。

 広がる青空と眩しすぎる陽光に思わず目を細めた。快晴を表す空が今は遠い存在に思える。


「あ、鳳君だ」


 美しい青い空と曇った自分の心の隔たりに、感情を黒く染め上げていた優雅を呼び止める声に心臓が大きく跳ねた。


 立っているのは、このアカデミーでもっともと言っていいほど有名な双子の姉妹。

 彼女は執事服をまとう人物と何やら話している最中のようだ。


「こんなところにいるなんて珍しいね……」


 早鐘を打つ心臓に気付かないふりで、当たり障りのない言葉を紡ぐ。


「健兄さんが体調を崩したって聞いてお見舞いに来てくださったんですよ」


 双子の姉妹よりも早く答えたのは執事をまとった人物、悠だ。

 無邪気を詰め込んだ言葉に優雅は、安堵に近いものを胸の中に落とした。


 健は生きているのだ。

 そもそもナイフで刺すように言ったのは彼自身。賢い彼が自分の命を危うくするような真似をするはずがない。


「でも、健君は今、春野家の方にいるらしくて。今から行くか話してたところなんだよ」

「優雅さんもご一緒にどうですか? 健兄さんもきっと喜びますよ」

「俺は……」


 行けるわけがない。どんな顔をして健に会えばいいというのだ。

 鮮明に残る感触から逃げるようにその手を握りしめる優雅。


「予定があるなら無理しなくてもいいんだよ?」

「良さんも授業で来られないらしいですから。顔色も悪いですし、無理は禁物ですもんね」


 気を遣う星の視線と、無邪気だけを映し出した悠の目。

 二対の目は震える優雅の指先に気付いているようにも感じとれる。


 もう二人には優雅が健を刺したことに気づかれているのではないか。

 そう不安になる心すらも見抜いているような無邪気な表情に健の顔が重なった。


「俺も行くよ」

「本当に大丈夫ですか。本当の本当に?」


 しつこく確認しているようで、悠は優雅の気が変わらないと分かっているように思える。

 子供を連想させる態度でありながら、底知れない何かを感じさせる。考えすぎだろうか。


「では、善は急げということで、さっそく出発進行と行きましょー!」

「でも健君は春野家にいるんだよね? どうやって行くの? 健君は特別な鍵みたいなの持ってたけど」

「僕はそんな便利道具は持ってませんが。まあまあ! 黙ってついてくれば悪いようにはしませんよう」


 含み笑いを見せる悠は先導するように男子寮の中に入っていく。


 階段を昇って、下りて、渡り廊下を通って、また階段を昇る。

 不審が募っていく視線を受けながら、悠は楽しげに歩を進める。そうして一つの扉の前で足を止めた。


「ここですね」

「こんなところに扉なんてあったんだね。この扉が春野家に通じてるの?」

「資格のある人だけが見つけられる魔法の扉です。どんなにデタラメに進んでも、来たいと思ったときに現れる不思議な扉なんですよ」

「デタラメってことはあの道順に意味はないってことか……」

「そうですね。ちょっと散歩だと思っていただければいいですかね」


 そんなことを言いながら悠は扉に手をかけた。

 開かれる扉、その先に広がる光景は春野家の廊下だ。屋敷の中に足を踏み入れるのが初めてな優雅にはどこに続く廊下なのかは分からない。

 ただ分からないのは優雅だけではないらしく、星や夏凛も首を傾げている。


「こっちですよ」


 唯一、場所を把握している悠が再び舵取りをしながら、一行は進む。

 時折、すれ違う使用人たちはまるで当たり前のように彼ら受け入れて会釈をする。


「まずは王様に挨拶ですよね! ということで」


 執務室の前で立ち止まる悠は先を譲るように一歩身を引いた。

 代表して星が扉を開ければ、驚く和幸は四人の姿を認め、すぐに表情を崩した。


「健の見舞いか。まだ眠っていると思うが」

「顔を見るだけだから」


 星の言葉を聞く和幸は確認するように悠を見た。健の主治医でもある悠はこの場にいる誰よりも健の体調に詳しい。

 問題がないとをサムズアップして答える悠はそのまま三人の方へ向き直る。


「なるべくお静かにお願いします」


 最後にそれだけ告げて悠は健が眠る部屋へと案内した。


 静謐な空気が一向を出迎える。たった一枚の扉を隔てただけなのに空気がまったく違う。

 足を踏み入れた瞬間、身体が軽くなったような気がする。


 そんな部屋の中で死人のように眠る少年が一人、健である。


「眠ってるだけなんだよね?」

「ですよ。初めて見る人はみんな、死んでるんじゃないかって驚くんですよね」


 震える手を隠すように尋ねる優雅に、悠は平然とした顔で応える。

 恐る恐るといったふうに視線を寄越せば、かけられた毛布は微かに上下しているのが見て取れた。


 生きている証拠を得られた優雅は一人、ほっと胸を撫でおろす。

 それは健が生きていることを喜ぶものではなく、自分が人を殺めていないという事実に対する安堵であった。


「……」

「星?」


 愛しい人の寝顔を見つめる星は無言で、夏凛が訝しげに首を傾げる。

 その表情は静かだ。無表情とは違う、ただ静かだった。


「少し、健と二人きりになりたいんだけどいいかな」

「構いませんよ。星さんなら信頼できますし」


 答える悠が優雅を一瞥したように感じたが、気のせいだろうか。


「さあさあ! お邪魔虫は退散しましょう」


 答えを見つけ出すより先に優雅は悠に背中を押されて部屋を追い出された。

 最後に見たのは健に寄り添う星の姿――。


 ●●●


 星、夏凛、優雅の三人をアカデミーまで送った悠は再び春野家を戻り、健の眠る部屋へ訪れる。

 今度は執務室を訪ねることはなく廊下にある扉を開けて――。


「ぶっ」


 中にいる人物の姿に驚き、慌てて扉を閉めた。


「人の顔を見るなり失礼な人ね」


 鼓膜を揺らすのは人の心を捕らえてやまない美しい声。

 傾国の美女が、整いすぎた顔にからかうような微笑を浮かべて立っていた。


 所謂ゴシックロリータと呼ばれる漆黒のドレスをまとい、黒髪をサイドテールにして結んでいる。

 悠が作り上げた静謐な空気が彼女の甘い香りで塗り潰されている。


「どうやって入ったんです?」

「正面からに決まっているでしょう。面倒な手続きはスルーさせてもらったけれど」

「不法侵入じゃないですか!? バレたらどうするんですかって心配は必要ないんでしょうけど」


 肩を落とした悠は魔性の声に混じって聞こえる笑い声にようやく目を向けた。

 先程まで眠っていたはずの健がベッドの上で笑い転げている。寝たふりだったことを知っている悠は特に驚くことはなく、代わりに不満げな表情を見せた。


「笑いすぎです。それとその頬、どうしたんですか? さっき来たときはありませんでしたよね」

「星につねられた」

「星さんに? あー、あれ怒ってたんですね。僕も同じ意見なのでフォローしませんよ」


 平然としているので忘れがちだが、健は今優雅によって施された怪我を負っている状態だ。

 呼び出された悠は眼前に広がる血溜まりに心底焦ったものだ。

 溢れた血ほど深い傷ではなくでとりあえずは安堵している。


「でもでも空気を整えないといけないレベルの大怪我であることには変わりないので大人しくしてほしいんですよ、僕は!」


 相手する気のないらしい健に頬を膨らませて答える。


「それで? なんでいるんですか。健兄さんのお見舞いというわけではないんでしょう?」

「半分はそれで間違いないわよ。もう半分は健に話があると言われたからね。どうせなら顔も見たいじゃない」

「なるほど。健兄さんの怪我も含めて、予想外のことが起こっているということですかね」


 結論付ける悠の言葉を聞く二人は揃って顔を見合わせる。


「まさか知らないの? 悠ともあろう人が本当に?」


 問いかける少女の顔は、先程と同じような微笑みが浮かべられている。悠をからかうことにスイッチを切り替えたことを意味している。

 助けを求めるために健を見ようとして意味がないと息を吐く。この件に関しては健は敵だ。


「うぅ、八潮さんがここにいれば……」

「八潮さんがいても悠の味方はしないでしょ」


 基本的に中立の立ち位置にいるのが八潮だ。最終的に健の方につくことを考えると信用はできない。


「まあ、茶番はその辺にして、大雅さんが殺されたんだよ。処刑人が殺したことになっている」

「最後に会ったのは私ということになっているのよね」

「だから確認のために連絡取ったというわけですか。実際はどうなんです?」

「そんな軽率な真似はしないわ」

「まあ、そうですよね」


 ヘマをしないという点で言えば、彼女ほど信用できる人物はいない。なんなら健の方がヘマをすると言えるほどだ。


 健が連絡したのだって確認のためというより、その背景について詳しいことを知りたかったからに違いない。

 何の成果も得られなかったことは口振りで二人の雰囲気を察することができる。手詰まりではないことも。


「キングを使って仕掛けてきた時点で誰が黒幕なのか教えているよーなものだよね」

「清雅さんが健兄さんを殺すように指示したと?」

「どーだろーね。殺す、まで指示していなかったかもしれない」


 意味が分からないと悠は首を傾げて健を見る。


「俺を刺したナイフには術がかけられていた。触れるだけでいいくらいの命令だったんじゃないかな。解除したけど」


 罠を嵌めがいがないとすら思わせられるほどのあっさりとした告白である。


 ナイフに触れたと同時に術の存在に気付いて、解除したのだろう。もしかすると触れる前に気付きはしていたのかもしれない。

 誰よりも長く傍にいる悠にも、健という人間の底は知れない。


「キングに俺は殺せないと判断した上での作戦だろーね」

「妥当ですね。鳳家の人はもう少し優雅さんを過大評価していると思っていました」


 その筆頭は殺されたらしい大雅だ。彼は優雅に期待して、期待しすぎて、失敗してしまった。


「ああ、そうか。失敗したから始末されたんですね」


 清雅が合理的な考えの持ち主という話を思い出して呟く。


 裏社会ではよくある話だ。

 どの道、処刑人に殺されることになっていたことを考えると、身内のためになれた分、よかったのかもしれない。


「こちらの作戦はどうするんです? 相手が変わった以上、今まで通りともいきませんよね?」

「んーん、変えないよ。あっちも乗ってくれるみたいだし」

「そういうことさらっと言うんですよねー、健兄さんは」

「あら、そこが健のいいところでしょう?」


 肩を落とす悠へ、今の今まで黙っていた少女が心からの笑みを浮かべてみせる。

 魔貌の魅力は完璧に引き出されている。惜しいのはここにその笑顔で心乱されるものがいないことか。


 健は変わらない無表情で、悠は「分かりますけど」と唸るような声を出す。


「ともかく! 変わらないなら話はこれで終わりですね! 健兄さんは眠ってください。ほらほら」

「平気だよ」


 いつもより格段に悪い顔色でそんなことを言う健へ、悠の顔が不機嫌に彩られるのも仕方のない話だ。


 健の身体は治癒の術と相性が悪い。

 細胞を活性化させる治癒を促す術をかければ、彼の身体はすぐに根をあげてしまう。

 その代わりにというというわけではないが、傷の治りが早い特性を持っているのでまだマシではあるが。


「まあ、作戦実行まで体力を温存しないといけないしね」


 無邪気ながらも、鋭く見つめる悠に観念した健はもぞもぞと毛布の中へ沈んでいく。

 小さく息を吐き、目を瞑って数秒、微かな寝息が聞こえてきた。


「やっぱり無理していたんですね」

「寝顔も愛らしいわね」

「手を出したらダメですよ」


「しないわよ」と素っ気なく答える少女はドレスの裾を揺らして身を翻す。

 入ってきたときと同様に正面から出ていくつもりらしい姿に「帰るんですか」と声をかけた。


 返ってくるのは微笑。妖艶さだけを宿した微笑は扉の中へと消えていった。

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