2-13
身体が軽く揺すられ、意識が浮上していく。薄く目を開いた先にあるのは見慣れたメイドの顔。
落ち着いた表情に彩られることの多い彼女の顔には切迫した色に包まれている。
「知世? 何かあった……?」
「お休みのところ申し訳ありません。清雅様からお電話が」
夜中に起こされたことと、どこか沈鬱とした知世の雰囲気に嫌な予感が過ぎる。
「もしもし……」
外れろ、と心の中で念じながら焦燥にかられた声で紡いだ。心臓の音が嫌に大きく聞こえる。
『優雅、急に悪いな。まだ寝てただろう?』
「いえ、それでその……何かあったんですか」
『ああ。落ち着いて聞いてくれ。……大雅が死んだ』
ひゅっ、と喉が鳴った。
嫌な予感を肯定する兄、清雅の声に広がる衝撃は大きなもので、優雅は動揺を隠せない。
死んだという言葉の意味が上手く咀嚼できず、大雅の顔が脳裏に浮かび上がった。
ほんの数時間前に話したときは元気そうだった。いつも通りに明るく軽薄な兄のままで、会話の内容だってちゃんと覚えているのに、それなのにこんな急に。
『殺されたんだ。お前も聞いてただろ? あいつは処刑人に目をつけられてた』
「処刑人が大雅兄さんを……」
『確証はないけどな。大雅と交流のあった薬屋に話を聞いた限りじゃ間違いない』
消えない動揺で乱れに乱れた優雅の内心とは裏腹に清雅は淡々と事実だけを伝える。
『仇を討たないとな』
その声は呪いのようだ。耳にすれば、優雅の心はその一言に縛られる。
清雅の声にはそんな不思議な魔力が込められている気がしてならない。
『幸い、大雅の置き土産のお陰で処刑人の正体が桜稟アカデミーの生徒だってことも分かってる』
「っ……そうなんですか」
脳裏に過った人物の顔を払拭するように優雅はそう言葉を返した。
どうして今、彼の姿が思い浮かんだのだろう。
最近、一緒にいることの多い彼と処刑人をイコールで結ぶとしっくりきてしまうのだ。
『岡山健。それが処刑人の名前だ。お前と仲のいい奴らしいな』
その名前を聞いたととき、優雅の中には「やっぱり」という納得が広がった。
彼以上に『処刑人』という肩書きが似合う人物を優雅は知らない。
『親しい奴相手なら隙を見せることもあるだろう。優雅、お前がやるんだ』
「俺は健に一度負けています。隙を見せるほど親しくもありませんし」
『一瞬だ、それだけあればいい。仇を討つための道具は送っておいた。朝一に届くはずだ』
検閲に引っ掛かるなんて心配は、清雅相手には必要のないものである。
その辺りは抜かりないのが鳳清雅という人間だ。けれど、彼の言葉に心配が一つもないというと嘘になる。
それは優雅自身の心配だ。さっき言った通り、優雅は健に一度負けている。
二人の間には圧倒的な差がある。それは多少の小細工で埋まるようなものではない。
『それで少し引っ掻く程度でいい。後はこっちで何とかするさ』
「何とかって……」
『そこはお前が気にすることじゃないさ。優雅は優雅の役目を果たすだけでいい』
正直、腑に落ちないことばかりだ。
清雅は何も話さない。
何か考えがあるのか。いつものようにただ優雅に期待しているだけなのか。
何とかすると言ったからには前者なのだろうと思う。思っていても、問いかけることができないのが優雅なので、結局ただ従順に清雅の判断に従う。
ずっと兄に従って生きてきた優雅にそれ以外の道はないのだろう。
ほんの数時間前に兄の死を聞かされ、ほんの少し前に仇を討つための武器を手に入れた優雅は、割り切れない複雑な感情をかかえたまま、いつものように教室へ足を踏み入れた。
途方もない緊張が胸を締め付け、息苦しい。
「あ、キング。今日は早いんですね」
優雅が胸の内に抱えたものを知らない顔で現れた健はいつも通りの振る舞いを見せる。
大雅を殺しながらも、いつもと変わらない態度で優雅に接する姿に怒りよりも恐怖が勝る。
「今日は早くに目が覚めたから」
「そーなんですね。お隣失礼します」
いつも隣に座っているのにわざわざ口にする律義さと謙虚さ。
断れば、きっと健は退く。けれども優雅が断らないことを知っての行動は図々しくもある。
「稟王戦の次の日なんだからゆっくりさせてくれてもいーのにって思いません? あんなこともあったのに」
一学年部門の決勝、健の対戦相手だった人物が血を吐いて倒れた。
のちに不正を働いていたことが公表され、優勝は健、準優勝は優雅ということで大会は終わった。
「大丈夫? 顔色悪いけど」
「気のせいって言いたいところですけど、まだ疲れが取れていないのが正直なところですね」
元々色白な健の顔は白を通り越して青白い。
体力がないのだと話していたことを思い出し、体調が万全ではないのは本当のようだと心内で納得する。
だから勝てるビジョンが湧くかと言われたら、そういうわけでもない。万全ではない健でも優雅はきっと敵わない。
「休んでもよかったんじゃない? 稟王戦の参加者は翌日休むことも珍しくないらしいし」
「授業に遅れるのは困りますからね。内容も難しいし、進むのも速いですし、一日休んだら遅れを取り戻すのは大変でしょー?」
「健なら問題ないんじゃないのか?」
謙遜を口にする健はまるで優雅も試しているように思えて、冷たい声が出た。
「そんなことありませんよ。買いかぶりすぎです」
「そんなことない。……俺は健に敵わなかった」
「稟王戦は俺もギリギリでしたよ? キングが自分を卑下する必要はないと思います」
「手加減してたんだろう?」
飽くまで謙遜の姿勢を貫く健に、何かが切れる音がした。
物心ついた頃から少しずつ溜まってきたものが許容量を超えて溢れ出していく。
「手加減されても俺は健に勝てない。入試だって、本当は健が一位を取っていたはずだ!」
「……キング」
健にそう呼ばれるたびに心が掻き毟られるような気分になる。
全教科満点入学したことで、優雅は「キング」の称号を得た。
けれども、それくらいの芸当は健にだってできたはずだという推測は、短い付き合いの中で感じ続けた彼の本質から来るものだ。
キングの称号を得られるのは一つの学年につき、一人だけ。
満点で入学した者が二人ならば、別のところで判断する。桜稟アカデミーの次は剣術だ。
つまるところ、優雅よりも健の方が「キング」を名乗るに相応しい――。
「健の方がその呼び方に相応しいんじゃないのか」
「そんなことありませんよ。キングの称号は俺には荷が重いです。柄でもないですし」
「だから俺に押し付けたんだろう!?」
「押し付けたつもりはありませんよ」
どんな言葉を投げかけても、健はのらりくらりの態度を崩さない。
乱れない。踏み込ませない。
決して感情的にならない健を前に感情を剥き出しにする自分が馬鹿みたいだ。
「処刑人だってバレると困るから……」
優雅の呟きに無機質な目がわずかに開かれる。
映し出されるのは驚きか、もっと別の何かか。
「俺に近付いたのは大雅兄さんを殺すため。良や航輝のことだって……」
疑問符を浮かべるように首を傾げる健。その姿に昂る感情が抑えられない。
冷めたままの健と、感情の熱に浮かされる優雅。二人の温度差は見る間に開いていく。
「どう思われていても友達だって、優しいことを知ってるからって……そう、言ってた二人すらも健にとっては道具でしかないのか? 二人の思いなんて関係なく利用できるかだけしか価値がないっていうのか!?」
「そーですよ」
簡単に頷く健に沸き起こるのは黒い感情。
羨ましかった。自分よりも才能があるにもかかわず、能力よりも健自身を見てくれる人物ばかりが周囲にいる。
それを簡単に切り捨ててしまう健が妬ましかった。
嫉妬だ。優雅の心の中を占めているのは兄を殺されたことへの怒りよりも、健に対する嫉妬だった。
なんてことだろう。今の優雅は兄の死をどうでもいいとすら考えてしまっている。
大雅の死を聞いたとき、衝撃は確かにあった。大きな衝撃を感じながら、同時に安堵もしていたのだ。
これで大雅から期待を向けられることはなくなる、そう思って。
「どうして大雅兄さんを殺したんだ……?」
とってつけたような問いかけは、兄を蔑ろにした心を偽るためのもの。
ただ静かに見つめる健はそんな心根を見抜いているように見えた。
「キング」
性懲りもなく淡々とした声は優雅のこともそう呼んだ。
真っ直ぐに見つめる目に射抜かれ、昂っていた感情が一瞬で鎮火した。
身体が硬直し、伸ばされた手すら振りほどけない。
「俺のことが憎いなら、妬ましいなら、これを使えばいーですよ。このナイフで、仇を討てばいい」
言いながら、健は優雅の懐からナイフを抜き取った。
清雅から送られてきたナイフである。気付かれていたのかと身を固くする優雅に健を抜き取ったばかりのナイフを握らせる。
「急所はここです」
優雅の手を持ち上げ、健はナイフの切っ先を自分の胸に当てた。
どうせできはしないと優雅を侮っているわけでもなく、絶対にしないという信頼を抱いているわけでもない。
その目に映るのは無のみ。
選択は優雅に委ねられている。
――優雅、お前がやるんだ。
いや、優雅に選択肢などありはしない。
優雅の道筋を示すのは目の前にいる少年ではなく、実家で報告を待っているであろう兄だ。
物心がついたときからずっと優雅は兄が示した道を歩き続けてきた。
今回も同じだとナイフを持つ手に力を込めた。
「っふ」
抵抗なく健の身体へと飲み込まれていくナイフ。赤い液体がナイフを伝い、優雅の手を汚した。
人に刃を突き立てたのは初めてで、知らず呼吸が荒くなる。
「ゆう、が……俺は、誰よりも優雅が、キングに相応しい、と、おもって…る、よ」
最後にそれだけ言った健の身体が後ろ向きに倒れた。優雅から距離を取っているようにも思える。
握られたままのナイフが健の身体から抜けて、大量の血が溢れ出す。想像を超える量に動揺し、数歩下がった優雅は血で濡れた手を呆然を見つめる。
逃げないと。
不意にそう思った。
この状況を誰かに見られたら、優雅が刺したのだと分かってしまう。
あと数分もすれば他の生徒たちもやってくる。考えている時間はないと血濡れのナイフと荷物を抱えて教室を飛び出した。
誰からすれ違ったらどうしようと早鐘を打つ心臓。大した距離でもないのに呼吸は乱れ、酸素を上手く取り入れられず、視界が明滅する。
何の解決策も叩き出せないままに必死に足だけは動かした。
そうして自分の部屋に辿り着いた優雅は驚く知世を無視して玄関にへたり込んだ。
「優雅様、どうなされ――っ」
優雅の手を汚すものの存在に気が付いた知世が小さく息を呑む。
赤い液体だったものは渇いて、今は黒ずんでいる。
それでもその正体は明らかなままで、聡明な知世は数秒の間で全てを理解し、柔らかな表情を見せた。
「優雅様、あちらでお休みになってください。私は入浴の準備をしてまいります」
血で汚れた服やナイフを見ても、知世はもう表情を変えることはない。
詳しくは聞かないまま、己の役目を全うする姿は使用人としても、貴族街の人間としても最適解だと言えるだろう。同時に優雅にとってもありがたいものだった。