2-12
目の前に立つ男はその目をギラギラと血走らせている。貪欲に勝利を求める口からは荒い息が零れた。
金泉風真。入学前、神童と呼ばれていた少年は今年で三年目の一学年だ。
今年、進級できなければ勘当をすると父親に言い渡されているという情報も手に入れている。
焦っていることが目に見えて分かる。何としてでも優勝して大量のポイントを手に入れたいのだろう。
切羽詰まっているのだ。薬に頼ってしまうくらいに。
「始め!」
聞こえた声と同時に地面を蹴った。反応できていない風真を狙った一閃が模擬剣を持つ手を弾いた。出来上がった隙を突くように剣撃が走る。
流れるような動作には無駄はなく、風真には避ける術はない。
「うっ、くぅ……ふっふっ」
健の攻撃を受けたその目には怒りが宿っており、力任せに模擬剣が振るわれる。
軽い挙動で避ける健へ風真はすばやく攻撃を重ねる。その全てを巧みに捌く健に風真の剣撃に怒りが上乗りされていく。
ここまで勝ち残ってきた人間のものとは思えない感情的な攻撃。
力押しで勝ってきたのだろうと考えながら、健は試合を終わらせるために一歩踏み込んだ。
一直線に、誰もが疑いようのない勝利の道へ。
呆気ない決勝の結末を期待外れと見つめる観客の前で健は密かに笑った。
抑えていた力を解放するように、風真にかけられた術のセーフティを外した。
瞬間、健の身体が吹き飛ばされる。
「……っ」
常人を超えた筋力で吹き飛ばされた勢いのまま、壁に背中を打ち付ける。
ずりずりと壁を滑り落ちた健は痛みに苦悶しながら、模擬剣を握り直す。
ぶつかった勢いの強さは崩れた壁を見れば一目瞭然だ。周囲に散らばる破片を踏みしめ、乱れた呼吸を整えながら風真へと目を向けた。
「ふぅ――」
血走った目は肉食獣のそれで、その口からは獣の唸り声が零れている。
そこに理性なんてものは存在しておらず、健を倒すことだけに集中している。
強すぎる薬の副作用だ。
風真は稟王戦の二日前、肉体を強化する薬を買った。負けられないからと普段の倍は強いものを。
それだけでも十二分に副作用が強いが、風真が今服用しているものは彼が買ったものではない。
悠がすり替えた健手製の薬だ。
効能も使われた粉も同じ。違いは鍵をつけられていたことだ。鍵が開かれれば、数十倍の力が得られる代わりに理性が失われる。
吹き飛ばされたことすら、計画通りの健は果敢にも風真へと立ち向かう。
「があっ!」
細腕による攻撃をものともしない風真は軽く健を薙ぎ払う。力任せの一閃でも、威力はかなりのもので健は大きく後退させられる。
やはり力の差は大きい。どれだけ洗練された攻撃でも、筋力の差があれば届かない。
「っ」
獣の本能のまま迫り来る風真を間一髪で避ける健。威力は強くとも、速度はそれほど速くない。
勝とうと思えば勝てる相手。
しかし、健は勝つためではなく時間稼ぎのための攻撃ばかりを仕掛けていく。
(とはいえ、正直しんどいな)
ただえさえ、激しい戦闘続きで疲労が蓄積している健としては早く終わらせたいという思いが強い。
力押しの攻撃を躱し、模擬剣で受け、力不足で押し負ける。
地面を転がる健は手から離れた模擬剣を横目で確認し、迫り来る風真をまろぶように避けた。
破壊された地面の破片が飛び散り、健の肌を傷つける。
模擬剣は遠ざかった。だからといって風真の猛攻が止まるわけでもない。
敗色濃厚。そんな文字を浮かび上がらせる攻撃に為す術もない健の前で風真の動きが止まった。
「ぐっ……がぁ、ぐ」
(そろそろかな)
急に苦しみ出した風真を見て、健は内心で微笑んだ。
表面では驚いたような表情を見せ、状況が読めていないふりをする。
「かはっ」
風真が吐き出した血が地面を汚す。赤い飛沫に驚き、心配する素振りを見せながら健は風真へと近付いていく。
こんな状況でも風真の目は貪欲なまでに勝利を求めている。
刹那だけ目元を緩ませた健はそっと風真に触れた。触れて、風真の意識を奪い去る。
「金泉さん!? 大丈夫ですか」
倒れた風真を軽くゆすった健は助けを求めるように審判に目を向ける。
突然の状況に慌ただしく動く運営。間もなくして担架を持った男性が現れ、健は全てを任せるように身を引いた。
「しばらく休憩とさせていただきます」
騒然とする観客に向けてのアナウンスを聞きながら、健もまた試合場を後にする。
表情を消し、無言で廊下を歩く健に近付く影。よく知る気配に振り向きもせず、小さな紙片を渡す。
そのまま相手の反応も見ないまま、遠ざかる気配を背中で見送った。
「治療をしますので医務室に……」
「はい、ありがとーございます」
決して少なくない怪我を負っている健に話しかけるのは運営の人間だ。
正直、健にとっては大した怪我ではないのだが、断るのも面倒なので素直に従う。
「驚いたでしょう? 急にあんなことになって」
「ぇ……ああ、そーですね」
会話が続けられるとは思っていなかった健は一瞬の間の後に言葉を返す。
稟王戦の運営は教師と生徒の有志、そして系列の使用人学校の生徒で構成されている。
制服姿から彼は桜稟アカデミーの生徒なのだと判断する。襟についた石の数を見るに二学年の生徒だ。
「結果はどーなるんでしょーか」
「今、上の方で話し合ってるようだけど、俺にはなんとも。最終的には王様が決定するだろうね」
「王様、ですか」
会話に乗ることを是とした健に気を許したのか、青年の口調が砕けている。
「さすがに王様の考えまでは分からないなぁ。話したことがあるわけでもないし」
一般論だと思いながら、健は頷く。
春野家当主はそう簡単に会える人物ではない。遥か高みに存在しているような人物だ。
その考えを想像することすら烏滸がましいと思うのが貴族街の常識。そんな常識に捕らわれない健は会話の傍らで和幸の考えを想像してみる。
(俺の勝ちっていう結論になるかな。さすがに再戦ってことにはならないだろうし)
風真の容態を見るに、再戦の可能性は低い。
こっそり悠をつけておいたので大事には至らないだろうが、薬を使ったことがバレるのは間違いない。
違反者として大会を棄権させられるのは間違いなく、下手すれば退学させられるかもしれない。
薬を使ったのは風真自身。健は利用しただけ。
その分の対価は悠という最高の治癒術師で支払っているので、それで終わりだ。
「ここが医務室です。決勝まで勝ち残った相手を話せて光栄でした」
「俺も楽しかったです。案内、ありがとうございました」
運営としての顔を取り戻した青年に愛想笑いを返しながら健は医務室の中へと踏み出した。
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「くそっ、優雅でも勝てねぇのかよ。このままだったら兄さんに……」
「お困りのようね」
心が、魂が震えるほどに美しい声が耳朶を打った。他の音が全て雑音のような気さえしてくるような声だ。
耳から入り込み、鼓膜を震わせ、脳を溶かすような声に大雅は振り返った。
「夕顔さん」
情報屋を営んでいる少女、夕顔だ。
焦燥と不安に駆り立てられていた大雅の心は彼女の姿を見ただけで高揚感に支配される。
傾国の、という枕詞すら勿体ないと思わせられる美しさは、目にするだけで天国にいるかのような幸福感を与えてくれる。
「話くらい聞くわ。処刑人のことでしょう?」
「実は……」
躊躇いもなく、大雅の口は滑り出していた。
一枚一枚服を脱がされていくように、胸の内が明かされていく。
「大変だったのね。私でよければ、いくらでも力を貸すわ。他でもない貴方のためだもの」
麻薬のような声が耳心地のいい言葉を紡ぐ。それだけ効果は抜群。
判断力を奪われた大雅に向けられる笑みは優しく、悪魔的な妖艶さだ。
胸を押し付けるように大雅へ歩み寄り、一枚の紙を懐に入れた。
「ここに彼を連れてきてくれたら私が何とかするわ。眠らせてしまえば、連れてくるのは難しくないわ。薬屋さんを頼れば簡単でしょう?」
「でも、上手くいくでしょうか。相手はアカデミーにいるわけで……」
「そうね。だったら、私の知り合いに声をかけておくわ。貴方ならきっと大丈夫よ」
先の失敗ですっかり怖気づいてる大雅を蠱惑的に励ます。
冷めた心と裏腹に、その態度は酷く情熱的だ。熱にうかされた大雅の手を少女が引き、二人の姿は闇夜の中に消えていった。