2-10
人の気配から遠ざかるように歩を進める健は校舎から離れた位置に広がる森の中で立ち止まった。
“はじまりの森”と呼ばれる森である。人間の手によって管理された森は史源町にあるものとも、紅鬼衆が暮らすものとも様相が違う。
手入れの仕方でここまで変わるのか、と冷静の皮を被るように考え、息を吐いた。
あれに呼び出されて苛立つ心をそうすることで落ち着け、それでも消えない剣呑さで目の前の物体を見つめる。
水晶に似た丸い玉。眩いほどの紅い光をまとい、木々の間を浮遊している。
「相変わらず、暇そーですね。羨ましい限りです」
〈お主こそ、相変わらずの態度よの。少しは友に見せるような柔らかな顔を見せてくれてもよいものだが〉
「寝言はその辺にして、呼び出した理由を教えてください。俺は貴方と違って暇ではないので」
紅い玉を見る目に鋭さが足される。
貴族街の頂点に立つ存在へ、不敬だと殺されてもおかしくないほどの態度。
けれど、紅い光は楽しそうに明滅を繰り返しており、意に介した様子はない。
〈いやなに、お主に一つ、提案をしてやろうと思ってな〉
どうせ、碌な提案ではないと思いながら、健は続く言葉を待つ。
〈お主といえども、友の身内を処刑するのは心が痛むだろう。望むなら、此度の件は捕らえるまでで許してやってもよい〉
「想像以上にくだらない提案ですね」
声には嫌悪と拒絶を込め、その目はどこまでも冷たく。
基本的に、誰が相手でも一定の距離感を保つ健のマイナスの意味での例外。
淡白そうに見えて、健には珍しい感情的な態度と表情だ。相対している時点で完全にペースを乱されている。
「俺は目的のためなら、どんな犠牲も厭わない。家族でも、恋人でも、貴方だって殺しますよ」
ずっと前から何度も口に出してきた健の信念。
ペースを乱され、らしくない姿を晒した今でもそこだけは絶対に揺らがない。
「それに捕らえた先でどんな目に遭うのかなんて、分かりきっていますし」
十中八九、研究区送りにされるに違いない。そこで非人道的な実験のモルモットにされ、死んだ方がマシと思えるような日々を余儀なくされるのだ。
どちらがいいかなんて、馬鹿でも分かる問いかけだ。
健としても、相手を弱らせて捕らえるよりも、殺す方が楽で助かる。
「それで? 本当にこのくだらない提案のためだけに呼び出したんですか。それなら俺は戻りますけど」
〈いや、ここからが本題だ〉
冷たい視線の中に「それを早く言え」という思いを込めて紅い玉の言葉を待つ。
〈あれは元気にしているか? 何か困ったことがあればいつでも――〉
「は?」
予想だにしなかった言葉を聞いた健の思考は停止する。
刹那の時を経て、徐々に言葉の意味を咀嚼し、目を据わらせる。
まさかついでの話よりもくだらない話だとは思わなかった。そして、そのくだらない話に付き合ってあげられるような慈悲を、健は彼に対して持ち合わせていない。
なので、そっと掌を向けて口を開いた。
「人を頼らないで、自分で伝えてください」
指先から放たれた斬撃が紅い玉を真っ二つに割った。地面に落ちる直前で塵となって消えたのを見て、小さく息を吐いた。
そして新たな気配を感じて、振り返った。
「やっぱり、あの方がいらしゃっていたんですね」
静けさを取り戻しつつあった森に美麗な声が零れ落ちる。
無口姫。サイレントプリンセス。今年、最年少で入学してすぐにそんな異名をつけられた少女。
その美貌や、彼女の持つ権力を求めて近づく者たちを無言の微笑で一蹴し続けたことが由来である。
誰一人として聞くことの叶わなかった声は、あっさりと健の鼓膜を震わせている。
「こうしてお会いするのは初めてですね。桜宮沙羅と申します。挨拶が遅れてしまって申し訳ありません、健様」
恭しく頭を垂れる彼女の姿など、袖にされ続けた生徒たちは想像もしていないだろう。
貴族街において『桜宮』を名乗ることが許されている者は限られている。桜宮家当主に認められることが条件であり、その地位は春野家当主に次ぐ。
そんな少女が外から来た人間に敬意を示し、様付けをする違和感。
彼女は知っているのだ、健の正体を。
「様付けは必要ありませんよ。俺は平生徒にすぎませんから」
「そう、でしたね。私としたことが、すみません」
「いえ、気にしていませんから。それよりあれに何か用でも?」
問いかける健に沙羅はどこか困ったように眉を寄せた。
姿を現したときの探していたような口振りとの齟齬を感じて、健もまた眉を寄せる。
「いつも気配を感じて追いかけて、逃げられてしまっていて……。その理由を知りたいと思っているのですけれど」
「理由ね。大したものじゃないと思いますよ。いつものストーカーかと」
つい先ほどまで「あれ」と話をしていた健は理由を知っている。
けれども、それを沙羅に説明してあげるほどの優しさを「あれ」に対して持ち合わせていない。
本当の想いは自分の口で本人に伝えればいい。
誰も逆らえないからこそ甘やかされ続けた彼を、健は甘やかしなどしない。今までさんざん振り回されてきた分、むしろ答えから遠ざかる言葉を選んだのはご愛嬌だ。
「何もないのならいいんですけれど……」
微笑の中に混ざる複雑な感情が見て取れた。
「喧嘩別れしたそーですね」
「ご存知でしたか。喧嘩、とは少し違いますけれど……私があの方の言葉を突っぱねただけで。宮様はきっと怒っていらっしゃるでしょうね」
「本気で怒ってたら命はないと思いますけどね」
沙羅はほんの三か月前まで桜宮本家で暮らしていた。
巫女の頂点たる姫宮として、当主のお気に入りとして。
一生外に出ることのないまま、桜に囲まれた屋敷の中で終わる生。それに終止符を打ったのは沙羅自身で、引き止める当主を突っぱねた上でここにいる。
誰もが恐れる相手に一歩も引かないその姿は素直に称賛したい。
「健さんは稟王戦に参加なさるとか。微力なら応援させていただきます」
「ありがとうございます。期待に応えられるよう、精一杯やらせてもらいます」
稟王戦で健が目指すのは一学年の部での優勝。
それが最大限の効力を発揮するための下準備も欠かすわけにはいかない。
●●●
門限が過ぎた寮を抜け出した少年は一直線に校舎を目指す。
東棟三階、最奥の部屋。
ノックを三回、一拍の間を開けて二回。返ってくるのは沈黙で、十秒ほど経った後に低めの声が扉越しに聞えてきた。
ようやく扉を開けた先に立っているのは黒いフードを目深に被った人物だ。
「身体強化の薬を。なるべく強いヤツを頼む」
「……強くした分、身体の負荷は強くなる。それでもいいのか?」
「ああ! 金ならいくらでもある。一番強いヤツを!」
「分かった」
差し出された袋を半ば奪うように受け取り、金を渡す。ポケットに袋を突っ込めば用事は終わりで、長居は避けたいとそそくさ部屋を出ていく。
戻る道は早足で、逃げるように歩を進めていく。早く、早く、と。
「きゃっ」
焦りが先立ち、人が向かってきていることに気が付かなかった。
小さく悲鳴をあげて尻餅をついたのは少女だ。短い髪で俯いた顔が隠されて、誰かは分からない。
それでも、こんな時間に寮を抜け出して、こんなところにいる理由なんて分かりきっている。
お互い、素性が分からない方がいい。
「悪い」
それだけ告げて立ち去る少年を、尻餅をついたまま見届けた少女は静かに息を吐いた。
スカートの裾を軽く払いながら立ち上がり、乱れた髪を整えた先で無邪気な笑顔を覗かせた。
「女の子が転んだのに行ってしまうなんてダメダメですね。まあ、目的は果たせたのでよしとしましょうか」
満足げに頷き、そっと白い粉が入った小袋を持ち上げた。
中身は小麦粉かなにかだろう。身体強化の術が付加された粉。
先程ぶつかった少年から奪い取ったものだ。代わりに彼の懐には別の粉が入った袋を入れてある。
効果をさらに上乗せした代物だ。
「精々、健兄さんの役にたってくださいね。少しだけ同情しますけど」
無邪気の中に冷たさを宿し、「さあて」と切り替えるような声を上げた。
「さっさとトーナメント表をすり替えて、健兄さんに報告しに行くとしますか」