1-17(幕間)
もはやお馴染みの暗闇の中、健は目を開く。広がるのは変わらない黒一色の世界だ。
何度も訪れている場所なのに未だに慣れない心が震えているのに気付かないふりで俯いた。
ぴちゃん
逃げ腰な健を責め立てるように水音が鼓膜を震わせた。心臓を鷲掴みにされた気分で息を吐き出す。
後ろに立つ存在に気付きながらも、健は敢えて目を逸らし続けることを選ぶ。向き合うことを選べない自分を情けないと思いながら。
「ようやく天が動き出したか」
怯えるように相手の反応を待っていた健の耳に届いたのは予想とは違う声。
驚いて後ろを見る。立っているのはやはり予想とは違う存在だった。
闇と同化する色の髪を一つにまとめ、昔の異国のような服で身を包んだ男性。今まで気付かなかったのが不思議なくらいの存在感を持った彼はその目を紅く輝かせている。
「珍しーね」
出来損ないの神、鬼神。万物を操る能力を持つ彼は闇の中に潜む存在の一人。
こうして面と向かうのはいつ以来だろうと考えながら微笑する。そこにいるのはずっと築き上げてきた岡山健だ。
「力を引き出せるよーになったとは違うんだろーね」
「そうさな。久しぶりにあれの気配を感じたから出てきたまでよ」
周囲を委縮させるほどの威厳を前にしても健は態度を変えない。多くの者が恐れる気配であっても、健にとっては慣れ親しんだものだから今更だ。
慣れたところでどうにかなるものではないと和幸なら言うかもしれないが。
「契約が履行される時も近いか」
「どーだろーね。力を制御できないうちはなんとも……そんな甘い相手でもないし」
「急く必要はない。その歳であれほど使える者はお主と他に三人といるかどうか」
その中には先代の宿主もいるのだろう。
歪められた世界によって運命を狂わされた先代。健によっていろんなものを奪われた先代。
簒奪者たる健に対しても鬼神は怒りを露わにすることはない。
どうでもいいのだろう。人間を宿主に定めた鬼神はその代償のこともあって代替わりが激しく、執着がかなり薄いのだ。
「たとえ十年二十年かかろうとも我にとっては大した時間ではないしな」
「二十年もかけるつもりはないよ」
何百年も生きている故の心の広さを見せる鬼神へ言葉を返せば、紅い目が細められる。
「……さて、我はしばし眠るとするか。次、言葉を交わす時はお主の悲願が叶うことが近いこと、期待しておるぞ」
圧倒的なまでの存在感が嘘のように消え失せる。やはり神というのは出来損ないであっても自由なもので、見届けた健もまた意識を浮上させる。
「……っ」
目を覚まし、習慣的に身体を起こそうとして走った激痛に苦悶する。
痛みを和らげるように呼吸を繰り返しつつ、頭の中を整理する。
最後の記憶は悠との会話。あの後、位置情報を頼りに来た悠が春野家まで運んでくれたのだろう。
あれから何日経ったのかは分からないが、彼に任せられたから後片付けは問題ないはずだ。無邪気で子供っぽい悠がどれだけ信用できるか、健はよく知っている。
一通り整理が終わった健は慎重に身体を起こした。そのまま、床に足をつけようとした健の横で扉が開かれた。
「あ」
開かれたのは和幸の執務室に通じる扉。現れたのは案の定、和幸だった。
小さく声を漏らした健は何食わぬ顔で床につけようとしていた足を毛布の中にしまった。
「隠したところで無駄だぞ」
半眼で、そう指摘した和幸は健の額にそっと触れた。敢えて言葉を返さない健はされるがままになっている。
やがて手を離した和幸はベッドの傍に置かれた椅子に腰かける。
「熱は下がったみたいだな。龍馬、悠に連絡を入れといてくれ」
後ろに控えていた側近にそれだけ伝えて、ようやく和幸は健に向き直る。
「夏凛を助けに行った時、俺が言ったこと覚えてるか?」
「なんでしたっけ?」
悪びれることなく答えた健へ返ってくるのは盛大な溜め息だ。
お互い予想していた答えに、お互い予想していた反応。だからこそ、その心情に大きな変化はない。
「無駄に記憶力がいい癖して、よくそんなことが言えるな。……はぁ、俺はこっちにも考えがあると言った。お前は大したことはしないと高を括っていたみたいだが」
事実、和幸は健の自由をこれ以上奪うことを良しとしていない。
監視役という役目を与えられてはいるものの、抜け道を探しては大目に見ることも少なくない。健もそれを知っているからこそ、ギリギリな部分で自由な振る舞いをしているのだ。
健のその態度は和幸が望んでいたものでもあり、それを奪うつもりは今だってない。だからこその妥協点だ。
「お前に護衛をつけることにした」
「はぁ!? …っ……」
らしくない大声をあげた健は全身を駆け巡る激痛に蹲る。落ちた頭を軽く叩く和幸を恨めし気に見上げれば、悪戯めいた笑みがそこにあった。
「反論は聞かない」
「……誰をつけるんです?」
「陰鬼だな。影薄いし、ちょうどいいだろ?」
本人がいたら文句を言いそうな和幸の言葉にあえて返すのをやめて寝転がる。目を瞑り、諦めを示した。
これは対価だ。自由を手に入れるにはそれなりの対価が必要になる。
それは健自身が悟流に向けて言ったことであり、そう思えば護衛の件だって受け入れられる。行動が制限されたわけではないので、まだマシだと自分を納得させる。
「あまり無茶するなよ。お前が倒れるたびに肝が冷えるんだ」
和幸の手が優しく健の頭を撫でる。
約束はできないから健は言葉を返さなかった。
健にとってこの世で最も価値のないものは自分自身だから、これからも目的のための犠牲として一番最初に自分を選ぶだろう。
〇〇〇
回想にふけっていた健はそのまま思考を現代へと流していく。
あれから三年経ったものの、帝天が関わっていたとはっきり言える事件は一つ、ムキリが起こしたもののみ。他にも気配を感じたことはあったが、大事にはならなかった。
ムキリの件に関しても健に対する被害はほぼないと言っていい。
帝天が嘘を言っていたとは思えない。何か手違いでも起こったのか。
三年前と今の違いは何か考える健の脳裏に藍色の影が過ぎった。
神生ゲームに関係する違いとして一番大きな違いと言えば、武藤海里が史源町に戻ってきたことにつきる。
(海里さんが史源町に戻ってきたのは帝天の影響だと思ってたけど……もしかして逆なのか?)
思考を巡らす健は自分の呼ぶ声に気付き、ふと後ろに目を向ける。
立っているのは鼠色の髪を三つ編みで一つにまとめた青年。頭に生えた二本の角を長い前髪から覗く真紅の目が彼の正体を明らかにしてくれる。
「どうかなされたんですか? お加減でも……」
「んーん、考え事してただけ」
あれだけ不満だった護衛も三年経てば慣れるもので、最近はあまり気にならなくなってきた。
それでも不満は不満だが、ちょっとした用事なら頼まれてくれるので要は受け取り方次第だ。
「そろそろ時間になりますよ」
「ん、分かった。ありがとー」
立ち上がった健はいつものパーカー姿でもなければ、春ヶ峰学園の制服でもない。桜稟アカデミーの制服に身を包んだ健は入学式に参加するため、部屋を後にした。
しばらく更新が遅くなると思います。。。。
具体的には12月くらいまで