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研究区を訪れてから、あれだけ乱れていた健の心はすっかり落ち着きを取り戻している。
いつだって欲しい言葉を、欲しいタイミングでくれる想い人の姿を瞼に映し出すように、健は瞬きをした。
「情けないな、俺は」
感情を切り離すなんて嘯きながら、肝心なところでは星に頼りきりだ。
捨てきれない弱さを抱えた健は岡山家――自宅の前に立ち、息を吐き出す。春野家の分家に当たる家というだけあって、屋敷といえるほどではないものの、それなりに大きな家だ。
貴族街に入り浸っていることが多い健からすれば見劣りするものがあるが、一般的には十分に広いと言える、そんな大きさだ。
今日は休日。それもお昼時を二時間ほど過ぎた時刻で、家には誰かしらいることだろう。
誰がいたとしても、健の態度は変わらないと玄関の扉を開けた。
「あ……と、健兄……」
真っ先の遭遇したのは三つ下の弟である、岡山友希だった。ちょうどリビングから出てきたところだったらしい。
友希は久しぶりに見た兄の姿に隠しきれない困惑の表情を見せる。
およそ家族に対して見せるものとは思えない他所他所しい空気を健は変わらない無表情で受け入れる。
「ただいま」
「お、おかえり。……ぁ、なんか、手紙届いてたぜ。リビングに置いてある」
「そ、ありがと」
緊張を全身で表す友希に対する健の態度は淡白すぎるほどに淡白だ。距離を感じさせる二人の姿はとても兄弟には見えない。
それもそのはずで、岡山健という人間はこの岡山家から外れた存在なのである。
弟に愛着はある。血の繋がりを思う情もある。家族は健にとって大切なものの一つだ。
それでも、いや、だからこそ、健は家族から、岡山家から距離を置こうと思うのだ。
すれ違う間際、健はふと立ち止まって友希を見た。こうして面として向かい合うのは久しぶりの弟の姿を目に入れ、口を開く。
「身長、俺より高くならないでね」
「へ?」
怪訝そうな声を聞きながら、健は再び歩き出す。和らいだ目元と綻んだ口元を隠すように――。
歩みを再開させた健はそのままリビングへ向かう。癖のようにリビング内の気配を探りつつ、扉を開けた。
いるのは一人。岡山家に住む人物の中で、もっとも健に身近な人間である。
「悠」
決して大きくない呼びかけに、ソファに腰かけていたその人物が振り返る。
丸い目をさらに丸くさせて健を見た悠はすぐに破顔した。無邪気を詰め込んだ笑顔で健を歓迎した悠は、今の今まで読んでいたらしい手紙を見せるように少し持ち上げる。
友希が言っていたのは、どうやらあの手紙のことのようだ。
「果たし状って言えばいいんですかね? まだ見つかっていない巫女さんたちもいるみたいですよ。罠だってバレバレなお誘いですけど、どうしますか?」
手紙を受け取り、目を通しながら一考する。
差出人は悟流だ。内容をざっくり言うと、呼び出しと言ったところだろうか。悠の言う果たし状も間違いではないものの、はっきりと決闘の申し込みが書かれているわけではない。
来週の土曜日、指定の場所までくれば、巫女を返す。そういった旨のことが書かれている。
考えるまでもなく罠だ。100%。完全に。絶対に。罠ではない可能性が一つも見つからないくらいに。
「分かってても、行くしかないかな」
「一人で、ですか? 危険なのは承知の上なんでしょうけど……」
「まーね。相手は俺のことを舐めてくれてたみたいだし、もしかしたら快勝できるかも」
冗談のような口調の健に、悠は不満げな表情を見せる。言いたいことは全て膨らませた頬に詰め込んだ。
「悠にはチャットルームの方をお願いするよ。何件か、依頼来てたし」
「……雑用ですか。いいですけどね。健兄さんからの頼み事なら、どんなものでも完遂してみせますよ」
不満げな表情を一変、やる気を漲らせた悠を他所に、健は今後の動きについて思考を巡らせる。
呼び出しは約一週間後。それまで、ただ待っているだけの健ではない。
悟流への対処は後回し。巫女の捜索も後回し。大きな仕事は全て手紙を尊重することにして、残るのは細かい雑用のようなものだ。
「確か、明日は八潮さんが休みだったな」
極秘情報である門衛のシフト状況を思い出した健は予定を決めたと仄かに笑んだ。
●●●
昨日の今日でスラム街を訪れた健の傍らには一人の青年が立っている。
休日に呼び出された八潮である。今日はいつもの門衛の制服ではなく、私服を身に纏っている。
ブランド物ではないとはいえ、スラム街の中では安物で揃えた健の服装よりも目立つ格好である。場違い感を味わう八潮は苦い表情を浮かべている。
澱んだ空気。突き刺すような悪臭。生者のものなのか、死者のものなのか、もはや分からない視線。居心地の悪さを上げたらキリがない。
綺麗な場所で生きてきたとは言い難い八潮でも、この場所に長時間いたいとは思えない。
「ようそないな平気な顔をしてられるなぁ」
「慣れ、かな。こんな奥まで来たのは久しぶりだけど」
スラム街は奥に進めば進むほど、治安も衛生環境も悪くなっていく。定期的にスラム街に訪れている健ではあるものの、いつもはヒデの住処までが精々で、さらに奥まで行くことは滅多にない。
ただ歩いているだけでトラブルに巻き込まれる可能性も段違いに高いので、本当に用があるときしか来ることはない。つまり、今日は本当に用があるというわけだ。
「次、右やな」
表情に苦々しいものを混ぜながらも、八潮は自分の仕事を疎かにしはしない。
指示を受けた健は微かな返事とともに右へと曲がる。
八潮に言われるがままに歩みを進める健の足取りに少しの迷いはない。それだけ信用されているという事実が、八潮には少しだけ擽ったい。
「それにしても、急に呼び出されてびっくりしたで。なぁんも予定なかったから、よかったけど」
「ごめんごめん。こーいう時、八潮さんがいると楽だからさ」
「隠さへんなぁ。健の役に立てたら、俺は満足やし、好きなようにしてくれたらそれでええけどな」
あの日から八潮は健に付き従うと心に決めている。
命を差し出したって惜しくない。命令だったらきっと喜んで死ぬだろう。
なんて言えば、健は複雑そうな表情を見せるだろうから、心の奥にしまっている。表に出さなくても八潮自身の思いは変わらないので少しも問題ない。
(初対面で俺の心を見抜いた健には気付かれてるだろうけどな)
ぴくりとも表情を変えない健を横目に見る。相変わらず何を考えているのか分からない。
もっと付き合いを重ねれば、少しは分かるようになるのだろうか。いや、仮に分からないままだったとしても、八潮はそれで構わないと思う。
「ここだね」
考えながらもきちんと仕事をこなしていた八潮の力により、二人は崩れかけの建物の前に立った。
元の形が分からないくらいに崩れた建物で、足を踏み入れるのは少しばかり憚られる。
廃材で作られたヒデの住処の方がよっぽど頑強に作られているように見える。
「入った瞬間に崩れるなんてあらへんやろうな……。うわっ、今にも落ちてきそうな天井やな」
隙間から空が覗ける天井を見上げる八潮の横を健が通り過ぎる。続いて踏み入れる八潮の足取りは慎重だ。
体重を乗せた瞬間に床が抜けそうなので、一歩一歩、力を入れないように細心の注意を払う。隠し持っているナイフを置いてくればよかったと少し思う。
「躊躇ないなぁ」
「悟流さんたちが出入りしてるんだから大丈夫だよ。……と、あった」
不意にしゃがみ込んだ健が視界から消える。そっと下へ向ければ、地面に描かれた魔方陣に触れているようだった。
触れる健の目が紅く輝き、生み出される幻想的な光景を八潮はただ見つめる。
芸術的なことは何も分からない八潮でも、何かに残しておきたいと思うほどに美しい情景だ。
軽口を叩く空気でもないので、静かに健を見つめ続ける。と、無機質な目がこちらを向いた。
「八潮さん、ここ触って」
「ん、お、おお」
見惚れていた八潮は回っていない頭で頷き、言われるがままに魔方陣に触れる。
「これ、何の意味があるん?」
「陣と八潮さんを繋げてるんだよ。門衛的にも不法な出入りは把握したいでしょー。俺的にも楽だし」
「そない熱心に門衛やってるわけやないけど」
なんてことを言いつつも、嫌ではない。門衛としてというよりは健の協力者としてできることがあるのなら喜んでするという思いの方が大きい。
「にしても消さんでもええんか? 外の人間が監視の目ぇかいくぐって出入りできるわけやし、お上さんがよう思わへんのと違う?」
「その辺は大丈夫。俺と八潮さんが把握できるわけだし……。消して、別の場所に作られる方が面倒でしょ? ほら、次行くよ」
健が言うには、同じ魔方陣が後二つあるらしい。どれもスラム街の中にあるのは確定のようで、八潮は再び道案内するために集中する。
些細な霊力の残滓でも見つけられるのが、八潮の特技であった。と同時に、隠蔽の術も得意な八潮は、通った道から二人の形跡を完璧に消している。
もっとも潜伏に慣れている二人の消すものなんて、どうしたって残ってしまう霊力の残滓くらいだが。
「しっかし、これって処刑人の仕事なん? 思ってたより手広くやってるんやなぁ」
「調査から後片付けまでは一応ね。先代たちがどーだったかまでは知らないけど、俺はそー思ってる。殺す人間を減らすための努力はするよ」
健は別に殺したくて処刑人をしているわけではない。ある程度の自由を得るために必要なだけで、こういう雑用で後々の仕事が減るなら、断然そちらの方がいい。
楽になるためなら面倒と思える作業だって喜んでする。協力者だって好きに勧誘する。
「と、これで最後かな。思ってたより早く終わったよ。ありがと、八潮さん」
「礼には及ばんよ。道案内くらいで大したことしてへんし」
「十分、助かったよ。やっぱり八潮さんは頼りになるね」
変わらない無表情の褒め言葉は、本音かどうか分かりづらい。けれど、八潮は素直に受け入れて、照れた笑みで頬をかいた。
「健に褒められるんは世辞でも嬉しいな。ま、いつでも頼ってくれてええよ」