1ー13
地に足がついているのに身体は浮遊感を感じる不思議な感覚の先で視界が晴れた。
森の中から白い建物が立ち並ぶ景色にシフトチェンジだ。
大きな建物がいくつも建っているのにもかかわらず、人の気配をまったく感じない。ただ異様な空気だけが場に満ちている。
研究区。ここでは合法から非合法まで様々な研究が日夜行われている。
ここにいる研究員はみな、不干渉で鎖国的。自分に興味のあること以外に価値を見出さないような人間ばかりだ。
己の欲望に忠実で、日のほとんどを研究にあてている彼らが外出することはまったくといっていない。そのため、住人の人数に関わらず、研究区はいつも異様な静寂に包まれている。
「ここからどうするのかな」
「幻鬼ってたまに性格悪いよね」
「ははは、瀧鬼にもよく言われるよ」
意に介していないどころか、直す気もないらしい幻鬼の笑顔を黙殺する。
幻鬼は穏やかかつ爽やかで人好きのする笑顔通りの性格をしている。ただ、狙ったようにその人の心を揺さぶるような発言をするだけで、悪い人物ではない。性質が悪いだけで。
引き時もちゃんと弁えていて、無言を貫く健に言葉を重ねることなく追随している。
「やっぱりここか」
並び立つ白い建物の中で、一つだけ離れた位置にある建物の前に立つ。
一際、異様な雰囲気を醸し出しているように思えるのは健の心情を表しているからか。
「大丈夫かい? なんなら僕だけで調査してくるよ」
「ん、大丈夫」
大きく息を吐き出して心中で渦巻くざわめきと別れを告げる。大丈夫と自身の心に言い聞かせながら止まっていた足を動かす。
扉に触れれば、簡単に開いた。鍵はかかっていない。そのまま無人の受付の前へ立つ。
壁や床は白一色で窓はない。他の研究所に比べると狭い受付を一瞥で通り過ぎ、さらに奥へ。
厚く重い扉を全体重かけて開けた健の鼻孔に鉄の香りが突き刺さった。目を見開き、息をつめる。
真っ白で埋め尽くされているはずの空間は赤黒い液体で汚されている。一歩足を踏み出せば、床に作られた血溜まりが音を鳴らした。
視線を下に動かせば、白衣を赤く染めた人たちが倒れている。それを見下ろす健の身体もまた、血で汚れていて――。
「――。健っ!」
「っは! ……はぁ、はぁ、はー。ごめん、ありがと」
「気にすることはないよ。僕はこのためについて来たんだから」
笑う幻鬼の目は紅く輝いている。
五感を操る力を駆使して現実に引き戻された健の視界には閑散した研究室が映っている。
汚れ一つない白一色の世界。鼻孔を擽る鉄の臭いもない。
「奥へ」
乱れた呼吸を整えて一言。幻鬼は心配げな視線をくれるだけで何も言わない。
長い廊下に続く扉を開く。距離感の掴めない純白の廊下をただ真っ直ぐに、並び立つ扉には目もくれず進んでいく。
数えて七つ目の扉の前で立ち止まる。部屋の中、得体の知れない薬品が並ぶ棚を横にスライドされば下へ続く階段が現れた。きっとこの先に健が求める情報がある。
「それにしても思っていたより綺麗だね。まるで少し前まで誰かが使っていたみたいだ」
「実際使っていたんでしょーよ。もしかしたら今も使われているかも」
無言を打ち破る言葉はタイミングがよくて、乱れる心を無視するように返す。
幻鬼が一緒でよかった。目を紅く輝かせる彼は今もなお、健を現実に引き戻してくれる。
最後の一段を降りて、扉を開く。さっきから扉を開いてばかりだ。
扉の先にあるのは荒れた研究室。異様なまでに整頓が行き届いていた今までの道のりを考えると、驚くべき変化だ。
「やっぱりここで何かの研究をしてたみたいだね」
「問題は何の研究なのか……あれ、これは……。何かの血、かな」
各々部屋の中で調べていれば、幻鬼が何かを見つけたらしい。読んでいた書類から顔を上げた健は幻鬼が掲げる小瓶を凝視する。
中身は赤い液体。幻鬼の言う通り、何かの血のように見える。
「……っ」
何の血なのか、考える健へ存在を主張するように古傷が疼いた。思わず胸を押さえ、疼きを落ち着けるように呼吸を繰り返す。
と、何かが割れる音が耳に届いた。
微かな血の匂いが漂う。幻鬼が持っていた小瓶が割れているのを横目で見て、口を開こうとしたところで視界が暗転した。
いや、違う。急に景色が変わったからそう勘違いしてしまったのだ。
健は台の上に寝かされている。部屋の中には複数の科学者があり、そのうちの一人が近づいてくる。
直後、絶叫が駆け抜けた。激しい痛苦に捩る身体を、健は他人事のように考える。
実際、他人事だ。この景色は過去に起こったことであり、健が経験したことではないのだから。
「……これは、悟流さんからのプレゼントかな」
現実に戻った健は呟き、手に持っていた書類に視線を落とす。
書かれているのはここで行われていた実験の概要だ。そして被験者No.16についての情報。
あの小瓶も、書類も、おそらくは悟流が残したものだ。きっと助けを求めて――。
「何て書いてあったんだい?」
「宿主の血を加工して、巫女に似た存在を作り出そうとしていたみたいだね。被験者は適性のある人をいろんなところから連れてきたってところかな」
書かれていた内容を噛み砕いて伝える健の目に剣呑なものが宿る。立ち昇る殺気は幻鬼の笑顔を苦笑に変えるくらいのものだ。
基本的に感情の起伏が穏やかな健が分かりやすい表情を見せる対象は少ない。
「そんな実験を貴方が黙認するわけがない。いや、むしろ主導してたんだろ。下手なストーキングなんてしてないで、姿を現したらどーかな?」
〈肯定したところで状況は変わらぬ〉
紅い光を纏った玉がどこからともなく現れた。水晶に似た玉は媒介で、貴族街の頂点に立つ存在の声を届けるものだ。
その存在は引きこもりで、霧と桜に覆われた場所から出て来ることは絶対にない。
さらに剣呑な気配を纏わせる健と玉の間に立つように幻鬼が一歩、前に出る。
「どうしてそのようなことを?」
〈くだらん質問だな。遊興以外の何がある? ただの暇つぶしだ。もっとも、その暇つぶしにもならなかったがな〉
「その尻拭いを俺に回してきたってことか」
〈不思議なことはあるまい。処刑人はそのためにあるものだ。……それとも、あれに同情でもしたか?〉
挑発するような物言いを聞いて、幻鬼の顔に緊張が走る。変わらぬ苦笑の顔に冷や汗が流れた。
〈救いたいと思うのであれば、お主の権威を使えばよい。我の言葉を退けることなど容易いはずだ〉
常に冷静な健に挑発など効果はない。ただ今は相手とタイミングが悪かった。
幻鬼は苦笑の裏で健を落ち着ける方法を考える。五感を操って無理矢理落ち着けるにしても、健に本気で抵抗されれば、かき消されてしまう。
結局、言葉で説得するしかないと口を開き、目を丸くする。
笑顔だった。表情筋が死んでいるとさえ思わせる無表情少年とは思えないほどの満面の笑み。
「俺のやることは変わらない。処刑人として言われた通りに仕事をするだけです」
言い切り、笑顔を消した健はくるりと踵を返す。話は終わりと歩き出した健の後ろ姿を紅い輝きを放つ玉は静かに見つめていた。
何を考えているのか分からない無機質さを一瞥し、幻鬼は慌てたように健を追いかけた。
紅い玉との邂逅後そのまま帰路についた健は、貴族街と周りの町を隔てる巨大な塀から飛び降りる。軽々と着地した彼は相変わらずの無表情で、その内心はかなりの荒れ模様だった。
それに気付ける者は一体、どれだけいるだろうか。
幻鬼とは森に戻ってすぐに別れた。感情に聡い彼は気付ける数少ない存在の一人であり、気にかけていたのを適当にあしらった。
そうすれば、ほとんどの人は健の中に踏み込んでくることはない。健のことを理解している人物こそ、深く踏み込むことをやめる。
違うのはただ一人――。
「やっぱり会えると思った」
一言。それだけで健の心を落ち着ける不思議な魔力を持った声が鼓膜を震わせた。
思い描いた通りの人が立っている姿を目に映し出して、柔らかく目を細める。
婚約者にして最大の理解者。誰よりも甘くて、誰よりも容赦ない少女。そして、今一番会いたくなかった人物だ。
会えたことを喜んで笑う彼女は、健のそんな思いも全部分かっている。
「俺は会いたくなかったよ」
分かっているからという甘えで口にした言葉に、やはり星の表情は変わらなかった。
逸らさない目を慈愛で和らげ、軽く握られた拳を手に取った。
「大丈夫。怖くないよ」
星は逸らさない。だから、健の方が先に目を逸らした。
これ以上、弱い心を晒したくない。星相手にそんなこと意味がないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
そのことに何も言わない星は包み込んだ手を握り直して横に並ぶ。
「健の手がどれだけ血で汚れていても私は怖くない」
ゆっくりと歩き出しながら、はっきりと告げた星の声は震える心を撫でつけ、乱れた感情を落ち着ける。的確に、柔らかく。
「私は健に利用されたっていいよ。健の優しさも弱さも、全部知ってるから――。あ、でも殺されるのは嫌だなぁ。健の傍にいられなくなるのは寂しいし」
「……星を殺したりしないよ」
心からの言葉だ。本当の本当に、本気でそう言っている。
健の描く未来図に春野星という存在は欠けてはならない。
いや、違う。欠けさせたくないのだ。他でもない健がそう望んでいる。
――だから、健は必要になれば、星を殺すだろう。
理性と感情を切り離すことを健は己に課している。
もう二度とあの惨劇を生み出さないように。身に宿る破壊衝動に支配されないように。
鬼神の宿主はみな、その果てない破壊衝動によって破滅するという。貴族街が宿主を管理したがるのは、破壊の化身になるより先に殺すためでもあるのだ。
健には目的がある。破滅するわけにも、殺されるわけにもいかない。
たった一つの目的のために全てを切り捨てる覚悟はとうにしている。それが最愛の人物であったとしても。
本気の思いで言った言葉も嘘になるかもしれない。それを知っていて、知らないふりをして星は嬉しそうに笑うだ。
「そうだ。夏凛を助けてくれてありがとう」
「俺は何もしてないよ。王様の命令に従っただけだし、お礼を言われるようなことは何も……」
「それでも私はありがとうって思ったから」
こっそりと健の顔を覗き込む星。謙遜を口にする無表情に宿る照れは星にしか気付けない。
大人ぶる健のささやかな子供っぽさが愛らしく愛おしい。
「なに?」
「ふふーん、秘密だよー」
悪戯っぽく笑う星に小さく息を吐き、追及をやめた健は別の意味で口を開く。
「来週の土曜日、どこか出かけたりする?」
「うーん、どうだろう? 買い物には行くかもしれないけど」
唐突とも言える問いかけに疑問符を浮かべもしない星は素直に答える。通じ合う二人には無駄に会話を重ねる必要はない。
思いも考えもちゃんと伝わっているから言葉は少なくても構わないのだ。
「急いでいるからって近道は使わないよーにね」
「――うん、分かった」
そこから二人は言葉少なに他愛もない話をした。ほとんどは星が学校の出来事を話していて、健は聞き役に徹していた。
どこか距離を感じさせる態度なのに、そこには他者を介入させない何かがあった。
二人が持つ独特の空気が混ざり合った先に生み出されたそれは二人にとっては安らぎだ。
「それじゃ、ここでバイバイだね」
離れていく手を名残惜しく思いながら「うん」と別れを告げる。遠ざかる星の背中が角に来ていくのを最後まで見送り、健もまた自宅に向かって歩き出した。