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薄暗い町並みを迷いのない足取りで進んでいく。数日ぶりの訪れでも、肌を撫でる澱んだ空気は変わりない。
貴族街での居場所を失った者がしがみつくように暮らす場所。恨みや憎しみが蔓延した世界。
何人の人間がこの貴族という町の仕組みを憎んでいるのだろう。
邪気に溢れた場所。
邪気は人を病ませ、ネガティブな感情を増幅させる。そして、さらに邪気が生み出される堂々巡りだ。
「こんにちはー」
暗い視線を浴びながら歩を進めていた健は廃材で作られた家の中を覗き込む。この辺りを取り仕切る男性が健の姿に驚いて目を丸くし、すぐに苦いものを混ぜた。
健がスラム街を訪れるときはいつも二週間以上、間を開けている。そうでないときは、何か異常事態が起こったことを意味している。その異常に心当たりがあるからこその苦い表情だ。
スラム街に来るときはいつも用意している食料を渡す。前に来てからそれほど経っていないので今回は少なめだ。代わりに医療品を多めに入れている。
「それで用件はなんだ?」
「少し聞きたいことがありまして……この人に見覚えありますか」
何もないところから取り出されたのは一枚の紙。そこに記されているのは一人の青年の似顔絵だ。
モノトーンの中、特徴をよく捉えたその姿はつい先日手を合わせた白髪の青年のものであり、絵は健が描いたものである。
眉を顰め、健手製の似顔絵をじっと見つめるヒデ。無機質の瞳もまたヒデをじっと見つめており、瞬き一つすら見逃す気はないと物語っているようだ。
健相手に誤魔化しは通用しない。下手に嘘をついて信用をなくすよりも、ヒデは真実を話すことを選ぶ。
「大分見違えたが、こいつは悟流だな。間違いねえ」
「悟流さん、ですか。スラムにいたということでいーんですよね?」
「ああ。お前さんが来るようになる少し前までスラムで暮らしてた」
通りで見覚えのないはずだと頷く。
健がスラム街を訪れるようになったのは今から六年ほど前だ。
悟流は十五、六歳に見えた。つまり、彼がスラム街から出たのは十歳前後ということだ。
「どうして出て行ったんですか」
「出て行ったつーか、突然姿を消したって感じだな。ま、よくある話だ」
確かによくある話だ。スラム街で暮らしているのは負けた側の人間。
人権などないに等しい彼らが突然姿を消した、なんて話は毎日のように耳にするものだ。
拉致されたのか、自ら去ったのか。はたまた、死んだのか。無数に飛び交う話の真実を突き止めようとする人間なんていない。
手がかりは掴めたものの、まだまだ白髪の青年――悟流の正体を突き止めるまでにはいかない。
「健流の奴はかなり気にしてたみたいだけどな。あいつらは、二人はいつも一緒にいるくらい仲がよかった」
「健流さんが……。そーいえば、今日は姿を見てませんね」
何となくという形で口にしてみれば、ヒデが明らかに表情を曇らせる。
その理由はすぐに分かった。だからといって追及を止める健ではない。言質があれば、それだけ心強くなる。
健は自分の優秀さを過大も過少もなく評価しているが、そこに慢心や油断は決して持ち込まない。
「あいつは、健流はガキ共を探すって出て行ってから帰って来てねぇんだ」
「そーですか」
やはりという思いとともに考え込む。
健流がスラム街で暮らす子供たちを大切にしていたことは知っている。行方が知れないままが続けば、いずれ、こうなることは予想していた。
スラム街の子供を拉致したのは悟流の可能性が高い。ならば、健流も――。
しかし、目的が読めない。夏凛や巫女と違ってスラム街の子供に価値なんてない。
リスクが低い代わりにメリットもとはいえ、健ならそんな無駄なことはしない。何か、それをするだけの理由があるはずだ。
「悟流さんがいなくなった時のこと、何でもいーので教えてもらえませんか」
「つっても話せることはほとんどねぇぞ。変わったことだって特に……、あーそういえば、白衣を着た奴を何人か見かけた気がするな」
「……白衣、ですか。他には?」
「それ以上のことは……何年も前の話だしな」
思い出せたのは健流が探すようにしつこく頼みに来ていたからと、この辺りで白衣を纏った人間を見ることが珍しかったからだ。
貴族街で白衣を纏った人間と言われて、思い浮かべる者は一つしかない。
嫌な心当たりだ。けれど、悟流の情報を得るためにも今からそこへ赴くしかないだろう。
誰かに任せるという選択肢が脳裏に過ったものの、すぐさま打ち消した。自分が嫌だからと、あの場所に誰かを行かせるのはなんとなく憚られた。
「ともあれ、情報提供ありがとーございます」
「これが俺の役目だからな。健にはいつも世話になってるし」
視線で紙袋を示すヒデに健は「いーえ」と笑みを作る。「助け合いは大事ですから」と一言付け加えることも忘れずに。
「……悟流は生きてんのか?」
「さて? それは知らない方がいーと思いますよ」
「そうか。そうだな」
はぐらかしを聞いて素直に頷くヒデ。
健がこうして調べている以上、生きていたとしても彼にまともな未来はない。殺される可能性があることだって分かっているだろう。
それを止めようとしないのは、こんなところに追いやられたとしてもヒデは貴族街の人間だからだ。
情で訴えても意味はない。下の人間の言葉なんていくら重ねても届かない。ここはそういう世界だ。
「では、失礼します」
会釈一つで、廃材で作られた家を出る。次に目指す忌々しい場所のことを考えながら、それとは別の方向に向かって歩き出す。
目指すのは“はじまりの森”。貴族街にある“はじまりの森”である。
RPGに出てきそうな名前の森は史源町にまで広がる大きな森だ。多くの自然が都市開発の餌食になる中、春野家の管轄ということでありのままの姿を残された森。
史源町の方では自然のまま荒れ放題な森は、貴族街の方はそこに住まう鬼たちの手によって管理されている。故に非常に歩きやすい。
自然を壊さない範囲で整備された道を、気配を辿りながら進んでいく。
「あ」
「……」
不機嫌さを宿した真紅の目を視線が合い、声を漏らす。睥睨をくれただけで、目の主は無言。
少し羨ましくなるくらい長身の男だ。長く伸ばした紺碧の髪を三つ編みで一つに纏めている。身を包んでいるのは一昔前の異国のような衣装だ。
鬼であることを主張するように頭には二本の角が生えている。引き結ばれた口が開かれれば、鋭い牙が覗くことだろう。
無機質と称されることの多い目と不機嫌を表した目が交差して数秒――。
「おや、健じゃないか。こんなところまで来てどうしたんだい?」
不機嫌な目がそっと外され、代わりに爽やかを詰め込んだ声が耳朶を打った。
移動させた視線の先に立っている青年の頭にもやはり二本の角が生えている。髪は紫紺、目は真紅だ。
幻鬼という名を持つ彼は森の住まう鬼の一人である。ちなみに離れた位置に立つ、不機嫌オーラ満載の彼もまた鬼の一人だ。名を瀧鬼という。
「一鬼に頼みたいことがあって」
「翁なら奥にいるよ。いつものことだけどね」
肩をすくめ、追随の意思を示す幻鬼。退ける理由は特にないので、そのまま受け入れる。
「顔色が悪いみたいだけど、大丈夫かい? 瀧鬼もすごく心配していたよ」
「……心配」
あの視線は心配しているものだったのか。健にはただ不機嫌なようにしか見えなかったが、同胞の中でも感情の機微に聡い幻鬼が言うのだから間違いはない、はずだ。
「瀧鬼は心配性だからね。それだけ認められているということさ。……瀧鬼だけじゃない。僕を含めて、全員が君のことを認めている。今から君を僕らの主と定めてもいいくらいに」
「……そーですか」
甘く囁くような言葉に、健の返答はすげないものだ。
彼らの主になるということは紅鬼衆の主になるということだ。鬼神の眷属である者たちの主。
資格を得られるのは春野家当主か、鬼神の宿主だけ。その上で、鬼一人一人に認められて初めて主となれるのだ。
今の主は現春野家当主である春野和幸。それを揺るがす気は健にはない。
――たとえ、宿主の方が優先されるとしても。
これ以上、和幸から何かを奪うつもりはない健の考えは幻鬼も知るところで、わざわざあんなことを言ったのは反応を見るためだ。
基本的に隠されがちな感情を知るためには、健にとって触れられたくない部分を振れるのが一番効果的だ。そして、今の健の態度はいつもより素っ気ない。
「やっぱり調子が悪いみたいだね。いつもの君なら、もっと雄弁にはぐらかしているだろう?」
「……確認の仕方が悪趣味だね」
「そうかもね。けど、君相手だったらこれくらいがちょうどいい」
なんて会話をしていれば、目的の場所へと辿り着いた。
“はじまりの森”の中心地。史源町の方のように開けた空間ではないものの、この一角だけ研ぎ澄まされた空気で満ちている。
静謐な空間。不等感覚で植えられた木々の間に置かれた巨大な岩の上にその人物は座っていた。
小学生くらいの少年だ。短く切り揃えられた墨色の髪の間から小さな角が二本覗いている。瞼は静かに閉じられている。
「一鬼」
呼びかけられた少年はゆっくりと目を開ける。真紅の瞳との邂逅。
「ふむ、何用じゃ」
紡がれた声は子供特有の甲高さを持ちながらも、何百年も年を重ねてきたような奥深さを持っている。子供の声なのに、老人の物と思わせるような声だ。
「研究区に繋いでほしーんだけど」
貫録を感じされる佇まいを前にしても健は物怖じしない。寸分違わない普段通りの態度である。
それもそのはずで、健は彼と親しい間柄であり、わりと頻繁に顔を合わせている。
一鬼の名を持つ彼は紅鬼衆のまとめ役で、空間を操る力を持っている。外からでは想像できないほど広大な面積を持つ貴族街では非常に便利な力なので、事あるごとに頼みに来るのだ。
「いつにも増して顔色が悪いのぅ。その状態であそこに送るのは不安じゃな」
「だから聞けないと?」
「否。お主の頼みであれば聞こう。じゃが……そうさな、幻のを連れていくといい」
傍で控える幻鬼は元々そのつもりだったのか、静かに首肯して了承の意を示している。
研究区に一人で行くのは少し不安があった。幻鬼であれば、性格的にも、能力的のも頼りになる。
一鬼はそういうことも含めて幻鬼を指名したのだろう。
「偽ることに長けたお主の不調が分かりやすい時は精神的な不調ということ。本当ならば、止めてしかるべきなのだろうな」
肉体的な不調であれば、健はいくらでも隠し通す。それができていないくらいに今の健の精神は乱れているのだ。
原因は今から行こうとしている場所にある。
「でも、一鬼は止めないでしょ?」
「我の協力がなくとも、お主が研究区に行くことは変わらんからの。であれば、できる協力はするだけのことよ」
健が一鬼に頼むのは、楽できる手段を選んでいるだけにすぎない。断られたら、素直に徒歩で行くだけだ。
研究区は遠い。己の体力のなさをよく知っている健にとって、体力消費を極限まで抑えるのは当然のことだ。
伊達に健のことを幼い頃から知っているわけではない一鬼は、そんな考えを全て理解して了承したのだ。幻鬼とつけるという、健が許容できる条件をつけて。
「櫻のの指示で動いていることは知っておるからの。あやつは相変わらず歪んだ性格をしておるのぅ」
「そー思うなら一言ってやってくださいよ、育て親さん」
「言って聞くような奴ではあるまい。それに」
閉じた瞼に今も鮮明に思い出されるのは息を呑むほどに幻想的な風景。
一人の女が最愛の忘れ形見を守るために、命を賭して作り出した薄紅色の世界。一鬼が何度も訪れた場所だ。
「あれを育てたのは百万の桜たちよ。我は何度か様子を見に行っていただけにすぎん」
不満を顔に乗せる健の視線を軽く笑い飛ばし、一鬼は地に足をつけた。
木々の間に向けて手を伸ばした一鬼の目が紅く輝き、空間が波打つ。間もなくして扉が作られる。
俗に言う、ワープゲートという奴だ。あの扉を通れば、そこはもう研究区だ。
「帰りはこれで呼ぶがよい」
「うん。ありがとー」
小さな笛を受け取り、健は幻鬼を連れて扉の中へ足を踏み入れた。