1ー10
父は劣等感を刻まれた人間だった。
父の兄、良にとっては伯父にあたるその人はとても優秀な人物だったという。
武藤家の当主であった伯父は良が生まれる前に亡くなり、その後を継いだ父には期待外れの烙印が押された。
誰もかれもが廃れていく武藤家にため息を吐き、先代と比べる。
あの頃はよかったのに。先代ならこうはならなかったのに。
そんなことばかり言われて、深く深く刻まれた劣等感の矛先は良に向けられた。
先代を、伯父を越えろ、と毎日のように言い聞かされて、過剰の期待をかけられて、父にとって都合のいい道を歩く日々。
――そんなとき、一人の少女と出会った。
武藤家の権威を示すために連れて来られたパーティでの出来事だった。きらびやかな世界から逃げるように足を踏み入れた庭園の隅で、隠れるように座っていた少女。
琥珀色の髪を背中に流し、フリルがふんだんにあしらわれたドレスを纏っている。将来有望な顔立ちは涙に濡れていた。
「どうして泣いてるの?」
躊躇いがちに声をかければ、細い肩が震えた。薄紅色の唇が堪えるように引き結ばれている。けれど、やっぱり堪えきれなくて涙が零れた。
「……私はお姉さまや星みたいになれない。かわいくて、みんなが言うようなお姫様に……」
彼女もまた、劣等感を刻まれた人物だった。
期待に応えられない悲しみ。ありのままの自分を曝け出すことのできない苦しみ。
それら全てを詰め込んだ涙を見た良は彼女を守りたいと思った。
ただ父に言われるがままに生きてきた良に初めて宿った意思だった。
期待のままに生きる日々を苦に思わないくらいに、良には自分というものがなかった。彼女に出会って、初めて武藤良という人間が生まれたのだ。
「お姫様じゃなくたって、君はかわいいよ。君は君のままでいい」
「私のままで……?」
「俺はどんな君でも笑わないし、嫌ったりしない。約束する」
涙が浮かんだままの目に見つめられ、良を安心させるために笑顔を浮かべた。良の知る中でもっとも完成された笑顔を模倣するように柔らかく、温かく微笑む。
泣き顔の彼女を救いたいと差し出した手に小さな手が重なった。その手を軽く引けば、少女は立ち上がる。
木陰の隅に小さくしゃがみ込んでいたせいでドレスは砂や葉っぱで汚れている。髪は乱れ、お姫様にはとても見えない。
「ほら、今でもとってもかわいい。きっと君らしく振るまえばもっとかわいくなるよ」
紡いだ言葉に嘘はなかった。心の底からの想いを音にした。
けれど、良は勘違いしていた。
良は所詮、父の欲に従ってパーティに連れて来られただけの人間に過ぎない。
パーティなどくだらない、と吐き捨てた父に逆らう度胸などなく、良と彼女の思い出はたったそれだけ。
いくら憧れを積み重ねても、良自身は変わらない。良い人だと言われるだけのどうしようもなく弱い人間だ。
従兄のような優しい強さも、健のような孤高の強さもない。
焦がれるほど、目指すものとの差を見せつけられて、そこで諦めてしまう己の弱さが大嫌いだった。
そんな良が健の誘いに乗ったのは――。
「俺は、ヒーローになってみたかったのかもしれない」
どうしてと尋ねた悠は良の言葉に目を丸くし、ゆっくりと無邪気な笑顔を浮かべた。
ヒーロー。華々しい活躍をし、敬慕の的となる人物の呼び名。
良はずっとヒーローの活躍を眺めているだけの人間だった。
憧れて、でも一歩踏み出せなくて。健の誘いはずっと踏み出せなかった一歩だった。
「男の子的理由ですねぇ。あ、次こっちです」
「慣れてるね。よく来るの?」
駅裏の治安の悪さは史源町とその周辺の町では有名だ。近付こうとする人はほとんどいないし、誰もかれもが子供を遠ざけたがる。かくいう良も今日まで駅裏に足を踏み入れたことがなかった。
史源町で暮らすほとんどの子供が駅裏を訪れたことはない。ただ悠の足取りは明らかに歩き慣れている人のそれだ。
「よく、ではありませんよ。せいぜい、両手で数えられる程度です」
それでも十分な回数だ。今日という一日で、悠という人間についていろいろ改められている気分だ。
「良さん」
静かな声音に驚いて悠を見る。声とは裏腹にその表情はいつもの悠のものだ。
代名詞とも言える無邪気さを詰め込んだ表情で真っ直ぐに良を見つめ、そして口を開く。
「僕はヒーローってなってるものだと思います。良さんが憧れるその人だって、自分がヒーローだとは思っていないでしょう。良さんだってもう誰かにとってのヒーローになってるかもしれませんよ?」
最後の最後で冗談っぽく笑った悠はやがて足を止めて、聳え立つビルを見上げる。
色の禿げた看板をそのままに残した廃ビル。寂れきった様相は今にも壊れそうな雰囲気を醸し出している。
「少し待ってください」
そう言った悠の身体は薄い光を纏っているように見えた。目を瞑って数秒、再び目を開いた悠はくるりと回って良に向き直る。
「夏凛さんは三階にいるみたいですね。最後の確認ですけど、覚悟はいいですか」
「ここまで来て、今更逃げたりしないよ」
良の答えを聞いて、満足げに頷いた悠はさっそくビルの中へ足を踏み入れる。探知の術で敵がいないことは確認済みなので足取りに迷いはない。
とはいえ、油断は禁物。今日は良もいるので軽い足取りながらも裏側では警戒を怠らない。
何年も使われていない場所なだけ、そこらじゅうに埃が積もっている。健がいる廃工場とは違い、こちらは物が溢れている。倒産したまま残されているといった感じだ。
「隠れる場所は満載って感じですね。このまま素直に三階まで行きましょうか。油断しないでくださいね」
階段を上ってすぐ対面することになるガラス窓を横目に呟き、そのまま三階へと続く階段を上っていく。
エレベーターはあるが、使われていないビルで動いているわけがない。目的があるのは三階なので特に文句はないが。
悠の背を追うように一段、一段上っていくたびに、良の胸に緊張は包まれていく。
この先にあの子がいる。大きな屋敷の大きな庭で、小さく丸まって涙を流していたあの子が。
今度はちゃんと救いたい。最後まで責任を持って、笑顔へ導けるように。
「ここですね」
言われて扉を開けた先は、下の階と変わらない景色が広がっている。荒れ果てた部屋の奥、やけに綺麗に片付けられた場所に一人の少女が寝かされている。
生え際に元の色を残した黒髪を二つに括った少女を目にした同時に込み上げた感情に突き動かされるように駆け寄る。
無用心、素人丸出しの良の行動を咎めない悠は入り口に立ったまま様子を窺うに徹している。
「春野さん……っ春野さん」
「……っ」
肩に触れての呼びかけに震えた瞼を見て、ほっと胸を撫でおろす。見た所、怪我はしていない。
ゆっくりと持ち上げられた瞼に隠されていた瞳が状況を理解するまで数秒。自分の顔を覗き込む人物の正体に気付くまで数秒。全てを理解した上で宿るのは驚きだ。
「ごめん」
震える唇が開くよりも先に良が口にしたのは謝罪の言葉だった。
「ど、して……どうして、謝るの?」
「約束したのに、君の傍にいられなくて。君に寂しい思いをさせて……ごめん」
「そんな……」
見開いた目が、震える唇が迷うように言葉を探している。
目の前にいるのはずっと会いたいと思っていた人物だ。まさか会えるとは思っていなかった人物でもある。
会えた喜びを上回るのは困惑と罪悪感だ。自分の浅はかな行動のせいで、彼にあんな顔をさせてしまっている。いつだって悪いのは――。
「貴方は悪くないよ。悪くない。だから謝らなくても……」
「そうですね。助けに来たヒーローが謝るなんて格好つきませんもんね」
やはり迷いながら言葉を紡いでいく夏凛に同調したのは入り口で見守っていたはずの悠だ。
彼はにっこりと笑って二人の傍へと歩み寄る。無邪気だけを宿した雰囲気は今までと違いすぎて呆気にとられる。
二人の様子に気付いているのか、いないのか。悠は己のペースを崩さないで夏凛に目を向ける。
「夏凛さん、今回の事件で悪いのは誰だと思いますか」
「え? ……ええと」
「良さんはどう思います?」
問いかけておきながら悠は答える間をほとんど与えない。問いの内容以上に二人を戸惑わせたのは悠の纏う雰囲気だ。
表情も、態度も、普段の無邪気さと変わらない。変わらないのに圧力を感じさせる。
無邪気な恐ろしさを纏う悠は、向けられる戸惑いを笑い、雰囲気を和らげる。
「僕はこの中に悪い人はいないと思います。二人に悪いところがないとは言えませんが」
片目を瞑り、茶目っ気を感じさせる表情で二人を見る悠。少し前の恐ろしさのようなものは感じさせない。
そこにいるのは、よく知るいつもの岡山悠だ。
「ということで感動の再会Take2と行きましょう! 女の子としてはもっとロマンチックで、格好いい方がいいでしょう?」
さあさあ、と良の背中を押した悠は「邪魔者は退散します」とそっと距離を取った。そのまま二人だけになるように部屋の外を出る。
とはいえ、敵地なのは変わらないので、いつでも二人を守れるだけの態勢は整えておく。
二人残される形となった夏凛と良の間には沈黙が流れる。戸惑いを宿した沈黙を数秒、ついに良が動き出す。
ぎこちなく、だからこそ人間味あふれた笑顔を浮かべて手を差し出した。
「春野さん、迎えに来たよ」
「……うん。貴方が来てくれるのをずっと待ってたよ」
そう言葉にした瞬間、夏凛の中に渦巻いていた様々な感情が鳴りを潜めていた。
不思議と、ふっと心が軽くなったのだ。つい数秒前まで淀んでいた世界が綺麗なものへと変わっていく。
「……私ね、オカルトが好きなの。可愛いものよりも怖いものの方が好きでね、優秀なお姉様や星とは程遠い。どうして、こんなにも違うんだろうってずっと思ってた。私は私が嫌いだったよ」
夏凛の顔に浮かんだのは笑顔だ。切なさを宿したそれは字面ほどの悲壮感はない。
無理しているときのような痛々しさは感じられず、切なげながら吹っ切れた清々しさがあった。
「でも、貴方に会って、貴方に可愛いって言われて、私は少しだけ私が好きになったよ。だから……ありがとう。こんなところにまで助けに来てくれてありがとう」
押し込めていた心の内を解放した夏凛の笑顔は美しい。
本来、夏凛が持つ美しさを増長させる輝き。それにあてられた良は茫然と夏凛を見つめ、瞬きで我に返る。
良を魅了してやまない輝きは初めて会ったあの頃と変わらない。良の心を揺さぶってみせる。
「あの日言ったことはやっぱり間違ってなかった。君らしく振る舞う君は可愛いよ。誰よりも可愛い」
「そ、そうかな……」
ここまでストレートに可愛いと言われることはあまりなく、嬉しさと恥ずかしさで耳まで赤くなっている。
そろそろ悠に登場してほしいと入り口に目を向けて、初めて夏凛は異変に気付いた。
「わらわらと出てきますね。気配はなかったはずですけど……」
じりじりと押し込まれるようにして悠が姿を現す。困惑を映し出した顔で悠は二人の位置を確認する。
続くように入ってくるのは数人の男だ。いかにも不良です、という見た目をした男たちの年齢は大体、二十代前後といった感じだろうか。
悠は強い。これは本人の意見であり、健が任せるくらいなのだから嘘ではないのだろう、と思う。
しかし、いくら強くても所詮は小学生。身体もまだまだ未成熟で、大人数人相手に勝てるとは思えない。
「大人しくしてくれたら手荒な真似はしねぇ。痛いのは嫌だろ?」
「お仲間の何人かに痛い思いさせた後なんですけど、すごく良心的ですねぇ。まあ、お断りなんですけど」
言うが早いか、悠は男の懐に潜り込み、拳を叩き込む。一発で、真ん中の男を気絶させた悠は肘打ちと蹴りで左右の男の意識を落とす。重なる男たちを足場に後ろで戸惑う面々へと意識を切り替える。
すでに倒した数人を合わしても十人以上はいる。それでも、男たちは引く気はないらしく、小さく息を吐く。
「早く諦めて退散してほしいところですけど……あ、しまった!」
愚痴に近い言葉を零しながら相手にしていた悠の横を男が一人通り抜けた。男が狙うのは部屋の隅で身を固くしている良と夏凛だ。
まだ間に合わない距離ではないものの、駆け寄るには目の前の男たちが邪魔だ。横目で二人の位置を確認する。
夏凛を守るため、良が一歩前に出たのが見えた。そして――。