6-21
日課の素振りを終え、部屋に戻っていた道中、星司は妙な騒がしさに気が付いた。
忙しなく動く人々に紛れて悲鳴に近い声が聞こえる。何かトラブルが起こったのは間違いない。
星司が行ったところで足手纏いにしかならないだろう。統制のとれた人々の中に星司が混ざれば不協和音になりかねない。
迷いで足を止める。
星司は別に正義感が強いわけではない。だからといって見て見ぬふりをできるほど非道でもない。
どうすればと考え、目を瞑る。これでは何も変わっていない、と内の中で唱えた。
迷うなら足を動かせと己を叱咤して飛び出し、知らない屋敷を音だけを頼りに進んでいく。
「……っ」
「っうおっと……大丈夫か」
ちょうど角に差し掛かったところで誰かにぶつかった。
持ち前の体幹の良さでなんとか態勢を持ち直した星司に対して相手は倒れるように尻餅をついた。
慌てて手を差し出した星司はそこでぶつかった相手の正体に気付いた。
「健!? 何でここに……いや、それより大丈夫か?」
「ん。だい、じょーぶ」
答える声には力がない。
健は療養するために桜宮家本家に滞在していると聞いている。
結界で覆われたベッドで眠る姿を星司も実際に目にした。たった数日で治るものではない、はずだ。
何より星司の顔を見上げる健は蒼白で、完全に病人のそれだ。額には脂汗が滲んでいる。
「ありがと……っと」
差し出された手を取って立ち上がった健の身体がふらついた。
咄嗟に受け止めれば、小さく謝罪が返される。乱れた呼吸混じりの声で。
「それじゃ、また後で」
「おいっ、その身体でどこに行く気だよ」
「へーき、だよ。すぐに治るから」
こういうときの健は頑として譲らない。ああ見えて頑固なところがあるのだ、健は。
星司では健の考えを曲げることなど不可能だろう。
「分かった」
言って星司は健の身体を抱えあげた。華奢な身体は心配になるほどに軽い。
ちゃんと食べているんだろうかとまで考えて逃げた自分が言えることではないかと内心で呟く。
星司はいろんなことに健を押し付けて生きてきた。そのことを思って込み上げるものを呑み込んで代わりに別の言葉を紡ぐ。
「すぐに治るなら休んどけ。騒ぎの方に行けばいいんだろ」
「にーさっ」
「何言っても聞かねぇぞ。お互い頑固は血筋だからな」
兄らしいことは何一つできなかった。いや、してこなかった。
今更何かしたところで帳消しになるわけではないけれど。
諦めたらしい健の身体が完全に預けられたことに笑い、一度止められた足を再び動かす。
音を頼りに目指した先に辿り着いたのは処刑人メンバーと対戦した広間だ。多くの巫女が集まり、何かの対処にあたっているのが見える。
何かの正体までは見えないが、苦戦しているようで負傷者も何人か出ているようだ。
「来るとは思っていたけれど、可愛らしい登場までは想定していなかったわ」
耳が歓喜に震える声とともに闇色の少女が図ったように現れる。
妖艶な微笑みを受けて、健は袖を引っ張り、星司に下ろすように訴える。
健の顔色はまた青白いまま。本当に降ろしていいものか、と思案する。
「兄さん」
「はぁ、分かったって」
無機質な目の訴えに折れて、渋々と健を床に下ろした。
危なげなく足を地面につけた健は改めて隣に立つ少女を見遣る。
「一緒だったんだね。仲がいいよーで何より」
「付き纏われているのよ。婚約者ならしっかり言い聞かせておいてちょうだいな」
闇色の少女、夜の隣には健の婚約者である少女、春野星が立っている。今の今まで姿を見ていなかったが、ずっと夜と一緒にいたらしい。
陰と陽。纏う雰囲気が正反対な二人でも相性はいいかもしれない。
「星が本家まで来るとは思わなかったよ」
「健がそう思っているだろうから来たの」
「だと思ったよ」
大事な部分を省いた言葉の交わし合い。
聞いているだけの星司にはよく分からない会話でも二人の中では通じ合っている。
独特な空気感は切迫した状況でも穏やかな時間を作り出す。
「あまり無理しないでね」
「無理したくはないとは思ってるよ」
大きな目の訴えに、答えになっていない答えを素っ気なく返す健。それだけ二人の会話は終わりだ。
健は星から騒ぎの方に視線を向け、星はその横顔を静かに見つめている。
悲哀はなく、健への深い愛だけを映し出して。
「夜、結界を張って巫女たちを中に。あと、悠が合流したら怪我人の治癒を頼んでくれる?」
「分かったわ」
「兄さんは……大人しくしててって言っても聞かないだろうから、これ」
健は宙から何かを取り出し、星司へ渡した。小さな鞄のようなそれは持ってみると思っていたよりも重い。
「治癒用の道具は一通り揃ってるから使って」
「健、お前は……一人で相手するつもりなのか?」
「大丈夫だよ。俺は死なないから」
聞き覚えのあるフレーズだけを残して健は騒ぎの中心へ身を投じる。
侵入者の対処に追われる巫女たちの間を抜けて、健は躊躇の欠片もなく最前に立った。
「防御結界――一〇〇%」
飛び出した健を見届けた夜の呟きで透明の膜が張られる。戦場と線引きするような結界に追いかけることを止められた思いで、星司は立ち止まる。
役目は与えられた。渡された医療道具を握りしめながら、悔しげにただ見つめた。
「私は巫女たちの誘導をするわ。貴方たちは絶対に結界から出ないでちょうだい」
夜は悠々とした足取りへ戦場へと向かう。黒のフリルを揺らし、離れていくその姿を見届ける星司の中にはもどかしい思いが疼いている。
足手纏いにはなりたくない。けれど、安全圏で見守ることをよしともできない。
不安、いや、心配なのだ。普段の健ならばいざ知らず、今の健は明らかに万全ではない。
大丈夫だという言葉を信じていいものかと葛藤する心。
「不安ですか」
渦巻く感情を読み取った声が滑り込んだ。
ふくよかな声の主はいつの間にか星司を隣に立ち、同じ方向を見つめている。
高価な装飾品があしらわれた執事服をまとった青年。上等な生地で仕立てられていると素人目でも分かる。
使用人とは思えない気品溢れる雰囲気の青年は名を紅という。
名前を象徴するような紅い瞳が追っているのは、戦場へ歩む夜に合流した少女だ。
桜宮沙羅。度々、桜宮家当主に呼び出されているようで星と同様に今の今まで姿を見なかった人物だ。
「紫ノ宮、おっと、本条夜様は立ち回りが上手でいらっしゃいます。沙羅様も合流なされたようですし、避難誘導はつつがなく行われることでしょう。星司様が危険な目に遭うことはないかと」
紅は何かと星司を気にかけてくれる。理由は分からないが、近寄りがたい雰囲気に反して親しみやすい人物だと星司は思っている。
今回も不安げな星司を見て取り、話しかけてくれたようだ。
しかし、星司が不安なのは自らの身を案じているからではない。
「ああ。星司様が気にかけていらっしゃるのは弟君のことですか」
すぐに正解を言い当てられ、肩が震える。自然と耳に滑り込む魔性の声が星司の心を撫でた。
「それこそ無用の心配というもの。健様は貴族街でも随一の力の持ち主あらせられます」
「でも、今の健は本調子じゃないっすよね。いくら強くてもあんな状態じゃ」
「身体の不調など、健様にとっては大した問題ではないでしょう」
寄り添うように彩られた声色に冷たいものが混じった気がした。
浮世離れした空気のせいだろうか。紅から時々恐ろしく冷たいものを感じる。
気のせいと切り捨てることもできる刹那に気を取られた星司へ、紅は言葉を続ける。
「鬼神様の力があればどうとでもなる。健様は特に相性がいい。先代と比べれば劣るでしょうが、あの方は破壊衝動を上手く飼いならしていらっしゃる。ともすれば、歴代最強となるかもしれません」
破壊衝動を聞いて、星司の脳裏には約一年前の出来事過っていた。
星司もその破壊衝動を味わったことがある。鬼神の力が付加された道具を使い、破壊衝動に呑まれた。
内側から響く破壊の声。絶えないそれに身を委ねた方がきっと楽だとすべてを投げ出した。
抗う術も分からず、わずかに残った理性が必死の悲鳴を上げていたのを覚えている。あのとき聞こえた声がなければ星司はもっと破壊を撒き散らしていたことだろう。
「あれを飼いならすってどうやって……?」
一度呑まれたことのある星司には破壊衝動に抗う方法など見当もつかない。
精神力が働く間もなく、破壊の波が押し寄せて溺れた。気付いたときには海の底にいたのだ。
「さて? 方法は私にも。だからこそ興味深い」
紅い目が細められる。それは不思議な色合いの微笑みで、星司はただ魅了された。
思えば、彼の笑った顔を見るのは初めてだ。無表情というわけではないが、紅は基本的に表情を崩さない。
「星司様もご覧になってみるといいでしょう。健様の強さを。あの方には我々の心配など必要ないのです」
言われて星司は健を見た。白一色で構成された人物を対峙する健の顔はまだ青いまま。
星司だって健の戦う姿を見たことはある。健が強いことも知っている。
それで心配する心がなくなると思えない。それとも星司はまだ健のすべてを見ていないということなのか。
分からないと目を向ける星司の目は少し震えていた。




