序章
治外法権が認められた町――貴族街。
五十メートルほどの高い塀に囲われ、出入りは厳しく管理されている。一度、中に入れば自己責任。事件に巻き込まれても、日本政府が対処することはできない。
日本でありながら、日本ではないそこにも統治者というものは存在する。
桜宮と呼ばれる一族だ。その分家にあたる春野家当主が、貴族街を統べる王という立場を担っている。
貴族街の法律は春野家当主、そして桜宮家当主の一存によって決められる。
さて、そんな閉鎖的な空間である貴族街にはたくさんの噂が蔓延っている。
例えば、南方に広がる森には幾人もの鬼が暮らしているとか。
例えば、春野家は鬼を使役しているとか。
例えば、桜宮家本家は霧に覆われた場所にあり、誰も辿り着くことができないとか。
例えば、街のどこかに非人道的な実験を繰り返す研究施設があるとか。
例えば、闇市にはどんな薬も作れる男がいるとか。
例えば、スラム街には不老不死となった人間が暮らしているとか。
例えば、銀色の瞳を持った者は世界の全てを知っているとか。
例えば。例えば。例えば。例えば。
――例えば、処刑人と呼ばれる殺し屋がいるとか。
統治者の命令で動く殺し屋。その手口は鮮やかで、死体どころか血の一滴も残さない。
貴族街で行方不明となっている者のほとんどが処刑人に殺されたのだと言われている。
背は低かったり、高かったり。女という話もあれば、男という話もある。こちらで年端のいかぬ子供と聞けば、あちらでは足元も覚束無いような老人と言っている。
共通しているのは、黒いローブに身を包み、白いお面で顔を隠しているということだけだ。
そして最近、新たな噂が加わった。
――処刑人の瞳は血に濡れたように紅く、爛々と輝いているのだと。
男は走る。それはもう必死に。
少しでも速度を緩めれば、たちまち「あれ」に殺されてしまう。呼吸を乱し、限界を訴える足を叱咤して走る。走る。走る。
背後に追手の気配はない。けれど、追いかけてきていることは確かだ。
「あれ」が自分を逃してくれるはずがない。
怪物だ。ただ声をかけられただけなのに身が竦んでしまうほどに恐ろしく、堪らなくなって逃げ出した。
小さな身体が纏う存在感は尋常ではなく、今はそれを全く感じないことが恐怖心を掻き立てる。
「どこまで……行けば」
逃げきれるのだろう。
貴族街の中ではだめだ。「あれ」はすぐに追いつく。
外はどうだろうか。
噂で聞いたことがある。貴族街のどこかに、外に出ることが出来る抜け道があるらしい。運良くそこを見つけられたのなら、自分はあの怪物から逃げきることができる。
小さな小さな希望を信じて男は懸命に足を動かす。
その時――。
「みーつけた」
希望を塗り替える絶望の声が届いた。