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結婚前夜

作者: 北村華音

「私、結婚するんだよね」


 そう言って笑った彼女の表情がとても綺麗で、痛いくらい心臓が締め付けられた。僕は思わずこくりと息を飲み込んで、彼女は微かに、でも確実に幸せな色を含めた息を吐く。緩やかな弧を描いた唇から。静かすぎる夜に、それ以外の音は存在しない。

 彼女のそばにはいつだって僕がいたはずだし、細やかな表情も些細な変化も全てこの目に焼き付けてきたつもりだったのに、未だに見たこともない顔をするんだから本当に彼女には敵わない。



 僕、立花陽太と滝口香織は、家が隣同士の所謂幼馴染という関係だった。とはいえ物心がついた時には既に僕の中の一番奥の柔らかい部分は端から端まで香織に陣取られていて、そんな僕からしてみれば香織を幼馴染なんて簡単なカテゴリーに分けた事は一度もなかったけれど。



「そりゃあ、旦那になる人は世界一の幸せ者だ」

「もう、またそういう事言う」

「いや、本気でそう思ってるよ」

「ふふ、奥さんになれる私が世界一幸せ者なんだよ」


 ほら、またそんな幸せそうな顔をして笑う。その笑顔を一生近くで見続けられて、そしてこの先また新しい彼女の一面を一番最初に見つけられるんだ。地球の裏側まで探したって、それ以上幸せな奴なんてそうは居ないだろう。


 半分だけ開けた窓から入り込んだ夜風が、彼女の長い髪を揺らした。ほんの少し乱れたそれは、彼女の細い指先にするりと通されて、また元に戻っていく。一日の内、彼女を一番綺麗に見せるのは夜だな、と、ぼんやりとそんな事を考えた。静まり返った世界は彼女の声をダイレクトに耳に届けるし、謙虚な月明かりは彼女の肌に明暗を付けるし、挙げ始めたらキリがない。とにかく僕はこの時間の何気ない瞬間に、何度も彼女に恋をしたのだ。

 でも彼女はそんな事知っている訳がないし、これから先だって一生知ることはないだろう。まあ、こればっかりは言えなかった僕が悪いのだけれど。


「色々あったよねえ」

「ああ、香織が彼氏と喧嘩したって泣きついてきたり」

「……」

「あと、彼氏と別れるとか言って僕の前でわんわん泣いたりとか」


 指折り数えて思い出話を語ってみれば、不機嫌そうに唇を尖らせた彼女がじとりと僕を睨みつけた。


「普通、今それ言う?」

「だって忘れられないんだから仕方ないだろ?」


 いつも僕は香織しか見ていなかったのに、香織はいつも僕以外の男しか見ていなかった。

 悲しい顔をする彼女を見るたびに何度も何度も僕にしなよと言いかけて、何度も何度も飲み込んだ。あんな苦い味、忘れろという方が無理な話だ。


「陽太はさ、ずっと私を好きでいてくれたんだよね」

「ああ、まあね」

「そっか……ごめんね」


 ああ、もう。そんな困った顔して謝らないでくれよ、頼むから。


 香織が他の誰かを好きだと言った事も、嬉しそうに笑った顔も、辛そうに溜めた涙も、どういう訳か僕の記憶には全て鮮明に残っていた。それは息をするのと同じくらい簡単に甦って、香織を好きだと思う分だけ心臓にずしりと圧し掛かってくるのだから。今も、変わらずに。


「そんな顔するなよ」

「だって……」

「さっさと告白出来なかった僕が悪いんだ。それに今更変えられないし、変えたいとも思ってないよ」


 それは、少しだけ嘘だった。変えられるものならいくらでも変えてやりたいくらいだけど、言ったところでどうにもならないならせめて見栄くらい張りたかった。


「でもね、結婚する前に一度ちゃんと言いたかったの。ごめんなさいと、ありがとうって」


 申し訳なさそうに眉を下げた彼女が僕をじっと見つめる。そんな顔させたくてずっと恋してきたんじゃなかったんだけどな、なんて言ったら香織は泣くだろうから、色んな理由を右手に託して頭を撫でてあげた。


「色々、本当に色々あったけど、終わり良ければ全て良しって言うよね」

「結婚するんだから始まりなんじゃないの?」

「結婚は人生の墓場って言うじゃない」

「これから花嫁様になる女性の言葉とは思えないなあ」

「また新しく始まるんだよ」


 控え目に笑った彼女の目が再び開かれた時には少しだけ瞼が落ちていて、もう随分と夜が更けている事に気付いた。


「眠くなった?」

「うん、少し。陽太も眠いよね?ごめんね、付き合わせちゃって」

「大したことないよ、ほら」


 伸ばした腕の中に潜り込んだ温もりを抱きしめると力なく服を握り返されて、いよいよ眠りに落ちる寸前の彼女の額に唇を落とした。


「陽太とね、始めるんだよ。立花香織になった、新しい人生を」


 なるほど、それは悪くない。心中で納得する僕の隣から、すう、と規則的な呼吸音が聞こえた。今度こそ意識を手放したらしい香織に、声には出さずにおやすみと伝える。


 もう覚えていないくらい幼い頃から焦がれ続けた彼女の心も、彼女自身も、苗字さえも僕のものになったのだ。やっぱり世界一の幸せ者は僕だったんだとその寝顔で再確認して、ゆっくりと目を閉じた。



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