買収 buy out of the land
志水博美は成田に到着すると六本木ヒルズレジデンスの自宅へタクシーで向かった。ニューヨークから八時間、ファーストクラスを利用したとはいえ、時差ボケと暖かい東京の気候に身体が馴染まずくらくらする。道は空いていて沿道には桜が満開だった。三十階の自宅は二百五十平米近くあって家賃五百万は少し高いが一人住まいには充分な広さだ。家に戻ると流石にほっとする。パソコンを立ち上げ受信メールをチェックする。夥しい数の受信記録がある。私的なものは夕食後ゆっくり目を通すことにして、仕事に関係あるものを順次スクロールしていく。勤務先のシルバーマンサックスジャパン、マーチャント・バンキングのCEO(日本代表)森井健吾からのメールを開く。森井は現在の直属の上司であり、博美はファンドマネージャーのトップ。二十七歳の若さで年収八千万を稼ぎ出すのは、飛び級で東大法学部首席卒業、ハーバード大学大学院でMBA取得、国家公務員一級首席、異例の二十三歳で外務省欧米課課長就任の頭脳明晰さもさることながら、類まれな美貌と体形によるものと自覚している。外務省で将来を嘱望されていたのに、たった二年の勤務であっさり退職、高給が得られるシルバーマンサックスにヘッドハントされ、代表直属の敏腕ファンドマネージャーとして、売り上げの半分近くを稼ぎ出している。森井は明日、ランチミーティングを恵比寿のジョエル・ロブションで行いたいと言ってきた。博美は森井が蛇蝎のように嫌いである。胡麻摺りと悪辣な陰謀だけで伸し上がり、やくざ顔負けの凶悪な面構え。部下を牛馬の如くこき使い、自分では何もせず、手柄は全て自分のものにする性向は皆が嫌っている。だが、業務とあれば致し方ない。少しの間の辛抱だ。博美はワインセラーからロゼ・シャンパンを出して、グラスに注ぎ、それを口に含みながら、次のメールを見る。私設秘書の安芸河鐡蔵からのものだ。鐡蔵は博美が米国に出張していた二週間の間の詳細な業務進捗状況と成果を報せていた。微に入り細に入る几帳面さは、有難かったが、煩わしくも感じる。マックスマーラーの麻シルクのジャケットを脱ぎ、シルクのシャツとジョセフのパンツを乱暴に脱ぎ捨てる。ラ・ペルラの下着は長旅でも少しの乱れもなくぴったりと身にフィットして、薄い三角ブラは形よい豊満な乳房を引き立ててくれる。TバックのショーツはVゾーンの処理をしていなければはみ出てしまう小ささだ。姿見の前に立つと、自分ながらグラビアアイドルとして充分トップに立てるようなプロポーションや肌の艶と白さに惚れ惚れしてしまう。この顔と身体に鐡蔵が惚れたのだと思い、にっこり笑う。痺れあがるほどの完璧な笑顔である。プラチナのバレッタで止めた髪を解くと、長いストレートヘアがブラに届く。名残惜しそうにブラとショーツを取り去って、全裸でバスルームに向かう。ジャクソンのジャグジーバスからは六本木の夜景が楽しめる。ゆっくりバスを使うと、純白のバスローブのみを纏って、鐡蔵に電話を掛け、直ぐ来るよう言いつける。鐡蔵は父親の代から志水家に勤める忠実な秘書で、一級エステシャンの資格も持っていて、博美はヒルズにあるサロンよりも鐡蔵のマッサージに何より癒されるからだ。
博美は生まれて間も無く国際線のパイロットだった父親とモデルの母親を事故で失った。その後は家令だった鐡蔵に育てられたのである。志水の家は徳川御三卿清水家と姻戚関係で代々の資産家。恵比寿、広尾、六本木周辺に不動産を数多く所有していた。博美は両親の死後、志水家の莫大な遺産を相続した。鐡蔵は現代では珍しい忠義一徹な男で、乳児だった博美をベビーシッターなど雇おうともせず、一人で大切に大切に育て上げた。一歳半になると、広尾のインターナショナルスクールに入れ、その後は聖心女子大付属幼稚園から高校、東京大学へ進んだ。生まれながらにして大変聡明だったことに加え、鐡蔵が日夜熱心に教育を施したことに拠るのだろう。勉強だけでなく、お洒落や美容にも格別な努力を支払った。幼児の時から毎日のマッサージやエステを欠かさず、着るものなど身に着けるもの全てに超一級品を選び抜いた。つまり、鐡蔵の生き甲斐は博美の人生そのものだったのである。
近くに一人住まいの鐡蔵は、十分も立たぬうちに駆けつけてきた。
「お嬢様。鐡蔵でございます。お帰りなさいませ」
「早かったのね。私少し疲れちゃったわ。マッサージして頂戴。お前のエステが一番よ」
「光栄でございます。では早速取り掛からせていただきます」
エステ用のベッドは洋室に置かれていて、オイルや乳液、アロマやタラソの容器が膨大な化粧品と共に巨大なガラス棚に収納されている。全裸で仰向けにベッドに横たわると、白い制服に着替えた鐡蔵が、徐に施術を開始する。バリの超一級エステシャン顔負けの巧みさで、香油をたっぷりつけた繊細な指先が、しなやかに全身を擦って博美を酔わせる。
「気持ちいいわぁ」
「お嬢様。少しお肩とお腰が張っておられます。いつもより多少お時間がかかりますが、宜しいでしょうか」
「しょうがないわねえ。疲れているから寝ちゃいそうよ。シャンパン開けたから、飲ませなさい」
「は、はい。お口移しで宜しゅうございますか」
「そうよ。決まってるじゃない。早くして」
鐡蔵が口移しで何度か博美にシャンパンを飲ませ、更に念入りにマッサージを繰り返すと、博美は寝入ってしまう。
「やれやれ。可愛いお嬢様。今日も眠ってしまわれた。こんなに見事なお身体を拝見し、触らせていただきながら、なにもできないのは殺生というもの。しかし、私はお嬢様に仕えさせていただく下僕の身。不埒な気持ちをいだくなんて恐れ多いことだ」
独り言を呟きながら、鐡蔵は博美を横抱きにしてベッドルームに運ぶ。全裸のまま博美を横たえて、白テンのブランケットをかける。スッピンの寝顔はあどけなく、可愛らしい寝息を立てている。
「とても二十七には見えん。二十歳そこそこに見える。なんという可愛らしさだ。多分明朝一番で呼び出しがある。代表との会食などがあるから、お化粧も念入りにしなければならないし、着ていく服やアクセサリーをどれにするかのご相談もあるだろう。そうだ今のうちに明朝の朝食の材料を買っておかなければ。今夜はここに泊まらせて頂くことにしよう」
鐡蔵はヒルサイドのベーカリーで博美の好きなリッチロールやデリカテッセンでハムや卵、飲み物類などを買い込むと、博美の部屋に戻り、風呂に浸かって二つあるゲストルームのベッドで寝てしまった。
翌朝目覚めた鐡蔵は素早く顔を洗い、着替えてベッドルームに向かう。
「お、お嬢様。おはようございます。お目覚めになりましたか」
「鐡蔵じゃないの。お前どうしてこの家にいるの。この前あれほど此処には泊まってはならぬと言ったのに」
「は、はい。申し訳ございません。しかしお出かけのお嬢様のメイクやファッションの選択のお手伝いが出来ますのは、不肖長年お世話させていただいております、この鐡蔵ただ一人でございます。どうか、お許しを」
「バカ。お前のセンスは古いのよ。メイクやファッションおとなし過ぎるってマンハッタンで言われたわ。朝ご飯できているの?ベッドまで運んで食べさせて。お前は私が朝食を食べている間に、爪を手入れしてマニュキュアとペディキュアを施しなさい。白とピンクの二色にラインストーンを入れるのがいいわ」
「畏まりました。お召し物は何をお考えでございますか」
「そうね。代表と会うには何を着ても構わないが、その後の予定もある。ダナキャランのホワイト・スパンコールキャミソールなんかどうかしら」
「良いご選択かと存じます。本日はランチでございますから、左様な清楚でありながら華やかなご衣裳で宜しいと思います。あの服は胸の切れ込みが大きく、ブラは着用されないほうがいいでしょう。アクセはダイアで統一しましょう。バッグもスワロで包んだディオールのオペラバッグで宜しいのかと思います」
鐡蔵は博美の後ろに回り、ベッドの上に大きなクッションを三つおいて寄りかからせて、小テーブルに載せた朝食を口に運んで差し上げる。
「美味しいじゃないの。青林檎を絞ったジュースが飲みたい。それとこのベーコンエッグおかわり」
「は。只今」
鐡蔵は博美のお世話をするのが本当に楽しそうである。次々に出る注文を懸命にこなしていく。食事中は手足の爪のケア、食事が終わると歯磨きと洗顔。続いてメークだ。半身を起こしてベッドに横たわる博美にまたがり、汗をかきながら丁寧にメイクを施していく。時折博美の叱責があり、気に入られないと頬を張られる。
「だめ。そんなルージュの塗り方は。グロスをもうちょっとつけて」
「今日は胸が大きく出ます。胸元に保湿クリームをたっぷり、ラメ入りのパウダーをさっと振りかけて。腋の中もしっかり。バカ。お前勃たせている。何を考えているんだ」
「も、申し訳ございません。お嬢様の胸、あまりにも美しく、撫ぜさせていただきますと、感じてしまいました。お許しくださいませ」
何度も頬を張られ鐡蔵は恐縮しながらも続ける。メイクが終わると今度は着付けだ。ワードローブから、今日の衣装を取り出すと、全裸で立ち上がった博美に着せ掛ける。
「パ、パンティは如何致しましょうか。お付けになられますか?」
「決まっているでしょう。今日最初の相手は森井です。誰があんな豚爺に大事なところを見せるんですか。シースルーのハイライズのものを選び、穿かせなさい」
「ニップルとアンダーには肌と同色のラテックスカバーを着けさせていただきます。角ダイアのブレスレット、ピアスを着けましょう。勿論ダイアのお色はピンクに統一しました。ネックレスは無いほうが宜しいかと存じます」
「靴は」
「はい。マロニブラニクのスワロビーズのサンダル。スカートは短いシャネルの黒のフレアですから、足元は特に大事です。脚全体にラメを施してありますから、お色気ムンムンですよ」
「まるで叶姉妹のようになっちゃうわ。私はもっと清楚でお上品でなくちゃいやなの」
「なるほど。ではラメを止め、白い艶のファンデに塗りなおします」
三時間ほどで漸くメイクや着付けが済み、颯爽と立ち上がった博美はミンクのショールを肩に掛けて玄関に向かう。
「鐡蔵。先に行ってポルシェをエントランス前に回しなさい。早く。走って」
転がるように鐡蔵はガレージに走る。車を玄関前に止め、恭しく博美を迎える。
「鐡蔵。お出かけ前のキスを頂戴。今日は虫唾の走る相手だから、キスはお前で我慢します」
胸乳も露わなスレンダーな博美を抱いてキスをすると、鐡蔵は又激しく勃たせてしまう。再び大きな音がして頬が張られる。
「勘違いしないで。お前が好きでキスしたんじゃ無い」
鐡蔵の運転で程なく恵比寿ガーデンヒルズのロブション前の大通りに着く。
「森井とのランチの後の予定は?」
「は、はい。三時からはオフィスで雑誌の取材が三本入っております。そのあとフジTVの番組に出演なさり、夜は経団連主催のパーティです」
「そう。夜は着替えなくちゃね。お前は私の家に戻って、パーティ用の服やアクセを選んでオフィスに運びなさい。間違えると今度は蹴るわよ」
森井はロブションのウェイティングラウンジで昼間からコニャックを飲んでいた。外資系金融機関のトップに相応しくない黒ずんだ赤ら顔で典型的な悪相。でっぷりと肥え、口ひげを生やしている。ぶ厚い一重目蓋の下に小さなずるそうな目が覗いている。茶色のジャケットに白黒のストライブのパンツをサスペンダーで吊り、派手な青いシャツと赤いネクタイ、どうみてもちぐはぐな田舎丸出しの野卑な出で立ちだ。
「博美。相変わらず凄ぇセクシーじゃの。さ、飯食おう。腹が減った」
森井は博美の腕を取ろうとするが、邪険に振りほどかれる。席につくと三万六千円の豪華ランチが次々に運ばれてくる。
「代表。その博美って呼びつけになさるのは止めていただけませんか。志水という苗字で呼んでください。それに私の身体に触れようとなさらないで。セクハラで訴えます」
「そう冷たい言い方せんでも良かろうに。儂はお前のことが好きじゃ。散々眼ぇ掛けてやっとるのに、キスもさせてくれん」
「気持ち悪ぃ〜。会長は今私の上司だから、仕方なくこうして食事ご一緒しているんです。誤解なさらないで」
「しかし、お前さんのむき出しになった華麗な胸元や、つやつやに光る見事としか言いようも無い脚を見せ付けられると、男ならだれも抱きたくなる」
「完全なセクハラ発言です。私は昨夜ニューヨークの本社から戻ったばかり。ご用件は何ですか。つまらぬ御用なら社に戻ります。片付けねばならぬ案件が山積みなんです」
「実はノ、志水君。口外無用として貰いたいのだが、先に我が社は年間売り上げ三兆五千億の西芝電気の株式五割の買収に成功した。バブル期の多角経営が仇となって多額の負債を抱え、企業再生の切り札だったHD DVDがブルーレイ陣営に破れ撤退を余儀なくされた。為に急速な信用不安に陥り、株価はストップ安となり、我が社が買いぬけた。この膨大な株式にオランダの多国籍企業フィリップスが色気を示している。ユーロ高で強気なフィリップスは西芝株購入に条件をつけてきた。元々西芝自身が計画していた基幹工場の増設計画、北上工場の最先端化と工場規模の飛躍的拡大だ。もし我が社獲得の全株式をフィリップスに売却できれば、凡そ一兆円の売却差益を生む。ニューヨーク本社も大乗り気な案件となり、本社会長じきじきの指名で、志水君。キミがこのプロジェクトのリーダーになって欲しい。只のプロジェクトリーダーではない。新たにシルバーマンサックス東京ブランチを立ち上げ、キミはその支社長だ。年収二億が保障される。成功の暁には更なる増額が担保されている」
「このお話、西芝株購入まではニューヨークで聞きました。その先のことは存じません。フィリップスの話は確実なのですか?」
「ふむ。西芝の北上工場は一兆七千億を投じ、主力半導体、NAND型フラッシュメモリーの拠点を開発しようと事業決定していた。フィリップスの計画はこれを遥かに上回るものだ。投下資産約十兆、開発面積五千万平米、北上工業団地の既設工場を抜本的に拡大、北上市全域に及ぶ土地を確保しようとするものだ」
「あのあたりは、典型的な農村地帯。有利な買収金額を提示すれば、容易なのではありませんか」
「キミには話していなかったが、二ヶ月前、かの地に敏腕の李チーフマネージャーを派遣、土地買収の打診をやらせた。ところが、北上の過半を占める江釣子という村が難関なのだ。江戸中期から江釣子で代々庄屋を勤め、大部分の土地を所有する伊藤弥ェ門という頑固爺がいてな、こいつが幾ら金を積んでも首を縦に振らん。フィリップスの会長は先日来日して私が会った。彼は弥ェ門の土地が入手出来ねば、我が社の取得した西芝株の買収には一切応じないという。そこでキミの出番だ。今まで不可能といわれる交渉相手を、そのもって生まれた美貌と交渉術で見事に陥落させて驚かせたことがしばしばある。キミが指名された最大の理由はこれだ」
「まあ。光栄なことです。このお話引き受けさせていただいても結構ですが、その前にシルバーマンサックス本社、李チーフが調べた資料や交渉過程のすべてをCDロムに焼いてください。私なりにアプローチの方法を考えて見ます」
「そうか。引き受けてくれるのか。有難い。首がつながった。ほい、これは口が滑った」
「会長らしいわ。口が軽いのはこの仕事に不適格な証拠。私が引き受けなかったら、貴方は馘にされたのね。恩に着ることね」
「博美には参ったよ」
「あら、又博美って呼んだ。今度そういったら、二度と口は訊きません。では、即刻サーバーに資料入れておいてください。失礼します」
博美は携帯で鐡蔵を呼び出し、車をガーデンヒルズに回せと命じ、午後の予定を全てキャンセルさせた。
「遅いぞ。鐡蔵。予定はキャンセルできたのか」
「はい、はい。パーティは博美様が主役なので断るのに大層骨折りましたが、何とか許していただきました。朝ご指示を賜りましたお洋服持ってまいりましたが」
「必要がなくなりました。自宅に行きます」
折角用意してきた沢山の服やアクセが無駄骨になった。予定が変わるのは毎度のことで、是くらいで気落ちしては博美の秘書など勤まりそうもない。この美貌やキャリア、教養がありながら、一向に恋人と呼べる男性が出現しない。博美があまりに全てのレベルが高く、世の男性達が恐れをなして近づかない為だ。それと勝気な性格と思い切りの良い発言にもついていけないらしい。だから恋人は仕事だけ。高級マンションも有り余る年収も宝の持ち腐れ。鐡蔵は独り言をつぶやく。
「やれやれ。お嬢様を見初めてくれる男は現れるだろうか」
「何?今何て言った?私はネ、私に見合う男でなければ見向きもしません」
「だからいつも男日照り」
「お黙り。家に戻ったら、着替え、身体洗い、肩揉み、夕食の準備などを命じる。お前は私の私設秘書。その身分を忘れないことだ」
ガーデンプレイスから自宅のあるヒルズまでは十五分ほどで着く。Tシャツとジーンズの部屋着に着替え、早速パソコンを立ち上げ社のサーバにアクセス、森井に頼んだ資料が届いているのを確認する。膨大な資料を次々開いて、重要度の順に並び替える。次に検索機能を用い、伊藤弥ェ門の項目を拾い出し、性格、歴史、財産等の主要項目をチェック、李の行った土地買収交渉経緯を見ていく。
「鐡蔵。そんなところでぼんやり突っ立っていないでここに来て肩を揉みなさい。それとデルレイのチョコ食べさして」
「は、はい。それにしてもこの弥ェ門という爺様、難物そうですな」
「お前が仕事に口を挟むなど百年早い。しっかり肩を揉み解せ。バカ。そんなに揺らしたら、キーを間違っちゃうじゃないか。何年秘書を務めている。お前はこの資料を熟読し頭に叩き込んで。それを要約して私に聞かせなさい」
「へ、へい。お嬢様。今晩のご夕食如何致しましょう」
「そうだな。今日は資料調べで徹夜になる。お前の料理も食べ飽きた。あまり旨くないがヒルズの鮨屋次郎に頼め。職人を呼んでここで握らせるのだ。お前にも少しだけ食わしてやろう。その前にシャワーを浴びる。鐡蔵。一緒に入って身体を洗って頂戴」
ミシェラン三ツ星の数寄屋橋次郎が支店とはいえ、ケータリングで鮨を握るのは異例中の異例。六本木店の店長は、いつも贔屓にしてくれる博美にぞっこんだからである。白絹のバスローブだけを纏い、バタフライチェアに優雅に脚を組んで座り、店長を迎える。下着を着けていないから殆ど丸見えだ。
「わざわざ来ていただいてごめんなさい。待ちかねたわ。昨日までニューヨークでしょう。今日お昼フレンチだったから、お鮨が食べたくなったの。でもね、仕事が立て込んでいるから、お店まで行く時間が取れなかったのよ」
博美は完璧な笑顔を見せて、脚を組み替える。見えそうで見えぬ。早速厨房を使い、突き出しや口取りを作って博美に出す。箸で摘んで口に運ぶのは、鐡蔵の役目だ。遅かったり、順序を誤るとその都度、顔を敲かれる。秘書鐡蔵は敲かれることを喜びとしているらしい。痛みを感じると陰でゆがんだ笑みを浮かべている。完全なMだ。ワインを口移しで飲ませたりする。鮨店長は呆れるが羨ましくて堪らない。二時間ほどで次郎の店長は帰る。博美の食べ切れなかった残り物が鐡蔵の夕食だ。有難がって涙を零している。その後鐡蔵は夜通し資料を読み、要点を纏め切ると、博美を起こす。
「私はシルバーマンサックス東京ブランチ支社長に就任しました。地位に相応しい持ち物や服装を大至急エルメスとフェンディから、アクセはハリーウェスティン社のものにします。お前走り回って午前中に買い求めて来ること。午後農水省事務次官と経済産業省甘利大臣のアポをとりなさい。私はそれまで眠ります。ベッドへ運んで」
博美を寝かしつけると大急ぎで手配を済ませ、買い物をして家に戻ると博美はまだ眠ったまま。
「お嬢様。起きてくださいまし。事務次官と大臣の面会のアポイント取れました。急な申し入れにも関わらず、日本存亡をも左右するユダヤ系資本の総本山、シルバーマンサックス社東京支社長と聞いて、必死に予定を空けてくれたのかと思います。メイクをさせていただきます。買ってまいりました服やアクセ、お気に召しますでしょうか」
「まあいいわ。長年私に仕えているだけあって、私の好み知り尽くしているようだ。褒めてあげる」
「わあっ。お嬢様からお褒めいただいた。名誉のことでございます。ご両親を早くに亡くされたお嬢様をば、この男手ひとつでお育て申し上げました。襁褓のお世話、授乳、お風呂入れから幼稚園、小学校、中学、高校、大学までその学校の選択からご入学、ご卒業まで面倒を見させて貰い、その時々のお洋服、お化粧、お体操、お食事、ご入浴など日常生活全面を支援させていただいております。ご病気の時やお加減の悪い時などつききりでお世話致しました。詰まる所、私無しではお嬢様の生活全てが成り立ちません」
「大げさね。まあお前の言う通りだから仕方無いわ」
「朝昼兼で恐縮でございますが、お好きなホットケーキを、オークラで求めてまいりました。ベノアティーを淹れました。ホットケーキを暖め、サラダをお作りします間、これを飲んでお待ちください」
「バカ。まだ顔を洗って歯磨きもしてもらってない。早く済ませて頂戴」
朝昼兼の食事を済ませ、メイクを施し、着替えてお出かけである。お堅い役人との面談であるから、博美の出で立ちは黒のジルサンダーのテーラードジャケットに白絹シャツ、ぴっちりしたランバンの黒パンツと同色のブーティ、アクセは小粒ダイアのピアスのみに留めている。メイクはアイボリーを基調としたナチュラルとした。それでも胸の膨らみや腹の窄まり、笑みをたたえた美しい顔から、男達を惹きつけて止まぬ強烈な色気は抑えようもない。事務次官の白洲敏朗は56歳。東大法学部卒業以降ずっと農水省でキャリアを積んできたエリートだ。次官室に通された博美は、いつもの完璧な笑顔で初対面の挨拶をかわす。
「次官。私はこの度シルバーマンサックスの東京支社長に就任しました志水でございます。弊社は先月熾烈なIT産業間の競争に些か遅れを取り、苦境に陥った西芝電機の株五十%を取得、其界の雄、オランダ国フィリップス社にその大半を譲渡したいと考えております。該社は株買取に対し条件を付けました。現在西芝電機は、岩手県北上市にNAND型フラッシュメモリーの拠点を展開せんとしておりましたが、フィリップス社はこれを踏まえ抜本的な工業集積、例えて申しますとアメリカ合衆国カリホルニア州サンノゼに展開するシリコンバレー同様、或いは是を凌駕する一大テクノパークを開発したいので、土地を確保せよと申してまいりました。彼の地は日本有数の米作地帯で、優良な米はひとめぼれというブランドで日本全国に膾炙しておることも充分承知しております。然しながら次官。北上の有する高操で寒冷な気候、清浄で豊富な水資源、労働意欲の高い雇用人員の確保など日本全体を見渡しても、これほどIT産業立地に相応しい場所は見当たりません。食料自給の精神は理解できますが、農以外の基幹産業の見当たらぬ岩手県にとりましては、投下資本十兆は大きな期待として受け止めて頂けるかと信じております」
「志水さんと申されましたか。天下のシルバーマンサックス東京支社長がこんな若い美人とは想像できませんでした。あ、これは失礼。セクハラと取らんでください。正直な感想を申したまでです。貴女のご提案、面白く拝聴しました。お気づきの通り、北上地方は新潟県魚沼地方と並ぶ、本邦枢要な米作産地です。特に御社が土地買収を計画している江釣子村近辺は、魚沼産コシヒカリをも凌ぐ良米カズヒカリの産地として全国にその名が轟いております。しかもこの村一帯を治めております主要農家は、激しく農の近代化に抗しておりまして、電気、ガス、水道等のライフラインをも拒絶し、江戸時代さながらの原始農法を行っていると仄聞しております。この地域を農業以外の他産業へ転換することはまず考えられません」
「然しながら次官。私どもはかの地に赴き誠心誠意計画をご説明させて頂こうと考えております。現在江釣子村で就業されている農家の方々には、未来永劫に安定した生活が出来るに充分な保証金をお支払いする所存にございます。無論、貴省の推進されている食料自給の原則を些かでも損なうことなく、事業を進めるつもりです」
「ほお、農地を工業団地に転換してしまえば、その土地の農産物は無くなります。国民の多くが江釣子米の美味さに期待し待ち望んでいる現状をどうされるのでしょうか。具体的な方策を聞かせて下さい」
「はい。米や野菜の主要産物の生産は続けることが出来るのです。弥生時代から殆ど進歩していない大規模に土地を使う、粗笨で生産性の低い第一次産業から革命的に転換、超周密、完全自動制御の農業にする施策を立案中です。これによれば土地面積当りの生産性は約千倍になるとの試算ができました。東京大学大学院農学生命科学研究科との共同研究でございます」
「そうですか。農水省としては、各個別の土地利用に口を挟むことはできませんが、穏便にお運びください」
ほぼ成功裏に農水次官との面談を終え、博美は休む間も無く一ブロック先の経済産業省に向かった。大臣の天利明は新自由クラブ出身で安倍から福田に変わっても大臣に居座る重鎮。大臣室に通された博子は、先ほど農水次官にしたものと同様の説明をする。
「東北地方、就中この地域の地力が他地域と比して著しく低いことは否めないかと存じます。以前日本のチベットなどと蔑まれたこともございました。ここに一大テクノパークが完成した暁には、花巻空港を大々的に改修、大幅に増便し羽田に直接アクセスできるように国交省に働きかけます。赤字に悩む東北道、秋田道など高速道路、東北新幹線も旅客数の飛躍的増加により黒字路線へと転換出来るでしょう。雇用情勢も変わるかと思います。テクノパークでの直接雇用は約十万人、間接雇用を含めますと約二十万の雇用が見込め、県民所得三倍増も夢ではありません」
「志水君。西芝電機は歴史ある日本有数の優良企業。それをたった一度の躓きで外資に株の過半が買い占められ、今や西芝はオタクの傘下にある。オタク等がハゲタカと呼ばれているのを承知だろうが、遣り方が阿漕過ぎる。IT立国は国策である。オランダ企業がITの覇権を握ったならば、早晩西芝以外のIT企業を潰しに懸かるのは目に見えている。先端産業が外国資本に占拠されれば、我が国は世界中の笑い者になる。それでなくても中国やインド、韓国などが著しく台頭、日本のお家芸だったIT産業は他国に追い抜かれ、我が国のソレは壊滅するだろう。フィリップスという世界最大規模の企業が本格的に上陸したら、脆弱な日本企業などひとたまりもあるまい」
「大臣。失礼ながらそのお考えだけでは今は通用しないかと思います。企業のグローバル化が進み、国籍に関係なく、企業姿勢の正しく強いところが伸び、全世界から人やモノ、資金を調達しております。日本国だけに囚われていたら、江戸時代の鎖国と同じで、先進諸国から憐憫の目で見られていることをご存知無いのでしょうか」
「元気なお嬢さんだ。気に入りました。しかし実に美しい。大臣としてはとても相容れる訳にはまいらんが、個人としては近しくしたいものだ」
「ま、物分りが宜しい。この後、予定を空けて下さいませんか。赤坂に一席設けます。余人を交えず二人だけですよ」
「昨今は業者との会食は禁じられている。内密に願います」
「はい、はい。承知しておりますよ。プライベートの時間にプライベートに会う。請託なんか一切しませんから、ご安心を。赤坂のつるの屋で六時にお待ちします」
経済産業省を出ると、博美は舌を出してにっこり笑う。写真週刊誌の編集長に電話をし、八時に赤坂つるの屋前で特種が撮れると告げて即座に切り、ガレージで待機する鐡蔵を呼び出す。
「鐡蔵。今日は色仕掛けで大臣を葬ります。セクシーな服を用意すること」
自宅に戻るとシャワーを浴び、天利大臣の無礼な言い草を洗い流した。鐡蔵に思い切りセクシーなメイクをさせ、深いスリットがあり、胸が半分以上露わになる黄色のロングドレスを着る。ヒールは十五cm高のストラップサンダルだ。ブルーのジャガーを使う。
大臣は舌なめずりをして先に着いて待っていた。
「お待たせ致しました。先ほどは失礼申し上げました。今夜は無礼講で宜しゅうございますか」
「ますます気に入った。その服とってもチャーミングだ。似合っている。さ、儂の隣に来なさい」
「あら、宜しいンですか。ではお言葉に甘えて」
大臣に寄り添って身体を寄せる。濃密な博美の体臭が天利をくすぐる。
「お酌しますわ。アマリちゃん」
「フム。胸触ってもいいかな」
「あら、もうお酔いになったの。バストタッチはもう少しあとでネ」
博美はそう言って胸を揺する。たわわなバストが艶かしく揺れ、服から飛び出しそうだ。更に立膝をして大きく割れたドレススリットから長いつやつやの美脚を見せ付ける。大臣の顔が真っ赤に染まる。お色気ポーズで散々じらす。予め鐡蔵に八時に呼び出せと言いつけてある。携帯が鳴った。
「あら、ごめんなさい。もう少しアマリちゃんと楽しみたかったンだけど、急用が出来ちゃった。こんど埋め合わせするわ。玄関まで送ってくださる」
誘惑されその気になった天利は博美を送りに車までついて来た。博美がふっと息を吹きかけると、天利は堪らず、博美を抱きすくめ、キスしようとする。その時盛大にフラッシュが焚かれ、二人はカメラマンに撮られてしまう。博美は素早く車に乗り込んでジャガーを急発進させる。
「嫌だわ。仕事とはいえ、もう少しでバカ親父に唇奪われそうになった。鐡蔵。口直しにお前のキスを頂戴。木陰に車を止めなさい」
鐡蔵が暗がりに車を止めると、博美は涙を浮かべて、鐡蔵の唇をむさぼり、舌を絡めてきた。博美からお義理のキスはしてもらったことは何度かあるが、こんな激しい情熱的なキスは初めてで興奮した。博美は勝気で何でも自分の思い通りにすると思っていたが、こんな脆い女性らしい面もあるようだ。ヒルズの自宅に戻る。部屋に入ると博美はいきなりドレスを脱ぎ、下着だけになって抱きついてきて、再び唇を求め大泣きした。
「お、お嬢様。お辛かったのですね。私が慰めて差し上げます。邪魔なブラとショーツ取り去りましょう」
いつの間にか博美はいつも使う鞭を持っていて、鐡蔵の顔面を強く張った。
「調子に乗るな。いつも言っている。お前が好きだからキスしているのでは断じてない。気鬱に陥ったから気晴らしに抱いてやったのだ」
「いてて。お嬢様。いつものお嬢様に戻られた。でも私がお嬢様の何よりの癒しになるのでしたら存分に抱いてくださいまし」
「嫌だ。それよりエステをしなさい。明日午後に北上に立つ。私が眠ったら、切符と宿の手配、明日の服を用意してくれ。今日は此処に宿泊するのを許す」
序々にではあるが、博美は雇い主の女主人の振る舞いだけでなく、恋人のような仕草を示すようになってきた。乱暴な言い方の中にも優しさが滲むことも再々だ。鐡蔵は嬉しくなって、懸命に博美の裸の背中に香油を塗り、繰り返し撫で摩った。翌日の朝刊には天利と博美がキスを交わす寸前の写真がデカデカと掲げられ、その日の内に天利は更迭を余儀なくされた。
翌日午後東北新幹線スーパーグリーンカー車内に並んで座る博美と鐡蔵の姿があった。座席に着くと鐡蔵はマックブックエアを開く。
「昨日お嬢様より申し付かりました、江釣子土地買収失敗の要点を纏めました。ご覧ください」
博美が見ると以前李チーフが行った交渉過程と顔写真付の関係者一覧がマトリックスで示されている。二ヶ月間に及ぶ交渉では、決定権をもつ伊藤氏に当初面会も適わず、県農政局長の口利きで漸く面会は出来たものの、殆ど交渉らしい交渉も出来ず、連日追い返されている。交渉の達人李チーフにしてどうしてこうなったのか。次に鐡蔵は伊藤弥ェ門のファイルを開く。
「伊藤弥ェ門五十八歳。江戸中期からこの地で代々農業を営む筋金入りの専業農民です。先々代、初代一弥が明治五年(1872)和賀川上流にダム(佳寿弥堰)を構築、灌漑用水路を引き、荒蕪地の多かった江釣子全域に新田五千町歩を開墾しました。明治十四年(1881)東北ご巡幸の際、この地に立ち寄った明治天皇は堰の威容と水路の見事さに感激、初代一弥に勲一等旭日桐花大綬章と男爵位を授与しました。初代一弥を継いだ二代一弥は阿蘭陀農法を試みるなど農の近代化に積極的に取り組みました。三代一弥、つまり当代の弥ェ門ですが、親に対する反発からか、父親の進めた近代農法を江戸時代中期の伝統的農法に戻し、ライフラインを絶ち、一切の動力使用を禁止した古典的農業を推進しています」
「他の村民は何故弥ェ門のバカげた指示に従うンだ?」
「はい。伊藤家は七代前の江戸中期にこの地方の藩主、南部公より大庄屋の称号が与えられ、付近一帯を治めていました。戦前の土地改正前まで、村民全てが伊藤家の小作人でした。戦後になりましても、村政や祭りなど村の生活や農事に関わる全ての役職の長を勤める関係から、戦前同様、弥ェ門の言いなりになっており、誰もそのことに疑問を抱かぬようなのです」
「ヘンじゃないか。ムラには電気もガスも水道さえ無い。新聞、TVは無論無い。学校では子供たちに何を教えているんだ」
「不思議です。学校は無いようです。教育は寺に設けられた寺子屋で行っており、中学、高校は廃校になりました」
「弥ェ門とやら、相当な奴だな。鐡蔵、弥ェ門の面見せてくれ」
「はい。顔写真をプリントアウトしてあります」
「どれどれ。う〜む。如何にも頑固そうな爺。さてどういう手立てで話をすればよいのか。いつものお色気作戦では上手く行くまい。お前いい知恵は無いか」
「左様ですな、シルバーマンサックスの行っている投資ファンドなどの話は極力避け、江戸時代を生きた農民に理解できる会話で終始するのが良かろうかと存じます。弥ェ門を陥落させるのはかなり困難と思いますが、息子に一弥、二十九歳がおり、こちらなら話ができる可能性があります。一弥は大卒で二十二歳から都会生活を経験しております。二十六で故郷に戻り、今は弥ェ門の下で農業に勤しんでいます。故郷に戻った際、村の幼馴染と恋に墜ちましたが、振られてしまいその後は誰とも付き合っておりません。一弥は無類の女好きで博美様のお姿を見たら、一遍で貴女の虜になるに違いありません」
「ふむ。一弥の顔写真を見せろ」
鐡蔵が画像ファイルの中から、一弥の写真を選び出し、拡大して見せる。体格、性格などのデータもある。
「あれ、ド田舎には珍しいイケ面では無いか。背丈百八十二cm、体重六十五kg、一見素朴だが内面に激しい獣性を秘める。なんだこの獣性と言うのは」
「不明でございます。恐らく女性に対し、獣の如く否応なしに突き進む野卑な性向を言うのかも知れません。お嬢様、犯されてしまわぬようくれぐれもお気をつけてくださいまし」
「恐ろしい親子だな。だがまずは弥ェ門に会わねばならん。鐡蔵、アポを取れ」
「メールはおろか電話や手紙も届きません。直接尋ねる以外方法はございません」
新幹線は盛岡駅で下車、北上では博美が泊まるようなホテルが見当たらないからである。四季亭という旅館に泊まり、翌朝は持ってきた着物に着替えタクシーで出発。だが江釣子村に入る前で降ろされてしまう。ここから先は車や自転車、人力車の通行も許されていないという。已む無く二人はそこで屯している辻駕籠を雇う。
「駕籠屋。上江釣子伊藤弥ェ門宅まで行ってくれ。ところで代金は円でも良いのか」
「へ、へい。大丈夫でごんす。あそこまでなら一万五千円ほどですが宜しゅうござんすか」
「うむ。やってくれ。急ぎだぜ」
「急ぎだとモオ三千ばかり上乗せになるが、よかんべかの」
小一時間ほどで弥ェ門宅につく。道中は、まるで時代劇に入り込んだようだった。松並木の続く街道から一歩村内に入ると、村人は一様に鼠色か藍色の肩や裾を刺し子で補強した木綿の野良着である。菅笠を被り大儀そうに腰を屈め鋤や鍬を振るって田圃を耕している。働いている若い女性も多く、早乙女姿の女も混じって賑やかだ。屋形は何軒か蹲るように纏まって建っている。曲がり屋のような大きな藁葺き屋根が印象的だ。母屋には牛や馬が共に暮らしている。どの家も鶏や豚、家鴨などを飼っていて長閑な鳴き声が聞こえる。整然とした田圃が何処までも続く。田圃の向こうは碧い奥羽の連山。山頂付近は峪に沿うように残雪が残り、様々な文様を描いている。玉石を積んだ用水路が縦横に巡らされ、透き通った清水が滔々と流れ、畦や小道には色取り取りの野花が咲き誇っている。
「のどかですなあ。古き良き日本の原風景。我々の失ってしまった美しき風景が全て此処にあるようだ」
「私嫌いだナ。第一糞尿の臭いが堪らないし、薄暗い家に馬や牛が一緒。蝿や蚊もきっと凄いと思う」
弥ェ門宅は庄屋に相応しい豪壮な門構え。母屋は巨大な藁屋根で一部が瓦葺。
「お頼み申します。私は東京から参りました志水博美と申します。弥ェ門様にご面談お取次ぎお願い申し上げます」
厳しい門番は胡散臭そうに二人を眺め、追っ払うように手を振る。その時博美は鞭を振って鐡蔵を激しく打擲する。
「鐡蔵。お前は弥ェ門様との大事な面談に許可も取っていなかったのか。バカ、バカ」
「お、お、お許しくださりませ。弥ェ門様に連絡が取れなかったからでございます」
「理由にならん。遥々江戸表より奥州南部藩和賀郷江釣子まで尋ねて参ったに、肝心要のお相手に会えぬとは、腹立たしいやら口惜しいやら。最早生きて帰ることは許されぬ。我が喉突いて自害せねばなるまい。鐡蔵。介錯頼んだぞ」
若い非常な美人が門前で自ら喉を突いて死のうとしている。門番は事態の大きさに驚き慌てて屋敷に駆け込み、中間を通じお屋形様弥ェ門に注進した。
「門前に妙齢の女子とその家来らしい老人が参り、お屋形様に面会適わねば自害すると申しております。如何致しましょうか」
「妙齢の女子とは如何なる女子じゃ」
「は、はい。若い非常な美人で色気溢れた勝気な女で、博美と名乗っております」
「今は田植え前の農閑期。暇を持て余していたところじゃ。良かろう。特別に逢ってやろう。女と老人を座敷に通せ」
二人は中間の案内で黒光りする玄関から長い廊下を通り、広い表座敷に入る。博美は弥ェ門に気に入って貰えるよう若草色で桜花を散らした小紋、鐡蔵は黒紋付羽織に仙台平の袴。
床前に貫禄充分で恰幅の良い男が黒い紬に海老茶の羽織を着て座っている。辺りを払う威風は大庄屋と呼ぶに相応しい。
「弥ェ門殿でしょうか。私は外資系金融機関シルバーマンサックスという会社の東京支社長を勤めております、志水博美と申します」
弥ェ門の声音は静かだが、人々をして屈服させるに充分な威厳に満ちている。
「亜米利加国の両替商が斯様な僻村に何用で参った」
「あら、弥ェ門様。喩えがお上手ですこと。ご指摘の通り我が社は両替商とよく似た商いをしていますのよ。不景気な大店の株を買占め、他所の店に売って差額を頂くのが仕事。北上市、江戸時代は黒沢尻って言ったかしら、そこに西芝というエレキのお道具を作る作業場があるのはご存知でやんしょ。西芝はネ、でーヴぃでーっていうからくりを作っていましたが、道具商同士の争いに敗れ潰れそうになりました。そこで西芝サンの苦境を見かねた私共両替商が、藩からお許しを得て商いが出来る株を買っちまった訳」
「よう解らん。お主びーと言の葉を発するの時、下唇を上の歯で擦りながらヴぃーと声音に出す。女子は人前で歯など見せてはならぬ」
「まあ、そうなんですか。それでネ、買った株を阿蘭陀国の会社に売りたいの。ところがその会社、この江釣子村の土地全部買い上げてくれって言ってきたのよ。弥ェ門様。江釣子が世界に冠たるIT産業の発信地になる計画です。江釣子農業の先行きは見えています。北上、イヤ岩手、更に日本国のためにこの地を輝くものにしようではありませんか。土地を売って農業を辞め、他の仕事に付けとは申しません。北上川東側に代替地をご用意します。その地で超高度集約型全天候農業が出来ます。全自動で人手は殆どかからず楽になるのです。是非脱皮してください。もしお売りくださったらお礼にちゅーしてあげるわ」
「何だ。そのちゅーっていうヤツは」
「あら、お口合わせのことですよ。口吸いとも言うわ」
「不仕鱈な。左様な色香に迷って判断を誤っておったら、迚も庄屋など務まらぬわい。馬鹿者。去ね。金輪際会うこと罷り成らん。早々に立ち去れイ」
出て行けと言われ博美はがらっと態度を変え、着物の裾をまくって片膝を立て、啖呵を切った。
「ヤイ!弥ェ門。お前ェさんどっか勘違いさらしてんじゃ無ェのかい。こんなド田舎なんか誰も鼻も引っ掛けねえタダ同然の土地。土地ロハで奪おうってんじゃ無ェ。大枚な金貨積もうってんだ。金が無ェからお江戸そのままの暮らし続けなければなんねえ。土地の百姓が哀れと思わんかい。呆け茄子が」
「このアマ、とうとう正体現しやがったナ。女ながら俺などと名乗るんは、堅気とも思えん。お前ェさんの脅しに乗るほど儂はヤワじゃ無ェ。百姓が土地サ失ったらどおなる。丘に上がった河童同然生きがいの全てを失ってしまう」
「バカ言うんじゃ無ェ。村の爺婆見いや。腰は曲がり手足はひび割れだらけ。襤褸を着て一番鶏が啼く時分から、星の瞬く夜更けまで田圃の中泥だらけで這いずり回ってやがる。若い衆なんぞ嫁も婿も来手も無ェから何時まで経っても独り身じゃ。アソビたい盛りの子供はどうだ。玩具も遊具も無い。ガッコも行けねえ。ラジオも無ェ。TVも無ェ。携帯も無ェ。車もバイクも無ェ。こげな生活皆飽き飽きしてらあ」
「女。儂はノ、文明を開化し毛唐の猿真似に汲々としている輩を嫌悪する。天下広しと雖も斯くなる清浄な食物を、己が肉体の酷使により得ているのはこの江釣子だけである。神聖なる食物は神々しいほど無垢で美味い。西洋文明の毒素に穢れきった道具など糞喰らえだ。教育は寺子屋だけで充分である。世に行われている小学、中学、高等学、大学は徳育の視点が丸で欠如しておる。学問とは文字通り学んで自らに問うものである。共産主義などのイデオロギーに毒された学問など百姓には無用だ」
「弥ェ門。勘違いしてんのはおまィの方だ。村人はお前ェさん以外、皆江戸時代そのままのドン百姓なんか辞めたがっとる。都会に出て金を稼ぎ、学問をし、いい会社に入っていい生活がしたいんじゃ。女はエステやブランドショップ、三ツ星レストランやホストクラブ行ってヨ、飲んで遊んで享楽の限りを尽くす。男もおんなじ。いい女見っけて、カシノやパチンコ、パチンコに競馬、競輪で遊ぶか、学問に精出してノーベル賞。宇宙飛行士になる手もある。スポーツ選手やアイドルタレント、お笑い芸人にでも成って見ろ。億単位の金が稼げる。これが本能じゃ。私っちの仕事はな、言ってみればそういう金で全てが買えると思ってやがる人間共を騙りにかけ、更に大儲けしようっていうユダヤ人が考えたファンドっちゅう化け物じゃ。これに魅入られたら骨の髄まで全てしゃぶりつくして木乃伊にしちまうおとろしい会社なんだ。恐れ入ったか」
「そんなのカンケー無ェ。おっぱっぴーだワイ。くだくだ何時までも戯けたこと喋ってんじゃ無ェ。儂も金儲けは大ェ好きだ。此処で作る野菜や米、肉は大変な高値で売れまくっておる。村人は皆豊かじゃ。世帯毎の年収は皆一千万を軽く超えている。アソビが無ェだと。一度村祭りを見ることだな。神輿や山車が五十基も出る。老いも若きも村人総出で大騒ぎ。祭りのあとは男は気に入った女を犯していい。女は喜んで是を迎え性の歓喜に酔い痴れる」
博美は話しても無駄と悟って得意のお色気作戦に出た。暑い、暑いといいながら、着物の裾をからげ、襟をはだけて片方の前身ごろを脱ぎ、辛うじて大事な部分だけを覆っている下着を見せる。弥ェ門堪らず乗り出して舌舐めづり。
「ほぉっ。手前ェ涎出ているゼ。さては俺の色香に迷いやがったナ。ちィっと色目使えば、偉そうに言ってた割りに、鼻息荒くなりやがった。俺はナ、お前ェみてえな糞爺に大事な肌見せたか無ェんだがよ、あんましバカばかり言うんでカっとなって暑くなっちまった」
口角泡を飛ばしての激論は止まりそうも無い。このとき今まで押し黙って二人の主張を訊いていた鐡蔵がやおら立ち上がり、初めて発言した。
「オホン。議論は冷静に相手の言わんとする処を訊き、己が主張をはっきりと伝え、折り合うべきところは折り合って妥協点を見出して決着せねばなりません。今のお二人の口論は聞いている私が恥ずかしくなるほど大人気ない互いに自分の独りよがりの主張を声高に喚き合っているに過ぎません」
「下郎。お前何者だ。口を挟むンじゃ無ェ」
「申遅れました。私は志水の秘書を勤めておる安芸河鐡蔵と申す不束者でございます。要は志水は弥ェ門様の所有地を買収したい。弥ェ門様は農業を続けるので土地は売らぬ。こういうことと私は理解致しました。二百五十年の永きに渡り、この地を慈しみ育てて来た弥ェ門様が、突然現れた都会の女子に易々と土地を手放す訳もございません」
「おい。鐡蔵。お前いつからそんな生意気な口訊くようになった。私っちはナ、このボロ土地を相場の二倍、大枚一兆五千億で買おうというんじゃ」
「幾ら金を積まれようと、絶対売らん」
「又同じ繰り返しだ。博美様。暫く口を噤んで置いてください。鐡蔵に思案がございます」
鐡蔵はそう言ってズリっと弥ェ門の目の前に進み出る。普段鞭打たれ、唯々諾々と命じるまま只管忠節を尽くすだけだった鐡蔵の変貌振りに、博美はたぢろいだ。鐡蔵は瞑目すると低い声で語り始めた。
「弥ェ門殿。貴殿が江釣子村の事実上の大庄屋であられること、承知しております。然し乍、生きとし生けるもの須らくその生に限りあること、聡明な貴殿なら当に承知で対策も採ってござろうと拝察致します。貴殿は確か昭和二十六年のお生まれだから、今年五十八。あと二年で還暦を迎えられる。何れ近いうちに家督をご子息様に譲る時が参ります。私どもの調査したところに拠れば、ご嫡男一弥殿、御歳二十九歳。大庄屋職を継ぐに充分な御年、識見を備られておられます。事は将来の江釣子の命運を左右する重大事でございます。一弥様もご同席賜りお話申し上げるのは如何でございますか」
弥ェ門の広い額に何故か脂汗が滲んだ。一弥は幼児のころからその才の抜きん出ていること甚だしく、村人皆から神童と、長じて天才と呼ばれる麒麟児である。聡明な頭脳に加え容姿は悔しいかな、米国人俳優ジョニーデップそっくり。弥ェ門は無限の可能性を秘める一弥を、この江釣子に留め、旧態依然の農業を継がせて良いものか、悩みぬいているところだった。
庄屋としての役職や農事の差配など枢要な指示を今は一弥が行っており、家長の権限の殆どを移管しており、弥ェ門は名目上この地位に留まっているに過ぎぬ。
この際、賢い一弥の意見も聞くのも一興と弥ェ門は一弥を座敷に呼んだ。板襖が音も無く開くと、長身の一弥は身を屈めて入ってきた。切れ長の静かな目元。秀でた眉。すっきりした鼻。形良い口は微かに微笑を湛えている。筋肉質の体躯は惚れ惚れするように見事だ。
「父上。お呼びですか」
声は遠雷を思わすように静かで重く心地良く伝わってくる。博美は一目見て、この男に恋してしまった。男勝りで勝気な博美も、心此処にあらずの風情で顔面を朱に染め、俯いてもじもじと指を絡ませている。心臓が早鐘のように高鳴り、呆然として声を出すことさえままならぬ。
「お嬢さん。そんなに固くならないでください。私はこの家の長男一弥でございます。東京からいらしたと聞きました。大変だったですね」
優しい言葉に先ほどの勢いは何処へやら、思わず涙ぐみそうになる。一弥は博美の真横に座って、博美の両手を包み込むように擦ってくれる。
「私はSilvermansaccs Tokyo Branch Presidentの、し、志水博美と申します。どうぞ、お、お見知りおきくださいませ」
「博美さん。貴女はお若くて大層美しい。どのようなご用件で来られましたか」
弥ェ門が詳しく博美の持ってきた話を語り聞かせる。一弥は時折肯いたり、眉をひそめたりして聞いていたが、弥ェ門が話し終えると、博美に向かい笑顔を浮かべ手を握る。
「興味深いご提案です。だがこのことは江釣子村民一万五千人の将来を左右する大事な決断が必要でしょう。すぐにご返事とはまいりません。少しの間検討する時間を与えていただけませんか」
「も、勿論です。こちらも関係各位と色々調整しなければなりませんので」
「博美さん。もし宜しければ、今日はこちらにお泊りになりませんか。私がこの地のあちこちご案内させていただきたいからです」
「ま、まあ。嬉しいわ。明日には私東京へ戻る必要があります。私の東京支社長就任パーティがリッツカールトン東京のグランドボールルームで行われます。一弥さんもご出席下さると嬉しいわ。就任式の後、フルバンドを入れてダンスパーティがございますの。一緒に踊って頂きたいの」
「喜んで出席させていただきます。私ダンス得意ですよ。リッツに宿をとれば良いのですね」
「はい。でも今日こちらでご厄介になりますので、私の家に泊まって下さらない。リッツのすぐ近くのヒルズのレジデンスの三十階です。とても夜景が素晴らしくってよ。素敵な夜になりそう」
思わぬ展開に弥ェ門と鐡蔵は顔を見合わせ苦笑した。いつもはツンと清まし、お高く留まっている博美が、ここまで愛想を振りまき、自ら同宿を希望するとは。弥ェ門にしても不思議な感覚に囚われた。幼馴染の地元の女性にふられ、塞ぎこんでロクに口も訊かぬ一弥が、斯くも饒舌に打ち解け、恋人同士のよう話をしている。余程互いが気に入り惹かれあったのだ。互いに「一目ぼれ」のようだった。あっけにとられる二人を措いて、一弥と博美は互いに腕を取り合い、夕闇せまる田園へと出て行った。
「やれ、やれ。妙なことになった。敵味方で互いに罵り合った儂が馬鹿をみた」
「左様です。博美様が男性に対しあのような馴れ馴れしい態度を取るのを初めてみました」
「今晩は志水殿と安芸河殿を招いて、江釣子の郷土料理を楽しんで貰わねばならないな」
その夜、盛り沢山の海山の珍味が饗せられ、飲んだり食ったりで大盛り上がり。翌日は一弥の案内で江釣子の風光明媚な場所に案内され、二人は恋に落ちたようだ。
二00七年に開業した高級ホテル、ザ・リッツカールトン東京は六本木の防衛庁跡地を再開発した東京ミッドタウンの一角にあり、中央のミッドタウンタワーの過半を占める。シルバーマンサックス東京支社支社長就任披露パーティは午後六時より二階のグランドボールルームで行われる。六時少し前から車寄せには次々と高級車が横付けされ、着飾った内外の貴顕紳士淑女達が敷き詰められた赤絨毯を踏んで来場してくる。迎えるシルバーマンサックスニューヨーク本社会長ブランクファイン、社長ゲーリーコーン、日本代表森井健吾、新任の東京支社長志水博美が一列に並んで、招待客を迎えている。博美の出で立ちは人目を惹くに充分だ。鮮やかなブルーの薄絹のドレスは細い金のリングで両肩から吊られ、中央部が首から臍まで大きく開いて、艶やかに張った双の乳房の殆どと、引き締まった腹や美しく化粧が施されたお臍まで剥き出しだ。首に絡ませた純白のロシアンセ−ブルのショールが辛うじて胸の脇を隠しているだけである。来客にお辞儀し挨拶するとき、ドレスから胸が飛び出しそうで、傍らで付き添っている鐡蔵は冷や冷やしどうしだ。米国大使夫妻、イギリス大使、同令嬢の来場に続き、ピカピカに磨いた黒塗りのロールスロイスリムジンがポーチに着く。降り立ったのは大きな薔薇の花束を抱えた長身の伊藤一弥。漆黒のテールコートに白のボウタイ。ロングヘアはウルフカット。ジョニーデップと見紛う徒な姿に女性たちが一斉に熱い視線を向ける。
「ようこそいらっしゃいました。お目に掛かるのを一日千秋の想いで待っておりました。先日は大変お世話になり、美しい田園の光景を満喫させて頂きました。貴方のご案内とてもとても素敵でした。大好きです」
「博美ちゃん。とっても綺麗でとってもセクシーだよ。今晩キミのところへ泊るかと思うとドキドキが止まらないんだ。愛している」
会長や社長の巨大スクリーンを使っての挨拶がある。次は主役登場。博美の番だ。
「皆様。ようこそ私の支社長就任パーティにご参列くださってありがとう存じます。シルバーマンサックスは外資系ファンドの雄として皆様方に愛されている一方恐れられる存在でもあると聞いております。でもこれからは私のように皆様から愛されるだけの会社にして行こうと思っております。暖かいご支援どうぞ宜しくお願い申し上げます」
光芒を放つがごとき美貌は招待客に溜息をつかせ、誰もが博美と知り合いになることを望んだ。万来の拍手が沸きあがる。博美は拍手が静まるのを待って会場を回り、一人一人挨拶していった。広い会場の片隅で一弥は笑みを湛えて待っていた。博美が近づくと力強く抱きしめられた。丁度その時バンドがムーディなダンスナンバーを流し始めた。
「博美ちゃん。踊ってくれる?」
「はい。貴方の為に選んだドレスよ。貴方に抱かれると少女のようにときめいてしまうわ。踊りましょ。懐かしのウィンナワルツよ」
一弥は優雅な手付きで博美の白い華奢な手をとり踊りだした。正確で張りのあるステップはプロも顔負けで音も立てず滑らかだ。ターンのときグイっと引き付けられ、忽ち唇が奪われてしまう。腰に回された手が熱く刺激する。胸と腰を押し付けると蕩けるように感じて、今度は博美の方から口付けした。ダンスが終わり宴終盤に博美が再び挨拶に立ってお開きとなった。ヒルズの博美のレジデンスまでは五百メートルも無い近さだが、一弥のロールスロイスリムジンで送ってもらう。三十階にある博美の住まいはサー・テレンス・コンランが手がけたインテリアデザインで、格調高い空間である。玄関を入ると広いホワイエがあり、その先は吹き抜けの四十畳ほどのリビングルーム。白亜の大理石の床にマホガニーの板壁。白い革張りのゆったりとしたソファが置かれ、床から天井までの巨大なガラス窓から、都心の夜景が暗がりにダイアを散りばめたように広がり、宙に浮いたような感覚になる。
「一弥さん、何かお飲みになるでしょう。この夜に相応しい都会のカクテル、お作りしましょうか」
「エメラルドシティなんかいいね。ミントとレモンとジンジャー。青い透き通った色はキミとの夜に相応しい」
窓前のセッティに並んで寝そべり、飲みながら夜景を楽しむ。
「博美ちゃん。知り合ったばかりなのに、ずっと前からお付き合いしている恋人のようだよ。キミはこんな都会の真ん中で、魂をすり減らすような辛い仕事をしている。さっきのパーティで判ったよ」
「そうなの。私ネ、キャリアウーマンの典型と言われて、朝から晩まで気の休まるときが無いの。図に乗っていたのね。皆からチヤホヤされ、お金を稼ぐことに夢中で、恋の一つもしていない。ずっと、ずっと恋人がいなかったのよ」
「可哀想に。でも、もう大丈夫。ボクがキミを思いっきり癒して上げるよ」
博美の美しい横顔に銀の鎖のような涙が伝って落ちた。近くで見ると触っただけで毀れてしまう位、驚くほど細身で華奢だった。一弥は博美の肩を包み込むように抱き、そっと引き寄せて唇を合わせた。
「ボク達こうなる運命だったんだ。きっと天の神様が、一生懸命働いているボク達が恋人もおらず、泣いているのを見かねて、二人を巡り合わせてくれたんだ」
一弥は博美を横抱きにして隣のベッドルームに運んだ・・・・しかし・・・・・
その夜、鐡蔵は博美の世話をすること無く、狭い自宅マンションで独り寝だ。うるさい命令もなく、頬を張られることも無い。羽を伸ばしてのんびり過そうと思ったのだが、全然落ち着かない。博美が生まれてから一日も休まず世話をし続けてきたから、何もしないで過すことは、酷く苦痛に感じる。まんじりともせず、朝一番に博美の家のインターホンを押す。何度押しても応答が無い。已む無く合鍵で中に入る。ベッドルームから二人の獣のような喘ぎ声が聞こえてくる。鐡蔵は耳を塞いで蹲った。耳栓をして朝食の用意をし、声が止んだとき、ドアをノックした。
「お嬢様。一弥様。朝食の準備が整いました。如何致しましょう」
「そこへ置いて頂戴。お前にもう用は無い。帰りなさい」
涙が滲んだ。寂しくて哀しくてならない。泣きながら家に戻り、ベッドに横たわる。博美を一弥に奪われた、そう思うと居ても立ってもいられぬ。博美は一弥と一緒に江釣子に行ってしまうのか、それとも一弥が博美のマンションに越してくるのか、何れにせよ鐡蔵の居場所は無い。二人の急速な接近と愛情の交換は、結婚へと進むに違いない。自分は今後何をして生きれば良いのだろうか。博美に追い出されてしまったら、なんの取り柄も無い自分を雇うところなぞ、存在しない。絶望的な気分でぼんやり時を過し、翌朝を迎えた。寝過ごして起きたのは九時。パソコンを開き、ある筈も無い博美からのメールをチェックする。なんと、四通も届いている。曰く、至急マンションに来いという内容で六時、七時、八時、八時半に届いている。慌てふためいて駆けつける。ドアを開けた途端博美の激しい叱責がある。ほっとした。
「鐡蔵。遅いぞ。何度メールしたか解っているのか」
「は、はい。今日は寝坊してしまい、起きたら博美様からのメール四通届いておりました」
「携帯にも出ない。メールの返事も来ない。一体どうしたのだ」
「はい。お嬢様は一弥様と懇ろになられ、最早私など邪魔になって放逐されるのでは無いかと、この二日間眠れぬ夜を過しました。明け方まどろみまして、寝過ごした次第です。申し訳ありません」
「バカか。一弥は昨晩のうち江釣子に帰った。いい男だが結婚はしない」
「えっ。何故でございます。二十七年間、付き合う男性が無く、やっと巡り合えた素晴らしい男。既に関係を持たれ、見も心も捧げたように見受けられましたが」
「寝物語に様々語り合ったのだが、彼は俺に江釣子に来て、一緒に農業をやれと言う。俺は元来の都会生まれの都会育ち。ファッションや最先端文化にどっぷり浸からねば生きていけぬ。江戸時代にタイムスリップしたような辺境で、時代離れした百姓をするなど耐えられるわけも無い。第一俺はあの田舎の肥溜めの臭いに絶対我慢出来ぬ」
博美はここまで言うと押黙って眼を瞑る。
「で、では、知り合ったばかりなのに、もうお別れなさるのですか」
「別れるとは申しておらぬ。彼が東京に出てくることもあるだろう。その時は逢うかも知れぬ」
「では江釣子村の土地買収計画はどうなるのですか」
「アレは中止だ。どうもこの話出来過ぎの感じだ。森井の仕組んだ陰謀らしい。森井は元々私の敏腕ぶりを妬んでいた。私がニューヨークに行っている間、ケチな芝居を仕組んだようだ。第一あんな辺境に十兆もの巨額資金をぶち込んだらどうなると思う?北上市の年間予算はたったの二百八十億。年間一兆円もの税収がある。泡銭を手にした地方財政は忽ち破綻する。巨額過ぎ、地方では使いきれない金額が濡れ手で泡と転がり込んでくる。人心は乱れ、俄か長者や浪費家が出て収拾がつかなくなるのは目に見えている。そんな事業にフィリップスみたいな世界企業が投資を行うとは思えぬ。しかもあの地は伊藤家が代々、世にも稀な理想農法を根付かせ、発展させてきた土地。見たとおり自然と一体となった日本一美しい地だ。あのような土地を開発し、一大工業団地にするなど発想そのものが間違っている。こんな与太話はこの事業推進を私にやらせ、失敗させて失脚を狙う悪巧みだと気づいた」
「シリコンバレーというのもおかしな感じがします。かの地は五十年代に開発が始まった、今から五十年も前の開発手法です。先端企業の集積は、確かに効果はあり、数百の著名先端企業の業績は目を見張ります。大学も多数近傍に集まって、産学協同の実を挙げているとも存じます。然しながら、扱う商品や産物は半導体やソフト開発で、現在のインターネット社会では必ずしも集積して開発をする必要が無いとされています。我が国では筑波研究学園都市が著名ですが、集積によるメリットは乏しく、今や廃墟と化した地域もございます。これからは各企業は分散立地し、夫々が尤も効果が上がる立地を選択する傾向があり、シリコンバレーはもう古き良き産業の遺産と申せます」
「その通りだ。眉唾の話だ。薄々誤魔化されているような気がしていたが、江戸時代そのままの暮らしを続けている桃源郷にも興味を惹かれていた」
「森井会長は一体何を企んでいるのでしょうか」
「恐らく私の失脚後、後釜に座ろうという魂胆だ。シルバーマンサックス 日本代表とは聞こえはいいが、実権の無い名ばかりの閑職だ。私は何年か奴の下でファンドマネージャーのトップを勤めていたが、決定権は全て私にあった。森井は決定事項を承認するだけ。年収は私の十分の一にも満たない。私が就任した東京支社長の年俸は二億。森井は涎が出るほど、この地位が欲しい。本社は私がこの地位に着くことを条件に東京支社の開設を認めた。森井は体良く厄介払いされたのだ。だって可笑しいだろう。日本代表の年収が東京支社長の十分の一。どうみても支社が日本を飲み込んだ格好だ」
「森井はお嬢様に懸想していましたが、執念深い誘いに全く応じなかったし、話もしようとなさりませんでした。横恋慕の要素もございますね」
「そうなんだ。アイツのネチコイ嫌らしい態度には辟易する。私と付き合うなんて百年早い。脂ぎった顔、思い出しただけで身震いが出ちまう。それより、お前を呼んだは他でも無い。まず朝飯を作れ。そして三日間休んでしまったエステをしてくれ。肌が少し痛んだ。バストケアとアンチェイジングを中心に。ヘアとネイルも頼む。今日は一日かけて念入りに施術してくれ」
エステはもう二度と出来ぬと嘆き気落ちしていた鐡蔵は、博美の要望を全身全霊で応えるべく、張り切って臨んだ。まずは朝食の準備。旬の筍ご飯、筍の土佐煮、赤貝、飯蛸、白魚の焼き物、赤だし、香の物、果物、和食を腕に縒りをかけ作る。鐡蔵の調理の腕は三ツ星シェフをも唸らせる達人の域に達している。朝食用テーブルは特注品で、ベッドの上を滑らしてセットする。麻のカバーは常に洗濯仕立てで清潔だ。テーブルをセットすると、博美を半身起き上がらせ背にクッションを入れる。鐡蔵は博美の脇でベッドに入り、同じような姿勢になり、器用に給食する。食事は全て箸やスプーンで口に運んでもらい、飲み物は口移しで飲ませて貰う。
「美味いじゃないか。特に筍はハリハリしているが柔らかい。京都産か」
「左様にございます。ご飯は薄味としましたが、如何でございますか」
「うん。丁度良い。土佐煮も上出来だ。鰹の出汁が利いておる。赤貝も飯蛸も気に入った。褒めてやろう」
「お礼のキスを頂戴できますか」
「図に乗るな。しかしお前が調理してくれねば、このような朝飯は味わえぬ。それに絶妙なタイミングで食べさせてくれる者など他には居らぬ。感謝している」
思いもよらぬ始めての感謝の言葉に、鐡蔵は感涙に咽ぶ。涙顔を博美が優しく拭いてくれ、鐡蔵は号泣した。泣きながらエステを開始する。クレオパトラも使用したというエッセンシャルな香油をうつ伏せの背中にたっぷり塗り、ゆっくりとマッサージする。
「バカね。こんなことで泣くなんて。私ネ、いつもお前の顔、引っ叩いているけど、本当はお前が好きなんだ。だからこうして裸身をさらし、全ての部分を触らせている」
「お嬢様。私は雇い主である貴女様を心より尊敬申し上げ、只管従順に仕えて参りました。それだけで充分です。口も利けぬ赤ちゃんのころから、こうして立派に成長され、押しも押されもせぬ立派なキャリアにお育ちになりました。お顔もお身体もその美しさは天下一品。私もお世話の仕甲斐があるというものです」
「こんな綺麗な顔と身体になれたのも、毎日の心こもった丁寧なマッサージのお陰よ。下着からトップス、コートに至るまで、お前が選んで買い揃えてくれたから、ファッションリーダーになれた。全部感謝しています」
「私は与えられた任務を忠実にこなしたに過ぎません。それをお嬢様から斯くも優しいお言葉を頂き、生涯一身を博美様に捧げる覚悟ができました。博美様。勇気を振り絞って伺います。私と一弥殿どちらかを選べとなったら、誰ですか」
「決まっているじゃ無いか。一弥は格好も良く優しいし、スマートだ。それに反しお前は年をとっていて、卑屈で好色だ」
「で、ではやはり一弥殿なのですね」
「ば〜か。女心は複雑だ。俺はお前を選ぶ。何よりも私の身体の隅々まで知り尽くしておる。俺を悦ばせることなど朝飯前だろう」
「滅相もございません。いつもお叱りばかり受けております」
「お前、泣いているのか。しっかりせい」
「よし。やる気が沸いてきた。私を引っ掛けた森井は許すことは出来ん。奴を失脚させる。お前、何かいい手立ては無いか」
「ニューヨークの本社に経緯は訴え出れば、簡単だと思いますが、それでは面白くありません。奴が再起不能になるダメージを与える必要があります」
「そうだな。奴の弱点は?」
「やはり一番は博美様に恋焦がれていることでしょう。色目を使えばいちころです。権力を掌握するのが生きがいで、自分に盾突く人間を陥れたり、仕事の出来る人間を嫌い、悪辣な策略で生きている男だと思います」
「そうね。私なんか一番に蹴落としたい人間かもね。でもぞっこんだからソレが出来ない。アイツ、バカな頭で悩んでいるに違いない」
「江釣子の土地一坪だけ購入します。それで土地買収は完了したと一弥殿に言ってもらうのです。そうなると次はフィリップスにそれを上げなければなりません。それを森井にやらせるのです」
「そうか。フィリップスは北上進出に不安を抱いていた節もある。森井が交渉する前、裏で真実を伝えよう。元々信用度の薄い森井は忽ち窮地に陥る」
次の日博美は出勤すると、先日秘かに一弥に渡した携帯に連絡を入れ、計画の内容を話し、森井代表からの問い合わせがあれば、土地を売ることにしたと返答をしてくれと頼んだ。一弥は先日の博美との一日を思い出して快諾した。ついで博美は森井代表との面談の予約を取った。ホテル西洋銀座のラ・ペトアで夕食をとりながら、江釣子土地買収の成果を話題にするという名目だ。森井は小躍りした。ホテルでのディナー。食後メンバーになっているバーG1に誘い博美を酔わせ、モノにする。長年の念願だ。即座にホテルに宿泊の予約を入れる。スウィートが取れた。顔が綻んで止まらぬ。秘書が怪訝な顔をしている。構うもんか。ニヤついたまま、葉巻を吹かす。
午後六時、約束の時間より三十分も早く到着した森井は、隣接のウェイティングラウンジでクリュッグを空けて、博美が到着した定刻には赤い顔で上機嫌。
「博美ちゃん。ここだ。待ってたよ」
「会長。名を呼ぶのは止めなさいとあれほど申し上げたのにまだ解らないのですか。でも今日はいいお知らせがありますから、我慢しましょう」
「おお、相変わらず凄ェセクシーじゃの」
二人は予約した個室に案内される。一日一組限定の築地市場オーダーメイドフレンチが饗される。シャンパンLouis Roederer Cristal 2000を頼み乾杯する。
「ご苦労さん。どうだった、土地は?難攻しただろう」
「ええ、とても大変でした。でもこの間の私の就任パーティで、大地主の息子さんが来てくれ、私と踊っていたのをご存知でしょう。そうです。買収に成功しました」
「ほ、本当か。李によれば大変な頑固爺で、土地の話など一切出来なかったと言っていたが。流石博美ちゃん。良くやった」
「懸案は解決しました。フィリップスは北上に第二のシリコンバレーを構築できるのです。当社が持っている西芝の株をフィリップスに買い取ってもらう売買契約を進めなければなりません。これから先は太いパイプをお持ちの代表に交渉をお願いしたいのです。これが成功すれば代表への本社の覚えも目出度くなるかと存じます」
「博美ィ。お前はいい子だ。儂が可愛がっていただけある。よし。引き受けよう。目出度い。今日は二人で成功のお祝いをしよう。ギャルソン。Château Lafite Blanc Pauillac 1959を頼む。49万もするがいいだろう」
「まあ、会長。そんな、無理なさらないで。美味しそうなワイン。お飲みあそばせ。注いで差し上げます」
博美は色っぽい目つきで頻りにワインを勧める。飲み干すと直ぐ新たなワインが注がれる。森井は嬉しくなり、グイグイ飲み、たらふく食べ、食後もバーで散々空け、ぐでんぐでん。足元がふらつき呂律も回らない。
「博美。上に部屋をとってある。一緒に泊まろう」
「あら、あら。会長さん。しっかりなさって。私が支えてあげるわ。さ、部屋へ行きましょう。キーは何処?」
あくる朝、森井は一人目覚める。二日酔いの激しい頭痛がする。一緒に寝たはずの博美は何処にも見当たらぬ。
「木乃伊取りが木乃伊になったようだ。儂がすっかり酩酊し昨夜のことはまるで覚えておらん。アイツ儂を置いてさっさと帰りやがった」
そのころ博美はヒルズの自宅で毎朝恒例になっている鐡蔵のエステを受けていた。
「お嬢様。昨晩は遅かったようですが、まさか森井の毒牙に嵌ったのでは無いでしょうね」
「冗談でもそのようなことは言うな。俺がバカ井の手に乗ると思うか。あ奴に散財させた。百五十万は使ったろう。経費では落とせん金だから、自前の持ち出し。嬶ぁにたっぷり絞られるだろう」
「土地買収が止めになりますと、西芝株を買収した投資がフイになるのではありませんか?」
「安心しろ。幸い西芝はつい先日立て続けに米国の原発八基受注の巨大商談が纏まり、更なる増設や中国やロシアでの受注も見込まれて、資本増強に動いている。わが社買取価格に一兆五千上乗せの金額で買い戻したいとの意向がメールに届いているぞ。これを二兆で話をつける積もりだ。安心して俺に任せておけ」
念入りにエステを施したあと、博美は西芝とのやり取りや、フィリップスとの内密の打ち合わせ、支社長として部下への指示に追われた。
「そろそろご夕食の時間です。どちらか予約取りましょうか」
「そうだな。今日は芝のタテルヨシノの予約を取れ。お前も相伴してよいぞ」
「誠でございますか。博美様と外で食事をご一緒させていただきますのは、初めてでございます」
「そうだったか。お前身なりをキチンとし、私に無礼の無いよう努めよ。会話は恋愛話に限り、仕事の話は一切しないこと」
「畏まりました」
鐡蔵はいつものお仕着せの制服ではなく、博美から誕生日に買ってもらったプラダの上下を着込んで精一杯のお洒落を決め込んでいる。博美は鐡蔵がなけなしの小遣いでプレゼントしたミウミウの白い透け透けのカットソーと裾が内向きに畳み込まれた黒いミニスカート、金のサンダルの艶姿。キャミソール風のカットソーから下につけたインナーの小さなレースの下着が覗き非常にセクシー。博美は直ぐに鐡蔵に腕を絡ませてくる。鐡蔵は博美の父親の年齢だが、上背があり、銀髪でかなりの男前である。
「お前の運転では飲めないから気の毒だ。タクシーで行こう」
タテルヨシノは芝パークホテル一階にあるお洒落なレストラン。味は元より華麗な盛り付けで評判なフレンチ。ディレクターソムリエが挨拶にくる。
「ようこそいらっしゃいました。一段とお美しい。今日のお料理、春のコースでは熟成香よりアラン・ロベール・ル・メニル・レゼルブなど合うかと存じます。如何でございますか」
「そうね。それはデキャンタで頂くわ。食事の時はレ・コントゥール・ド・デボンサンが合いそう」
「宜しいと思います」
「今日はね、優しい小父様と一緒だから、並びの席にして。個室がいいわ」
「はい。個室ご用意できます。サービスはお二人の語らいをディスターヴせぬよう、各料理ご注文があってから伺うよう致します」
二人は真っ白のインテリアの小部屋に案内される。白いソファに並んで座る。シャンパンが運ばれ、互いの腕を交叉させて、グラスを合わせ、その姿勢のまま唇を合わせる。
「博美様。素敵でございます。本日は私が何をしても、頬を張らないと約束してください」
「そうね。今日は許します。お前私としたいのか」
「も、も、勿論でございます。然し一昨日の朝、博美様と一弥氏が一緒にお休みになられ、私が朝食をお作りしている間中もあられもないお声を出しておられました。私は耳栓をしましたが、どうしても叫び声が耳に入ってしまい、堪らなく耐え切れぬ思いが致しました」
「あれ?あれはネ、鐡蔵。一弥としていた悦びの叫びでは無いのよ。一弥は外見はとても優しい紳士風でしょ。でも事に及ぼうとすると、猛り狂った野獣のように乱暴になって、犯そうとする。私怖くて悲鳴を上げてしまったの。だから一度も結ばれることはありませんでした。焼餅焼くなんて可笑しいわ」
「本当の事なのですか。信じられません。抱き合われたのでしょう」
「そうよ。でも乱暴にされると私駄目なの。お前なら凄く優しく扱ってくれそうね。本当はね、鐡蔵。私まだ一度もしたことが無いの」
食事が運ばれてくる。旬の素材を巧みに調理し、食材の色調は鮮やかで、その盛り付けは印象派の絵画を思わせる。
「鐡蔵。私は当たり前のように毎日お前の世話を受けています。幼児のころから一日も休まないで。体調の悪い時や、面白くないこともあったでしょう。でも一度も、お前の不機嫌な顔や怒った顔を見たことも無い。些細なことで私がお前の顔を張っても、お前は笑顔で応える。どうしてなの」
「それは、お嬢様。私はこの世で一番お嬢様を愛しいと思っているからでございます。私にとりましてお嬢様は天使そのもの。お嬢様のなさること全てが美しくて可愛らしいことと思えるのでございます」
「お世辞でも嬉しいわ。私時々お前にキスをせがんだりするでしょ。その都度好きだからやるんじゃ無いって言って、叩くでしょう。ホントはね、お前を憎くからず思っているからなのよ」
「解っておりますとも。キライな男に大事な唇を差し出すわけありませんから」
「じゃあ、今ゆっくりキスして。私も本当の気持ちを込めるから」
二人は向き合い心の篭った口付けを交わした。博美の豊かな胸の膨らみが鐡蔵の胸に押し付けられ、興奮する。
「い、いけません。お嬢様はとてもお美しく、才気溢れたキャリアです。私のような老人とこのような事をなさってはいけないと思います。お嬢様にはもっとずっと素敵な男性と抱き合ってください」
「一弥のような男か。アイツは極めつけのイケメンで、素晴らしい体躯、優しくて金持ちだ。だが、肝心の場面で獣のようになる。私は少々顔や身体が劣っても、いつも優しいお前が好き。結婚して」
「博美様と私では身分が違いすぎます。結婚してくれなどと軽々しく申してはなりません。もっともっと美しくなられるよう精一杯お世話させてください」
「バカ。超美形でエリート中のエリートの私が求婚したんだ。それをニベもなく断るなんて許せない。バイチャ」
「大好きな人と一緒に暮らせればこの上なく幸せです。一生のお願いです。博美様のお住まいに居させてください」
「なんだ。同居を望んでいるのか。いいわ。明日にでも私の家に引っ越しておいで。ただし身分は下僕のママだ。お前が望んだのだからな。同棲では無い」
「承知しております。エステ、調理、食事のお世話、掃除、洗濯、業務秘書、私設秘書、服装やアクセの購入、運転手など生活全般のお世話をさせていただきます」
鐡蔵は自宅に戻ると荷物を整理し、博美の家に引っ越してきた。一人暮らしが永く、日常生活の殆どを博美と過ごしてきたから、自分の持ち物は少なく、軽トラック一台で済んだ。新たにゲストルーム一室を与えられ、そこで寝起きするようになった。
シルバーマンサックス日本代表の森井は、不可能と言われた江釣子の土地買収を博美が成功させたと聞いて、半信半疑だった。腹心の李を呼び買収の裏づけを探らせた。李は直ぐに江釣子に向かい、弥ェ門との面会を求めたが適わず、三日通って漸く嫡男一弥との面談に成功した。
「以前私がこの土地の買収の件でお伺いしましたが、その時は絶対不可ということでした。しかるに先般弊社志水が再度交渉に赴きましたところ、快諾されたとの報告があがりました。どのような経緯でしたのか、お話いただければ幸いです」
「話は簡単です。同じ貴社でも交渉の仕方が貴君と志水氏ではまるで異なり、簡単に申せば志水氏の交渉が上手だったからです。しかし奇妙ですね、同じ会社でありながら、交渉内容を相手である私に聞きにくるとは。社内に派閥でもあるのですか」
李は面目を失って帰社し森井に報告した。森井は土地買収交渉が成功したと聞き、ロイヤル フィリップス エレクトロニクス社長のジェラルド・クライスターリーにメールを打ち、懸案の買収が成功したので来日を要請した。クライスターリーは多忙を極めていたが、森井の執拗な招請を受け、三日後KLMで訪日を果たした。森井はクライスターリーが宿泊するホテルオークラの特別室を訪ねた。
「モリーイさん。バイシュー成功したのですか。オメデトー」
「はい。苦労しましたが、何とか成功しました。私自身が村に赴き、絶対土地は売らないという頑迷な父子を説き伏せたのです。ですから、社長。西芝株購入の手続き進めましょう」
「イヤ。私どもは株は買いません。あんな土地に投資する予定はありません」
クライスターリーは前もって博美から、江釣子の現状とその地を先端企業の集積とした場合のデメリット、西芝が株買戻しに意欲を示していることなど、詳しい報告を受けていたから、最終判断したのである。クライスターリーは森井の発言を聞き、この男は何も知らされておらず、実権もないことを即座に見抜いていた。
「な、な、何と。この前はあれほど執心され是非是非買収してくれと懇願されたではありませんか」
「あの時はあの時です。気が変わりました」
「無体な。我が国の商慣習に逸脱する非情な行為だ」
「我々は御社と契約を交わした覚えはありません」
「契約書の手交は未だですが、社長の貴方が江釣子村の土地を買収し、世界一のシリコンバレーを作ると明言したではありませんか」
「NO、NO。作りたいと言っただけで作るとは申しておりません。モリーイさん。デーモ、当社は貴社が買い取った西芝の株、買収価格の半値でしたら引き取る用意があります」
「バカバカしい。話にならん。交渉は決裂だ」
怒り狂った森井は自分のオフィスに戻ると、李を呼びつけた。李は昨日博美のもとに赴き密かに計画の内容を聞かされ、既に森井を見限っていた。勘の利かぬ森井は丸で気づいていない。
「フィリップスが心変わりしよった。西芝株購入は中止だと言いやがった。オランダ人は信用おけん。大損害だ」
「会長。東京支社長の動きが妙です。今朝早く西芝社長と面談したようです」
「な、何!博美のヤツ、何か企んでいる。アイツは江釣子の土地を買収したと言っていたが、それなら何故フィリップスとの交渉を儂にやらせたんだ」
「皆目解りません」
そのころ博美はシルバーマンサックス本社会長と直接交渉し、一旦買収した西芝株を好調な受注を背景に、西芝自身に高値で買い戻させる事案の了承を得て、西芝社長との面談に及んでいた。博美は持ち前の人を引き付けて止まぬ完璧な笑顔で交渉に臨み、買戻しを成功させていた。目論見通り、シルバーマンサックスの買収価格に二兆円上乗せた価格でである。国際電話で報告を聞いた本社会長は博美を大いに褒め、森井に代わり博美が東京支社長兼務で日本代表に就くことを命じた。森井は本社会長から送られた辞令を見て驚愕した。
〈森井健吾、本日付けでシルバーマンサックス日本代表の任を解く。同日東京支社総務部付を命じる〉とある。
「李っ!李はおらんか。すぐに儂の席まで来い」
電話口で怒鳴り声を上げる。李は畏まってやってきた。森井は辞令を印刷したものを見せ、喚いた。
「おいっ。貴様。一体全体何があったんだ。隠すとタメにならんぞ」
「志水氏は本社会長の覚えも目出度く、今回日本代表に就任され、東京支社長を兼務されました。貴方は失脚したのです。総務部付とは名ばかりの閑職で何も仕事もなく、席にはパソコンは勿論電話もありません。云わば飼い殺しとなったのです。序ながら申し上げます。私は本日付けで総務部長を仰せ付かりました。つまり貴方の上司を勤めることになったのです」
「お、おのれ。博美を問い詰めてやる。電話してアポを取れ。それと車の手配だ」
「貴方の申し出には一切受け付けぬようにと、新代表の命がございます。悪しからず」
「く、糞っ。してやられた。女狐めが。このまま大人しく引っ込む儂ではないわい」
森井は電話さえ取り上げられ、仕方なくヒルズからガーデンプレイスの博美のオフィス迄走った。太った身体から汗が迸る。受付の制止を振り切り、博美の部屋に飛び込む。博美は秘書室長の鐡蔵と密談の真っ最中。
「やいっ。志水。貴様、儂が拾って育ててやったその恩を忘れたんかぁ」
「あら、前代表の森井サンじゃないか。寒いのに汗びっしょりかいて、どうかなさったの」
「て、手前ェ儂を嵌めやがったな。江釣子の土地なんか買って無ェと聞いた。騙しやがったな。許せねえ。出るとこ出ようじゃねえか」
「前代表。人聞きの悪い事仰らないでください。私は本当のことを言っています。江釣子の土地は『五千万坪の、一坪をかけることなく』と申し上げました。ですから肥溜めに使っている一坪の土地を五千円で買いましたのよ。何か文句でもあるの」
森井は顔面を朱に染めワナワナと震える。
「貴様は代表の儂を差し置いて、勝手に西芝と闇取引した。東京支社長風情が遣れることじゃ無い。ちいっとばかり面がええと思って自惚れるのも好い加減にしやがれ」
「ちゃぁ〜んと本社のクライスターリー会長の指示仰いでおりますのよ。御免あそばせ」
「返す返すも生意気極まる申し上だ。儂はナ、今の今迄お前の上司だったんだ。無礼は許さんぞ」
博美は森井をじっと見つめ口調を改める。
「おまいさん。勘違いしちゃいけんよ。俺はな、アンタを上役と思った事は一度だって無ェ。そりゃぁな、時にはお洒落して面談に及んだこともあるわいな。じゃがノ、敬ってしたことじゃ無ェ。色ボケのアンタを誑かし貶める為やったんじゃ。物事を知らん薄らバカ。とっとと消えな」
文字通り怒髪天をつく森井。髪は全て逆立ち、全身が地震が来たように揺れ、目玉が飛び出し、唇は瘧に罹ったように紫色になってブルブル震え、声も出せない。
「き、貴様。わ、儂をアンタ呼ばわりするな。地獄に落としてやる」
「へん。地獄に落ちたのはアンタだ。お前を今この時を持って解雇する。退職金など無しだ。ねえ、鐡蔵。ちゅっ」
森井はその場に崩れおちるように蹲った。頭を抱える。今は泣きべそをかいている。恥も外聞も無く博美に哀願する。
「だ、代表。ウチには十五歳を頭に七人もの子供がおります。ソレでなくても暮らしがたたないンでごぜえますが、今馘首となったら一家心中するしかありません。お慈悲です。代表おそば近くに置いてくだせえ。便所掃除でも、お茶汲みでも、コピーでも何でも致します」
「ご生憎様。間に合っているわ」
「そ、そこを何とか」
黙っていた鐡蔵が前に出て一喝する。
「森井。見苦しいぞ。代表の面前で泣き喚くのは許されん。早々に立ち去れイっ」
泣きながら森井は肩を落とし、よろよろと退出する。太った体躯が急に萎んだようだ。鐡蔵の哄笑が響く。嘲笑っている。森井にはもう言い返す力が残っていなかった。森井を見送って博美と鐡蔵は抱き合って喜んだ。
「邪魔者は消えました。これからはお嬢様を全身全霊でお支えします。好きでございます。大好きでございます」
「鐡蔵。お前のお陰です。ありがとう。私もお前が大好きよ」
その夜二人は初めてデートをした。二人揃って銀座で買い物をし、食事をするのである。一旦自宅へ戻ってお洒落着に着替え改めて出てきた。博美は素肌にV字に胸元が大きく開いた白絹のカットソー。下に付けたスワロビーズの三角ブラがはっきり見える。下は膝上三十センチのシースルーの黒いミニ。超セクシーな装いである。街行く人は皆驚いて振り返る。鐡蔵も今日は張り切って黒いタキシード風の細身のジャケットにボウタイだ。博美は長身の鐡蔵に腰を支えられうっとりした眼差しで囁く。
「鐡蔵。私が貴方を養っているなんて誰も思わないわ。老紳士の援助を受けている若い女が、今日はセクシーな装いで誘惑して、プレゼント買ってもらうと見えるに違いないわ。今日はそういう風に振る舞いなさい」
「はい。畏まりました。お嬢様」
「いけないわ。そのお嬢様っていう呼び方だめよ。博美様もだめ。ヒロちゃんって呼びなさい。お前のこと鐡蔵サンって言います。今日はネ。貴方と初めてのデートでしょう。何買って頂こうかしら」
「はい。ヒロちゃんの欲しいものなら何でも」
「あら、嬉しいわ。私ネ、前からブルガリのダイアのチョーカー欲しかったの。それとお揃いのアンクレットも」
「そ、それは少々お高く持ち合わせがございません」
「し〜っ。バカね。カードを使いなさい。貴方のお給料少し上げてあげる」
銀座二丁目の角に建つラグジャリーなブルガリ銀座タワーは昨年暮れにオープン。三階のVIPルームに案内された二人。ゆったりとしたソファに腰掛けると美人の女性のチーフマネージャーが出迎える。
「今日はネ、この人に買っていただくから、お手ごろの一インチ位のダイアのチョーカー見せて欲しいの。そうね、千五百位のものでいいわ」
「せ、千五百・・万・・・」
チーフは奥の引き出しに入ったジュエリーを恭しく取り出して薦める。
「こちら如何でございますか。このデザインですとお揃いのバレッタやアンクレットがございます」
「ちょっと着けてみて。鐡蔵さん、どうかしら」
びっしりとブルーダイアを鏤めたチョーカーは細く白い博美の首に着けられると、自ずから光芒を放って華麗極まりない。博美は鐡蔵の方に振り向いてにっこり微笑む。バレッタとアンクレットも着けてみる。鐡蔵は痺れ震えながら応える。
「と、とても良く似合うよ。三つセット貰おう。お、お幾らですか」
「はい。消費税込みで二千百万でございます。ありがとうございました」
「気に入ったわ。今日コレ着けたママで帰るわ」
鐡蔵は自分の年収を遥かに上回る買い物を博美がいとも簡単に済ませてしまうことに驚いていた。外に出ると博美は嬉しくてしょうがない表情で、腕を取り身体を預けてくる。
「鐡蔵さん。ありがとう。とっても嬉しいわ。どう、素敵?」
「ヒロちゃんの首から胸元までのラインがチョーカーに反射した光で光っている。キミは背丈が百七十センチ、胸は八十八センチ、なのにおなかは五十六センチしかない。くびれ方が凄い」
「いやねえ。でも毎日マッサージしてもらっているから、サイズ知られちゃうのは仕方無いか」
「これからどうしますか?」
「そうね、白金のカンテサスなんかいいんじゃないかと思っていたけど、三ツ星貰ってから混んでいそう。ねえ、家で二人だけのパーティはどう?ゆっくり飲めて、踊れるし、鐡蔵サンの美味しいご馳走食べられるんだもの」
「素晴らしい。ヒロちゃんは裸に今日買ったチョーカーとアンクレットだけ付けて、抱き合って踊っちゃう。考えただけでコーフンしちゃう」
「ばか。お前はいつもそんな風にイヤらしいことばかり考えている」
広尾のナショナル麻布や明治屋、デリカテッセンで食材を買い込み帰宅すると丁度六時。
「ヒロちゃん。僕は食事の支度をします。貴女は先にお風呂に入り、ゆっくりなさってください。風呂上りに最高のメイクしてあげますよ」・・・・・・
翌朝、博美は酷く不機嫌だった。昨夜処女を捧げて交わるつもりだったが、鐡蔵は卑屈に謙って、とうとうベッドを共にすることは無く、いつも通りエステを施し、食事をすると、博美の執拗な誘いを恐縮しまくって遠慮、自室に引っ込んでしまったからである。欲求不満も甚だしい。
「鐡蔵。お前私の誘いを拒んだな。許せぬ。口では裸で抱き合って踊るなどほざいていたが、いざとなるとまるで意気地が無く、お許しくださいと土下座するばかり。それでも男か」
「へ、へい。申し訳次第もございません。博美様は神々しいほどお美しく、私ごとき老いさらばえた老翁が姫君を犯すことなど恐れ多く不可能にございます」
「ふん。バカバカしい。それにしてはいつもやらせろと迫ってくるでは無いか。自己矛盾も甚だしい。俺が嫌いなのか」
「め、滅相もありません。お嬢様を思慕すること海より深く、山より高いと存じます」
「なら何故ベッドに入らぬ」
「入ったなら必ずお嬢様としてしまいます。お嬢様に相応しい伴侶が見つかるまで私は控えねばなりません」
「お前、泣いている。つくづく情けない男よ。仮令将来お前より良い伴侶が現れたとしてもだ、それはそれで良いでは無いか。もういい」
森井はシルバーマンサックスを馘になった上、西芝株買収がインサイダー取引に当たるとされ、東京地検特捜部に取調べを受けた。森井自身は東京拘置所に収監、連日厳しい取調べを受けた。西芝株を買い取りそれをフィリップスに売却して利ざやを稼ごうとしたことさえ、日本の商慣習になじまない行為だと責められ、ついに証券取引法違反の容疑で逮捕、裁判にかけられることになった。事前に手続きを行うスピード裁判で公判後十五日で結審した。森井は執行猶予がついたものの懲役三年の実刑。罰金十億円が言い渡された。上告する気力もなくそのまま確定した。拘置所での三十日に渡る取調べで、贅沢三昧の暮らしだった生活は一変、痩せ衰えボロボロになった。更に裁判で痛めつけられ罰金を支払うと、預貯金は全て失い、自宅や家財全てを売ってもまだ莫大な借財を背負うことになった。今は職を失い、六畳一間の狭い襤褸貸間に親子九人、肩を寄せ合って暮らさなければならぬ。
「おまいさん。会社馘になった上、大層な借金食らっちまった。ドオすんだよオ」
「嬶ぁ。面目無ェ。オラがこうなっちまったのは、憎き女狐、志水っちゅう悪女のセイだ」
「人のセイにするのはいい加減に止しな。元はって言やぁ、皆お前ェがへまやらかしたんじゃ無ェか。子供ら皆腹空かせている。朝からピイピイ泣き通しだ。こんなとこで管ぶってんじゃないよ。さっさと土方でもカンカン虫でも死体運びなんでもいい。オアシを稼いできやがれ」
「バカ言うんじゃねえ。痩せても枯れても儂は人も羨む外資系金融機関のトップだったんじゃ。ソレが土方なんちゅう下賤な仕事できるわけ無ェ」
「ほざくのはカネ入れてからにしろ!」
女房の怒鳴り声と子供の泣き叫ぶ声に堪らず森井は外に出た。以前の外国高級ブランドの服など一着も無くなり、今は古いよれよれのボロ服に破れたシャツ、寸足らずの皺だらけのズボン、靴は穴の開いたズックである。ホームレス同様だ。
「く、糞。復讐だ。博美に復讐する。鐡蔵の爺もだ。あいつらを葬る。イヤ、只葬るだけじゃ足らん。テッテイ的に痛めつけ、大恥をかかせ、その後殺す。
「邪魔者森井は葬り去りましたので、社は博美様の天下です。会社に出向いて就任の挨拶などなされたら如何でしょう」
「そうだな。では日本代表に相応しいメイクと服装を整えろ」
「然らばアネッサの蛯原友里のメイク、アラウンド40の天海祐希の衣装などどうでしょう」
「うむ。天海祐希は俺よりかなり年増でおとなしすぎる。白いスーツはいいが、そうだ、この前買った白絹のスーツで襟が生地の下から透けて見えるヤツ。あれがいい。アンダーは金色の花柄のタンクトップがあったろう。それを出して来い」
「少しセクシーに過ぎるのでは?」
「いいんだ。ちょっと社員を驚かせてやる」
東京ミッドタウン、タワーの最上階から五フロアに入居するシルバーマンサックス日本。大会議室には新入社員を含む五百人の社員が勢揃いして、新代表の到着を待っている。渋い濃紺細縞の三つ揃えのスーツをぴっちり着こなした鐡蔵が壇上から挨拶する。
「社員諸君。是より前代表森井健吾に代わり、新たに新代表に就任致しました志水博美よりご挨拶が御座います。静聴願います」
巨大な花束が置かれた演壇に颯爽と博美が登壇した。全員が盛大な拍手で迎える。アイドル顔負けの美貌と華やかでセクシーな衣装に驚いていると、涼やかな声で挨拶を始める。
「皆様。前代表は企業の利益を私物化するなど、シルバーマンサックスの信用を失墜させた罪で馘首されました。コンプライアンス精神の欠片も無く、法に触れることを行って、官憲により逮捕、実刑を受けました。私は彼の施策を一掃し社業を全面的に改革します。このたび、私は西芝電機株買収、買戻しの事案で短期間に二兆円余の利益を上げることができました。これからももっと、もっと果敢に攻めまくります。応援宜しくネ」
喝采を浴びる。博美の美しい肢体と解りやすい話は社員全員を魅了し信奉させてしまった。博美には人々を惹き付けて止まぬ霊力のようなものがあると、傍で聞いていた鐡蔵は一人肯いていた。
TVで実況中継された博美の挨拶を街角の電気屋で見た森井は怒りを新たにした。懐には五百円硬貨一枚だけ。コレで彼らを葬る。難しい。だがせねばならぬ。不可能を可能にする手段は無いか。必死に考える。やがて森井の口元に歪んだ笑いが浮かんできた。博美は毎晩七時頃、鐡蔵の運転する車で東京ミッドタウンから自宅のある六本木ヒルズに戻る。その間僅かに五百メートル。外苑西通りの一本道。ここに死角は無い。死角があるとすれば、ヒルズに入る直前の麻布トンネルだ。暗いトンネル内で急に車の前に飛び出す。鐡蔵も避け切れまい。万一轢き殺されたっていい。その場合は殺人罪が適用される。イヤ、それでは詰まらない。自分の手で奴等を懲らしめ、弄り、辱め、徹底的にぶちのめし、助命を哀願するところで殺害してやる。そのために車を止め、二人を引き摺り降ろさなければならぬ。麻布トンネルには青山墓地から彷徨い出た霊が出没する噂が絶えない。コレを利用する。運転する鐡蔵はえらく信心深い。霊が出たとあらば即座に車を止め、霊を確認するため外に出るに違いない。森井はそう考えると早速準備に取り掛かった。麻布共同溝の工事現場に忍び込み、強力なキセノン探照灯五基を盗みだし、深夜人気の途絶えたころトンネル歩道の上部に取り付ける。トンネル内の照明を制御する分電盤の所在も確認した。森井は実行の一週間前から、トンネル前の歩道でホームレス生活を始めた。ダンボールハウスに小穴を空け、進入する車の交通量や博美の乗るグリーンのジャガーの通過時間、歩行者の有無などである。午後七時を過ぎると、トンネルを歩いて通る歩行者はめっきり減り、雨天ではほぼゼロになること、博美は五分程度の前後はあるが、毎日午後七時十五分ごろ通過することが確認された。二人を車から降ろした後、ナイフを突きつけて脅し、三百メートルほど先の青山墓地に連れ込む。暗闇で殴り蹴るの暴行を加え挙句の果ては刺し殺す、そう計画が纏まると森井は、再び歪んだ笑いを浮かべた。だが、こちらが一人では抵抗され逃亡の恐れがある。どうしても少林拳の達人、李を仲間に引きずり込む必要がある。李には子供がおらず、愛妻にべったりの筈。そこが付け目。
春先とは言え、コンクリートの地面は夜間酷く冷え込み、一日中車の騒音や排気ガスに悩まされ、頭痛になり気管支も冒されたようだ。森井は目と鼻の先のヒルズの優雅なレジデンスで暮らす、博美をどす黒く呪った。一週間前まで自分は博美の上司であったのだ。それが博美の策略により地位を奪われ、地獄に突き落とされた。こんな目に合う覚えは全く無い。確かにヤツに言い寄ったことはある。然し指一本触れさせて貰えなかった。アイツは儂の前で色気を振りまき、誘惑さえやらかした。男なら当然だ。鐡蔵というのも妙な男だ。常に博美に諂い、顔を叩かれて喜んでいる。いい年をして女の汚れた下着を洗濯して喜んでいる。完全な変態オカマだ。ダンボールハウスの薄暗い囲いの中で、森井は何時までも博美と鐡蔵への呪詛を繰り返していた。うつらうつらしていると、早朝疾走する車の轟音で目覚めてしまう。痺れる頭を我慢してやっと立ち上がる。よろよろと這うようにしてミッドタウンの入り口で持ってきたダンボールに入り込む。八時半、通勤の人々でごった返してくる。森井は小穴から、李の姿を認めると、汚い格好のまま李にしがみ付く。
「李ィ。忘れたとは言わせんぞ。儂じゃ。森井じゃ。斯くもみすぼらしい姿にゃぁなっとるが、泣く子も黙る元シルバーマンサックス日本代表だ。こっちへ来い」
「乞食に知り合いは無ェ。臭ェ。汚ェ。下がれ、アッチへ行け」
「李ィよ。最早儂への恩義を忘れたとは言わせんぞ。貴様、博美の色香に迷って、敵陣についた。節操も糞も無い大馬鹿者だ。いいか、知らんようだから聞かせてやる。こんなところで言い争っているのを社の人間に見られるのは都合が悪かろう。こっちへ来い」
森井は探してあった近所の天祖神社の杜に李を引き摺りこむ。
「お前ェ。嬶ぁにゃ頭あがらんだろ」
「それがどうした。愛妻だ。いいか、森井。お前は最早上司でもなんでもなく只の乞食だ。お乞食が儂の女房のことを抜かすンじゃねえ」
「此処にイイ写真がある。お前サンが胸を露わにした博美に脂下がって涎を垂らしている写真だ」
「こんな写真怖くもなんとも無い。一社員が社の代表に賛昂する写真に過ぎぬ。こんな写真撮る暇あったら、ちっとは働いて餓鬼や嬶ぁにメシ食わせてやれ。お前ェんとこじゃ、食堂の残飯漁って食っているてえ噂だ。みっともないゼ」
「ジャア、是はどうだ」
森井は博美が李と抱き合ってホテルを出てくるところの写真を見せる。
「なんだ、こりゃあ。ツクリモンに違いねえ。儂にこげなイイ思い出は無い」
「フン。お前の嬶ぁはコレが贋物かどうか気づくめえ。写真見たらハイおさらばって言って出て行くだろうよ」
「糞!お前の目的はなんだ」
「へっ、へっ、へっ。そう来なくっちゃ。いいか。李。お前ェの少林拳の腕を貸せ。お前ェの故郷中国福建省に伝わる南派少林拳、その道を極め、少林十虎の一人と聞く。明日夕刻、この麻布トンネルで博美と鐡蔵の乗る車を止め、引っ張り出す。そのあとお前ェの出番だ。大洪拳で二人を気絶させてくれ。それだけだ。あとは儂が料理する。奴等を葬ったら、儂は代表に返り咲く。お前ェを鐡蔵の地位、代表補佐につけてやる」
「俺の腕をもってすれば二人を気絶させるなんて朝飯前だ。今の言葉本当だろうな。口約束だけでは信用出来ん。書面で示せ」
森井は李を代表補佐に任命するという書面を作り印業を捺した。李は神殿の前で少林拳の技を繰り返し鍛錬し直した。翌日幸い雨天である。李は狭いダンボールハウスに身を潜め、博美たちの車が通過するときを待った。森井はトンネル中央部の分電盤に取り付いている。午後七時十五分、二人の乗るグリーンのジャガーがトンネルに侵入した。李はジャガーを認めると、手に繋がったタコ糸を強く引いて合図を送る。森井は分電盤の扉を開け、電源を切った。トンネルは闇に包まれる。森井は予ねて設置してあったキセノン探照灯のコードを電源に繋ぐ。ジャガーに乗る二人は上機嫌だった。この日、博美が代表を勤めるシルバーマンサックスジャパンが、昨年の食品偽造に続き、客の食べ残しを別の客に使いまわして評判を落とし倒産した料亭吉兆の買収に成功、組織を抜本的に改革して新たに新吉兆の立ち上げに乗り出し、博美が会長に就任することが決まったからである。
「吉兆がお嬢様の会社になりましたネ」
「うん。お前も東京と京都店の支配人として働いてもらう。頑張ってくれ」
そういって博美が鐡蔵の頬にキスしようとしたときである。突然トンネルの照明が落ち真っ暗闇。慌てて前照灯をつけようと焦る。その時前方から殺人光線のような強烈な光が運転席に浴びせ懸けられる。熟達の運転手鐡蔵も思わず目を閉じ無我夢中で急ブレーキ。スピンしたジャガーは側壁に激突、大破。エアバックの膨張で二人は無傷で済んだが、衝撃で茫然自失。半ば気を失った二人を森井が引き吊りだす。李も駆けつけて青山墓地まで引っ張って行く。
「李ィ。二人を畳んじまえ。大洪拳を使うンだ」
李は腰を落とし、右手を低く前に伸ばした大洪拳の構えをとると、強烈な足蹴りを鐡蔵の下腹に放った。博美と鐡蔵は引きづられていくうちに、意識を覚醒させ状況を悟った。蹴りが鐡蔵の腹に決まったかと思った瞬間、鐡蔵は腹這いで腰を折った姿勢から、二間以上も跳び退った。
「李か。構えからするとお前の技は少林十虎の大洪拳だな。儂も少々少林拳を使う。少林五老の白眉道人の流れを汲んでおる」
「な、何!伝説の白眉道人の技を使うのか。面白い。儂は洪熙官の流派。決着をつけるいい機会だ。さあ、懸かって来い。爺に遅れをとるへまはしないつもりだ」
弾丸が飛翔するような音をたて、李の拳が鐡蔵の顔面に繰り出される。鐡蔵は難なく腰を後ろに反らしてかわすと、怪鳥の雄叫びを挙げながら、逆に李の顎を捉える拳を突き出す。丁々発止の遣り取りが十数合続いた時、李はいきなりしゃがみこんで、次の瞬間空中高く飛んで頭上より猛然踵を振り下ろし、鐡蔵の頭蓋骨を砕こうとした。鐡蔵は驚きもせず、微笑みを湛えたまま、右手の指二本を開いてグイと突き上げた。指は李の二つの金的を貫き、悶絶、蛆虫のようにのた打ち回る。
「ぐ、ぐあぁ。こ、こ、殺せ。金的を潰されちゃあ、オカマになるしか無ェ」
「李よ。哀れなもんだ。貴様森井に誑かされ儂にかかってきた。森井。今度はお前の番だ。貴様今の儂の技を見ていただろう。儂の指先は錐より鋭い。覚悟せい。目玉二つ共潰してやる」
「お、お、お助けを・・・」
「臭ェ。又脱糞しやがった。助けて欲しけりゃ、何でも言うことをきくか」
「へっ、へい」
「お前、嬶ぁと餓鬼と別れ、女になった李と夫婦になれ」
「む、無体な」
「じゃぁ、目ン玉差し出すンだな」
森井はべそを掻きながら、李を助け起こし消えていった。恐らく二人はホームレスで一生を終えるだろう。
「鐡蔵。よく遣った。お前に少林拳が使えるとは知らなかった」
「お嬢様。もう大丈夫でございます。お怪我などしていませんか?」
「何処も怪我はしていないようだが、車の衝突のショックで動顚しました。家に帰ってお前のエステをお願いしたいわ」
「畏まりました。車が壊れてしまいましたので、タクシーを呼びます」
「あら、家はすぐ近くよ。歩いて帰りましょ」
二人は腕を組んで家路に向かう。
「明日私は江釣子に行きます。ジャガーはお釈迦になってしまったから、フェラーリでね」
「車でですか?新幹線の方が早いと思いますが」
「飛ばして行け。森井は片付いたが、まだ一弥との決着がついていない」
「一体なにを決着させるのですか?」
「秘密だ。お前は黙って運転すればよい」
翌朝、花柄のミニワンピースにバックスキンのブーツ、ストローバックで小粋に決めた博美は鐡蔵の運転する真っ赤なフェラーリで一路江釣子に向かった。飯倉から首都高、川口ジャンクションで東北道に入り北上江釣子で降りる。この間485キロ余。フェラーリは二時間半で駆け抜けた。八時に家を出て、江釣子の伊藤邸に着いたのは丁度十時半。勝手知った博美は門番も素通しにしてくれる。家の前の田圃は既に田植えの準備が始まっていて、田には水が張られていた。
「一弥さんはご在宅ですか?」
出てきた女中に尋ねる。
「今丁度田圃に出ました。用水路の堰を開けていると思います。ご案内しましょう」
女中は石組みの用水路脇の狭い畦道を辿り、堰に案内する。堰は用水路から田圃に水を引き入れる為設けられた小穴を開閉する塞き止め板のことで、是を持ち上げると水が入る。流入する水量は、この堰板で左右されるらしく、一弥は手伝いの農夫に指示し慎重に上げ幅を調整していた。
「一弥さぁ〜ん。お久しぶり。博美です。紺がすりの野良着とってもお似合いよ」
「ひ、博美ちゃん。イヤお恥ずかしい。百姓の成り褒められたのは初めてです。遠くまでようこそ。今日はとても可愛らしいお洋服ですね」
「あら。ちょっぴり若作りで来ました。貴方に相談があって此処まで車を飛ばしてきました。鐡蔵ったら、張り切って三百キロ近くも出したのよ。ちょっと怖いくらい。だから二時間ちょっとで着きました」
「えっ。それは早い。電車でも四時間半かかるのに。もうすぐ片付きます。家のほうでお待ちになっていてください。おい、イネ。客座敷にお通ししなさい」
二人が通された座敷で寛いでいると、ものの十五分も経たぬうちに一弥がやってくる。野良着から白いTシャツにブルゾン、紺のビンテージのジーンズに着替えている。お洒落だ。
「お待たせしました。髪型変えたの?」
「ええ。一弥さんに逢うから、ちょっと短くしてウェーブかけたの」
「すげえ似合ってる。超カワユイ。ハタチの子に見えるよ」
「あら、嬉しい。今日はネ、貴方にオネガイがあって来たのよ」
「えっ。ま、まさかプロポーズ?」
「残ぁ念ぇ〜ん。お仕事よ。今度ワタシね、料亭吉兆の株全部買占め、吉兆はワタシの会社になりました。それでネ、評判の落ちた吉兆を心機一転、イメチェンをはかり、名も新吉兆と改めました。お店は大阪、京都、東京に限り船場や九州は閉めます。でも新たにこの江釣子に新しいお店を作ろうと思うの。江釣子新吉兆はネ、江戸時代そのままの風光や生活を生かして、日本の伝統文化の粋とも言うべき、料亭になります。女将はもとより、番頭や仲居や女中、板前、帳場など全ての従業員は江戸時代の風儀でお客をもてなします。従業員は主として村人を選別して雇用しますが、役柄に応じた徹底的な訓練をしていただきます。一弥さんはこの店の板場を仕切って貰いたいのです」
「たまに東京や大阪などの都会に出て感じることですが、日本料理の低迷と客に媚びた姿勢に憤りを感じておりました。それに最高の素材を最高の腕で調理し、最高の器に入れて供ずる基本的なこと、料理を頂く空間が品位に欠け、サービスする人間も優しさや配慮に欠けるなど、昨今の料理店が不満でなりませんでした。このお話気に入りました。受けましょう。江釣子は世界一の野菜や米、魚貝や肉を生産しております。それが最高の手練により調理され、明媚なる空間で供じられるとすれば、我ら生産者にとりましても、よりよき励みとなりましょう。博美さん、大変良いご提案です。是非協力させてください」
「ありがとう。一弥さん。お店はこの家を大改装して使わせていただきます。貴方とご家族は隠居所として作られた離れを増築し、そちらに住んでいただきたいのです。この屋形は創建以来二百五十年経過しており、とてもしっかりした造りです。ですがこのままですと、田舎の百姓屋に過ぎません。これを格調高い料亭に改造します」