ほどけない影(3)
「どこにいるんだ! 丹周先輩!」
破れかぶれになった楓が叫ぶと、上方の空気が歪んだ。聞き覚えのある声が耳に入り、顕現した優美な獣毛が狼の形を成していく。
「くすくす。もう降参か」
「そばにいたのかよ……。性格悪い」
いまだに狼特有の長い鼻先で揶揄されるのは癪にさわる。
「そう言うな。早期解決してはお前のためにならないだろう」
完全に狼の姿を取った丹周は、個室トイレの仕切り板に乗り上げた。天井すれすれで頭をかしげ、楓を見下ろす。
すぐに優秀な鼻腔が不穏な霊気を嗅ぎつけた。丹周が気色ばむ。
「ああ、いま安らかにしよう。外見が似たもの同士のよしみだ」
「つまらないこじつけはいいですから、早く!」
「急かすなよ、小心者め」
一つ息を吐き出し、仕切り直す。
「終の巣穴へ戻れ。すべての命を続けるために……」
犬に語る丹周は、憐れみを浮かべてこうべを垂れる。
次の瞬間に額で空を切り、一閃が駆けた。凝縮された光に、楓は目がくらむ。
辺りは照らされ、すべてがあばかれた。
一条の光と共に生まれた影が、犬の霊へと伸びていく。
バシッ!
それは突然、弾け飛び消滅した。
楓は訝しむ。一見、丹周の力が成功したかに見えた。
だが荒立っていた犬からは感情と呼べる一切のものが消え失せ、静止している。
代わりにむせ返るほどの闇が神経を逆なでしていく。
急速に闇の嵩が増す。内臓が押し潰されそうで息苦しい。丹周にはより強い影響が出ているのか、苦しげに嘔吐く。
「先輩、うしろ!」
丹周の背後から、長い黒髪と骨張った腕が立ちのぼる。警告される前に飛び上がっていた丹周が後ろ足を取られた。
うねる髪が絡みつき、驚異的な速さで丹周を覆っていく。
「がっ!」
全身を締めつけられ、叫び声さえ上げられない。髪はいくらでも増殖を続け、天井に達すると向きを変え、放射状に伸びていった。
隣の個室からゆっくりと何かが、頭部が迫り出してくる。
びしゃり! びしゃっ、びしゃっ。
壁や床の至るところに粘着質な液が叩きつけられ、分散した一つが楓の頬を打つ。
いびつな腕が仕切り板のふちをつかみ、軋ませた。
あ、あ、あ、う、あ。
死した女の声に総毛立つ。闇に濡れた髪から覗く目には覚えがあった。片時も見逃さずにつきまとわれていたのだろうか。楓は射すくめられた。
「いやだ、いやだ! 来るなあっ!」
見たくなかったものが距離を縮める。
なぜ、なぜ。こんなところに来なければよかったのに。部屋のドアに椅子や机を並べ、防波堤をつくり、カーテンを閉め切り、布団をかぶり、二度と出てきたくない。
見たくないと訴えても、いつも想像力は楓を裏切る。
解放されずに残る霊など知るものか。
「先輩……【視界】を、閉じたい……閉じさせて……」
「へた……っれ!」
楓の泣き言に切れ切れの声が返ってくる。
束になった黒髪が極度の収縮を繰り返していた。
「かえっ……でっ!」
丹周を埋めつくす黒いかたまりが肥大し、次に小動物をいたぶる力加減のタガがはずれた。
――めき。
丹周の関節が明後日の方向に折れ曲がる。くぐもった悲鳴。手足がこぼれる。力なくだらりと垂れ下がる狼の頭。
闇に溶け込む霊気に身が凍る。歯が噛み合わずがちがちと鳴った。
瞼を閉じた闇のなか、何もかもが手探りだ。
楓は震える手で縄を断ち切った。
「ウォン!」
一鳴きすると犬は怖気づくことなく、楓のさらに先にある壁をすり抜ける。
見開く楓に、空間が暗転した。
ぐしゃ!
無常にも肉球つきの足で踏み潰される音。
女の霊を跨ぐ丹周の牙が黒髪に沈み、一気に噛み千切った。女がけたたましい声を上げる。
「ったく、大げさな。本当に痛いのはこっちだ……」
首を傾け、足を引きずりながら丹周が不満を漏らす。
「丁度いいところに来たよ、楓」
「手加減したんですか。先輩?」
「動物霊とちがって人は聞き分けが悪いからどうしようもない。もたもたしてないで、あの犬を追うぞ!」
「はあ? いったいどういうことですか?」
*
生前の帰巣本能を手繰るように犬は駆けていた。
公園を抜けて住宅地に入る。そのエリアにはごく一般的な家が連なり、楓と丹周はその一つに吸い込まれていく犬の霊を追う。
『ウェルカム』――表札には来客を歓迎する言葉がささやかに添えられていた。
ちょうど門から出てくる年配の女性と鉢合わせする。犬の霊は親密なしぐさでその足下にすり寄った。しかし、すぐに離れてドアの前で腰を下ろす。鼻がひくつき、しきりにおいを嗅ぐ。
楓は注意深く犬を見ていた。ただでさえ、手持ちの情報は少ない。あらゆることから導き出さなければならなかった。
玄関脇に置かれた自転車には通学用だとわかるステッカーが貼られている。
洗濯竿にかけたままのピンチハンガーはあまり大きくなく、幼児がいそうにも見えない。
「丹周先輩、犬の演技をお願いします」
「君こそ、うまくやりなさいよ」
丹周は垂直に立たせた尾を一振りすると、いかにも従順そうに歩調を合わせた。首輪とリードは適当に霊力で見繕う。
「突然すみません、あの……」
近づいた途端に怪訝な視線を投げかけられ、楓は怯みそうになる。
「あの……佐々田さんにこれを渡してください」
ポケットに手を突っ込み、もたつきながらクッキーの包みを取り出す。
慎重に言葉を選ぶのも忘れない。
「あ、ちゃんとペット用です」
嘘だったが問題ない。どちらにしても、すでに死んでしまったあの犬は受け取らないだろう。
「もしかしてあなた、美葉のお友達?」
どうやらここは美葉という子の家で、この女性は母親らしい。
「散歩でお会いしていただけなんです。最近見かけなくなったので、どうしたのかなと思って」
「ワン!」
丹周がタイミング良く吠えると、美葉の母は微笑んだ。しかし一瞬で表情を曇らせてしまう。
「申し訳ないけれど、そのクッキーはその子にあげて頂戴」
「どうしてですか?」
「死んでしまったのよ。肺が弱っていてね。犬としてはかなり高齢だったから仕方ないのだけれど、ある日突然逝ってしまった……」
「美葉さんは大丈夫ですか?」
「最初はね、散歩で無理をさせて死なせてしまったって思い悩んでいたのよ。そんなことないのに」
楓は瞼を閉じた。あの犬の身に何が起こったのか。玄関に座る犬の霊を見遣る。
「あの子は美葉さんが大切なんです。ずっと。……何にも死んでほしくない」
「美葉は……いじめられていたらしいの。やっと、それを言ってくれてね。転校してもこの町にいれば美葉をいじめた子たちにも会うのに、あの子が生きたこの場所からは離れられないと言ったのよ。信じられないほど、強くなったの……あの子のおかげで」
楓の言葉に触発されたのか、美葉の母は呟くように言った。
美葉という子は、公衆トイレでいじめられていたのだろう。その行為が飼い犬にまで及んだとき、彼女は心に深い傷を負い、犬の霊さえも縛りつけてしまった。
死因とはまったく関係のない公衆トイレのなかに。
*
「やるじゃないか。口がうまくなったな」
住宅地をあとにして道に戻ると、丹周の足取りは弾んでいた。
「冗談じゃない」
楓が激しく首を振る。
「冷や冷やしました。はったりもいいところだし」
「心配性だなあ。嘘を見抜いて警戒することはあっても、よほどでなければ危害は加えないさ。あそこは人の、あの母親のテリトリー(縄張り)だからな。女性なら他人に踏み込まれた状態で、事を荒立てたくないだろう。男は威嚇するかもしれないが」
丹周先輩はさすがに女性というものをよく理解している。楓は感心しつつも、彼女の少し人間らしくない考え方が気にかかった。
そもそも丹周先輩はどこか壊れている。本人も自覚しているところだが。
丹周は見知らぬ誰かが寿命で死ぬのさえ、我慢ならないらしい。
そのせいで、かつて丹周を含め二人の先輩が命を落としたというのに。
「これでわかっただろう?」
「何が」
むっつりと応えた楓に、振り向く丹周が口角を上げた。
「公衆トイレの天井から垂れ下がる縄、と聞いて何を想像した?」
「でも実際に昔、あそこは女性が……首……」
「そうだな。だが過去がそうでも今回の現象を起こしているものだとは限らない」
丹周は楓の目の前で尾を振って歩く。ひどく優雅に。
「怪奇現象一つ取っても、見てみないとわからないものだ。そもそも動物霊は聞き分けがいいから、滅多にあんなふうにはならない」
「そうなんですか?」
容易には死を自覚できない動物霊たちだが、きっかけを得るとすぐに消えてしまう。
それほど動物霊は入れ替わり立ち替わり、変動がはげしい。
「……人や物と結びついたらわからないけどな……」
人間に危害を加えることはないと言いたいが、他の霊や物と結びつきを持ってしまうと話は別だ。
「え? 何か言いましたか?」
気まぐれな丹周がふいに姿を消し、楓は一人取り残された。
「先輩、先輩。恨んでいるよ。俺をひとりにしたこと……」
うつろな目で呟いたのは誰だったのだろう。
(終)




