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動物霊の檻  作者: チキュウカジカム
霊狼の霊能指南
7/8

ほどけない影(2)

 公園の草は定期的に刈り取られているのか、辛うじて足首を隠すほどの長さにとどまっている。人々の無関心さを物語るように踏み固められることもなかった。

 一角に建てられた公衆トイレには噂が絶えない。そのためレンガ造りを装ってイメージを払拭したかったのだろう。外観は茶色で統一されている。だが、意図せず内部の明るさまで損なわれているようだ。


 入り口を通り過ぎ、裏手へ回る。壁際に置かれた花や菓子は楓が手向けたものだ。その都度取り換えているので数は少ない。

 いつものようにクッキーの入った包みを交換しようとして異変に気づく。


 ――歪んでいる。


 花の茎は複雑に折れ曲がり、葉は潰れ、クッキーやチョコレートには割れ目が生じ、角が欠けていた。

 単なるいたずらとは思えない。すべては水が入っているガラスのコップを中心にして放射状に破損していた。何かがめり込んだ跡のようにも見える。浅く窪んだその地面に触れようとして、楓は固まった。


 ぴしりと音を立てて、沈黙を守っていたコップに亀裂が走る。それは枝分かれを繰り返し、どんどん広がったかと思うと唐突にガラスを切り裂いた。


 まるで重力に耐え切れなくなったとでもいうように、その場に折り重なる破片。

「うわっ!」

 指先に走った痛みにおののく。破片は飛散していない。血が流れたのは、近づきすぎてかすったのか。思考する楓の頭上から笑い声が降ってきた。

「先輩ってほんとに、ひど……」

 ――ちがう、誰の声だ?

「ひぃっ」

 うろたえた楓は顔を上げて息を呑む。トイレの小窓に大きく見開かれた目が映っている。どんな長身でも容易に届くはずがない高さだ。まして小顔の女性には。

 濁った目はどこを見ているのか。焦点が定まらないまま、笑みを浮かべて暗がりへと吸い込まれていく。


 震えが止まらない。同時に矛盾した使命感が沸き上がり、突飛な行動に走っていた。壁伝いに角を曲がればすぐにトイレの入口だ。

 なぜ追わずにはいられないのかもわからず、その身はすでに心許ない明かりの下にいた。

 目の前にはありふれた個室トイレが二つ並ぶ。


 がこん。


 奥から音が一つ。ドアの立て付けが悪いのか、それとも単にすきま風に煽られているだけなのか。


 がこん、がこん。がこんがこん。


 鼓動がうるさくて、音の区別がつかなくなりそうだ。

 何か大きなものがぶつかっているのだろうか。それに二、三人の囁き声も聞えた気がする。

 楓は耳をそばだてて足を進めた。

 突き当たりの壁には形のはっきりしない影が揺れている。


 情けないほどの及び腰で一つ目の個室の前で立ち止まり、隣の個室へと腕を伸ばす。

 ドアはわずかに開いているが、なかの様子は窺い知ることができない。

 慎重に取っ手を掴んだ瞬間、後ろに引っ張られた。脇に下ろしていた腕に何かが絡みついている。鋭い冷たさと圧迫に骨が軋む。

「はあっ……はあっ……!」

 速くなる呼吸に置いてけ堀をくいそうだ。


 絶対に見たくない。直視したくない。けれどそれはまぎれもなく人の手だった。さらにその爪が皮膚に食い込む。

「いっ!」

 痛みに歯を食いしばり、自由が利く腕で今度はドアのふちにしがみつく。


 下手に身をよじったせいで腕がねじれそうになるのも構わず、得体の知れない力に抗う。

 ぬめりとした感触……。

 厚みのある布地など物ともせず、楓の腕に這い上がってくる。五感という皮膚は取り払われ、恐れが精神を穿つ。

 右手、左手、右手、左手、と。

 生気のない息遣いが耳元まで迫ってくる。

 ドアをつかむ手も痺れ、とうとう硬い床に膝をつきかけたとき、執拗にまとわりついていた手からふっと力が抜けた。そのまま反動でつんのめり、いつの間にか口を開けて待っていた個室に飲み込まれる。ドアが勢いよく閉じた。

「そんな……開かない!」


 どんどんどん! がんがんがん!


 力まかせに叩いても揺すってもびくともしない。

 ドアの鍵は楓のいる内側でなければかからないはずだ。表面に指を滑らせ、二箇所の蝶番を確認する。まずは足下から。息をころして低姿勢で近づく。するとドア越しに靴の影が通り過ぎた。

 木槌のように振り下ろされた硬い靴底に、上体を起こして立ちすくむ。


 四方を見渡せば、ふいに、天井から垂れ下がる縄に気づく。

 薄い仕切り板で囲まれた個室トイレは狭く、溺れそうなほど深い闇に満ちていた。


「ヴヴ……グァアァッ! ガッ! ギャウ! ギャア!」


 ――犬だ。

 立ち込める闇からむき出しの牙が楓の胸元をかすめた。

 猛追はやまず、鋭利な爪が繰り返し同じ軌道をなぞる。その一つ一つが服の上をかすめるたびにありえない痛みを感じた。

 はかれない空間で、際限のない闇が唸りを上げる。

 元の毛色もわからないほど黒く染まった犬は、まるで毒が回ったように激しく頭を振った。うつろな眼窩がぎょろぎょろとこちらを向く。


 がくん! がこがこがこ!


 再び身を乗り出して楓を狙うが、首輪にくくりつけられた縄がそれを許さない。

 縄の先端は薄い仕切り板の上を通って隣の個室へと続いている。板の向こうは想像するしかないが、ドアの鍵かタンクに接する給水管にでも無理やり繋がれているのかもしれない。

「なんてことを……」

 楓は言葉を失った。誰が、どんな理由でこんな仕打ちをしたというのだろう。犬の後ろ足は辛うじて床に届いているが、ほとんど宙吊りの状態だ。

 死してなお足をばたつかせ、カリカリと爪を立てる。囁き声だと思っていたのはこの音だった。


 憤懣ふんまんけしかけられる一方で、飼い犬らしく人の気配に引き寄せられているようにも感じた。古くから植えつけられた性質がそうさせるのだろうか。

 この犬はいま、人との繋がりを断とうとしているのかもしれない。ならば、人がそれを止める手立てなどあるのだろうか。

「どうしろって言うんだよ……」


 首輪から異様に痩せ衰えた首が覗いていた。もがくたびに喉が絞めつけられるのだろう。助けたいが解放したところで襲いかかってくるのは目に見えている。

「どうすればいい……」

 いずれ犬を繋ぎとめている縄が緩むかもしれない。悠長に待つことなどできるだろうか。

過去と現在がない交ぜになっているこの場所から先に進むには、その選択肢はあり得ない。

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