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動物霊の檻  作者: チキュウカジカム
霊狼の霊能指南
6/8

ほどけない影(1)

 縦に走る一つの影が、人影の重みによって大きくしなる。

 朽ちた葉は黒ずみ、血だまりのように足下に広がった。



 やつらは密かに動く。

 芽吹いた植物がいつの間にか花咲き、実りをつけるように。

 綺麗なもので彩られたらいいが、現実はそうとは限らない。

 いやなものほど強調される世界だ。

 粗末な生存本能が発揮されただけならいい。考えすぎだと割り切ってもいい。それでも絶えず身の危険を感じて生きていくなんて自分にはできない。

 自然界で動物は許容を超えた恐怖を感じないだろうし、受け入れ難い死などないはずだ。

 ただ、人は。人は違う。

 どうしてこうも恐怖を増長するものばかり生み出すのか。想像力がたくましすぎる。


 田舎めくこの町ではジェンダー・フリーが浸透していない。意気地のない男という自覚がある野一色 楓(のいしき かえで)は、引け目を感じて生きていた。

 学生服のスラックスにいびつな皺が寄っている。一着しか持っていないというのに、膝上に乗せた重さのせいだ。きっと服の素材は安物だろうから仕方がない。

 原因を探る前に納得して、静かにすべてのページを閉じた。小休止させてもらったバス停のベンチから立ち上がる。

 ハードカバーの本は厚く、ずっしりと重い。そして自分の抱える失望はもっと重苦しい。

 なぜこの手の能力者は男女問わず、恐れることなく立ち向かっていけるのだろう。もちろん、先輩を含めて。


「まぁた心霊本なんて読んでるか」

「ヒぐッ!」

 悲鳴を誤飲する。間抜けにも背後から忍び寄る声に驚いた。

 ばくばくする心臓をなだめながら振り返るが、誰もいない。

 しかし苛立った咳払いにつられて下を向くと、灰色の狼がいた。いくらか小柄に思える大きさだった。柔らかそうな毛並みが目を引く。特に首周りは豊かな毛で覆われ、太く見える。四肢は長く伸び、肉球があっても手先は器用そうだ。

 三角の耳がぴくりと動き、得意気にふわりと尾が揺れる。そこに走る一筋の黒い毛は、まるで一筆書きしたように印象的だった。


「お、脅かすとかやめてくださいよ。先輩」

「どこの信者だ、オマエハ」

 狼は先ほどから胸元で本を抱き締めている楓にため息を吐いた。物々しい装丁が聖書のように見えたのだろう。

「こんなものは役に立たん」

「ああっ」

 丹周が自慢の尾で払い落とすと、宙を飛んだ本が跡形もなくスッと消えた。

「何してくれるんですか! 高かったんですよ、あの本!」

「無様な」

「丹周(にちか)先輩は相変わらず口が悪い……」

「あぁ?!」

 狼らしいその口で凄まれてはさすがに怖い。

「落ち着いて、落ち着いて」

 楓はその場に屈み、狼の背を撫でた。

「わたしは闘牛じゃないっての」

 不服そうに呟くもそれ以上の抗議はなかった。手触りがいいので楓としてもやめられない。


 お決まりのようにささやかな抵抗をされるものの、楓はブラッシングが喜ばれているのを知っている。生来の狼ならどこかに身体を擦りつけて解消したかもしれないが、丹周にとって毛繕いは恥ずかしすぎた。無理もない。

 いまは狼の姿をしているが、彼女は人としての名前を古瀬丹周(ふるせ にちか)という。そして実際の狼とは異なる存在だった。

 丹周の像はいつもおぼろげで、はっきりしない。認識されると途端に記憶からその姿を消してしまう。

 だから放し飼いの状態でも騒がれず、見咎められることもなかった。彼女を目視するのは容易ではない。


「不安?」

 意外な問いかけに楓は肩をすくめて答えた。

「わからない。この前行ったら何かが揺れていたんです。陰になってよくわからなかったけれど、細長いものが垂れ下がっていて……。それで……視界を閉じてしまった」

 視界――楓と丹周は能力を駆使して視ることをそう呼んでいた。最も、楓の能力がなければ名づける必要もなかっただろう。大なり小なり能力には個人差がある。しかし、丹周が知る限り【視ない】ことを選べる者は楓しかいない。

「もう行くのか?」

「距離としてはどうってことないんですけどね……」

 緩慢な動作で歩き出す。楓のぼやきなどスルッと無視して丹周も倣う。


 だらりと伸びる歩道橋は古びていた。点在する赤茶けた錆がまるで焼けた皮膚のようだ。

 その下では信号機が休みなく働いているためか利便性は低く、渡っている者を見たことがない。

 楓は車道を挟んで遠巻きに眺めた。視線の先に広がる公園はずいぶんと敷地が広い。

 かつて市営プールだったのが昨日のことのように思える。いまではすっかり開けた中身のない空間。

 防犯のためか樹木は数が少なく、所在無げにぽつりぽつりと突っ立っている。夏になれば多少は日除けになるかもしれない。頼りなくともいまは境界線の役目を担っていた。


 信号が赤から青へと変わり、三つの横断歩道を滞りなく進む。

 道すがら、車間から追い出されていくビニール袋が見えた。それは犬を連れた通行人の足下をかすめ、宙を舞う。すっかりくたびれてひょろひょろと伸びていく白い影。それは風に翻弄され、いまにも千切れそうな紐に似ている。


「洗濯物が干せるほどの天気だって言っていたのに」

 ビニール袋を見送りながら楓は呟いた。

 頭上では湿気を含んだ雲がのさばり、あっという間に局地的な闇が広がっていく。

「最近はずれてばかりですよね、あのお天気お兄さん。人好きのする顔で視聴者受けもいいって聞きましたけど。先輩も好みですか? 先輩?」

 一方的にまくし立てても突っ込みすら返ってこない。

「先輩? ……先輩……」

 ぞわりと身が震えた。丹周は楓の能力を過信している。だからこういうときでも平気で姿をくらます。彼はそう思っていた。

 本当は何も見たくない。何も感じたくないのに。

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