あやかしと足らず 幻死痛2
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昼も夜もわからない座敷のなか、横たわる男の影に寄り添う影から長い髪がこぼれた。
まるで闇を迎える御簾のようだ。
華奢な女の指が男の髪際に深く沈み、丁寧にくしけずる。
その動きが眠りの振り子を揺さぶるのか、または悪夢を誘うのか、硬く閉じられた瞼の下で眼球がうごめく。
――ふ、と。唐突に、男が目覚めた。
女の膝上に頭を預けたまま、口を開く。
「懲りないやつだな」
「そなたこそ」
覗きこんだ顔がころころと笑う。男は額にかかる吐息がわずらわしかった。
「毎度毎度、よく手の込んだ仕掛けをしてくるな」
「本当に、わたくしに仕える気はないと申すのか?」
「なぜ俺なんかに構う」
「なんか? なんかだと?」
要領を得ない話はコバエにたかられている気分だ。
布の擦れる音がいたずらに聴覚を刺激する。
袖を通さず肩にかけた女の羽織には、色彩豊かな動植物が描かれていた。
女のわずかなしぐさからも身分の高さが窺える。
「惜しいよの。せっかく、ばけものから人になったのだろうに。いや、その美しさだ。人あらざる者かもしれぬ」
「俺は生まれたときからただの人間だ」
腕も脚も目もなく命さえ危うかったが、持って生まれたものは変わらない。
「父御も逃げ出す異形だったとは思えん。おや、そなたの目は……少し濁っているのか。その程度ならば美醜に関わりないことだが」
女は指先を男の頤に押し当て、見飽きることのない風采を堪能した。
「ほっとけ」
とうとう耐え切れずに顔をそむけたが、思うように体が動かない。
腕も脚も目も命も、いまだに馴染みがないものだった。
コスリから受けた傷も癒えていない。
「いくら血が繋がっていても、あるはずのものがごっそりとついてなかったら驚くだろ」
「母御はそなたに腕と脚と目を与え、命さえ差し出したと聞く」
衰えゆく姿は、わが子に足りないものを分け与えた代償なのか。
『腕が足らず、脚が足らず、目が足らず、一等いのちが足らず』
子守唄をなぞらえる声は、男にとって太陽であり月だった。いつもその存在を感じている。
「霊猫憑きの巫女と呼ばれていたな。わたくしの片腕でもあった。いまのそなたがあるのは、すばらしい能力者だった母御のおかげだろう。それでも跡を継ぐ気はないのか」
「あれは自分の体を動かすだけで手一杯なやつが、操れるような猫じゃない」
戦渦では殺すこともあざむくことも繰り返される。
「いいかげん、俺をそそのかすのはやめてくれ。あんたが執着しているのは使い勝手のいい間者だ」
「ひどい男だな。そなたは」
「どっちが。俺は生身の人間だ。あやかしなんぞ巻き込むな」
「コスリか?」
手持ち無沙汰になった女は扇を手に取り、ため息を吐く。
「卑しいあやかしめ。毒を取り込んだ上に、しぶとく生きながらえたのだ。よもや変化をなし遂げるとはなあ」
扇の骨を鳴らし、地紙が広がる。しかし、歪んだ目尻を隠そうともしない。
「本当に、ほしくないのか」
「いらないな。何も」
「そう……。わたくしにおもねることもしないのか……」
男は再びその背に床板の冷たさを感じた。
コスリに反撃できなかったように、何もできない。
「死にきれなかった己の命を大事にするかと思えば、なんと愚かだ。あの母御とそっくり。わたくしから離れていく」
「あんたに従った者の末路は知っている」
ひゅっ、と女が息を呑む。
「愛していた……。愛していたから……」
「やめろ。俺はあんたが望むようなものは何も持っていない。霊力の欠片もないんだ」
「そなたの腕も脚も目も、命も、ほしかった……」
反吐が出る。男は女を睨めつけた。
「毒が蔓延するこの地に放り出された者はどうなる。行き場のない領民は、毒かもしれない水や作物を食べて生きていくしかない。すべてあんたがばらまいた結果だろう!」
「わたくしとて、つらかった」
悲しげな声から一転して、女は激昂していた。
「毒は重い……。地表に充満した毒を吸い込んで死ぬのは、さぞ苦しいだろうな。下等なあやかしだが、コスリはよく働いてくれた」
「何を言って……」
コスリは止めを刺さなかった。
瀕死の状態に追い込まれた身では信じ難いが、以前と同じように人を転ばせたつもりだったのかもしれない。
あやかしとしての役目を果たしたからこそ力を得て、力に酔いしれたのだろう。
「すぐに霊猫がそなたのあとを負うから、寂しくない。あの猫もあやかしだが、知りすぎたゆえ」
言い聞かせる女の声は誰に投げかけたものだったのか。
「愛していた……。愛していたから、見逃したのに……」
うつむく先にあるのは男の美貌だった。
月がその目を照らしても、蘇ることなくゆっくりと光が失われていく。
男にとって、生と死は否応なく与えられるものだった。
そしてどちらも、痛みを伴う。
女は耳や目を閉じた。留めた記憶もいつか消えていくだろう。
惜しみなくすべてを照らす太陽は言う。
「死者はそのままにしておけ」と。
しかし、月は言った。
「もう一度、起きなさい」と。
(終)




