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動物霊の檻  作者: チキュウカジカム
葎と足らず
5/8

あやかしと足らず 幻死痛2

 昼も夜もわからない座敷のなか、横たわる男の影に寄り添う影から長い髪がこぼれた。

 まるで闇を迎える御簾みすのようだ。

 華奢な女の指が男の髪際に深く沈み、丁寧にくしけずる。

 その動きが眠りの振り子を揺さぶるのか、または悪夢を誘うのか、硬く閉じられた瞼の下で眼球がうごめく。


 ――ふ、と。唐突に、男が目覚めた。

 女の膝上に頭を預けたまま、口を開く。

りないやつだな」

「そなたこそ」

 覗きこんだ顔がころころと笑う。男は額にかかる吐息がわずらわしかった。

「毎度毎度、よく手の込んだ仕掛けをしてくるな」

「本当に、わたくしに仕える気はないと申すのか?」

「なぜ俺なんかに構う」

「なんか? なんかだと?」

 要領を得ない話はコバエにたかられている気分だ。

 布の擦れる音がいたずらに聴覚を刺激する。

 袖を通さず肩にかけた女の羽織には、色彩豊かな動植物が描かれていた。

 女のわずかなしぐさからも身分の高さが窺える。


「惜しいよの。せっかく、ばけものから人になったのだろうに。いや、その美しさだ。人あらざる者かもしれぬ」

「俺は生まれたときからただの人間だ」

 腕も脚も目もなく命さえ危うかったが、持って生まれたものは変わらない。

「父御も逃げ出す異形だったとは思えん。おや、そなたの目は……少し濁っているのか。その程度ならば美醜に関わりないことだが」

 女は指先を男のおとがいに押し当て、見飽きることのない風采ふうさいを堪能した。

「ほっとけ」

 とうとう耐え切れずに顔をそむけたが、思うように体が動かない。

 腕も脚も目も命も、いまだに馴染みがないものだった。

 コスリから受けた傷も癒えていない。

「いくら血が繋がっていても、あるはずのものがごっそりとついてなかったら驚くだろ」

「母御はそなたに腕と脚と目を与え、命さえ差し出したと聞く」

 衰えゆく姿は、わが子に足りないものを分け与えた代償なのか。


『腕が足らず、脚が足らず、目が足らず、一等いのちが足らず』


 子守唄をなぞらえる声は、男にとって太陽であり月だった。いつもその存在を感じている。

霊猫れいびょう憑きの巫女と呼ばれていたな。わたくしの片腕でもあった。いまのそなたがあるのは、すばらしい能力者だった母御のおかげだろう。それでも跡を継ぐ気はないのか」

「あれは自分の体を動かすだけで手一杯なやつが、操れるような猫じゃない」


 戦渦せんかでは殺すこともあざむくことも繰り返される。

「いいかげん、俺をそそのかすのはやめてくれ。あんたが執着しているのは使い勝手のいい間者だ」

「ひどい男だな。そなたは」

「どっちが。俺は生身の人間だ。あやかしなんぞ巻き込むな」

「コスリか?」

 手持ち無沙汰になった女は扇を手に取り、ため息を吐く。

「卑しいあやかしめ。毒を取り込んだ上に、しぶとく生きながらえたのだ。よもや変化へんげをなし遂げるとはなあ」

 扇の骨を鳴らし、地紙が広がる。しかし、歪んだ目尻を隠そうともしない。

「本当に、ほしくないのか」

「いらないな。何も」

「そう……。わたくしにおもねることもしないのか……」


 男は再びその背に床板の冷たさを感じた。

 コスリに反撃できなかったように、何もできない。

「死にきれなかった己の命を大事にするかと思えば、なんと愚かだ。あの母御とそっくり。わたくしから離れていく」

「あんたに従った者の末路は知っている」

 ひゅっ、と女が息を呑む。

「愛していた……。愛していたから……」

「やめろ。俺はあんたが望むようなものは何も持っていない。霊力の欠片もないんだ」

「そなたの腕も脚も目も、命も、ほしかった……」

 反吐が出る。男は女をめつけた。


「毒が蔓延するこの地に放り出された者はどうなる。行き場のない領民は、毒かもしれない水や作物を食べて生きていくしかない。すべてあんたがばらまいた結果だろう!」

「わたくしとて、つらかった」

 悲しげな声から一転して、女は激昂していた。


「毒は重い……。地表に充満した毒を吸い込んで死ぬのは、さぞ苦しいだろうな。下等なあやかしだが、コスリはよく働いてくれた」

「何を言って……」

 コスリは止めを刺さなかった。

 瀕死の状態に追い込まれた身では信じ難いが、以前と同じように人を転ばせたつもりだったのかもしれない。

 あやかしとしての役目を果たしたからこそ力を得て、力に酔いしれたのだろう。

「すぐに霊猫がそなたのあとを負うから、寂しくない。あの猫もあやかしだが、知りすぎたゆえ」

 言い聞かせる女の声は誰に投げかけたものだったのか。

「愛していた……。愛していたから、見逃したのに……」

 うつむく先にあるのは男の美貌だった。

 月がその目を照らしても、蘇ることなくゆっくりと光が失われていく。

 男にとって、生と死は否応なく与えられるものだった。

 そしてどちらも、痛みを伴う。

 女は耳や目を閉じた。留めた記憶もいつか消えていくだろう。



 惜しみなくすべてを照らす太陽は言う。

「死者はそのままにしておけ」と。

 しかし、月は言った。

「もう一度、起きなさい」と。



(終)

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