あやかしと足らず 幻死痛1
番外編です。
弔う者さえわずかな散村。
幾重も折り重なる死者は朽ちていくのを、ただ待ち侘びていた。
刀で裂かれた着衣は体にすがりつき、人肌恋しく風にはためく。まるで標を失った旗のように。
重力に逆らうことなく滴る血がその濁った目に流れ落ちても、潤うこともなく、光は戻らない。
死者に手向けるように慎ましやかに咲く花の命に誘われて、生まれくる者に何の罪があるだろう。
「この子は、この姿は……人、なのか?」
父になったばかりの男の声は震えていた。
一方で、産み落とした女は嘆くことも喜ぶこともせずに、抱えた赤子をただ静かに見つめるばかりだった。
「私の……私たちの大切な子……」
腕が足らず
脚が足らず
目が足らず
一等いのちが足らず
聞こえているのかもわからない子の耳元で囁かれたそれは、子守唄をなぞらえる。
*
夜目が利かないのに霊など見えるから、人というものはややこしい。
生と死の境界で男は一人、佇む。それはわずかな生の延長線上なのか、死の余興なのか。
薄汚れた天井板に息苦しさを感じるのは心が見せる業なのか。
微動だにせず息をころせば、闇と影の区別もつかなくなりそうだ。
男が間借りしている茅屋は、どうやら通り道らしい。
行き交う数は多くないが、ふとしたときに見かけるようになった。
ならば、あれは闇ではなく【影】にちがいない。思いつくとそうとしか見えなくなる。
天井の四隅に染みついた【何か】が中央に集まり出した。ぶるぶると身を震わせ、見る間に膨れ上がっていく。
「――オマエも、ヒトが、ニクイか?」
頭上で轟く声は、音を喰らい尽くす静寂のようだ。足を取られて雪間に埋もれていく錯覚を引き起こす。
視界にとらえていたはずの【何か】が消失した。
「死ヌ、オマエ、殺さレル」
男にふれる寸でのところで、にゅっ、と獣の鼻面が透明な渦のなかから現れた。
出会い頭に「ふわああ」とあくびをこぼす。
姿を現したのは、犬のあやかしだった。しかし、犬らしいふわりとした獣毛はなく、引きしまった体は獅子のように大きい。何より前足には指が一つしかなく、攻撃に特化した太く長い爪がついている。
宙に浮かぶあやかしは多くのものを削ぎ落としたようだ。後ろ足を持たないが、胴と尾が連動して鞭のようにしなる。
そろりそろりと降下しながら男に近づく姿は、まるで手負いのアザラシかアシカの動きだ。
「まさか、コスリか? あのつぶらな目をした?」
珍しく男は驚いた。
記憶にあるコスリは大した力もない下級妖怪だった。人間の脛にすり寄り、足をもつれさせ、何度も転ばせる。特に親指を甘噛みするのが好きだ。
つま先をぶつけて転んだときには、嬉しそうにもごもごと親指を食むあやかしがまとわりついていたものだった。
だが、この癪にさわる行為が許せたのはコスリがかわいらしい子犬の姿をしていたからだ。いまは見る影もないが……。
「人間を見上げることしかできなかったお前が、見下ろすまでに成長したのか。大したものだな」
態度が気にさわったのか、コスリが唸り声を上げた。
耳を塞いでも空気を伝い、あらゆるところから侵入してくる。
「ショブンされるミだ! セイゼイ、へつらうトいい!」
怒りは収まらず、鋭い一本爪を突きつけた。男の頬から耳朶にかけて一筋の血がにじむ。
「いのち乞いをシロ!」
「ことわる。意味がない。なぜなら……」
言いかけて眉をひそめる。男は、あるはずのない感覚につきまとわれていた。
「腕も脚も目も、このいのちさえ疎ましいのに」
ときおり浮上する痛みは、男をひどく混乱させる。
いくさで手足を失った者は、あるはずのない手足の感覚に苦しむという。
では、いのちは? 男は痛みの理由を探し続けていた。
コスリの尾が男の脚をなぎ払う。かつてのように転ばせるだけでなく、より多くの痛みを与えるつもりだ。
倒れ込む姿を目で追い、猛禽類に似た鉤爪が男の肩を貫く。
床に縫い止められた男は、血走ったコスリの目を見上げた。
引き抜こうと爪に手をかければ、かえって深くえぐられる。
前足をくい、と動かし、肩から胸元へ蛇行させ、噴き出す鮮血が互いを染めていく。
「がっ……」
迫り上がった血に気道をふさがれ、男は喘いだ。
これまで捕らえた獲物と同様に肉叢を裂いた爪は、臓物まで達している。
苦痛を長引かせるためにコスリはわざとらしいほど時間をかけて、めり込んだ爪を引き抜いていく。
「コロガってろ。ソウすれば死ネル」
コスリが舌なめずりをする。長細い舌は硬軟自在だ。
「おま……に殺さ……いぃ……」
「ばッカ。オマエを殺スノは【オエラガタ】だ」
名残惜しさからぐちゃぐちゃと傷口をなぶる。穿つ爪に骨の断片が弾け飛び、損傷した血管や腸の血であふれかえった。血だまりは止めどなく広がる。
男の意識は沈みかけていた。
「オレがコロばせ、毒で死ヌ。ソウすりゃ変化ダ。前もオナジ」
「……前?」
「おカゲで、タぁクさン、死んダ」
耳に届いたのはそれだけだった。
焦点の定まらない目が宙をさまよう。浮遊する眼差しは放物線を描き、最後に一つの影にたどり着く。




