魚見‐後‐
*
あれから公衆電話には魚が棲みつくようになった。
受話器を取ればそれは耳に侵入しようとするが、構わず意のままにさせる。他の公衆電話に棲まわせるためだ。
自分だけが知る、魚の居所。その優越感に浸っていた。
「お前で最後ね?」
『本当は公衆電話でなくたっていいんだ』
消沈したように魚がぽつりと言う。
「何をいまさら」
『オレは何にでもなれる。姿を変えられる』
前向きな言葉が霞むほど、いつになく元気がない。
葎は顔を天井に向け、曲芸師が剣でも飲み込むようにぽっかり口をあけた。体のなか、頭から爪先まで行き来していた魚を取り出す。霊気の少ない空気中でも、長い時間でなければ大丈夫だろう。
魚は小さな渦巻模様を幾つも身にまとい、悠然と宙を泳ぐ。
腹がちゃりちゃりと鳴った。公衆電話のなかで食べた小銭の音。いたずらに飲み込んだテレフォンカードも未消化のまま入っているかもしれない。
魚の言い分では、腹は膨れないがいつの間にか口に含んでしまうのだという。
『お前、覚えているか。すべてを』
「何の話?」
魚の問いかけに首をかしげる。
『いや、いい。忘れたなら』
意味深長な物言いだが、気にしても仕方がない。
早く家に帰ろうした葎は、踵を返す。
すれ違う人々が、葎の姿に振り返る。人に有らざる金の目、笑みを誘う唇、光を拒むような黒々とした髪に縁取られた輪郭、しなやかな肢体、繊細な指先。迷いのない足取り。
何ひとつ、自由にならないものだ。
葎は、自分の見目が良いことなど知っている。良くて当前だ。これはすべてタラズ様のものなのだから。
いまの姿からは想像もできないが、葎は奇形で生まれた。
『腕がタラズ、脚がタラズ、目がタラズ、一等いのちがタラズ』
タラズ様に祈り願うことで人として成り立ったにも関わらず、葎は怪奇を信じていない。それを知った教祖は怒り狂った。
教祖にどんな力があったのかはわからない。なにせ、信仰の源だったタラズ様に毛嫌いされていたのだから笑ってしまう。
『何でも与えよう。だからおれを連れて行け』
偉ぶっていたタラズ様が、そのときだけは違って見えた。父に手を引かれ、あのカルト集団から逃げたいまも腕や脚や目にタラズ様を感じている。
生と死はあまりに曖昧で、葎にはそんなものはたいした問題ではなかった。
自問するのは決まって「生きているのか」ではなく、「動けるか」だ。
『忘れるなよ。モグラ』
「むぐらですよ。わざとらしいなあ、もう」
『お前のウデもアシもメもおれの物だ』
「わかってますよ」
『忘れるな』
社会から隔絶されたごく狭い世界で、偏った考え方を植え付けられた人々。
父にとって妻は姉で、葎の母は同時に伯母だった。
それは家族だったのか、絆はあったのか。
何よりあのカルト集団のなかで、そうした関係を繰り返した結果、子はまともな姿では生まれなくなった。
ごぽり。
魚が霊気を吸う。その身は多数の指紋に彩られている。公衆電話の受話器を取った者たちが付けたものだ。色鮮やかにしるされている。
ぐるぐる、ぐるぐる渦を巻く。
指紋だとわかっていても奇妙だった。
背鰭を掴みかけた葎は手を止めた。
目立つ位置に見えた五つの指紋は赤い。
「待って。わたし……」
魚は受話器から耳へとうまい具合に葎のなかに入り込んだはずだ。
「あのとき、あなたたちに触っていない」
兄弟の血をまとった魚に嫌悪していたからよく覚えている。
では、この指紋を描き出した血は誰のものだったのか。
「ちがう。わたしじゃない。これは……」
記憶が揺らぐ。否定しようとしても、手の大きさも指紋の形も葎のものと重なり合う。
葎の目のなかで、振り上げられた刃が鈍く光る。
「いやだ。戻らない。わたしは帰るのだから」
両腕で身をかばい、精一杯の防御姿勢を取った。
焼けるような痛みが全身を貫く。執拗な怒りは葎の肌を何度も斬り刻んだ。
どれほど耐えたのか。静まり返った地下で手のひらがさまよう。そこに葎の意識はない。これはタラズ様のものだから。
『忘れるな。いつも共にある』
おもむろに立ち上がると、急速に乾かした血がぱりぱりとはがれ落ちた。
葎の顔を借りて、不敵に笑う。
『安心しろ。いまのおれは小金持ちというやつだ。どこへだって行ける』
複雑に絡み合う網のような路線図をその目に焼き付け、切符を手にする。
『魚とはなかなか旨かった。残りも食べてしまおうか』
聞き捨てならない発言に、意識を取り戻した葎が抗議する。体の主導権はタラズ様に握られたままだ。
『いい加減にしろ、モグラ。仕方がないからあの腑抜けな父親に、電話くらいはしてやる』
公衆電話は他を探すことにして、改札機に切符を通す。
その腕には消えずに残った指紋がひとつある。
――血の色で。
(終)




