魚見‐中‐
急に蛇が押し黙った。会話が途絶え、すでに蛇を乗っ取っていた気配は消えている。あとに残ったのは壁を彩る低級霊の蛇だけだ。
正直、霊が存在しようがしまいが葎にはどうでもいい。暴力はいつも怪奇のように襲ってきた。抗うすべもない者が、それ以上に怖いものなどあるだろうか。
巧妙な手口だ。信仰において金銭を要求し、身動きができなくなった信者の不安を煽り、恐怖で支配する。止めには暴力を用いて尊厳さえも奪ってしまう。
新興宗教のなかで生まれ育った葎にはその恐ろしさがよくわかる。あのカルト集団から逃れたあとも葎の父は心を束縛されたまま、自室にこもっていた。むしろそれは、閉じこめられているようだった。
たとえ教祖の罪を問えても、カルト集団は消えないだろう。誰かがあとを引き継ぎ、形を変えても生き残る。
腕が足らず
脚が足らず
目が足らず
一等いのちが足らず
子守唄の記憶が蘇る。あの声を覚えているはずがないのに、いまだ過去の記憶は生々しい。
自らを許せない父は「汚らわしい」と吐き捨て、胸元をかきむしっては自傷を繰り返した。自愛を望むのは酷だろうか。
葎は感傷に浸るのをやめ、前を見据えた。先を急ぐ。
ここを通らなければ、きっと家には帰れない。
*
ひと気のない地下鉄の改札口。その死角に、いまとなっては絶滅を免れた公衆電話が存在する。
緊急時でなければ気にかける人間などそう多くない。たいていはタクシー会社直通の便利な道具と見なされているだろう。
葎はしばらく公衆電話から距離を置き、じっと観察した。縦長のフォルム、角は落ち着いた無理のないカーブを描き、正面はどっしりした面構え。背後は壁に面していて確かなことはわからないが、背筋が伸びているためか近寄りがたい印象だ。けれど、苔でも生えたら自然界に馴染みそうな緑色の体は愛嬌がある。
それは希少種の動物か何かに思えた。いつからそんな認識が生まれたのかはわからない。気づいたときには遭遇すると受話器を取らずにはいられなくなっていた。
ボックスに押し込められた公衆電話は息苦しい。葎はむき出しの公衆電話をこの上なく好む。
『♪、~~♪~~♪』
気ままな呼び出し音が響く。
地下を流れる霊気は河川に似て、時によどむ。そして点在するふきだまりは、思いも寄らないところで霊たちと結びつく。芸術家気取りの蛇たちも、場の雰囲気にそぐわないこの陽気な電子音もそのひとつだ。
いままでどれほど不特定多数の人間が利用していたのか。他者と【共有】する公衆電話は余計に注意が必要だ。良くも悪くも人の心に感化されやすい。
慎重にお目当てのものを手に取った。
『よお、葎。元気か?』
咄嗟に受話器を遠ざける。
気泡の弾ける音が鼓膜をかすめた。
相変わらず強引に耳のなかに侵入しようとする。
『ダイヤルを押せ』
こちらの都合などお構いなしだ。
はじめて会ったときは何と言っていたか。そうだ、こうだった。
『オマエニ、キメタ』
いつものように公衆電話の発信音を期待していた葎は眉をひそめた。
『ヌケガケカ』
『キタナイゾ』
『コウヘイヲ、キシテ、エラバセヨウ』
次々に聞こえる複数の声。好奇心をそそられて、受話器を戻すこともできない。
『オシテクダサイ。オスキナモノヲ』
耳が悪くなったとは思えないがこれは幻聴だろうか。
たどたどしかった口調はすぐに消え、口喧しくなっていく。
『聞こえているのか?』
『つんぼ?』
『いいや、きっと糞でも詰まっているにちがいねえよ』
葎が逡巡している間に電話先ではずいぶんと言いたい放題だ。
「誰? お金入れてないから繋がるはずないのに」
『金? そんなもので腹いっぱいになるか』
次第に相手の声が荒くなる。
『のろのろするな。ダイヤルを押せ!』
「なんのこと? 一体誰なの?」
口答えするなと言いたげに舌打ちされる。
『ボタンだよ、ボタン。ああもう! 数字が書いてあるボタンだよ!』
公衆電話に一定の間隔で並ぶボタン。タッチパネルのスマートフォンとは比べものにならない。どれも押し応えがある。
『どれでもいいから押せ!』
まくし立てられた葎は何が何だかわからなかった。とにかく、できるだけボタンを押す。親の敵でも討つように力一杯叩いた。
『あああ。なんてこった……。全部押しちまったよ』
『生存競争に打ち勝たなきゃならねえ』
『今から敵か』
『ああ、容赦しねえ』
『恨みっこなしだ』
『あばよ、兄弟』
思わず取り落としそうになる勢いで、受話器から大量の稚魚があふれ出す。一緒くたになって大小様々な泡や小さなプランクトンが紛れ込む。
よく見れば、稚魚たちは公衆電話のプッシュボタンに宿っていたもののようだ。数は多くないが、その勢いに圧倒される。
ゆらゆらと立ちのぼる煙のように上昇する稚魚たち。ぱくぱくと息を吸い、段階を経てぷっくりと膨らんでいく。一回り大きくなったかと思うと、それぞれ思い思いの方向に身をよじった。
しなる鰭や鋭い歯は見境がない。葎が捕食対象に入るのかと警戒していたとき、魚たちが群れながらも共食いをはじめた。
ばくり。むしゃむしゃ。びちゃり。
肉は引き裂かれ、おびただしい血が飛散する。あるものは千切れかけた頭を抱えて痙攣し、あるものは尾鰭を失くして落下した。
あたかも現実のように、足下に散らばる細かい肉片が異臭を放つ。葎の心が震えた。
「待って! 待って! わたしの身体をつかって!」
葎の叫びに魚たちがぴたりと動きを止めた。
『なに言ってやがる……?』
『血迷ったか』
『阿呆なだけだろ』
人間のように胸鰭を側線部に沿わせ、もう片方を口元に押し当て考えるしぐさはかわいらしいが、至るところに血がついている。
「わたしが一匹ずつ、別の公衆電話に運ぶよ。それなら棲み分けられるでしょう?」
食欲旺盛な魚たちを言いくるめるのは一苦労だった。うかうかしているとすぐに闘争が再開されてしまう。




