明日へのコンサート
五百人規模のコンサートホール。
美和は最前列に陣取っていた。
「こんなに前じゃなくっても……」
学が気恥ずかしそうに後ろの席に目を向ける。
「後ろじゃあ、ばあばの顔が良く見えないじゃないの! ねえ、桃香」
美和はそう言いながらビデオカメラを設置している。
「そうそう、せっかくだもん! おばちゃん、今頃緊張してるかな?」
桃香は身を乗り出して、ステージ袖を覗き込もうとしている。
「おばあちゃんのドレス姿楽しみだなあ。本番のお楽しみとか言って、どんなドレスか教えてもらってないんだもん」
「もうすぐ始まるわよ」
「どんなドレスかなあ? プリンセスみたいかな?」
「はは……は」
学が乾いた笑い声をあげると、美和と桃香にぎろりと睨まれた。
「ちょっと、あなたのお母さんなのよ?」
美和にコンパクトカメラを手渡される。
「私はビデオをとるから、あなたは写真お願い。あ、フラッシュはたかないでね」
「はいはいはい」
ハイを三回重ねたところで、学はまた美和に上目づかいで睨まれて、あわててカメラの設定を確かめるふりをする……。
「はあ、演奏会なんて久しぶりだあ」
「まあね、麻里のピアノ伴奏っていうのも、実は聞いたことないよね」
「それにしても真由美はコンサートを聞きに来れるくらい余裕が出来て良かったよね」
「はあ? 震災から五年もたって休む暇も無かったら過労死するわ!」
「と言いつつ、結構忙しそうじゃん?」
「それにしても……あの震災の時に一年生になった息子が今じゃあ六年だよー」
「信じられないね」
「あっという間だったような気もする」
「ほんと」
普段コンサートなどというものにあまり行ったためしの無い辰彦は、所在無げに座席に納まっていた。開演までの時間を持て余して、受付で渡されたプログラムを何度も読み返している。
妻の明子は、震災から一年が過ぎたころ、地元のコーラスグループに入団した。初めは近所に住む友人に誘われてしぶしぶ入団したようだったが、昔合唱部だったことがあるという明子は、あっという間にのめり込んだ。今では、合唱団で練習用にもらってくるテープを流し、大きな声で歌いながら台所仕事をしている。
今まで、明子がコンサートに出演することがあっても、辰彦は一度も会場に足を運んだことがなかった。だが、今回は所属する合唱団の単独コンサートでもあり、どうしても聞きに来てくれと明子に頼まれ、こうしてコンサートの会場の座席に収まっている。
かさり。
プログラムをめくる。
プログラムの間にアンケート用紙がはさまれているのを見つけた。
ああ、これを書いて暇をつぶそうか。
辰彦はプログラムからアンケート用紙を抜き出すと、眼鏡をかけて読み始めた。
ぼくは今日、おじいさんとおばあさんと一緒に、福島に来ています。
昨日は、ぼくの家があった場所にお花をお供えしてきました。
今日は、五年前までお母さんと一緒にコーラスをしていた人たちがステージに立つのだそうです。もしよかったら聴きに来てくださいと、ぼくのところにチケットが送られてきたのです。
ぼくはあの震災の後おじいさんとおばあさんの住む長野に引き取られてから、一度も福島に来たことがありませんでした。もう家族のいない福島に来ることが、怖いような気がしたからです。
でも、もう僕は中学生になりました。ぼくは、あれからずっと強くなりました。だからお父さんとお母さんと妹の茜に「ぼくは元気だよ。もう大丈夫だよ」という事が伝えたくなりました。
コンサートが始まる前に、今回チケットを贈ってくれた淑子さんというお母さんのお友達にお礼を言いました。淑子さんはふわりとしたクリーム色のドレスを着て、目じりに涙を滲ませて、来てくれてありがとうと言いました。
ぼくのお母さんはとても歌がじょうずだったんだと教えてくれました。コーラスの団員の中で一番若くて一番きれいだったんだと言っていました。ぼくはなんだかちょっと恥ずかしくなりました。
ああ、開演五分前を知らせるブザーが鳴りました。
ぼくは妹のお宮参りの時にみんなでとった写真を今日は持ってきました。額に入れたそれをひざの上にのせて、一緒にステージを見上げます。
お母さんは歌が大好きだったから、きっと喜んでいると思います。




