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あどけない被災者

 大きな揺れに襲われたあの日。

 美和は娘の桃香を、午後二時に幼稚園へ迎えに行った。

 いつもは園庭でしばらく遊んでいく桃香だったが、その日は珍しく素直に自転車の子供用シートに乗り込んだ。

自宅に到着し、幼稚園からのお便りなどの確認を終えて、おやつにしようか? と桃香に声をかけた時にそれは起こった。

 美和は今まで経験したことの無い大きな揺れに驚いて、すぐに桃香のそばへと向かう。

リビングのカーペットの上に座り、桃香を抱きしめ、揺れが収まるのを待ったが、いっこうにおさまる気配はない。それどころかだんだんと激しくなる揺れに、恐ろしくなりリビングの掃出し窓を開けた。

 サイドボードの上に乗っていた桃香の丸い貯金箱が大きな音を立てて転がる。美和は桃香を抱く腕に力を込めた。

突き上げるような揺れに、ついさっき美和が開けたサッシの戸が勝手に開いたり閉まったりしている。

腕の中の桃香が美和の腕にぎゅうっとすがった。


「うわー、びっくりしたね」

 桃香は揺れが収まると、きょろきょろと辺りを見回した。それから美和を見て、眼を大きく開いて口をへの字にして見せる。桃香の変顔に美和が笑うと、桃香も笑顔を見せた。

桃香は美和の腕の中から這い出して、家の中を見て回っていた。

「ママー、割れてるよー」

 桃香の声がキッチンの方向から聞こえてきて、美和はぎくりとする。

「桃香!お台所に入ってはダメ! 割れているものにさわらない!」

 あわてて叫ぶ。

 震えるひざに力を込めて立ち上がった。

突然の大声に怒られたと勘違いしたのだろう、桃香が頬を膨らませて、キッチンの入り口に立っていた。

「割れているものにさわったら、桃香が怪我しちゃうでしょ?」

 ふてくされ顔の桃香にそう声をかけてキッチンを覗く。

「あれ? 何も壊れてないじゃない?」

 目に映る範囲に変わった様子は見られない。

「あそこだよ。ほら、中」

 桃香が指差したのは食器棚の中だった。食器棚の扉は開かなかったようなのだが、中の皿が何枚か割れている。

もっとひどい被害を想像していた美和は、ほっと胸をなでおろした。

なにしろこの家は三年前に建てたばかりの新築なのだ。地震で半壊なんてことになったら目も当てられない。

 どうやら、タンスや本棚も倒れることは無かったらしい。

(思ったほどの地震ではなかったのかもしれない)

 美和はそんなふうに考えていた。

一安心したところで、ふと気が付いてテレビのリモコンに手を伸ばす。電源を押してみたが、テレビはうんともすんとも言わない。

ハッとして台所へ向かい、蛇口をひねってみたが、こちらも使い物にはならないようだった。

……ガスは、使わない方がいいのかもしれない。

 自宅の確認を一通り終えた美和は、前の家のおばあちゃんの様子を見に行ってみることにした。

中沢家の前に建っている齋藤さんのお宅は、昼のあいだ若い人たちが仕事に出てしまうと、年老いたおばあちゃんが一人で留守番をしているはずだった。

 春とはいってもまだ三月。美和は桃香に暖かいジャンバーを着せてやる。自分は丈の長い厚手のカーディガンを羽織って家を出た。

「こんにちはー」

 桃香と一緒にガラガラと玄関の引き戸を開ける。玄関と居間を仕切る障子戸は開けたままになっていて、玄関から居間の様子をすぐに見ることが出来た。薄暗い室内には、こたつに入ったまま呆然とするおばあちゃんがいた。おばあちゃんの周囲にはいろいろなものが散乱している。

「おばあちゃん大丈夫ですか?」

 普段は回覧板を回す時にあいさつをするくらいなのだが「ごめんなさいね」と言うと、美和は思い切って室内に足を踏み入れた。

 齋藤さんのお家は、かなり古く、その分被害も大きいようだった。

台所を覗くと、食器棚は倒れ、割れた皿が散乱し、足の踏み場もない状態だ。

「おばあちゃん、怪我はないですか?どこかにぶつけたりしなかったですか?」

「なんだか……おらぁ、びっくりしちまって……」

 どうやら腰を抜かしてしまったらしい。

美和は、居間に散乱していたものを、危なくないように少しだけ片づけてやった。台所は、手の付けようがない。

「おばあちゃん、台所は行かないでね! 痛いところはない?」

 耳元で大きな声で言ってやると「だいじょうぶ」と思った以上にしっかりした答えが返ってきた。

「多分、すぐにお家の人が帰ってくると思いますけど、後でまた様子を見に来ますからね!」

 電気が使えないのでこれから先冷えるかもしれないと思い、鴨居にぶら下がっていた上着を渡してやると、おばあちゃんは素直にそれを着込んだ。

 美和は最後にガスの元栓の確認をして、斉藤さんの家を後にした。


自宅に戻ると、いざという時のために残してあった石油ストーブを物置から引っ張り出す。

灯油を入れて、点火のスイッチを押すと、ぽうっと芯に火が点った。

ようやく人心地ついた美和は、桃香と一緒におやつを食べた。

突然、玄関の方からドアが勢いよく開く音がして、美和は桃香と一緒に飛び上がった。何事かと玄関を覗くと、そこには夫の学がいた。

 眉をハの字にして、口をうっすらと開け、眼を見開いて立っている。

「お帰り、どうしたの? すごく早かったのね」

「よかった……!」

 学はやって来た二人をぎゅうっと抱きしめて安堵の息を吐き出した。

 この時まだ、地震の被害の大きさをわかっていなかった美和は、きょとんとしていた。

「こっちの方が被害がひどいみたいなんだ。家に近づくにつれて、つぶれた家とかの数が増えててもう……、生きた心地がしなかったよ」

 そう言うと、学は玄関のドアを背に、ずるずるとへたり込んでしまった。

「そんなにひどいの?」

「ひどいひどい! ウチの周辺は地盤が固かったのかもな」

 美和は家を空ける気になれなかったために、周辺の様子を見ていない。自分の家の被害があまりひどくなかったので、まわりもその程度かと思っていたのだ。

「家が潰れてたらって思ってさ……生きた心地がしなかったよ」

「ねえパパ、パパの会社も地震きた? ねえパパ、すごい揺れたんだよ……ねえ、パパ……」

 学がわずかに目を赤くして、桃香の「ねえパパ」攻撃に笑顔で答えている。

「この辺が震源?」

 桃香を抱き上げ、リビングに入っていく学に美和はたずねる。

「いや、帰ってくる車の中でニュースを聞いていたけど、津波とか、すごいことになってる。こんなもんじゃない」

「……うそ」

 美和はすうっと、血の気が引くのを感じた。

「防災無線とか、全然何も言わないのよ!」

「ああそれ、この町、役場がやられたんだよ。帰る途中に確認した」

「ええー!」

 学は桃香と一緒にソファーに座ると、ネクタイを緩めた。

「ももー、怖くなかったかぁ?」

 学は桃香の額に自分の額をこすり合わせる。

「桃香、こわくなかったよ! おばあちゃんちにもいったんだよ。おばあちゃんちはぐちゃぐちゃだったよ!」

「ああ、前のうちのおばあちゃんの様子見に行ったのよ、後でもう一度行こうと思うんだけど……」

 美和は学の前にコップに注いだスポーツドリンクを置いた。

「前のうち、車あったから、家の人が帰ってきたんだと思うぞ?」

「ああ、良かったわ」

「ねえ、パパ、お皿が割れたんだよ」

「おお、そりゃあ大変だ!」

 夫と娘の会話を聞きながら、美和はほっと力が抜けるのを感じた。学が帰ってくるまで、思っている以上に緊張していたらしい。

「避難所、うちは行かなくていいな」

「そうね。ウチは何とかやってけると思うわ。冷凍物もたくさんあるし、炊き出しもらわなくても大丈夫よ」

 美和はそう言うと、大きく頷いた。


 夜は電気がつかないから、ろうそくと懐中電灯を使った。

 物置に一つだけ残してあった石油ストーブがこんなに頼りになるとは思わなかった。ストーブの上に、やかんを乗せれば湯も沸く。

 トイレには庭に挿してあったソーラーの屋外灯を引っこ抜いてきて置いた。トイレには充分な明るさだった。

「風呂のお湯、抜いてなくてよかったわー」

 バケツで汲んで、トイレのタンクに入れることが出来る。少しの間は持つだろう。

 ガス屋が夜のうちにやって来て、ガスも使えるようになった。これで料理も出来る。プロパンだったことが幸いだった。都市ガスだったらしばらくは使えなかったに違いない。

「ねえ、パパ。キャンプみたいだね」

 桃香が言った。


 テレビも電気の明かりもない夜。少し寒いけれども、リビングに布団を敷いて、三人で一塊になって眠りにつく。

「ねえ」

 美和が学に声をかけた。

 二人の間ではすー、すー、とかわいらしい寝息が聞こえる。

「んー?」

 まだ眠っていなかったらしく、学はすぐに目を開いた。

「桃香がこわい思いをしなくてよかった……」

「そうだね」

「でもいつか、今日の日の意味を知ってほしいとは思うけど……」

 学が美和の肩をとんとんとたたいた。

 美和は笑ってみせ、そっと目を閉じた。

 

 そうして、震災の始まりの夜は更けていった。



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