十五話[レグルスの試練]
「えうー……」
傷心の悠姫は一人、温泉に浸かりながらぐったりとしていた。
集められた聴衆の中、下着姿を晒すという地獄のような罰ゲームの後、悠姫はすぐさま装備を切り替えて逃げるようにその場を後にした。
SSを撮れない制限があったのが、唯一の救いだ。
あまりにも酷い仕打ちではあるのだが、これまでのメアリーへの頼りよう、そして悠姫の投げっぷりを鑑みると、ギリギリ糾弾できないくらい、良くて帳消しと行って差し支えないラインだろう。
「はぁー…………」
ため息と共に、身体の力も抜けてゆく。
一応現実の性別は男なので、皆と一緒に入るわけにもいかず。さすがに今日はもうこれ以上何もやる気が起きず、悠姫は皆が寝静まった時間に、こうして一人、露天風呂と洒落込んでいた。
時刻は0時過ぎ。
さすがに観光地では廃人ルールも適用されにくいらしく、この時間にもなると活動している人の方が少ない。
交流会ムードに水を差すのも、と、そもそも狩りに行ったりする雰囲気ではないし、やることがなくなって飽きてきた人はおとなしくログアウトしてしまっている。
「はぁああああああ…………」
「――何ですの、欠橋悠姫。辛気臭いですわよ」
「え!? リ、リーン!? えっ!?」
何度目のため息か。ため息に声が返ってきて、悠姫は驚いて見上げる。そこには紫色の髪をアップに纏めて、全裸で仁王立ちしているリーンの姿があり、即座に悠姫は目を逸らした。
「な、なんでリーンが入ってきてるの!?」
「べ、別にいつ温泉に入ろうが、わたくしの自由でしょう?」
確かにそれはそうなのだが、悠姫からすれば気が気ではない。CAOでは女キャラではあるが、現実では悠姫は歴とした男性……というには見た目は女の子過ぎるが、ともあれ。
以前にもシアが宿の風呂場に凸して来たことがあったが、あの時はむしろシアの変態性のせいであまり女性を意識しなかった。
けれども今回は違う。
月夜に照らされた肌は白く、あまり意識したことは無かったが、胸も平均くらいはある。紫色の瞳と、同じく紫色の髪が幻想的に見えた。
「ちょ、リーン隠して隠して!」
「はぁ? ……欠橋悠姫。衆人環視の前で下着姿を晒しておいて、今更なにを恥ずかしがってますの?」
「ぐう……っ」
ぐうの音が出た。
むしろリーンはもしかして、チャンバラPVPの、時といい、今といい、肌を晒すことに抵抗がないのでは?
「え、リーンってまさか露出狂?」
「は?」
「あ、いや、なんでもない……」
ドスの効いた声で黙らされた悠姫がブクブクと沈んでゆく。
「馬鹿なこと言ってないで、わたくしも入りますわよ」
そう言ったリーンが悠姫の隣に入ってきて、悠姫はびくりと身を震わせた。
「……や、リーンはなんでそんな堂々としてるのさ。お嬢様ってなんか肌を見られるのに慣れてなさそうなイメージあるんだけど」
「使用人に着替えさせてもらうこともありますし、第一、アバターなんだからそこまで気にすることでもないでしょう?」
使用人という存在が実在することにも驚きだが、確かに、それはそうだ。
あくまでも欠橋悠姫や、リーン・エレシエントは、CAOの中でのアバターに過ぎない。リーンが気にしていないのであれば、わたしも別に気にしないでいいのでは――
「それに、同性で気にするもなにもないのではなくて?」
――と思ったが、気のせいだった。息を詰まらせたまま、悠姫はさらに小さくなって沈んでゆく。
カミングアウトするべきか否か、胆力が試されていたが、悠姫は秒で絶対無理! と決めてなんとかこの場を乗り切る為だけに全力を尽くすことを決意した。
アバターとはいえ、裸を見たとなれば一生強請られそうだ。
「――そういえば。ステ固定、スキルもなしとはいえ、初めて欠橋悠姫に勝てましたわね」
「あれ、初めてだっけ?」
「嫌味ですの? それは」
言ってリーンは珍しく頬を膨らませて拗ねた仕草を見せる。
思い出してみるが、確かにリーンと決闘した時や本気で戦った時に、負けた記憶がない。
そもそもあまり決闘などしたことも無かったが、言われればそうだった。
「そ、それで、欠橋悠姫。わたくしが勝ったら、一つお願い事を聞いて頂くという約束は、覚えていますわよね?」
「え、それは、休止の理由を教えないといけないっていう、あれ……?」
「違いますわ。それはもう、許しましたわ。それよりも前に――最初に決闘した時に、言った約束ですわ」
「あー……」
朧気ながら、思い出してきた。
リーンと知り合ったきっかけは、聖櫃攻略戦のランキングで名前が知れてきた時のことだった。
レイドギルドに所属しているわけでもなく、一見エンジョイ勢に見えるほどあちこちに足を運んでいるにも関わらず、その容姿と時折見せる実力に、噂が噂を呼び、隠れた実力者として認知されて数ヶ月。ニンジャやシアとギルドを作り、悠姫の先導力に振り回される形で、人が集まり、聖櫃攻略戦で上位に名を連ねる程になった、ある日のこと。
悠姫は、リーンから決闘を申し込まれた。
「欠橋悠姫! わたくしが勝ったらわたくしのお願いを一つ聞いていただきますわ! かわりに、わたくしが負けたらアナタのギルドに入って差し上げますわ!」
と。
当初はすごい傲慢なお嬢様ロールにしか見えなかったが、リーンの実力は聖櫃攻略戦で何度か一緒になった時に知っていたし、悠姫も負ける気なんて一切なかったのでその勝負を受けたのだ。
「えー。でもあれはリーンが負けてギルドに入ることになったんだから、さすがにその後の勝負では無効じゃない?」
「散々負けてるんですもの。そこは大目に見て欲しいところですわ」
温泉に浸かりながらだからか、リーンの横顔はいつもより機嫌が良さそうに見える。珍しく髪がアップに纏められているので、白いうなじが妙に艶かしい。
「ま、いっか。それで、リーンは何を言おうとしてたの?」
「それは……その……」
リーンは珍しく言い淀んだ後、意を決したように悠姫に向き直り、顔を真っ赤にして言った。
「……欠橋悠姫! アナタのこと、悠姫って呼んでいいかしら!?」
「…………へ?」
「だ、だから、悠姫と呼んでもいいかと」
「え、全然いいよ?」
むしろ悠姫からすればなんだそんなことかと、少し拍子抜けである。もっと無理難題……それこそ久我から聞かされていた世話係の件でも強要されるのかと思ったくらいだ。
「というか、別に呼びたければ今まででもいつでも呼び方なんて変えてくれたらよかったのに」
「そんな訳にはいきませんわ! 負けっぱなしでは、わたくしのプライドが許しませんわ」
「そ、そうなんだ」
悠姫にはやわからないが、リーンにはリーンなりの考えがあるのだろう。
「でも、ちょっと拍子抜けかな。もっと無理難題押し付けられると思ったのに」
「何ですの。わたくしがそんな無理難題押し付けるような女に見えますの」
「自覚ないんだ……」
「す、少しはありますわよ!」
「少しなんだ……ふふ」
突然笑みを浮かべる悠姫に、リーンは訝し気に尋ねる。
「な、何ですの?」
「や、リーンとこんなにゆっくり話が出来るなんてね。少し嬉しくて」
最初に会った時は罵声を浴びせられたことを考えれば、こうしてゆっくり温泉に浸かりながら談笑することができるなんて、思ってもいなかっただけに、妙に感慨深い気分である。
久我がツンデレツンデレ言うので洗脳されてきている節はあるのだが、悠姫も最近わかってきたところはある。
要はリーンの過剰なほどに強い言葉は、照れ隠しのようなものなのだと。
お家柄の関係上、余り素直に感情を表に出せなかったのかもしれないと思うと、リーンの不器用なコミュニケーションに対して、寛容になれる気がした。
見上げた夜空には[第十一の聖櫃(ウィニード=ストラトステラ)]によって創られた、大きな二つの月が浮かんでおり、その月光に照らされた[第一の聖櫃]が、ルカルディアの世界を見守っている。
「――そういえば悠姫。明日に向けて、アナタにお願いしたいことがあったのですわ」
「うん? ああ、明日のお祭りのこと?」
正直、ランダムクエストの達成はもう諦めている。
ディーンたちとも話していたが、今の装備では明らかに太刀打ち出来ないのは明白で、[レーヴァグランホエール]を拝みに行くお祭り騒ぎに便乗している形だ。
「ですわ。どうせ無理なら、最初から[ブラッディインストール]を強化しておこうかと思ったので」
「あー、なるほど……って、リーン?」
「何度か[吸血]と併用した[ブラッディインストール]の仕様確認と、[吸血]の重奏技巧後の[ブラッディインストール]での変化を確認したいので、手伝ってくれませんこと?」
「え、ここで!?」
逃げられないように両肩を掴まれて、悠姫は目のやりどころに困りつつ上擦った声で返す。
「部屋に戻ってからだと、アリサ達を起こしてしまうかもしれませんわ」
ログアウト組とは異なり、アリス達は旅館の雰囲気を楽しむために、そのまま睡眠ログアウトしている。
確かに起こしてしまう可能性はあるだけに、悠姫も反論しづらい。
「〜〜〜〜、仕方……ないね」
状況もあって、頭が働かず、悠姫は流されるままに反論を諦める。
「ふふ、わかればいいのですわ……!」
「ちょ、リーン!?」
実験に了承した瞬間、リーンが密着してきて、柔らかな感触が悠姫の身体に伝わる。
よく見るとリーンの頬も若干赤くなっている。恥ずかしいなら、やらなければいいのにと思うものの、耐えるのに精一杯でまともな言葉が出てこない。
「ア、アリスには良く引っ付かれているのに、今更緊張してますの?」
「アリスは妹みたいなものだし、それにリーン裸じゃん!」
「うるさいですわね」
「んっ……」
理不尽な、とは思うが、流れで[吸血]されて、悠姫は一瞬だけ痺れるような感覚に襲われ、声が漏れ出る。
「特に吸血だけではステに変化はありませんわね」
ステータスウインドウを確認しつつ、リーンが言う。
続けて[ブラッディインストール]を発動。
「や……リーン動かないで……!」
「ちょっと悠姫。あまり動かないでくださいまし」
正面から抱きつかれた形だとステータスウインドウが見づらかったのか、リーンはアリスがいつも膝の上に座ってくるような体勢に動いて、[ブラッディインストール]後のステータスを確認している。
「やっぱり[吸血]した相手のステータスが半分乗ってるみたいですわね。MATKを上げるだけならひより辺りを吸うのが良い気はしますわ。その分スキルが死にスキルに……いえ、むしろ砲台化もアリですわね。セリアから吸ったら[スペルリーディング]でスキル倍率が1.5倍に……でも30秒ので切れて弱体化が重なるのはデメリット過ぎではないかしら。それに単純にセリアから吸いたくありませんわ」
「……ッ! ……ッ!」
リーンは本気で考察しているようだが、悠姫はリーンのお尻の感触が太ももに伝わり気が気でない。
「あ、切れましたわ。……全ステータスマイナス100はやり過ぎではありませんこと? これで倒せてないと思うとゾッとしますわね。弱体効果は3分。これは[ブラッディインストール]がクールタイム4分なので、それに合わせて、ですわね。悠姫」
くるりとリーンが悠姫の方へと再び向き直り、続ける。
「出来るかどうかわかりませんが[吸血]の重奏技巧を練習しても良いかしら?」
「もぅ好きにして……」
悠姫はもう思考を放棄していた。
「では、いきますわよ」
言ってその後、何度もリーンに[吸血]されては回復薬を使い、練習の末にリーンは三重までの[吸血]を安定して発動できるようになった。
その対価に悠姫は身も心もぼろぼろになっていたが。
[吸血]に、麻痺に近い効果でもあるのではないだろうか、吸われるたびに段々と思考が鈍くなってゆき、いまやもはや悠姫はリーンにされるがままになっていた。
[吸血]のせいで、というよりは状況も相まって、と言った方が正確かもしれないが。
「三重で[吸血]した場合の[ブラッディインストール]は、効果は変わらず継続時間だけ1分30秒になり、ステータスダウン時間が伸びますのね。まあ、トドメ専用ですわね」
ステータスダウン時間が過ぎるまで悠姫を腰掛けにしているのもあって、逃げることも叶わず。
リーンによる検証が終わる頃には、悠姫は現実の悠火のように真っ白になっていたという。
「もうお嫁に行けない……」
翌日。ついに現状最強のレイドボスの一角、[レーヴァグランホエール]に挑戦する……と言っては烏滸がましい、[レーヴァグランホエール]に胸を借りに行く祭りの決行日。
悠姫は昨夜のことを思い出して憔悴しきっていた。
「情けないですわね悠姫。貰い手がいなかったらわたくしがもらって差し上げますわ。安心なさい」
「何でリーンはそんな男前なの」
「失礼ですわね。こんな立派な淑女に向かって」
他愛もないやりとりを悠姫とリーンがしていると、いつもと変わった雰囲気に、シアが訝しむようにひよりに声をかける。
「なんかユウヒ様とリーンさん、妙に仲良さそうじゃないですか?」
「……です。いつもより雰囲気が柔らかい気がします」
深い深い、整備された洞窟の中。
悠姫達が今進んでいるのは、[海底都市アクアポート]へと繋がる連絡通路の中腹だ。
この連絡通路は元々[第八の聖櫃(エクシード=マキアディス)]が人々の為に創ったとされている、機械仕掛けの通路だ。
[第八の聖櫃(エクシード=マキアディス)]が世界から去ったことにより、整備用の機械達や、防衛機構が暴走し、人々に牙を剥いている。
けれども元は整備用のだったり、防衛機構にしても侵入してきた周囲のモンスターを駆逐するのが目的なだけであって、そこまで強くはない。
つゆ払いはレイドギルドの面々に任せて、悠姫達は後方でゆっくりついていくだけだ。
「ねね、悠姫さんとリーンさん、昨日何かあったの?」
リコが野次馬根性全開で、怖いもの知らずに尋ねる。
「べ、別になにもないよ?」
「昨日は悠姫とちょっとした勝負をして、わたくしが勝ちましたの」
「あ、それって掲示板でお祭り騒ぎになってるアレだよね?」
「え……」
悠姫は嫌な予感がして、掲示板を表示させて見てみると、そこには神格化されたメアリーと、昨日の悠姫の痴態がss付きで流されており悠姫は神速でメアリーに耳打ちを送った。
『メアリー! 何でssがあるのさ!?』
ルール説明でも、周囲付近はssが禁止されると出ていただけあって安心していたのに、どこで入手したのか。
『ssはダメでも、投射スキルがあるの。[シャドウストーカー]の情報収集能力を舐めちゃダメなの』
『け、消してくれたりは』
『もう無駄なの。ssは高く売れてみんな持ってるの。何だったら今回のレイドの面々は大体持ってるの』
『な……っ』
顔を上げて見ると、明らかに何人かは目を逸らした。
その中にシアもいたのを、悠姫は見逃さなかった。
「……シーアー?」
「いえ、待ってくださいユウヒ様。ユウヒ様が最近構ってくれないのが悪いんですよ! だからわたしが、こんなモノに手を染めるハメに」
「いいから見せて」
「きゃっ♪」
可視化モードにしてもらい、シアが買ったという悠姫の写真を見ると、そこには実に煽情的な角度から撮られた下着姿の悠姫の写真が何枚も並んでおり悠姫は頭を抱えた。
「これいくらだったの」
「えーっと……大体5Mくらいでしたね」
目眩までしてきた。どこに写真に5Mもの大金をはたく馬鹿がいるのか。
実はシアだけでなくひよりもリーンもこっそり購入しているのだが、あえて申告などはしない。
「……ニンジャや久我は流石に買ってないよね?」
「誓って買ってないでござる」
「いやー俺はほら、な? 検閲的な?」
「このドスケベ共め! 変態変態!」
悠姫の罵倒にこっそりダメージを受けている人は多かったが、誰も自己申告なんてしない。むしろ一部にとってはご褒美だった。
ニンジャに関しては完全に巻き添えだった。
『因みに運営にも確認済みなの。チャンバラPVPの規約にも書いてあるの。参加した時点で欠橋悠姫は詰みなの』
最悪運営にと思ったが、先回りされていてどうしようもなかった。
「はぁ……」
ここまで緊張感のないレイドも初めてだろう。
人の噂も75日。回収する手立てなどがあるわけでもなし、そもそも発端は悠姫がメアリーを雑に扱い過ぎたからなのだから、因果応報である。
「もういいけどさ、そろそろ着くし」
昨日今日で精神的ダメージを負い過ぎだったが、悠姫は切り替えて装備の点検に入る。
勝率なんて無いに等しいが、かと言って手を抜く訳にはいかない。他の面々も、同じ気持ちだろう。
ピリッとした空気が行き渡る、そんな中で悠姫は指示を飛ばす。
「まずはわたしたち[AS]が初撃を防ぐから、その後はディーンの所が前衛受け持ち、そこからローテで!」
[レーヴァグランホエール]は、初手で[タイダルウェイブ]という広範囲水属性スキルを使ってくる。
通常ならば装備で耐える攻撃だが、現状の装備では足りなさすぎる。
故に、リーンの[ブラッディインストール]と悠姫でまず一撃防ぐ手筈となったのだ。
他の指示も出し終わり、俄かに士気が上がる。
「さぁ、行くよ!」
そう言って、先導して[レーヴァグランホエール]が封印されているマップへと足を踏み入れた、瞬間。
――悠姫とリーンは、[ルカルディア]から姿を消した。
落ちる落ちる――意識の――裏側へ
赤く、赤く染まった空間。異様に濃いマナが満ちた広いフロアで、唐突に放り出された悠姫は、咄嗟に剣を抜き放ち、警戒の体勢を取った。
崩落した天井から見える空もまた赤く、全てが血で描き殴られたかのように空間全てを侵食している。
心臓の鼓動の音が、やけにリアルに聞こえた。
「……なに、ここ」
掠れた声。吸い込んだ空気は、鉄の味がした。
どこかわからないが、明らかに今までと違いすぎる異質な空気に警戒度を上げる。
ざらざらとした空気が肌を撫でる不快感。
頬を伝って落ちてゆく汗が、赤い砂塵が舞う地面に落ちて、黒い染みを作る。
異常とも取れるほどに、リアル過ぎる感覚に、悠姫は息を呑む。
「何ですの……ここは」
背後からリーンの声が聞こえて、振り返った直後、悠姫はそこに黒い影を見た。
その黒い影は放つ、這い寄る死の気配に、咄嗟にリーンを押し倒すような形で飛びかかった。
「きゃっ!?」
「っ……!」
勢いよく押し倒したせいで、庇った腕が赤い砂塵の中に紛れた尖石に当たり、擦り傷を残す。
直後に離れた所で爆発が起こり、背筋が凍り、嫌な汗が流れる。
「え……」
滲み出る赤い、赤い、血。
傷口から感じる、じくじくとした痛み。
焼けた土と鉄が混じったような匂い。
うるさく響く、心臓の音。
「待って……!」
回復薬を、取り出そうと、システムウインドウを起動しようとするが、一切の反応がなかった。
背筋に、悪寒が走る。
本能が告げていた。
――これは、現実である、と。
「リーン立って! 早く!」
「な、あれは、何ですの」
リーンも混乱しているだろうが、悠姫の指示に従い、立ち上がり悠姫の視線の先を追う。
そこではゆらゆらと揺れる影が――悠姫達を見ていた。
「空ニ……揺蕩ウ…………ヒカリ……」
掠れた声が聞こえ、雷鳴が轟く。赤い赤い空を雷が焼き、血を吸った雷が空を縦横無尽に駆け抜ける。
「リーン、下がって!」
荒れ狂う雷の暴風の前に、悠姫達は後退るしかできない。
「[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]の影……!」
全身が総毛立ったかのような鋭い殺気。そこに見たのは女性の黒い影。[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]の影だった。
海底都市のその最奥、そう書かれた文言を、悠姫は勘違いしていた。
海底都市のその最奥と書かれているのだから、てっきり海底都市に存在するダンジョンのその奥だと思い、LGWのレイド戦闘を済ませなければ入れないと思っていたが、けれどもそれは違ったのだ。
VR化以前に読んだ海底都市の文献の内容が、記憶の扉を叩く。LGWの封印にまつわる書籍。そのレイドボスが封印されたのは、どこだった?
海底洞窟の、最深部ではない。
海底都市の最奥とは、[レーヴァグランホエール]が封印されていた場所を指していたのだ。
「――悠姫! 危ないですわ!」
「え――」
ほんのわずかな空白。思考に囚われていた悠姫を、今度はリーンが突き飛ばす。
その一瞬後に、黒い稲妻が悠姫の居た場所を切り裂いて、抉れた床に悠姫はぞっと背筋が凍る思いをする。
「何でリーンだけ!?」
「わからないけれども、確認は後ですわ!」
パーティに所属しているメンバーが転送されるのならばリーンだけではなく他のみんなも居るはずだろうが、けれども他の面々の姿はこれっぽっちも見当たらない。
けれども――リーンが言う通り考えるのは後だ。
向けた視線の先には先ほどの女性の形をした影がぽっかりと姿を浮かび上がらせている。
影は視界がおかしくなったのかと思うほどに質量を持ち、光を吸い込んでいるように錯覚する。
まるで世界そのものを呪うかのように、世界からはじかれながらも存在しているかのような圧倒的に不自然な存在感。
不自然と言えば、その場所自体が全てにおいて違和感の塊のようなものだった。
ログインしたCAOの世界がすごくリアルで緻密な造りをされていると評したが、けれどもそんなものとは全く比べ物にならないほど、重力すらも感じられるほどに精巧故の違和感。
その不自然の正体を、悠姫は知っていた。
それはこのルカルディアでは絶対に有り得ない。現実感という感覚だ。
リーンを庇った時に負った傷は、とてもじゃないがVR世界では有り得ないリアルさで、そもそも――視界自体がCAOのそれと違うことにようやく気がつく。
HPバーもMPバーも、パーティのHP表示も存在していない。
「……[ルーンエンチャント]」
試しにスキルが発動できるか試して見ると、悠姫の剣が、いつもの白い光ではなく、黄金の光に包まれる。
脳裏にふと、[第一の聖櫃]に行った時にイヴが言っていた、この世界はマナが薄いという言葉が浮かぶ。
「リーン! 長引かせるとマズイ。短期決戦を狙うよ!」
[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]の影がどのくらいの耐久度を持っているのか、そもそも攻撃が通るのかもわからないが、回復手段がない現状、勝負を長引かせる訳にはいかない。
「わかりましたわ! [ブラッディインストール]! ――[ルーンエンチャント]!」
[ブラッディインストール]の真紅のオーラと共に、[聖櫃の姫騎士]のスキルを借りたリーンの剣にも黄金の光が宿る。
「魔法は斬れるから、一気に攻めるよ! リーン!」
「無茶をおっしゃいますわね! 悠姫!」
[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]は天候を創り出した神だ。先ほどの雷といい、魔法の規模としては桁外れな範囲と威力が予想される反面、相性的には魔法が斬れる悠姫とリーンの方がやや有利といったところか。
「踊ル…………嵐ノ化身…………」
呟きでいくつもの竜巻が生まれ、赤い砂塵が巻き上げられて、物理的にも中々凶悪な見た目だ。
「消しますわ! 悠姫! [スカーレットスクラッチ]! [シュトゥルムスピア]!」
赤い血の刃と槍が、前方の竜巻がを切り裂き穿ち、霧散させる。
「はあああ! [トライエッジ]! [クレセントエンド]!」
出来た隙に悠姫が、スキルを叩き込む。
「…………っ!」
[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]の影は斬撃によって僅かに身体の輪郭を歪ませるが、手応えの無さに、悠姫は眉根を寄せて険しい顔をする。
「[ブラッディスピア]!」
真紅の槍が腹部のど真ん中に命中するが、すぐに修復されて元通りになってしまう。
「これ、もしかしてマズイ……?」
「だとしても、攻撃し続けるしかありませんわ!」
雷をかわし、暴風を、斬り裂き、氷刃を弾き、何度も斬撃を浴びせるが、ダメージを与えられているように見えない。
「[ルナグロウ]!」
高倍率スキルである[ルナグロウ]ですら、影の輪郭を復活させるまでの遅延にしかならない程度の結果しか残せない。
その間にも体力は疲弊し、細かな傷は増えてゆく。
重奏技巧の反動で、節々が痛く、焦りでさらに精神的な疲労も蓄積されてゆく。
そして、均衡が崩れるのは、一瞬だった。
「[ブラッディインストール]が……き、切れましたわ……」
絶望的な小さな声と共に、リーンの[ブラッディインストール]が切れて、ステータスにマイナス補正が大量に追加され、動きががくっと悪くなる。
「雹ヨ…………狂エ…………」
風に乗り荒れ狂う氷の礫が、リーンを標的に定め、放たれる。
「ッ! させない!」
左上から襲いかかる礫は逆袈裟斬りで叩き割り、返す刃で続け様に重なった礫を斬り裂く。絶え間なく続く氷の礫を、一つ残さず斬り伏せるが、割れた破片が容赦なく悠姫の肌を切り裂いてゆき、血飛沫が舞う。
痛い。痛い! 痛い!!
苦痛に顔を歪めるが、悠姫は一歩も譲る気はない。白ずんでゆく視界の中で、ただ痛みと打ち落とすべき氷の礫だけがやけにくっきりと見える。
「ゆ、悠姫! わたくしのことはいいですわ! わたくしを庇っていると、あなたまで――」
「――リーンは黙ってて!」
負けてもただリスポーン地点に戻るだけかもしれないが、この痛みが、状況が、楽観視を許さない。
極限の集中した世界の中で、音が消え去り、ただ無心に剣を振るう。最適化された剣戟が、自らの負傷さえも忘れさせて、乱れ咲く軌跡を描く。
そんな極限の世界で、ふと、氷の礫の嵐が止んだ。
「――――ッ!」
集中が途切れ、白ずんでいた世界に色が戻り、世界は再び赤に染め上げられる。
「穿ツ…………雷…………」
そして絶望が閃く。
赤雷が電波し、[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]の影がその真っ黒な手を振り翳し、嘲笑うように相貌を歪めた。
「っこの、[クリムゾン……ソード]!」
勝利を確信した笑みは、しかし放たれた紅色の剣によって、再び歪められた。
速度もそこまででもない。威力も出ていない、ただの悪あがきでしかない。
――けれどもほんの、ほんの僅かにだが、[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]の影の攻撃がずれた。
「――悠姫!」
「ナイスリィイイン! [ルーンエンチャント]!」
最後の好機。逸れた赤雷が頬を焼く。踏み込みは刹那。音を超えてその魂を散らす。痛みさえも忘れ。祈りを置き去りに。黄金色の武器がさらに強い輝きを放ち、そして、
「これで終わって……! [モータルリコレクション]!」
音を凌駕する理外の斬撃が、黄金の軌跡を残して、[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]の影を真っ二つに斬り裂き、影は、その存在を霧散させるように破裂して、赤い空へと消えていった。
「…………やったの?」
「なんとか。なりましたの……?」
ふらふらと立ち上がったリーンが、ぼろぼろになった悠姫へと歩み寄る。
互いに傷だらけで髪も乱れて満身創痍だが、悠姫に守られていたリーンの方が傷は圧倒的に少ない。
手を差し伸べられて、健闘を讃えあう流れかと思ったら、リーンはその手を横に振って、
「か、欠橋悠姫! さっきは、あなたなんて無茶をしていますの!? 動けないわたくしを庇うなんて、非効率的過ぎますわ!」
「……えー。助けてあげたのにその言い方はないんじゃない? 呼び方も戻ってるし……」
キンキンと響く声を耳元で出されて、悠姫は苦笑混じりに反論する。
「それに、短期決戦を支持したのはわたしだし、結果的に弱体化した状態でもリーンに助けられたしね。ありがとう、リーン」
「――――ッ! もう!」
赤い世界の中でもわかるほどにリーンは赤面して、言葉にならない感情を露わにして地面を踏み鳴らす。
「けど……それにしても」
ようやく少しだけ落ち着いてきたら、忘れていた痛みがじくじくと蘇ってきたが、悠姫はそれを気力でカバーして、周囲へと意識を向ける。
赤く染まるほどに、不快なマナが濃い空間。崩れ落ちた天蓋から見える空は、星すら見えずに赤く歪んでいる。確かにここは[レーヴァグランホエール]がいた場所なのだろう。マップの名残だけは、感じられる。
「……悠姫、ちょっと見なさい」
言われて悠姫はリーンに示されるがままの方向を見る。
そこには黒い表紙に、[第十二の聖櫃(エンカード=レグルス)]の箱舟が描かれた書物が残されており、悠姫はふらつきながらもそれを手に取った、その瞬間。
――ランダムクエスト『深海に眠る都市、その最奥に現れるトリアステル=ルイン(第三の聖櫃)の影を討伐せよ』を完了しました。
というあまりにも場違いなクエスト完了の音声が脳裏に浮かび、黒い書が勝手に捲れ、文字を表示させた。
――そこに書かれていたのは、[第十二の聖櫃、エンカード=レグルスの遺言]だった。
『願わくばこのメッセージを聞くのが我らの子でありますように。――私は人々に幸せで在って欲しかった。永遠に愛すると誓った世界、そこに育まれた人々の感情。愛情。子たちと共に手を取り合い、ずっと永遠に世界を見守ってゆくと、同胞たちとそう誓った。――けれども、それは叶わぬ願いだった。同胞の誰もがこの世界を愛した。けれどもそれは奪い去られた。奪い去られたのだ……。私達の美しきこの世界、ルカルディアは略奪された。もうすぐ私は十一の監獄に閉じ込められて世界を望むことが出来なくなってしまうだろう。だから私は彼らに気が付かれないように、このメッセージを遺す。
――そして、試練を課す。
私たちからルカルディアを奪った『彼ら』を、そして裏切り者の彼女を――私たちは決して許さない。絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に、許しはしない』
赤に染まった文字は、彼がどれほどの呪詛を込めて綴った文字なのだろうか。
機械的な文書ではなく、それはルカルディアの各所に存在する文献のように、誰かが綴ったという想いが込められた言葉だった。
世界の敵に対する、燃えるような憎しみ。
底冷えするような怨嗟の言葉。
――それは彼らからルカルディアを奪った者に対する、呪っても呪い足りないほどの呪詛の言葉だった。