三話[広き世界と新たな出会い]
セインフォートの南を守護する防壁に備え付けられた外門をくぐると、そこには緑が生い茂る平原が遥か彼方まで広がっていた。
吹き抜ける風が、自然の空気をまとって腕に絡みつき、首へと抜け、髪をなびかせる。
踏み鳴らされた都市間を行きかう為の往路が南へと伸び、それ以外の場所はまばらに背の低い草が生え、ちらほらと木々や岩石が突出している。
いくらVR技術が日夜進歩しているとはいえ、PC時代のグラフィックからは考えられないくらいにリアルなオブジェクト群。
そこにリアルな頬を撫ぜる風や匂いを感じ、草木の囀りを聞いてしまえば、何もしていなくても[ルカルディア]という世界を肌で感じさせられるのだから、これがVR世界だということを忘れてしまいそうになるのも仕方のない。
都市の創りだけでも大したものだと思ったが、フィールドも負けず劣らずの創り込み様に、悠姫は言葉では言い表せない感動を覚える。
「すごい……ですね」
「……うん」
後ろから聞こえてくるシアの声も、直後に頷いた悠姫の声同様に震えていた。
シアもまた、悠姫と同じくCAOがVR化するのを待ち望んでいたプレイヤーの一人なのだ。
「あはは、なんだかおのぼりさんみたいだね、わたしたち」
「そ、そうですね」
そんな初心者のような感想しか言えないが、VR化以前からCAOをプレイしていたプレイヤーだったとしても、いや、むしろ以前からやっていたプレイヤーだからこそ、思わず息を止めて見入ってしまう幻想的な風景が視界いっぱいに広がっていた。
「運営、いい仕事してるなぁ」
「開発日記は悲鳴だらけでしたけどね」
「あー、それわたしも見た」
悠姫も昨日見たばかりのLOE(運営)の開発日記と称された公式ブログを思い出して笑い合う。
そりゃあ、作り込めば作り込むほど、運営の作業量は笑い話で済まなくなっていくのは当たり前のことだ。
一日二日の徹夜は当然。ノルマを決めた傍からハードルは軒並みに鰻登り滝登り。どれだけ頑張っても人の力では到底到達できるわけもなく響き渡るのはうめき声のみ。
果たしてこれは何人に分身すれば仕事が終わるんだろうという作業量を当たり前のように押し付けられた社員が、何人病院送りになったことか。
しかしそれは悠姫や他のプレイヤーにはあずかり知らぬところでのことで、そんなデスマーチは所詮、対岸の火事だ。
プレイヤーに飛び火しないように細心の配慮が成されているところはさすがLOEと言って称える所ではあるが、それもわかる人は所詮身内(運営)だけである。
「じゃあま、システムに穴が無いかデバッグでもしましょうかー」
「実装当初のオンラインゲームって、割と隠し技とかありますからね」
「動きをルーチン化するのもどうかと思うけど、どこまで出来るかは知っておきたいしね」
「ですねー」
スキルの仕様や装備の持ち替えによる付随効果、モーション、ディレイのキャンセル等々。
VR化前にあった動きが、VRになったことによってどう変化したか。
それを知り、また解析することで今後再び様々な定石が生み出されることになるのだ。
感動から一転、景色が霞むような会話をしながら、悠姫は気を取り直してシステムウインドウを呼び出して装備や手持ちのアイテム等を確認してゆく。
「あ、そういえばシア。ナイフ頂戴」
「はい? ナイフですか? 頂戴というのは……お腹にですか?」
「違う。何で刺す前提なの……怖いから早くそれしまって」
どこからともなく取り出して虚ろな目で見るのはやめてほしい。
「そうじゃなくて、ナイフはMATKついてないからシアは武器無くても良いよね?」
トレードの手順も確認しておきたかったし。と言いながらシステムウインドウのトレードを選択し、表示された周囲のプレイヤーの名前、今回はシアを選択する。
「まあ、要らないと言えば要らないですけど、何に使うんですか?」
聞きながらも装備を解除しているのだろう。
相手のシステムウインドウは見えないので空中をタッチして操作するシアの姿は少し間抜けな感じがして笑ってしまうが、シアから見た悠姫もまるっきり同じように見えていて、先程システムウインドウを操作していた時もシアが笑っていたことに、悠姫は気が付いていなかった。
「一応、保険みたいな感じかな」
[アイテム欄]にナイフが増えているのを確認して、悠姫は少し思いついたことを試そうとナイフを取り出してオブジェクト化してみる。
「見て見てシア、二刀流!」
「ユウヒ様、それって装備出来てるんですか?」
「ん。出来てないみたいだね。感覚は変わらないけど、ステータス的にはただ持ってるだけって感じ」
CAOでは専用のパッシブスキルを持っていない限りは、両手に武器を装備することは出来ない。
[二刀流]自体は[アサシン]のスキルツリーの中盤にあるので、比較的取りやすく、二刀流というわかりやすくも中二心を疼かせるスキルに、多くのプレイヤーが[二刀流]を取った後に他の[メインクラス]へと職業を変え、剣や刀の二刀流がにわかに流行していた時期がわずかだがあった。
……が、その流行も効率の前には儚くも消え去ってしまったのだが。
二刀流は短刀以外ではASPDの低下が著しく、攻撃速度がガタ落ちな上に、剣士系で前衛をする場合には盾が装備出来ないので防御面に不安が多く、ほとんどネタ扱いになっていた。
正直、高レベルダンジョンに行くときなどに二刀流のプレイヤーが居たら、まず間違いなく地雷の烙印を押されてしまうレベルだったくらいだ。
「それって扱いはどうなってるんでしょうね。そのまま攻撃出来そうですか?」
「どうかな、ちょっと試してみよっか」
そのまま左手にナイフを持ったまま、悠姫は索敵を開始する。
敵を探しながら草原を道なりに歩いてゆくと、ほどなくしてすぐに全長三十センチほどはありそうな、下腹部に臙脂色のラインが入った蜂を視界に捉えた悠姫は、そのあまりの禍々しさに思わず顔を顰めた。
「うぁ、普通にグロイ……」
わきわきと六本の足を動かしながら、ブブブブブ……と特徴的な羽音をたてて空を飛ぶ姿は、もうちょっとデフォルメしてもよかったんじゃないか、と思わざるを得ない無駄なリアリティを発揮していて嫌悪感が半端なかった。
誰だ。南に狩りに行こうなんて言ったヤツは。
「や、ユウヒ様ですけど……」
「だよねー。わたし、口に出てた?」
「はい。ばっちり出てました」
「誰だ! 南に狩りに行こうなんて言ったヤツ!」
「言い直しました!?」
「ま、そのうちきっと慣れるよね。……慣れればいいなぁ」
じっと見て見たら少しはかわいく見えたり……する訳がなかった。
どこからどう見ても蜂を巨大にした、現実に存在したら卒倒モノの化け物でしかなかった。
さすがはモンスターである。
「ま、とりあえずやってみよっか」
このままぐだぐだやっていても仕方ないので、悠姫は思い切って、左手に持ったナイフを構え直し、モノは試しと[エンジビー]に斬りかかってみる。
「やっ!」
ナイフの刃が閃き、そのまま[エンジビー]に攻撃が命中する……と思われた瞬間、左手に持っていたナイフが何か見えざる壁に弾かれて悠姫の手から落ちた。
「あ、やばっ……っ」
咄嗟に悠姫は逆の手に持っているナイフを前に突きだして身構えるが、当の[エンジビー]は素知らぬ顔で、悠姫の目の前をブーン……と羽音を立てながら通り過ぎていた。
「こ、こわ……」
「……ふぅ、これはちょっと焦ったね。……でもやっぱりオブジェクト化しても、装備してないと武器として使えないみたいだね」
ダメージを与えられるならばオブジェクト化した武器を投擲してダメージを与えられるかもと思ったのだが、そう簡単にはいかないようだ。
「やっぱりそうなんですね。確かHSでもダメージが変わってくるみたいですし、それも考えての仕様なんでしょうか」
「……んん?」
ふと聞きなれない単語がシアの口から飛び出し、悠姫は落ちたナイフを拾ってインベントリに仕舞いながらシアに尋ねる。
「シアシア、HSってなに?」
「あ、そういえばユウヒ様ってチュートリアル受けてないんでしたね」
「うん。で、HSってなに?」
「HSは[hit speed]の略ですよ。ほら。VR化前だとAGIを上げるとASPDが上がって、1回あたりのモーション速度が変化して秒間攻撃回数が増えたじゃないですか? それがVR化したCAOだとそのASPDに替わってHSが出来て、HSが早いほど与えるダメージも増えるようになったみたいです」
「そういうことか」
「チュートリアルで詳しく聞いた時に出してくれる計算式で言うなら、与ダメージの計算式の基本は{[STR値(STR補正、ボーナス含む)+武器ATK(製錬値含む)]×[HSm/s×0.02]}-敵DEF=与ダメージ、という計算式みたいですよ。スキルを使った場合はそのATK部分やHS部分にスキル倍率が乗ることになるみたいです」
「さすがシア。研究に余念がないね」
「計算式覚えてないとヘイト管理も面倒ですしね」
つまりはSTR値や武器のATKに限らず、HSが低ければほとんどダメージが出ることが無く、逆にHSが高ければSTR値や武器のATKが低めでも高ダメージを見込めるということだろう。
「けどやっぱり、かなり変わってるんだね」
「ちなみに戦闘もオートルーチンによる戦闘ではなく、自分で身体を動かして攻撃したり回避したりしないといけないみたいなので……ユウヒ様って運動とか得意ですか?」
「んー、わたしは身体動かすのは割と得意な方だけど……シアは?」
「わたしは、正直かなり自信ないです……」
悠姫が南平原を狩場に選んだ時にシアが乗り気じゃなかったのは、まさしくそれが原因だったのだ。
「あれ? でも、だったら……」
ふと思い立って、悠姫は先ほどから周囲をブンブン飛び回っている[エンジビー]に向かって無造作にナイフを一閃させる。今度はちゃんとした装備している武器だったので、悠姫の一撃を食らいヒットポイントバーがちょこっと削れた。
「あ、危ないですよっ! ユウヒ様っ!」
シアの叫び声を後目に、ダメージを受けた[エンジビー]は悠姫のことを敵だと認識して襲い掛かってくる。
「おっと。とと?」
臙脂模様の下腹部を振り上げては繰り出される尾の針を、右へ、左へ、ステップで、時にはスウェーだけでかわしながら、悠姫はその動きをつぶさに観察する。
「あー? んー? これって……」
攻撃してくる時は必ず尾の針を振りかぶる動作があるので初動が把握しやすいし、唯一のスキルである[ポイズンニードル]を使ってくる時も同じく、モーションの速度は少し早くなるが予備動作は同じの上に、尾の針が紫の色を帯びるのでかわすのは特に問題なく。
「えぇ!? ユウヒ様、なんでかわせるんですか!?」
「そんな特別な動きをしてるわけじゃないし、さすがにこれくらいは普通でしょ」
悠姫が横に動くと[エンジビー]も滑らかな動きで向きを修正してくるものの、その動きはVR化前の[エンジビー]とほとんど変わらず、こういうところはゲームっぽいなぁ、と悠姫は一人で納得する。
「シアもやってみる?」
「ユ、ユウヒ様、危ないですよ!?」
HPはまだまだ残っているというのに[エンジビー]に背を向けて言う悠姫を見て、シアは慌て声をかける。
ダメージを食らったところで即死するわけでもないが、見た目的な問題というのはかなり大きなウエイトを占めている。女性の手首の太さ程ある針は、刺されたらかなり痛そうである。
「あはー、大丈夫大丈夫」
「何で後ろ向いてかわせてるんですか!?」
「さっきから観察して計ってるけど、[エンジビー]の攻撃間隔ってほとんど3秒刻みだし、距離を取って移動時間を入れなければ、カウントしとけば――ほらっ?」
「ぇぇ……」
言いながら背を向けたまま横に回避する悠姫に、シアは情けない声をあげる。
ネタばらしをしてしまうと、実のところ、シアが最初に受けたチュートリアルでも似たような戦闘訓練があったのだ。
相手が[練習用ウルフ]で[エンジビー]とは見た目が違ったとはいえ、シアは[練習用ウルフ]の攻撃を一度もかわすことが出来ず、「あ、これ前衛職とか無理だ」と思わずにいられなかったのだ。
だからこうしていとも簡単にかわし続ける悠姫を見て、シアは結構なショックを受ける。
「まあ、とりあえず倒しちゃおっか」
こともな気にそう言って悠姫はナイフを握りなおすと、瞬く間の連撃で[エンジビー]を倒してしまう。
「ユウヒ様って、結構規格外ですね……」
「これくらい普通じゃないかな、いや本当に」
悠姫自身、運動をしている人と比べれば、それほど動きに自信があるということはない。
毎日のストレッチやエクササイズで身体のラインを意識してはいるとはいえ、筋肉が付きすぎても困ると思って筋トレの類は自重しているくらいだ。
規格外と言うならば、これは何かしらの部活動でもしていたり、武道でもやっている人とかの方がかなり有利なのではないだろうかと思える。
「廃人って、自分が出来ることを普通と言い張りますよね……あはは、うふふ……」
「どうしたのシア。いきなり」
シアのチュートリアルでの醜態など知る由もない悠姫は、突如笑い出したシアからすすすと距離を開ける。
「ユウヒ様、何で逃げるんですか? ……はぁ。まあ、ユウヒ様がかっこいいのは、わたし的にはすごくアリなので問題はないですけど」
「ちょ、ちょっとシア、くっついてこないで!」
距離を開けた分だけ寄って来て腕を絡めようとしてくるのだから、見た目だけならば可愛い聖職者なので、いきなりひっついてこられるとどきっとしてしまう。
「いいじゃないですか、フレンド登録もして、このくらいの接触だとハラスメント警告も出ないんですし、普通のスキンシップです! ビバ合法!」
「フレンドリスト解除解除と……」
「そんな!?」
どきっとしたところで、それも一瞬だった。
ある意味安心のシアクオリティだ。
「冗談冗談。さてさて、レベル上げがんばろっかー」
この調子ならば、すぐに20くらいまで上げれるかも……なんてにやにやしているのが悪かったのか、「ユウヒ様、悪い顏しすぎです」とシアにたしなめられて若干落ち込みながらも悠姫は狩りを継続する。
「ねー、シアシア。これ何匹まで抱えられるか試していい?」
見つける傍から[エンジビー]へと斬りかかり、さくさく倒しながら悠姫はシアに尋ねる。
「うーん……先にヒール取ってからなら良いですよ」
「ん、りょうかーい」
言いながらリンクで向かってくる[エンジビー]に対し、十分に捻転を効かせた勢いからのスナップを効かせた斬撃でHPバーを実に三分の二、削り取り、残りの三分の一も返す刃できちんと削り切る。
「すごいですユウヒ様、さすがですっ」
後ろから応援の声を飛ばすシアは、今のところついてきて経験値を吸うだけの応援係りだ。
回復職というのは、回復スキルや支援スキルを取るまでは寄生するのが一番早い。
というよりソロで上げるのはかなりの苦行なタイトルの方が圧倒的に多いので、最初は何もできずにレベルを上げてもらうのは回復職の常と言って良い。
「ふーむ」
先ほどから少しずつ斬撃の速度を変えてダメージの幅を確認していた悠姫は唸る。
悠姫のSTRが今でちょうど10。武器ATKが60だ。
ログウインドウに表示されたダメージの数値と[エンジビー]のHPバーの減り様から考えても[エンジビー]のHPはVR化前と同じく100程度だ。
STRは10毎にその数値分の値がボーナスとしてATKに加算されるため、計算式では{[10+10+60]×[HSm/s×0.02]}-[エンジビー]のDEF(5)ということになる。
ということは三分の二を削った時のHSで大体45m/s。三分の一ならば25m/s程度だろうか? イマイチ早いのか遅いのか分かり辛いので、後で調べてみようと心のメモに追加しながら悠姫は近くにリポップした[エンジビー]を二撃の元に葬り去る。
「あ、あがった」
「レベルがあがりましたね!」
倒した数が十数匹目に到達したところで、ライトエフェクトと共に現れた青い[level up!]の文字と共に、ベースレベルとジョブレベルが一つ上昇した。
悠姫からはシアのレベルアップエフェクトは見えなかったが、同じくレベルが上がったシアがうれしそうな声を上げながら、さっそくシステムウインドウを呼び出して何やら操作をしていた。
「これでヒールが取れるね」
「はい。……これでもう役立たずなんて、言わせないです……うふふ……」
どこかのトラウマスイッチが入ったのか、遠い目をするシアに悠姫は苦笑いで答える。
「大丈夫、シアはやればできる子だから」
「あれ、それって褒められてるんですか?」
「それはそうとシアせんせー、ステータスって詳しくはどうなってるの?」
「ごまかしましたね……ってせんせい……っ」
ステータス画面を開きながらシアにそう問いかけると、シアは悠姫の言葉の一部を反芻して目を見開いた。
「どうしたの。シア」
なんとなく次の言葉はわかっていたが、悠姫はあえてそのまま問いかける。
「……ユウヒ様、シア先生と良いことしましょうか」
「それはそうと、ステータスって詳しくはどうなってるの?」
「編集点を入れられました!?」
圧力を笑みにして繰り返す悠姫に、シアは冗談を控え、こほんと咳払いを一つ入れ、気を取り直し解説する。
「ええと、ステータスはですね、種類自体はSTR、AGI、DEX、INT、MAG、VIT、LUKの7種類で同じですけど、強化されるところが若干変わってたりするみたいですね」
「例えばさっきのAGIでHSが上がるとかだよね」
「ですです。STRでもHSは上がりますし、INTで知覚速度なども上がったりもするみたいですね」
「へぇ……」
知覚速度が上がるということは、つまり後々出てくるモンスターはそれに対応したHSを持ったものが増えてくるのだろうか。
馬鹿な、見えなかった……だと……っ!? とか言う日が来るかどうかはともかくとして。
「[エンジビー]の攻撃くらいなら、今でも余裕で見切れてるけど、これ、もしレベル20の[ハウンドドッグ]とかだったら動きに目が追いつかなかったりするのかな」
――なんて言ったのが、いけなかった。
フラグというのは往々にして回収されるものである。
「かもしれないですね。他にもステータスは――って! ユ、ユウヒ様あれっ!」
シアの慌てた声に、示す方向を悠姫が見ると、そこには[エンジビー]とは比べ物にならない速度で悠姫たちの方へと駆けてくる、傷だらけの黒い獣の姿があった。
「……待って」
冷静に静止の言葉を告げたが、もちろん黒い獣は止まることはなく。
狼のような外見に黒い毛並み。そこかしこに傷跡が刻まれた身体。首には尖った針がいくつもついた首輪がはめられており、まるで地獄から脱獄してきたような凶悪な赤い瞳がぎらりとこちらを睨みつけてきている。
「……これは酷い」
さすがにその見た目は少しやりすぎではないかと、悠姫は本気で思った。
確かに[ハウンドドッグ]は[初心者キラー]と呼ばれていたが、あんなものに噛み殺されたらトラウマを植え付けられて街から出たくなくなる者が続出するのではないだろうかという、凶悪過ぎる見た目だ。
「それにっ、はやっ!?」
「グルルルウウウウァウッ!」
ドン引きしているうちに目の前までやってきた[ハウンドドッグ]に対し、悠姫はナイフを構えて応戦するが、最初に防御に回ってしまったのもあって、一撃、二撃と交錯するように襲い掛かってくる[ハウンドドッグ]に、完全に攻撃のタイミングを失う。
「くっ……」
こうなればと、一旦見切る為に回避に徹するものの、完全にかわしきることができなかった悠姫のHPバーががりがりと削れてゆく。
「かすっただけでこのダメージとか、これ、どういう……っ」
さっきの[エンジビー]の時は攻撃のタイミングが一定の間隔でわかりやすかったというのに、[ハウンドドッグ]の攻撃にはこれといった一貫性が見られない。
爪によるひっかきや、噛み付き。突進しての体当たりなど……仮に、豊富なバリエーションから完全にランダムに攻撃が選択されているとなると手に負えない。
そうでなくても[ハウンドドッグ]の動きは、[エンジビー]とは比べ物にならないくらい速く、何とかギリギリ目はついていっているものの、余裕なんてものは一切ない。
「ユウヒ様っ! ヒールを……」
「待ってシア! 今ヒールしたら跳ねる(・・・)!」
最初に悠姫がターゲットにされたのは幸いだったが、悠姫はまだ一度も[ハウンドドッグ]にダメージを与えていない。
この状態でシアが[ヒール]を使って悠姫を回復すれば、[ハウンドドッグ]は回復魔法を使えるシアの方が脅威だと感じ取り、悠姫を無視してシアに襲い掛かるだろう。
「回避に専念しようとしても、これだとパターンを試すHPもないし……仕方ないっ!」
言って悠姫は襲い来る[ハウンドドッグ]に、相打ち覚悟で渾身の速度をもって斬り付ける。
「ギャンッ!」
タイミングがうまいこと重なったのか、それとも急所にあたったのか、はたまた運が良かったのか、赤いエフェクトが弾け、ハウンドドッグのHPバーが15%ほど削れる。恐らくはクリティカルだろう。瞬間だけ流し見たログでは160ものダメージが与えられていた。
「シア、ヒール!」
とは言ってもそれで喜ぶことなどできない。
与えられたダメージは15%程度で、[ハウンドドッグ]のHPはまだまだ残っている。
「はいっ《――創生の神よ、祈りを!》[ヒール]!」
短い詠唱と共にシアが回復魔法を使う。
確かスキルは音声認識で発動することが出来るらしいけれど、あれって詠唱も要るのかな……などと場違いなことを考えながら、悠姫は7割近くまで回復したHPを確認して[ハウンドドッグ]に向き直る。
「初動を見切ればかわせるか試してみたいけど、今回は余裕がないから……倒させてもらう!」
言って悠姫はナイフを構え、突進してくる[ハウンドドッグ]に狙いを定める。
極度の集中か、スキルのプレモーションに入ったからか、[ハウンドドッグ]の動きが鮮明に理解出来る。
重心がわずかに左の軸足にかかり、[ハウンドドッグ]が強烈な右足の爪を閃かせる、そのわずかな間隙を悠姫は見逃さない。
「――[死すべき運命の解放]!」
引き継いだ[メインクラス]、[聖櫃の姫騎士]によって最初から覚えている二つの内の一つのスキルを発動させた刹那、手に持つナイフがその命を散らそうと(・・・・・・・)最期の輝きを放ち始める。
「やぁあああああ!」
システムのアシストがあるのか身体が羽のように軽く感じられ、光を帯びた高速の一閃と共に、悠姫は[ハウンドドッグ]の隣をすり抜ける。
その一瞬の動きだけならば、明らかにレベル2のプレイヤーの動きではなかっただろう。
コンマ数秒の間を置いて、右手に持っていたナイフが『パリンッ!』と砕け、共に儚げなエフェクトの光を残して消えてゆく。
それにさらに少し遅れて、[ハウンドドッグ]のHPバーが全損し、死亡のエフェクトを残して消え、後には未鑑定のアクセサリーだけが残された。
「はー……。これは、ちょっと油断し過ぎてたかも。危なかった……」
「ユ、ユウヒ様、今のってもしかして」
VR化前にシアにも何度か見せたことがあるので気が付いたのだろう。
「うん。[聖櫃の姫騎士]の固有スキルだね」
[ハウンドドッグ]を一撃で倒したスキル、[死すべき運命の解放]は、悠姫の[メインクラス]である[聖櫃の姫騎士]が最初から覚えている固有スキルの一つで、効果は装備している武器の破壊を代償に敵に固定倍率のダメージをDEF無視で叩き込むというもの。
「あ、なるほど。だから最初にナイフを渡したんですね」
「そういうこと。VR化前と同じだったら南平原の[ハウンドドッグ]は一度倒すと1時間はリポップしないし、1時間あればそこそこレベルも上がるでしょ」
インベントリにあるシアから受け取ったナイフを装備しなおし、悠姫は感触を確かめながらログウインドウをちらりと見やる。
[ハウンドドッグ]を倒して得られた経験値は[エンジビー]の20倍以上あるが、レベルアップ直後だったのもあって、ぎりぎりレベルアップしなかった。
相変わらずレベルのわりに不味い経験値だなぁ。と思いながら悠姫は与ダメも確認してスキル倍率がVR化前と変わっていないことに頷きながら、続けてスキル欄を見て苦笑する。
「……これでクールタイムが24時間じゃなかったらもっといいんだけどねぇ」
CAOでは一部の高倍率スキルにはクールタイムが設定されている。
スキル使用時のディレイや硬直とは別に、スキル自体に再使用時間が設定されていて、悠姫の[死すべき運命の解放]も恐らく全スキルでも最長であろう24時間という長大なクールタイムが設定されていた。
「でも確かそれって倍率は[補正込STR値×武器ATK]ですよね? 十分すぎるほど強いと思いますけど……」
「そうだけど、24時間もクールタイムがあると使うタイミングがね……」
スキルの威力だけで見ればSTR極のステータスにしてある程度の武器を持てば、弱いボスくらいならば1確で倒せてしまうほどの威力である。
しかし[死すべき運命の解放]は必中スキルではないので、STR極のステータスにしたらまずボスには当たらないし、レイドボスなどになってくるとHPが100M以上あることがざらなので、どちらにせよ焼け石に水だということでVR化前ではほとんど使われることの無かったスキルだ。
「そういえばこれどうしよっか。ハウンドドッグのドロップってことは、たぶん[猟犬の首輪]だよね」
ひょい、と地面にドロップしっぱなしになっていた未鑑定のアクセサリーを拾って、オブジェクト化しながら一応シアに確認を取る。
「[猟犬の首輪]って首に着けるベルトっぽいあれですよね?」
「一応STR+1が入るけど、わたしのこの装備で着けると色々アウトな気がするんだよね」
[木綿の服]に、何の変哲もない[靴]だけを装備している悠姫の見た目に[猟犬の首輪]がプラスされてしまったらそれはもう脱走してきた奴隷にしか見えない。
「じゃあ、後で売っちゃいましょうか? 少しくらいは清算の足しになるでしょうし。……その前にユウヒ様、それ、一度だけ着けてみる気はないですか?」
「さて、狩りを続けよっかー」
「酷いです!?」
SSを撮る気満々だったのは目に見えていたので、悠姫は適当に流して言葉を続ける。
「そのうち南平原にも人が増えてきそうだし、人が少ない今のうちにさくさく上げちゃおう」
まだそれほど見当たらないが、それでも南平原に来てから数人程度のプレイヤーの姿は確認出来ている。
「むー……そうですね」
提案を流されたことにシアは不満そうだったが、けれどもレベル上げの方針には文句はないようで。
その後、一時間程狩りを続けた結果、悠姫とシアのレベルは共に5まで上昇した。
途中[ジュエルスライム]も3匹ほど倒し、金銭的にもそこそこに、二人はセインフォートへと戻るのだった。
「――ごめんなさい。ユウヒ様、わたしこれから少し用事があるんです」
けれどもセインフォートに戻ってすぐ。
今日は一日中ログインしているものだと思っていた悠姫の予想とは裏腹に、ドロップアイテムの清算を済ませると、シアはそう言った後、しきりに謝りながらログアウトしてしまった。
「あー……うー……」
シアにはシアの都合があるのだから仕方ないと言えば仕方ないことなのだが、ある程度までは一緒にレベルを上げるだろうと思っていただけに、悠姫は自分だけ先にレベルを上げてしまっても良いのだろうかと悩むことになった。
CAOの経験値分配方式は、レベル差20までが一応公平圏内で、それ以上になると例えパーティを組んでいたとしても経験値は倒した者にしか入らないようになっている。
しかもレベルの差が開けば開くほど経験値の獲得に補正が入り、レベル差が5以内ならば獲得経験値は90%となり、6~10で70%、11~15で50%、16~20では30%と、レベル差が開けば開くほど得られる経験値が少なくなってゆく仕様だ。
つまりレベル20のプレイヤーとレベル20のプレイヤーが組んだ時に経験値が100得られるモンスターを倒した場合は二人ともに90%、90の経験値が得られるが、レベル20のプレイヤーとレベル1のプレイヤーが組んだ場合は同じ敵を倒したとしても二人ともが30%、30の経験値しか得られない。
公平圏内ギリギリのラインまでレベルを上げてからシアを引っ張るのも良いかとも思うが、そもそも、そのレベル上げにもシアの支援を当てにしていただけに、ソロでのレベル上げはかなり難航を極めそうだとも思っていた。
時間をかければ[ハウンドドッグ]のような素早い動きも解析して回避することが出来るようになるかもしれないが、やってみて思ったが回避だけならともかく、かわしながら攻撃するというのはかなり難しいものだった。
正直ずっとノーミスで倒し切るのはかなり難しいだろう。
近接物理職で手早くレベル25まで上げようと思えば、少なくとも南平原をさらに南に二つ進んだ先の[トゥザード砂漠]に居る[サンドリザード]を狩るのが定石だった。
ノンアクティブでDEFも低く、ATKは高めだが要求HITが低いという、今ならば恐らく動きの速度に関わってくるのだろうから[ハウンドドッグ]よりは幾分か楽に思えなくもない。
他にも効率良く経験値が稼げるモンスターも居るが、それらを倒すには前衛職である悠姫だけではダメージが通らなかったり、よしんばスキルでダメージを与えることが出来たとしてもMPがすぐに枯渇して狩りにならないだろう。
ちまちまと弱いモンスターを延々狩り続けていればいつかはレベルも上がるだろうが、効率厨な悠姫からすると、それもあまり乗り気になれない選択肢だ。
「素直にパーティ募集でもすればいいんだろうけど」
なんとなしに呟いてセインフォートの円形広場をぐるりと見ると、既にいくつものパーティ募集チャットが建てられていた。
中にはナンパのように声をかけて回っているプレイヤーも居る。
狩場は分相応なところから、死亡ツアーまで様々だ。
今のところ分相応な狩りの大半は南平原か西平原で、死亡ツアーの行先は[霊峰の参道]という死霊系の高レベルモンスターが跋扈する狩場行きだった。
中には『当方レベル7』という悠姫よりも2も高いレベルのプレイヤーも居て対抗心に火が付きそうになるが、いけないいけない……と悠姫はなんとか自制して心を落ち着かせる。
悠姫が臨時パーティに近寄り辛いのは名前が知られると困るからだ。
少し警戒し過ぎかと思ったが、[エンジビー]狩りをしながらシアに聞いたところによると[欠橋悠姫]の名前は健在どころかより有名になってしまっているらしい。
週に一度行われていた[聖櫃攻略戦]で、VR化するまでの間ずっと尖兵の討伐ランキング一位に不動の名を刻み続けており、凛とした姿で剣を振るう姿はSSと共に語り継がれている。
しかもそこに謎の引退疑惑もあるとなれば余計に名前だけが先行して、CAO内で様々な逸話を生んでしまっているらしく、臨時には顔を出さない方が良い、とシアも言っていた。
……本当に、一体どんな逸話が生まれているのやら。
「……とりあえず西でも行ってみようかな」
幸先が悪いのはさておき、ぼーっとしていても仕方ないので、戦闘のインターフェースに慣れる為、とりあえず狩りに行こうと西側に向かってとぼとぼと歩きはじめる。
西平原には南平原の[エンジビー]よりもレベルが高い[ウルフ]が生息している。
[ハウンドドッグ]の動きは見切ることが出来なかったものの、悠姫は先ほどの狩りで上がったレベル分を全てAGIに振っている。同じ狼系モンスターであったとしても[ハウンドドッグ]よりもレベルがかなり低い[ウルフ]に遅れは取らないだろう。
後で[サンドリザード]を倒しに行くことを考えれば四足歩行のモンスターに離れておきたいところだという打算もあった。
「とと、その前に……」
西平原に向かう途中で武器屋と防具屋に寄ってシンプルな[ロングソード]と[革の鎧]を購入。続けてブティックに寄って[衣装:黒のニーソックス]を買って装備する。
慣れてくると結構忘れがちになってしまうが、オンラインゲームにも当然ながら武器屋や防具屋は存在する。
当然プレイヤーメイドの武器や防具、もしくは強いモンスターやボスがドロップするような武器や防具の方が強いのは言うまでも無いが、それでも店売りの武器や防具がまったく使い物にならないほど弱いなんてことは有り得ない。
初心者にとっては、例え店売りだったとしても有ると無いとでは与ダメージも被ダメージも段違いだし、悠姫の場合は初心者ではないがVR化してお金を持っていないのだから立場的には初心者と変わらない。
「ん、地味かと思ったけど、意外とこれはこれで……」
シンプルな革製の胸当てをガラス越しの自分に見ながら、悠姫はうんうんと満足気な笑みを浮かべる。
鎧というのに肩当ても腰当てもないことに疑問が募るが、そこは気にしてはいけないのだろう。良くあるビキニアーマーが無駄に防御力の高いものと同じだ。
「よし。それじゃ気を取り直してしゅっぱー……ん?」
装備も変えると、やる気も出て来る。
どのくらい攻撃力が変わるものなのか、さっそく試そうと西平原へと向かおうとする悠姫の目に、ふと同じ方向へと駆けてゆく亜麻色の髪の少女の姿が映った。
「あれは、ウィザードかな?」
亜麻色の髪の少女が着ているのはローブなので、魔法職系統で間違いないだろう。
悠姫やシアなどの引継ぎ組とは違い、初めてCAOをプレイするプレイヤーは最初に[メインクラス]を選ぶことが出来て、その際に[メインクラス]にあった初期装備を渡される。
悠姫の前を駆けていった少女は恐らく引継ぎ組ではなく、最初からCAOを始めて[ウィザード]か[セージ]を選んだのだろう。
[ヒーラー]系でも同じローブのはずだが、仮に[ヒーラー]ならば円形広場にある臨時募集のパーティを無視してまでソロで狩りに向かうリスクは取らないだろう。
「でも、魔法職なら西でウルフを狩るより、南でエンジビーを狩った方がいいんじゃないかな」
呟きながらも、もしかしたら特別な手段で狩りを行っているのではないかと思い、悠姫は少し興味を持ち、ローブの少女の後をこっそり追いかける。
[ウィザード]や[セージ]が最初に修得できる魔法は、職業選択時に得られる[アロー]系の魔法で、火水風土の四大元素のうちどれかを選ぶことによって[フレイムアロー][アイスアロー][ライトニングアロー][アースグレイブ]のうちの一つを修得することが出来る。
VR化以前ならば、最初に[フレイムアロー]を取って[エンジビー]を焼きに行き、レベルが上がったら他の属性を取るか[フレイムアロー]のレベルを上げて、比較的動きの遅いノンアクティブのモンスターを狩りに行くのがもっともベターなレベル上げコースだった。
間違ってもアクティブで襲いかかってくる[ウルフ]を狩りに行くなんてことはしなかったはずだ……が、それはあくまでVR化前の定石であり、さらに悠姫は一年のブランクがあるのだから、その間に新たな定石が生まれていたとしてもなんらおかしくはない。
それにVR化したCAOでは以前の定石などもはや通用しない。
先ほど実際に身体を動かして戦闘を経験してみて、実感したものだ。
前衛職にしても慣れなければ回避しながらの攻撃など出来るものではない。
レベルが上がってステータスに差が出てくれば来るほど、相手の動きと自分の動きとの差は顕著になってゆくのだからなおのことだろう。
だとすればローブの少女は、いったいどんな方法で[ウルフ]を倒すのだろうか?
そう考えているうちに西平原へと辿り着き、近くの[ウルフ]に杖を構えるローブの少女の様子を、悠姫は物陰から伺う。
彼我の距離はおよそ10メートル。
先手を打つように、ローブの少女が詠唱を始める。
「えっと……《大気にみちる火のマナよ、わが声にこたえ、ほむら……?の矢となり敵を撃て……っ!》」
少しだけ舌足らずな詠唱だが、この詠唱……CS[casting spell]というのも、物理攻撃のHSのようにCAOがVR化して大きく変化した点の一つだった。
南平原で[ヒール]を使う時に詠唱をしたりしなかったりするシアを不思議に思って聞いてみたのだが、ASPDに替わるHSのように、魔法攻撃にもVR化前にあった詠唱速度、CSPDの替わりにCS[キャスティングスペル]が出来たのだと聞いた。
具体的には、CSは、スキルを使おうとすると目の前に文字が現れ、それを声に出して読み上げるか、頭の中で詠み上げることによって威力を増幅させ、消費MPを抑えて魔法を使うことが出来るというものだ。
そうなるともちろん一部のスキルは詠唱無しでも使うことは出来るので、無詠唱で魔法を放てるというロマンが生まれるが、そこはお察しの通り。CSした時としなかった時の威力は比べ物にならなく、消費MPも十倍近くに跳ね上がるらしく、いくらMAGにステータスを振り、強い杖を持ち、スキルを使ったところで、最終的にかけられる数値が低すぎるのではほとんどダメージにならないらしい。
それに後半のスキルではCSをしなければ発動しないものまで存在するので、魔法職にとってCSは生命線と言っても良いほど重要ということだ。
ぎこちないながらも詠唱を終えたローブの少女は、残り3メートル近くまで距離を詰めてきている[ウルフ]に向かって狙いを定めて魔法を放つ。
「[フレイムアロー]!」
途端、ゴウッ! と矢をかたどった炎がローブの少女の隣に現れて、遠巻きに見ていた悠姫は初めて見る魔法に思わず息を飲む。
そのまま炎の矢が一直線に[ウルフ]めがけて飛んでゆき、正面から命中して[ウルフ]をノックバックさせながら実に9割近くのHPを削り取る。
「うわ、やっぱり魔法は強いなぁ」
いくら[ウルフ]が土属性で相性が良いとはいえ、最初の方にしては結構なダメージが出ているのではないだろうか。
手負いの獣さながら、ゆっくりと身体を起こして喉を鳴らす[ウルフ]のHPはまだ1割残っている。
さて、ここからどうやってあと残りの1割のHPを削るつもりなのか。そう思い見守る悠姫の視線の先で[ウルフ]は距離を詰めてローブの少女へと襲いかかり――
「――ひゃ」
――ひゃ?
「ひゃあああああぁぁぁぁ!?」
かわいらしい声を出しながらローブの少女が[ウルフ]に背を向けて逃げ出してしまい、悠姫は思わずその場で足を踏み外した。
「ちょ、ちょ! え、えぇ!?」
必死に逃げ回るローブの少女を見ながら、悠姫は開いた口が塞がらなかった。
まさかの逃走。
しかも微妙に逃げ切れていない。
追いかける[ウルフ]と逃げるローブの少女の速度は同じくらいで、セインフォートまで逃げ切れれば恐らくデスペナは回避できるだろうが、ローブの少女は逃げるのに必死すぎてそんな選択肢は全く思いつかないようだ。
状態異常ではなく、リアルに混乱していらっしゃる。
「あー……でもVRだと必死で逃げてるってわかっていいなぁ」
PC越しのMMOの時だと助けて良いのか悪いかの判断が付き辛く、助けるにしても死んでから起こすという手順を踏むことが多かった。死にそうな時に『助けて』とキーボードを叩く暇なんてあるはずがない。
けれどもVR化した今では[ウルフ]から逃げる少女の姿はまさに必死そのもので、誰がどう見ても助けて欲しいというオーラが全身から滲み出ていた。
「ま、じゃあやりますか」
このまま見ていても死んでしまうだけである。
低レベルの時はデスペナなんてあってないようなものなので助けなくても良いと言えば良いのだが、
「ひゃ、や、ひゃあううぅぅ!?」
……さすがにあそこまで必死に逃げている姿を見ると見殺しにするのは少々……いや、かなり居心地が悪い。
「よしっ」
声をかけて立ち止まられでもしたら逆に厄介なので、悠姫は低い姿勢からの踏み出しから駆け、ぐるぐると同じ場所を回っている[ウルフ]とローブの少女へと接近する。
「――倒しちゃうね?」
ローブの少女の耳元で囁いて、すれ違う。
「ひぅ! ――ぇ?」
瞬間、ローブの少女の視界に真紅の風が吹いた。
低い姿勢からの横薙ぎ。
鉄製の鈍い光沢を放つ[ロングソード]の刃が閃き、[ウルフ]をデータの残滓へと変える。
「うーん……ナイフよりは重い、かな? 要求STRは問題ないから買ったけど、やっぱり重量もHSに関係してきそうな予感。身体がかなり軽いのはAGIにステを振ったから、かな。支援とかちょー楽しみ……とと、大丈夫?」
ログに残るダメージと身体に残る感触を確かめながら、悠姫は腰の鞘に剣を納め、にやけながらぶつぶつと考察を呟いた後、そこでやっと思い出したように後ろで呆然と立ち尽くすローブの少女へと声をかけた。
「ぁ、い、いえ、いえ! はい! ありがとうございますですっ」
わたわたと手を振りながら、少女は動転した様子で礼を言う。
「気にしないで。どうせ西平原には狩りに来ただけだし」
本当はあなたの後をつけてきたのだけど……とはさすがに言わない。
言わない代わりにログに記された名前をちらりと見やる。
「えっと、ひよりさん?」
「は、はいっ、わたし春日井ひよりと言いますっ、その、助けていただき」
「ちょっ、待って待って! それ、本名だよね?」
「え? あ、ああ! ひゃっ、うぇっ! えっと、い、今のは無しで!」
無しも何も、ログにばっちり残ってしまっていた。涙目で慌てて訂正する少女に、悠姫は不謹慎ながらもくすりと笑ってしまう。
「あはは、うん。じゃあ今のは無しで」
悠姫の言葉に少女はほっとして少し落ち着いたのか、先程の言葉の中で気になったことを悠姫に問いかけてくる。
「そ、それより、どうして、わたしの名前がわかったんです?」
「あれ、チュートリアルでは言われなかったのかな。システムウインドウのシステム欄の下の方にlogっていうのがあるから、そこをクリック……タッチしてみて」
つい癖でクリックと言った後に、インターフェースの違いに言葉を訂正する。
「は、はい……あ、何か枠……が出ました」
「そう。それがログウィンドウで、色々設定しておけば会話のログだけじゃなくて、モンスターへの与ダメージや経験値なんかも表示してくれるの」
「ろぐ……は、会話とかのあれ、ですか? よ……ダメージ?」
首を傾げる少女の姿に、あ、この子オンラインゲーム初心者さんだ。と確信する。
「与ダメージは相手に与えたダメージ、付与したダメージってことね。たぶん今もログに会話が記録されていってると思うけど、左に発言者の名前があるでしょ? それでさっきあなたの名前を知ったの。たぶんわたしの名前も出てるよね?」
「えっと……あ、はい、ありました。かけ、はし……ゆうひめ、ですか?」
「おしい。かけはしは合ってるけど、下はゆうひ、ね」
「あ、ごめんなさいです……これ本名……じゃないですよね?」
何かツッコミが来るかなーっと思っていたけれども、初心者のひよりは悠姫を知らなかったようで、「あはは」と笑って続ける。
「うん、もちろん。わたしは本名のもじりではあるけど、オンライゲームで本名登録してる人ってほとんどいないと思うよ」
「うぅ……」
ちっちゃくなってしまった。先程自爆してしまったように、春日井ひよりと言うのが彼女の本名なのだろう。
「ま、まあまあ、でも、『ひより』ならオンラインゲームでも良くある名前だし、呼ばれ慣れてる名前の方がわかりやすくていいよね」
「そ、そうなんです?」
大抵の名前は良くある名前ではあるのだけれども。とは言わない。
オンラインゲームでまず真っ先に躓くのは、キャラクターの名前付けである。
多くのオンラインゲームはキャラクターIDを名前で管理しているので、同じ名前を付けることが出来ないものが多い。CAOもその例に漏れずアバターIDを名前で管理しているので、被っている名前は付けられないのだ。
そうなるとふと思いついた良い名前があったとしても既につけられていたりして何度となく名前を考える羽目になるのだ。
本当に気に入りそうな良い名前を付けようとしたら、下手をすれば一日近い時間を費やしてしまうことになる。
ひよりという名前を使ってプレイしていた人が引退したのか、セカンドキャラで持ち越し出来なかったのかは知らないが、無印で「ひより」という名前が取れたのは、相当運が良かった部類だろう。
「……その、……ゆうひさんって、色々知ってるんですね」
「まあ、これでも一応VR化前からCAOをやってるからね。ところでひよりん」
「そうなんですか……って、え、ひよりん? え、わたしですか?」
「そうそう。ひよりだからひよりん。ちなみにわたしのことは気軽にゆうちゃんって呼んでいいんだよ?」
「……ゆうちゃん?」
疑問形ながらも素直に呼ぶひよりに、悠姫は初心者さんって素直でいいなぁ、と思う。
悠姫のことを知らないということもそうだが、効率やオンラインゲームの常識に擦れていない辺りが初々しく、昔の自分を見ているようでうれしくなってくる。
「別に擦れてないし。わたしもまだ大丈夫」
ダウトだった。
「え、えっと?」
「あ、ううん、なんでもないよ。あ、そうだ」
かぶりをふって笑って、悠姫は思い出したようにフレンド登録申請をひよりに送る。
「ふぇ? あの」
「ここで会ったのも何かの縁だし、良ければ友達にならないかな、って」
「あ……」
悠姫の言葉に、ひよりは少し迷いながらもおずおずとyesのボタンをタッチした。
「あは、改めてよろしくね、ひよりん」
「は、はいっ、よろしくお願いしますっ、ゆうちゃん」
……自分で言わせておいてなんだが、ゆうちゃん呼びは普通に恥ずかった。
断られることを前提に言ったけれども真に受けられて逃げ道が無くなった感じ。ゆうちゃんなんて呼ばれたのなんて小学校の頃以来である。
悠姫は小学校から度々女の子に間違えられる容姿をしており、そのせいで女の子っぽいゆうちゃんというあだ名が一時流行っていたのだ。
祖母の影響で真っ白な髪は、短くしていると逆に変だと言われたので、伸ばし続けていたことも良く性別を間違えられる原因となっていたのだろう。
さすがに中学生になってからは思春期の影響もあって悠姫をあだ名で呼ぶ者も減り、自然消滅へと至ったわけだが、そのあだ名がふと出てきたのは意識の底にひっそりと残っていたからなのかもしれない。
「ふあぁぁ……一人目の友達が、こんなに早く出来るとは思わなかったです」
フレンドリストを見てにこにこするひよりを見て、悠姫も釣られて笑みを浮かべてしまう。
恥ずかしくはあったが、でもこの子なんかふわふわしていて気にしなさそうだしいっか。と悠姫もあまり深く考えないことにした。
……この時もう少し考えていたら、後の惨状を回避できると露とも知らず。
「そういえばひよりんはまだ時間ある?」
「あ、はい。6時になったらご飯に行かないといけないですけど、それまでは大丈夫です」
「そっか。じゃあ、一緒に狩りにでもいこっか?」
6時まではまだ3時間近くある。
オンラインゲーム経験者……と言うよりもネトゲ廃人である悠姫ならばひよりにレクチャー出来ることもあるだろうし、悠姫からしても魔法職が居ればソロよりも効率の良い狩場にも手を伸ばせる。両者一得というところだ。
「え、良いんですか?」
「CAOは基本的にソロよりもパーティの方が効率良いしね」
パーティ人数が増えることによって加算される経験値減衰も最大の六人パーティで50%である。単純計算で言うと六人居れば一人よりも6倍経験値を稼げるので、それが50%になったところで一人の時の三倍稼げる計算だ。
考えが効率厨過ぎるかな、と悠姫は思ったが、ひよりは特に気にした様子を見せずに首を傾げる。
「そうなんです?」
「うん。詳しいことは後々話すけど、ひよりんは魔法職だからわたしが引きつけているうちに攻撃すれば割と楽に狩りできそうだしね」
パーティの経験値分配方式などのその辺のシステムに関する詳しいことは後々説明していけばいいだろうと思い、悠姫はあえて今は説明しないでおいた。
百聞は一見にしかず。何事もまずは経験してみてから覚えていくのが一番である。
「うん、じゃあお願いしま……っ」
頼りにされていることがうれしかったのかひよりは頷きかけて、しかしその直後、何かを思い出したかのように悠姫の顔を見てはっと目を見開いた。
急に変化したひよりの様子に、悠姫は何事かと訝しむ。
「……これって」
「うん?」
「……レベル上げで優しくしてくれていたのに最後の最後でPKとかされてざんねぇ~んこれだから初心者狩りはやめられないんだよなぁひゃっはーとか言われるパターンです……」
「えぇ!? ちょ……そんなことしないって」
なにを考えているのかと思ったら、まさかのPKを想像してネガティブになっていたらしい。どこかで聞いたことのあるようなシチュエーションに、悠姫は苦笑しながら訂正する。
「し、しないんですか?」
「しません。……もしかしてひよりんって、アニメとか見てCAO始めた人?」
「あ……はい」
「あー。やっぱり」
続けて聞いたタイトルは、有名なものから比較的マイナーなものでまで、中にはCAOとコラボしていたこともあるタイトルもあったくらいだ。
「ひよりんってコラボからCAOを知ったのかな」
「あ、それは、ううん。このゲームを始めたきっかけは、街頭に設置された大きなモニターでPVを見たからなんです」
「へぇ……じゃあ結構思い切った感じなんだね」
CAOのPVが街頭で流れ始めたのは、CAOの大型アップデートが残り三ヶ月ほど前に迫ったカウントダウン期間からである。
MMOからのシフトということで潜在ユーザーの把握がしやすく、初期ロットで販売されたインストールソフトもかなりの数があったので買いあぶれる人は少なかったが、フルダイブのヘッドマウント装置はかなりの値段がするので金銭的な理由でCAOを始められなかった人も多かったらしい。
「ちょうどクリスマスの日に、大きなモニターの中に流れるこの世界の風景が、まるで物語の中のように思えて……わたしもそこに行ってみたいって思ったんです」
「――――」
悠姫にはその気持ちが、本当に、本当に良くわかった。
悠姫がそのPVを見たのは、PVが流れ始めた当日なのでひよりよりまだ早い時期だったが、悠姫もひよりと同じように――いや、それ以上にこの世界に来ることを切望していたのだ。
「へ、変でしょうか……」
「ううん。そんなことないと思うよ」
照れたようにはにかむひよりに、悠姫は緩やかに首を振りながら答える。
CAOの世界[ルカルディア]を素敵に感じてくれている人が居る。
それだけで悠姫は自分のことのようにうれしくなってしまう。
「わたしはひよりんがこの世界を好きになってくれたら、うれしいな」
そう言って微笑んだ悠姫の顔は誰が見ても呼吸を忘れるくらい綺麗で、正面からそれを見ていたひよりも例外無く、息を止めて魅入ってしまった。
「? どうしたの、ひよりん?」
「あぅ……ふぁ、ふぁい!?」
「顔、真っ赤だよ」
「ひゃぁぁ!? な、なんでも、なんでもないですっ」
「そ、そう?」
わたわたわたわたと手を振るひよりを不思議に思いながら、悠姫は話を変える。
「そういえばひよりん、さっきPKされたらって言ってたけど、CAOは直接的なPKはできないようになってるからその点では安心しても良いからね」
「そ、そうなんですか?」
「うん。週に一度行われる[聖櫃攻略戦]における尖兵の討伐数ランキングとか、南西の大陸の首都にある[コロッセオ]でのランキングとか、[ギルド対抗戦]とか、競い合う要素はあるけどPVを推奨しているオンラインゲームとは違ってフィールドやダンジョンではフレンドリィファイアが通るようにはなってないんだよね」
対人戦には対人戦の楽しみというものもあるだろうが、CAOの場合は長大なクールタイム有りの高倍率スキルが多数用意されている。故に、要HITさえ確保していればほぼ確殺することが出来るという点において戦略を練ることが難しく、さらには広範囲スキルなども多いのでパーティ外へとダメージが通ってしまうと狩り場でのトラブルも増えるということもあってフィールドやダンジョンでの直接的PKはシステム的に不可能とされている。
「だからPK……というかPVする場合は[決闘システム]を使うか、もしくは専用フィールドじゃないと出来ないようになってるの」
「そうなんですね……ゆうちゃん、その、疑ったりしてごめんなさいでした……」
「ううん、気にしなくてもいいよ」
直接的なPKが不可能でも、モンスターを押しつけて殺そうとするMPKはオンラインゲームでは定番と言えるほどには良くある話だ。他にもやろうと思えばやりようはいくらでもあるのだから、先入観で先走った感は否めないが、ひよりの懸念は至極真っ当なものだ。
とはいえ、
「色々やってみて慣れるのが一番だし、色々と教えてあげられることもあるでしょうから話しながら狩りでもしよっか」
疑ってばかりいても仕方ないのもまた真理である。
疑ってその都度立ち止まってしまうとなると、オンラインゲームをしている意味がない。
高難易度のダンジョンになるとソロでは限界があるし、酷いところでは一撃食らえばHPバーが全て吹き飛ぶような雑魚MOBが闊歩しているところもある。
そういったところに挑もうとするならば早いうちからフレンドを作るなり、ギルドに加入するなりしなければ、野良では色々と難しいだろう。
「は、はいっ、お願いしますっ」
ひよりがこの先歩む道をどうするかは彼女が決めることであり、悠姫がどうこう言うものではない。が、しかし初心者さんを導いてあげるのも先輩プレイヤーの役目だ。
慣れという点ではVR化した今ではそこまで大差ないかもしれないが、これまで培ってきたノウハウを持つ者とそうでない者では慣れるまでの速度が違う。
「さてと、じゃあ試しにコア狩りにでも行ってみよっかー」
「はいっ」
手を握り振り上げながらテンション高く言う悠姫に、ひよりも元気な声で追従する。
――[コア狩り]。
そう呼ばれるものが、ひよりの廃人プレイヤーへと至る第一歩だと知らずに。