十話[それ故に]
「さぁ! レイドに行くよ!」
いぇい! と唐突に放たれた言葉に、その場に居る誰もが反応を返すことが出来なかった。数分前にやっと戻ってきてこいついきなり何を言い出すんだという雰囲気が、図書館内に流れる――のも一瞬のこと。
「とりあえず、装備の耐久度とかを確認だな」
「ですね」
「回復薬も補充しないといけませんわね」
良く訓練された廃人達は先のレイド戦闘で消耗したアイテムを確認するべく、ステータス画面を開いてゆく。
「え、えぇー……?」
そんな皆の様子について行けず、乾いた笑みを浮かべたまま固まったのは、最近加入したばかりのリコだけだった。
因みにアリスとアリサは、既にログアウトさせている。
まだ大丈夫ですと言うアリスとアリサだったが、けれどもログイン初日から日付をまたいでログインさせるのは、親御さんの心象も良くないだろう。
「ゆうちゃん、装備の修理に行ってきていいですか?」
「ひよりまで……」
この中では一番の新参のひよりが何の疑問も抱かず準備を始めている辺り、かなり洗脳が進んでいるかもしれない。
「ていうか、え? 今から行くの?」
「うん。だってわたし不完全燃焼だったし。色々行くよ!」
「不完全燃焼なのはわかるけど……もう12時だよ?」
「まだ12時」
「えー……でもああ、うん。そうだね」
一瞬反論しようとも思ったけれども、12時に寝ている事の方が稀だと思い直し、リコは言葉を飲み込んだ。
「で、でも明日は仕事があるから少し早めに寝ようかなー……なんて思ってたり」
「えー」
「そういえば、寝るで思い出しましたけど、ユウヒ様、ドロップアイテムはどうするんですか?」
「あー。そういえばそうだったね。気が急き過ぎてて忘れてた……」
言いつつ悠姫は、アイテムリストを表示して、ソートで新しく入手した順に装備を表示させる。昔からそうだった名残だが、悠姫のギルド[AS]ではレイドのドロップアイテム分配や、精算方法は全て悠姫の一存で決めることになっている。
「んー……とりあえず売れる、かつ使えそうなめぼしい物だと、[ブラッディメイル][紫晶石の欠片][ティアサリスの雫]に[慈愛のネックレス]と……弓も出てるね」
「え、弓ってもしかして、あれですか?」
「そ。[闇弓ガンディーヴァ]」
「えぇ!?」
弓の名前に大げさに驚いたのはリコだ。
「すごい引きだよな。確かガンディーヴァって1%くらいだろ」
「ですよね」
「まあでも1%なんて稀に良く出る確率だし」
言いながら悠姫は[闇弓ガンディーヴァ]をオブジェクト化して手に握る。
闇を宿しているかのように反り返ったフレームは、時折影が光に照らされたかのようにその身を揺らめかせるが、禍々しく尖った両の弓尻から延びるのは影の中でも決して揺るがない一つの意志を示すように輝く銀の糸だ。
武器性能を見てみると、現在の悠姫の武器よりも数値が遙かに高く、かつ闇属性が付与されている上に、DEXやAGI、それにINTといったステータス面にも補正が入るのだから、弓手からすれば垂涎の代物だ。
現に、CAOがVR化する前も[闇弓ガンディーヴァ]は常に一定の需要があったし、難易度が低めとはいえレイドボスのレアドロップ品だ。80台付近の装備では、余程+性能が付いたプレイヤーメイドの武器でもない限り比肩する弓は存在しない。
「……インゴットにして……いや、ううん」
「ユウヒ様……」
私欲に駆られた呟きが聞こえたが、けれどもすぐに訂正して、悠姫は深い溜め息を吐く。
悠姫個人で手に入れていたならば間違いなく、はぜっちにでも依頼して武器の素材にしてしまっていただろう。
使う人が居なければそれでも良かったかもしれないが、けれども悠姫のギルドには弓手が居るのだから溶かしてしまうのはもったいない。
「よし、これはリコにあげよう」
「……え?! わ、わたしがもらっていいの? こ、こういうのって売って分配とかのがいいんじゃ」
「売って分配するにも、現状だとお金持ってても装備が手に入りやすい訳じゃないし、現状最上位の装備だと思うからあんまし市場に流したくないっていうのもあるし」
「アルガスとの戦いを見た感じ、後衛が火力高ければもっと楽になりそうではあったしなぁ」
「ね。わたしも久我も純タンクじゃないからヘイト確保が難しいところはあるけど、あの様子だと後衛のヘイトにまだ余裕はありそうだったし、火力は上がって損はないかなって」
「リコ、欲しくないんですか?」
「いや、すっっっごく欲しいけど!」
「まあ後衛が強くなったら他のレイドも楽になるし、そうなるとまた装備が集めやすくなるし、使ってくれたらいいよ」
そう言って取引を出して、リコに[闇弓ガンディーヴァ]を渡す。
渡されたリコはすぐさま手元で操作して、渡された[闇弓ガンディーヴァ]を装備して見せる。
「うわぁ、すご。攻撃力が倍以上になってるんだけど」
「弓の場合、闇属性が付いてても矢で属性対応出来るからいいよね」
「だねー。そうじゃなくても闇は汎用性高いし、問題はないけど」
言いながらリコは弓を構えて弦を引いては離してを繰り返し、動作を確認して行く。
「今でもそこそこ火力は出てたけど、武器の数値が倍な上にDEXにもステ補正が入るから、これかなりヤバそう」
うずうずし出すリコに、悠姫はにやりと悪い笑みを浮かべる。
「ほらレイド行きたくなってきた」
「う……」
ちらりと時計を見て、23時44分を確認してから、リコはうーん、うーん、と虚空に指を彷徨わせながら熟考。
「とりあえず行って倒せれば今回のドロップは装備出来そうな人で分配していくし、ほらレイドのレアドロップを手に入れるチャンスだよ!」
「4時までならいけるかな!」
「さっすがぁ」
さらりと4時までという時間を提示する辺り、リコも相当な廃人だった。
ふふふと笑いながら武器を弄っている様子は、完全に欲望に取り憑かれた亡者そのものだったが、けれどもそうなるのも仕方のない話だ。
「……4時で終わるはずが、ないんですけどねぇ」
ぽつりとシアがほの暗い笑みを浮かべながら不穏なことを言っていたが、けれどもその場に居た誰もが黙殺して各々準備を進めてゆく。
「それで、どこに行くんですか?」
「とりあえず、さっき狩場が神殿に決まる前に言ってた所、全部回ってみようか」
「あー、言ってましたね。……あれ、でもそうなると、ヒーラーわたしだけだとヤバくないですか? 確かテリアブル・バタフライとか居ましたよね」
テリアブル・バタフライは、迷宮の森の下層に住処を構える、ダンジョンフィールドのレイドボスだ。
前にもシアが言っていたが、テリアブル・バタフライは状態異常を多用するレイドボスだ。通常攻撃はアルガスに比べればかなり粗末な部類になるだろうし、魔法にしても致命的な固有スペルを持っている訳ではないのだが、このレイドボスが厄介なところは、状態異常を付与するスキル、スペルの内のいくつかが耐性を完全に貫通することと、状態異常を受けた状態でテリアブル・バタフライが一定間隔毎に放っている固有スキル[狂気の翅音]を受けると、解除不能の状態異常[恐怖]状態となり、その状態で攻撃を受けると確率で即死するという点だ。
「わたし信じてる。シアならば一人でも大丈夫」
「信じてくれるのはうれしいですけど、絶対MP持ちませんよ?」
わざとらしく祈るように手を組んで言う悠姫に、泣きそうな表情でシアは返すが、けれども悠姫は無慈悲にも続ける。
「散財がんばって」
「え、でもそもそもMPポーションが売ってないですし!」
CAOには当然MPを回復させるアイテムは存在するが、けれどもサービス開始からまだ一月も経っていない現状。MPポーションはかなりのレアアイテムとして高値で取引されている。
各都市のNPCから買うことが出来るHPポーションとは違い、MPポーションはその入手方法のほとんどが、プレイヤーによる製薬、調合スキルしか存在しない。
しかもMPポーションの基本的な素材となる[霊樹の葉]はモンスターのドロップか、もしくは高難易度ダンジョンの採集ポイントでしか手に入れることが出来ない。それに加えて安定して作れるほどに製薬、調合スキルを上げる事が出来ているプレイヤーも少なく、となれば必然。物自体が少ないけれども需要はどんどん上がっていくばかりで、等級10の最下級ポーションが1本200kという、目を疑うぼったくり価格で取引されている。
「けどシア、少しは持ってるよね?」
「そりゃ一応保険の為にありますけど、わたしが持ってるのは9等級ですよ? 1本で2割回復するくらいですし、せめて等級5レベルのが10本くらい無いと絶対MP持ちませんって」
「そっか――だってメアリー。心当たりは?」
断言して困った顔をするシアの様子に、観念したように悠姫は何もない空間に話を振る。と、ゆらりと図書館内の影が形を変え、悠姫が座るソファの後ろに、紫色の髪の小柄な少女、情報屋メアリーが姿を現す。
「い、居たんですか」
「むぅ……」
いつもなら無表情に近いポーカーフェイスの彼女は、けれども今はとても不満そうな表情で悠姫を睨み付けている。
「やっぱり居たね、メアリー。レイドから帰ってきてしばらく影が濃かったから居るだろうと思ったよ」
「気付かれていたのはメアリーも気付いていたの。悠姫、最近メアリーをこき使いすぎなの」
「とか言って、メアリーもわたしの情報を探るために近くに潜んでるんだからおあいこでしょ? ほらほらメアリー。そんなにむくれるとかわいい顔が台無しだよ」
「むくれてないもん……」
実際拗ねたように頬を膨らませているのだが、それに気がつかぬは本人のみということか。ソファに膝立ちになり頭に手を伸ばして撫でようとすると、するりとかわされた。
「あらら」
「メアリーを撫でる権利は高いの」
「いくら?」
「税込み11000円なの」
「まさかのリアルマネー」
しかも税込み。いったい何に課税されているのだろう。
「つまりは課金しろってことだな」
「よし、久我、支払いは任せた」
「おいおい、リーンみたいなこと言うなよ」
「わ、わたくしがいつそのようなことを言った事があるのかしら!?」
「言っていいのか?」
心当たりが多数あったのだろう。リーンは無言で目を逸らした。
流れるようなやりとりを横目に笑い飛ばしながら、悠姫は気を取り直してメアリーに向き直る。
「それで、MPポーション作ってる人の情報は?」
「むぅ……現在だとMPポーションを安定して作ってる人はいないの」
「やっぱりかー」
メアリーの回答は半ば予想通りとはいえ、悠姫は落胆を隠せない。
わかってはいた。いくら製造や製薬に命をかけている廃人達が居て、スキル上げに血眼になっていたとしても、そもそも素材がなければ武器も防具も薬も作ることは出来ないのだ。
MPポーションの製造難度は中級だが、素材を大量に集めようと思うと上位狩り場の[神霊庭園]にでも籠もらなければまとまった数を得ることは難しい。
そうでない場合は迷宮の樹海の一部モンスターが0.1%ほどでドロップする物を集めるか、もしくは危険を承知でダンジョンの採集ポイントを巡るかのどちらかである。
こればっかりは仕方ないかと諦めかけた直後、「でも」と、メアリーは言葉を続けた。
「製薬ギルド[紅き秘薬]のサブマスターが、最近素材を買い漁ってた情報があるの。だからもし頼むとしたら彼が狙い目かもなの」
「[紅き秘薬]のサブマスっていうと……アルシエル?」
悠姫の問い返しに、メアリーは首肯するだけで肯定の意を示す。
「ならちょうどいいかな。シア」
「あ、はい」
「[ティアサリスの雫]渡しておくから、交渉材料にして作れるだけMPポーション作ってもらってきて」
「えー、ユウヒ様は来ないんですか?」
「わたしはまだ別の準備があるし、MPポーション要るの、たぶんシアだけだし。一人で行ってらっしゃい」
「いやん。ユウヒ様冷たい。でもそういうプレイだと思えば有りかもしれませんね!」
「そういえばひよりんも装備の修理に行くんだっけ? 一緒に行ってきたら?」
「あ、はい。じゃあわたしも行ってきます」
「あは、スルーされるのも少し気持ちよくなってきまし」
「いってらっしゃーい」
変な性癖に目覚めつつあるシアにゴミを見る目で一瞥してから、悠姫は敢えて聞かなかったことにして二人を送り出す。
「こじらせてますわね……」
「なんであんな残念な子になっちゃったんだろうね。や、元からか」
「ですわね」
「酷い言い草でござるな」
さてと気を取り直して、悠姫はメアリーに再び向き直る。
「それはそうとメアリー、メアリーはレイドとか興味ないの?」
「……メアリーなの?」
まさか自分にそんな話題が振られると思わなかったのだろう。メアリーは一瞬あっけに取られた後、聞き直す。
「そそ。どうせだし一緒にどうかなって」
「……何がどうせなのかわからないの。それにメアリーは悠姫たちのようにレベルは高くないし、レイドに参加したこともないからお荷物確定なの」
「えー、だったらなおさら参加出来る時にしといた方がいいんじゃないの? レイドの情報とかも扱うなら体験しておいた方が何かと融通が利くようになるんじゃない」
「む……」
実際思うところもあったのだろう。メアリー自身、レイド戦闘の知識はかなりあるが、けれども実戦経験というとからきしだ。
それはレイドギルドという専門家が居るのだから仕方ない話ではあるのだが、けれどもそういったギルドは基本的にレイド初心者や入門者には優しくない。
そういった輩が頼りにするのが攻略掲示板やらメアリーのような情報屋なのだが、しかしその情報屋も見聞だけで語るのと実際にレイドを経験しているのでは説得力が雲泥の差だ。
「それに使えそうな装備とか出たら分配するし、メアリーも装備とかあった方が情報収集も楽になるんじゃない?」
「そこまでメアリーに良くして、何が目的なの」
あまりの厚遇に、メアリーが疑心暗鬼になって尋ねる。
「連携一つとっても、メアリーを入れるメリットなんて一切無いの。なのに悠姫はそこまで好条件を出してきて。これが対人可能なゲームだったら、初心者狩りと疑われても仕方のないレベルなの。何が目的なの」
「いや、メアリーさん、たぶん悠姫さんは何も考えてないと思うぞ」
そんな疑心暗鬼に陥るメアリーに、否定の言葉を向けたのは久我だった。
久我の否定にメアリーが周りに目を向けると、リコを除くASの面々はまるでいつものことのように呆れた顔をしていた。
「ござるなぁ……」
「そうですわね。いつものことですわ」
皆、こういう時の悠姫が何を考えているのか、まるで手に取るように理解していた。即ち、
「強いて言うならばメアリー。あなた、かなり気に入られていますわよ」
「……え、え、気に入られ……て、なの?」
「ちょーおきに」
笑顔で言い切る悠姫の様子には一切の裏表が感じられなく、メアリーは毒気を抜かれたようにぽかんとした表情を浮かべた後、どんどんその目が半眼になってゆき、最後には他の皆のように呆れた表情を浮かべた。
……そういえば欠橋悠姫はそんな人間だったの。馬鹿だったの。
良い意味で馬鹿正直なCAO廃人。
メアリーを最初に誘うときだって、自分の損得なんて一切考えず友達になろうと申し込んで来たくらいだ。散々警戒していた自分の方が馬鹿らしくなるほどの愚直さ。普通ならば情報屋などという一挙一足動をネタにされてもおかしくない人種に対して、何の警戒も抱かず接する者なんていない。現にメアリーはこれまで、対話する人にはずっと疑われ、時に疎まれ蔑まれ、それこそ言葉が弾むような会話なんてした記憶なんて思い出せない。
それなのに悠姫はただメアリーのことが気に入ってるから、一緒に遊ぼうと言っているときたものだ。
「本当に馬鹿なの」
情報はメアリーにとって武器であり、同時に防具でもある。
誰かの悪意から身を護るのは情報であり、逆に向けられる悪意を討ち滅ぼすのもまた情報である。例え情報を売ったことで恨まれたとしても、当人を黙らせるだけの弱みを握り、時にそれをちらつかせ牽制し、脅迫紛いなこともして己の身を護りながら、メアリーはこれまでCAOをプレイしてきた。
そのことに後悔などありはしない。自由に振る舞えるオンラインゲーム上で、情報屋として楽しむと決めたのは他でもないメアリーであり、今ではCAOで唯一の名の知れた情報屋として、メアリーに情報を売って欲しいと尋ねてくる人は後を絶たない……が、しかし、疑い疑われ、畏怖の、あるいは侮蔑の目で見られ続けていると、本当にたまにだが――やり場のない疲労感を感じることもあった。
情報屋として有名になればなるほど、メアリーを頼る者は増え、同時に扱う情報も増え、そして、それによる恨みを買う頻度も増える。
皆がメアリーを畏怖し、都市伝説のように語られるようになって来た辺りからはより顕著だ。CAOをやり込んでいる人にとってはメアリーと接することは出来れば避けて通りたい道で、誰もが好き好んでメアリーに寄ってこなくなって久しい、そんな中出会った欠橋悠姫という人物。
彼女はまだCAOがVRMMOではなかった頃の旧CAOで伝説級の有名人であり、当時まだ情報屋として駆け出しだったメアリーとは掛け離れた、雲の上の人物だった。そんな人物が、CAOがVR化されて少しして復帰し、自分にコンタクトを取ってきたのだから、最初は彼女の情報を得て利用するチャンスだと思ったが、けれども――
「メアリーも行くってー。やったね!」
「どう解釈したらそうなるの……」
断らないメアリーの様子を強引にokと見なす悠姫に、メアリーは呆れ果てて溜め息を吐く。
――けれども、何の裏表もなく接してくる人物なんて本当に久々で、自分を守る為に引いた境界線なんていとも容易く踏み越えてくる悠姫に少しのうっとおしさとそれよりも確かな心地よさを覚えつつも――メアリーは、得体の知れない恐ろしさを感じた。
それは悠姫のような裏表のない人物と接することで、自分が弱くなったりしないか、或いは心地よさに染まって、心が弱くなってしまわないか、等といったありきたりな理由ではない。
悠姫が誰よりもルカルディアのことを愛していて、誰よりもルカルディアのことを熟知しているのと同じように、メアリーにも情報屋として誰よりも深く知り得ていることがある。
そもそも情報とは、ほんの僅かな言葉でさえ、存在全てを否定しうる事が可能なほどに変質することもあれば、同じ言葉が一切の価値もなく、まるで砂漠に存在する無数の砂の一粒以下の価値しかなくなることもある、突如として現れては全てを飲み込む形を持たない怪物のようなものだ。
そしてそういった形のない怪物を扱う上で気を付けないといけないのは、情報の鮮度と、情報がもたらすであろう未来の予測だ。
前者は言わずもがな。商品として扱う情報が間違っていては元も子もなく、これを違えると信を失うことになり情報屋としては廃業は免れない。敢えて間違った情報を売ることで利益を得ること等も出来るが、そういったものは身を滅ぼすことが前提となる。
だからこそ、前者よりも遙かに重要となるのは後者、情報がもたらすであろう未来の予測だ。
例えば、絶対にバレないと思い働いた悪事を見ていた人が居るとする。
その情報は、
「悪事を働いた人を断罪すること」にも使えるし、
「悪事を働いた人を強請る為の」ネタにも使うことが出来る。さらに言うならば情報を扱う事に長けた者が使えば、
「悪事を働いた人の信用を失わせ、それを発端に不当の事実を作り、孤立させる」ことすら出来る。
が、しかしそうした行為は対価として、効果が大きければ大きいほど、得られるものが多ければ多くなるほど、反動となるリスクは増大してゆく。
恨みを買う度合いが深くなればなるほど、己に降りかかる危険度が大きくなってゆくのは当然だ。最悪の場合、突然後ろから刺されても文句は言えないだろう。
だからこそ優秀な情報屋は情報を売ることにより、起こりうる事象の予測を怠ることはせず、時には守秘し、逆に拡散し、出所を操作し、隠蔽し、自身を守る事が必要になってくる。
そうした膨大な情報の海の中で飲み込まれ、心を砕かれる事無くここまで泳ぎ切ってこられたのは、ひとえにメアリーが心理の掌握に長けていたからだ。
情報を売り買いするだけならば三流。リスクを恐れ、売った情報がもたらす結果を想像出来るようになってようやく二流。多くの情報屋と呼ばれる人物ならばここどまりだ。
メアリーのような一流の情報屋になろうと思えば、未来視にも等しい演算能力が前提となり、さらには誰もが笑い飛ばすような直感力、危機察知能力、第六感が必要になってくる。
けれどもそれほどまでに情報屋として卓越した才能を持つメアリーでも、欠橋悠姫という人物について調べ始めた時、すぐに違和感を覚えた。
欠橋悠姫という人間の人となりはおおよそ先の通り、馬鹿が付くほどのCAO廃人で間違いはない。欠橋悠姫が誰よりもCAOの世界「ルカルディア」を愛していて、その世界について詳しいことは知っている。彼女が【聖櫃の姫騎士】というメインクラスを得ることが出来たのも、ひとえにそれ故なのだろう。かつてのVR化以前のCAOでも名だたる廃人としてその勇名を知らしめし、そして突如姿を消したことにより、その名を伝説にまで昇華させるに至った人物。この世界で誰よりも、CAOというゲームの枠組みを超え、ルカルディアという世界を愛しているプレイヤー。
それくらいは調べてすぐにわかった。
しかし、それは欠橋悠姫というアバターに対しての評価で、メアリーが知りたいのはそんな表層の話ではないのだ。
特定の人物の情報を扱う上で必要になってくるのはそういった表面上の話ではなく、例えば欠橋悠姫という人物がどのような性格をしているのか、何か癖があるのか、思考の基準はどうか、人に対する考え方は、メアリーはそういった欠橋悠姫という人物の、根本的な人間性を知りたくて彼女について調べたのだ。
けれども予想外にも悠姫が具体的にどんな人物なのかを調べ始めると、情報はおろか、人物像すらほとんど浮かんでこないのだ。人間として、欠橋悠姫という人物が持っている個性、性格、考え方、そういったものがすっぽりと抜け落ちている。そう思わせるほどに。
それはまるで――そう、まるで、欠橋悠姫という人物が、そもそも人間ではなく、この『ルカルディア』という世界を回すための一つの駒、NPCのようにすら感じられるのだ。ルカルディアという舞台を回すために用意された世界の住人のような……と、そこまで考えてメアリーは思考を止める。
……さすがにファンタジーすぎなの。
CAOはまるで別世界に直接送られているのではないかと思えるほどに、精巧に作られた世界だ。毎日ログインしているメアリーでさえも、たまにそう感じるくらいにはCAOは精緻に作られている。けれども感触は現実と比べると劣るし、セーフティをかけられるせいで痛覚も全然違う。風景や建造物などの自然物は驚くほど滑らかに動くけれども、人物などは多少、動きに違和感を覚えたりする部分もある。
「どうしたの? メアリー」
「――――っ」
色々と考えていたら顔をのぞき込まれていて、まるで人形に心をのぞき込まれ心臓を鷲掴みにされたかのような感覚に息を飲む。が、しかしそれも一瞬のこと。すぐにメアリーは平静を装って答える。
「……なんでもないの」
「んー? まあ、メアリーも快諾してくれたし、レイドの準備しようか」
「いや、快諾ではないだろうが、その、大丈夫か?」
「大丈夫なの……問題ないの」
悠姫の言葉に反論しつつ聞いてくる久我の問いに、メアリーはそう言って頷く。
もう一度、ついと視線を悠姫に向けた時には、先に感じた奇妙な感覚は霧散しており、メアリーはその感覚を、自身が疑心暗鬼になって、欠橋悠姫という人物を幻想化してしまっていたことによる相違的な感情と断じて息を吐く。
「まったく……強引過ぎますわよ、欠橋悠姫」
「まあまあ、それが姫の良いところでもござるよ」
「でもほら、強引にでも誰かが誘ってくれる方が楽しいでしょ?」
「人によりけりなの」
「めありーは、わたしにさそわれて、すごくうれしいって!」
「……たまになら、問題ないの」
それを溜め息だと勘違いした言葉に乗っかかるように答えつつ、メアリーも気を取り直して準備を始めることにした。
乗せられた上に戦闘は本業ではないとはいえ、何の準備もせずにレイドに赴くのでは情報屋の名が廃る。実際に体験したことはなくても、何が必要かどうかの情報はもちろん持っている。
「よし、とりあえず最初はテリアブルバタフライで。15分したら点呼するよ」
悠姫はそう言いつつ、自分も本格的に準備を始める。
――メアリーに知るよしはないが。
先ほどメアリーが覚えた感覚は、つい先日に悠姫がフィーネと会った時にも感じた得体の知れない生き物に対する畏怖の感情と酷似していた。
「……で、俺の言いたいことはわかるな」
朝日が差し込む喫茶雪うさぎのフロア。コージローはメガネを指で持ち上げつつ、冷め切った声音でそう告げた。
店内の様子は、落ち着いた色合いで纏められたテーブルや椅子はもちろん、フロアの床もしっかりと清掃が行き届いていて、お客様に対する真摯な姿勢が好感を持てる。が、けれども時刻はもう既に10時にもなろうというにも関わらず、店先にかかっている看板には「Clause」の文字がかけられており、お店の中には悠火とコージロー、それに加えて紫亜の3人の姿しかない。
そんな静かな店内で悠火は正座させられていた。
まさかの二日連続の正座待機である。
「で、でもコージロー」
「――わかるな?」
「ひゃい……」
反論しようとした悠火に絶対零度の声音が振り下ろされ、悠火は縮こまりながら口を噤む。もしも言葉に質量があったなら、悠火の首が飛んでいてもおかしくはない、そんな声音だった。昨日レイドボス相手に大立ち回りをしていた人間と同一人物とは思えないほどに萎縮して小さくなってしまった悠火を見て、紫亜がフォローの言葉を挟む。
「えっと、その、悠火様も悪気があったわけじゃないですし……」
「はは。そいつは理月さんが言っていいことじゃない……っていうのは、わかるな?」
「あ、はい……」
が、そもそもその紫亜も同じように遅刻していて正座しているのだから、フォローにすらならない。表面上は笑いながらコージローは言ったが、メガネの奥に潜む瞳は一切の喜色など存在しない、深い闇を宿していた。今まで一度も見たことのないコージローの暗黒面に、紫亜も冗談を言って良い場面ではないと悟り、悠火と同じく身を縮める。
「……俺は昨夜言ったよな。明日も仕事なんだから羽目を外しすぎないようになって」
「や、コージローが言ったのは――あ、ごめんなさい何でも無いです。言いました」
鋭い眼光を向けられて、悠火は一瞬で折れる。
「それなのに二人揃って寝落ちして遅刻とか……お前らは馬鹿なのか」
「ひゃい……」
「はい……」
そう、あの後レイドを回り始めた悠火たちだが、必然だったというかなんと言うべきか、全てのレイドを回り終えたのは当初の予定の4時を遙かに過ぎた時間だった。
『予定は未定』という不変の名言があるが、それを差し置いてもそんな時間になってしまうに至った理由は、最初に向かったテリアブル・バタフライで、レアドロップである『翠玉のアブソリュートセプター』が出てしまったからだ。
アルガス=ガンディーヴァでもレアドロップが出て、続けてテリアブル・バタフライでもレアドロップが出てしまったとなれば……後はわかるね?
テリアブル・バタフライとの戦闘内容自体も、本当にギリギリの勝利で、テンションが振り切れてしまっていた事もあるのかもしれないが、これはもう行けそうなところ全部行ってみるしかないんじゃね? という流れになるのは当然の結果だった。
そこからエンシェントゴーストマスター、ダークネスネクロキングと回り、最後に『闇より出でし者』ことエリエント=フォーカサイスという明らかに今のレベルでは無謀なレイドに挑み、玉砕して帰ってきたのが7時前で、手早く精算を済ませてCAOからログアウトしたのが実に7時半のことだった。
というよりも、リコがもう仕事の時間だからとログアウトしたのがその時間だった。つまりリコも4時までと言いつつ、結局7時まで残ってしまっていた。しかしそれも無理はない。確率の偏りはあるとはいえ、テリアブル・バラフライ以降のレイドでもほとんどレアドロップが出ていたのだ。途中でおやすみなさいと抜けることなど、誰が出来よう。いや出来まい。
そして、そこまではよかったのだ。7時半にログアウトしたとしても開店の時間は9時なのだから、まだ1時間半もある。
けれどもその後の判断がいけなかった。
「あれ、これって急いで準備をすれば1時間くらいなら仮眠出来るんじゃない?」なんて思ったのが、そもそもの間違いだったのだ。
ステータスによる補正があるので現実とは身体を動かした際の疲労度は雲泥の差とはいえ、脳には疲労がどんどん蓄積されてゆく上に、レイド戦闘の連続となれば精神的な疲労もその上に重くのしかかってくる。
その結果、プレイ中はそこまで疲れていないと思っていたのだが、知らないうちに疲労がかなり蓄積されてしまっていて、1時間だけと思っていた仮眠時間はものの見事にぶっちぎられ、9時半を過ぎ、部屋に乗り込んできたコージローに強制的に起こされる運びとなったのが事の顛末だ。
「ユウには前から言っているが、別に仕事に支障がなければ徹夜しようが何をしようが何も言わない」
「でもそんなこと言いつついつも、口出ししてくるよね」
「別にお前の身体が心配だから言ってる訳じゃなく、店が回せなくなると困るから言ってるんだ」
「コージローまじツンデ……いえ、なんでもないです」
怒っていてもツンデレなコージローに、危うくいつもの調子で茶々を入れそうになるが、コージローのひと睨みで黙らされて、悠火は続きを聞く。
「なんだかんだ言ってお前はこの店の看板娘なんだ。ちゃんと自覚を持て。寝不足でも表面に出さずにやれるんだから、寝落ちには気をつけてくれ」
「はい……」
殊勝に頷きながらも、悠火は頭の片隅で「あれあれもしかして結構あっさり説教タイム終了かなやったー」等と反省と掛け離れたことを考え始める。
「本当はもっと説教してやりたいが、あまり長い時間説教してたら、それだけ客を待たせることになるから今回はこのくらいにしとくが、ちゃんと反省しろよユウ。それに理月さんもだ」
「はーい……」「はい……」
紫亜の手前だろうか、意外なほどにあっさり終わった説教にほっとするも束の間、
「ああ、あとユウ。お前は今日、24時までのシフトに変更だからな」
「え」
言葉を咀嚼して理解するまで、数秒の間。
「えぇええええええ!? ちょ、ちょっとまってコージロー!」
唐突な死の宣告に、悠火は飛び跳ねる勢いで立ち上がり、コージローに詰め寄る。
「待たねぇよ? 遅刻したんだからその分遅くまで働くのは当然だろ?」
「や、で、でも遅刻したって言っても1~2時間なんだし、そんなに遅くまでは……」
「安心しろ。ちゃんとシフトは16時から24時に変更するから今すぐ働けとは言わない」
「え、えーっと……」
「何か異論があるか?」
ねぇよな? とドスの効いた脅迫概念すら感じさせる声音で言われて悠火は一瞬たじろぐが、けれども悠火にはどうしても譲れない事情があった。
「ほら、その、ね? 今回の件は、悠火ちゃんってドジっ子だなーって温かい目で見守っていただくことで温情としていつも通りの時間のシフトにしていただくとか」
「そんな時期はとうに過ぎたと知れ。常連が「仕方ないな」って納得して出直してくれる時点でおかしいと思えよ」
「くっ。えっと、えっと……ほらほら! 夜にこんなかわいい女の子が働くとか危ないじゃない!」
「お前な……隣に住んでて何言ってんだ。それにうちは普通のバーだから危ないもなにもない」
「え、バー【スノーラビッツ】とかいかにもいかがわしい名前なのに?」
「いかがわしい言うな」
喫茶雪うさぎは不定期だが、夜になるとバーとしても開店している。
不定期。というのは主にバーを開店しているのがコージローの父で、コージローの父は母親同様、様々な事業を手がけており、昼はもっぱらコージローにまかせっきりとなっている為だ。極々稀にだが昼にコーヒーを淹れていたりもするが、完全に気晴らし程度の趣味に過ぎない。
であれば、わざわざ夜にバーとして開店する意味はといえば、
「というか、むしろ夜の方が基本的に身内しか来ないんだから、いかがわしいも何もないだろ」
そうコージローが言うとおり、バータイムの客はそのほとんどがコージローの父の知り合いばかりなのだ。
その顧客は近所の顔なじみから、大手企業の取引先の要人まで幅広い。
コージローの父、雪小路大和の持つコネクションはかなり広く、家族のコージローでさえ父がどんな交友関係をしているのか片鱗すらつかめず、現在どんな事業を手がけているのかすらも把握していない。
そんな雪小路大和の交友の場として使われているのが、喫茶雪うさぎの夜の顔だ。
店名に反して内装がシックで落ち着いた風に纏まっているのも、夜にバーとして開店する事があるが故になのである。
「えー……でもあれ、ほら、何かさ、ああいう人達って、割と苦手なんだけど。妙に気に入られるし、ぐいぐい来るから」
「まあユウは見た目だけはいいからな」
「超絶かわいいとか照れる」
「うぜぇ……まあ遅刻した罰でもあるんだから、多少無理くらいはして貰うのが筋ってもんだろ」
「えー、でも……」
「……まだ何かあるか」
「その、えーっと、ね。ねぇ……」
ちらりと紫亜に目を向けると、紫亜は察したように、けれども珍しく苦い表情で頷く。その様子にコージローは嫌な予感を覚えつつも、疑心に満ちあふれた視線を悠火に向け、問う。
「……なんだ、何かあるのか」
「――8時からレイド行きたいなって!」
「全然反省してねぇじゃねぇか! ふざけるなよ!」
さすがに言ったら大激怒だろうとわかっていても、言ってしまう辺りが悠火という人物だった。
「きゃー」
やだー。おこらないでー。と両手で頭を覆っている姿は計算されたあざとさの上に絶妙なバランスで成り立った可愛さがあり、隣の紫亜は胸に手を当ててときめいているようだが、もちろんコージローには通用しない。むしろいらだちを助長させている節まである。
「反省するなら最後までちゃんと反省しろよ! 昨日レイドで寝落ちして遅刻しといて連日とかお前、明日もシフト入ってるの忘れてないだろうな!?」
「わ、忘れてないよ! 明日は大丈夫、ぜーったい大丈夫だから!」
「お前今の状況で大丈夫とか信用されるとでも思ってるのか!?」
「し、心配しなくても寝ないから大丈夫! ほらほら、眠らなければそもそも寝落ちすることもないでしょ?」
「ああくそこいつもうダメだ。早く何とかしないと……」
「え、え?」
寝なければ寝落ちも遅刻もないと本気で理論展開しているのだから、余計性質が悪かった。
「大体お前徹夜で仕事とか、仮にも接客業なんだから――」
溜め息を吐きながら、コージローはちらりと横目で悠火を見やる。
すっぴんにもかかわらずまつげも眉も整っていて、ファンデーションも塗っていないのに雪のように白い肌には一切の乱れがなく、世の女性が見れば思わず舌打ちしてしまいそうなほどだ。これが昨夜2時間も寝ていない人物だと言われたら、誰もが口を揃えて有り得ないと言うだろう。
実際コージローも同様に思う。いや、思っていた。
何でお前徹夜してるのに元気なんだ。そう思っていたこともあった。
けれども、
「――いや。無理して倒れたらどうする。今回はちゃんと言うことを聞いて16時前まで寝とけ」
疲れていないように見えるが、けれども悠火の普段の佇まいは演技に近いものがある。例え疲れていようとも、完璧な女の子を演じ続けている限りは、疲れた姿など表に出すわけにはいかない。悠火という人物は社会人としてはお世辞にも褒められる点のないネトゲ廃人だが、やると決めたら絶対にやり通す意志の強さを持っている。
以前にも完徹何日目かもわからないような状態でバイトに来ていたこともあるが、悠火は疲れた素振りを決して表には出さないし、仕事のパフォーマンスを落とすこともなかった。
しかしそれは全て表面上の話で、寝なくても動き続ける人など居るはずがないのだ。そうして蓄積された疲労は、ある日唐突に、本当に何の前触れもなく、悠火から意識を奪い取った。
本当に何の前触れも無く、電源の落とされたかのように、或いは電池が切れたかのように、いつも通りの動きの一連の流れの延長線上で悠火は意識を失った。
見ていたコージローと一瞬すらも視線が合わずに真っ黒な深淵の中に飲み込まれたかのようにぷつりと、操り糸が切れた人形を想起させる自然さで机に側頭部を打ち、物理法則のみに従い僅かに跳ねる頭部を置き去りに膝から崩れ落ち、冷たいフロアへと崩れ落ちたのだ。
おおよそ普通に生きてきたならば人がそんな風に倒れるところなんて、目にすることはないだろう。正直その時の事を思い出すと、コージローは今でも嫌な汗が噴き出てくるくらいのトラウマになっている。
「えー……」
「……あまり心配させるなよ」
普通にしていればわからないことも、コージローも悠火との付き合いは長い付き合いだから、多少わかることもある。一種の違和感のようなものだが、普段と違い疲れているように見える時は、無理に働かせても良いことがない。
遅刻した事は怒っているし、もう少し社会人として節度を守って欲しいと思う気持ちはもちろんあるが、そういったことがあったからコージローは悠火に無理をさせることを極端に嫌っていた。
「……しょうがないなぁ」
コージローの言葉に反論しようとした悠火だったが、けれどもコージローの無理をさせまいとする意図が読み取れた為、しぶしぶだが提案を承服する。
1度の寝落ちで倒れることなどないだろうが、ここ最近悠火がCAOにかかりっきりで寝不足なのは知っている。ここらで少しでも休ませておいた方がいいだろうというコージローなりの考えである。
「まったく……」
「え、え、何ですかその互いにわかってる感。悠火様? 悠火様?」
「紫亜、超怖い。というかコージロー、紫亜はどうするの?」
「理月さんには悪いが、とりあえず11時から店を開けて16時まで働いてもらう。そこからユウと交代だな」
「わかりました。つまりわたしは悠火様が暖めてくれた布団に包まれて眠ればいいわけですね?」
「うん、紫亜は自分の家に帰ろ」
「やん、悠火様、昨日はあんなに激しかったのにっ!」
「激しいレイドだったね……」
流れるようなやりとりにコージローは溜め息を吐き出す。
「というか、わかったならすぐ店を開けるぞ。理月さんは着替えてきてくれ。ユウはさっさと帰って寝ろ」
「……はい」
「はーい」
コージローの言葉に頷きつつ、悠火は扉の方へと視線を向ける。すると外には常連のお客さんの姿がちらほら見えて、ここに来てようやく少しの罪悪感が沸いてくる。
「コ、コージロー?」
開店の準備の為に一度厨房に戻ろうとしていたコージローの背中に声をかけると、コージローの足がぴたりと止まる。
「なんだ?」
引き止めたものの、コージローもあれで結構頑固なところがある。
悠火を先に休ませると決めたのだから、ここで仮に悠火が自分もやっぱり働いた方がいいんじゃないかと言い出したところで、絶対に反対されるだけで無駄な時間を費やすだけだ。
何か言いたげな格好で止まった悠火をコージローは訝しげな目で見てくる。
「その、えっとね」
何を言うべきか考えるが、上手く言葉が纏まらない。意識はしていなかったものの、やはり少し疲れているのだろうか。
「どうした」
「ありがとね?」
「……何で疑問系なんだ? というかユウに礼を言われるとか、何か裏がないか心配になるんだが」
「酷い!?」
「おら、礼言ってる暇があれば、さっさと帰って暖かくして寝とけ。わかってるだろうが、絶対にCAOはするんじゃないぞ。ちゃんと寝ろよ」
何でわざわざそんなフラグになるようなことを言うんだろうかと思ったが、けれどもコージローの口数が増える時は、大体照れている時だ。
悠火とてさすがにここまで心配されていて、CAOにログインする気は起こらない。
「うん、おやすみ」
そう言って悠火は、喫茶雪うさぎを後にした。