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Crescent Ark Online  作者: 霧島栞
第三章・中[機械の心]
34/50

八話[その感情の名前は]

「うーん……うー……」


 夕食時、鮮やかに彩られた食卓とは似つかわない重苦しい唸り声をあげながら、悠火はコージロー特製ドレッシングのかけられたサラダを口に放り込む。


「……行儀が悪いぞ」


 その正面には雪小路次郎ことコージローが座し、自分が作った和風オムライスに十段階評価のうち六段階ほどの評価を下しながら、机に片肘を突いて唸り続けている悠火に注意する。


「んうー……むー……」


「…………はぁ。おい、ユウ」


 食事が始まってからここまで十分弱。


 夕飯の席には全くと言って良いほどに会話もなく、数十秒に一度のペースであからさまに呟かれる悠火の唸り声に根負けしたのは、いつも通りコージローの方だった。


「またCAOで何かあったのか?」


「失礼だね、コージロー。わたしがネトゲばっかりやってるネトゲ廃人だとでも思ってるの!」


「思ってるから言ってんだろうが」


 悠火は憤慨しているように言っているが、コージローからすれば、日がな一日、それこそ仕事が無い時なんて本当に丸一日でもCAOにログインしっぱなしだというのに何を言っているのか。


「むしろそれ以外のことで悩むなんてあるのか?」


「わ、わたしだって悩みくらいいっぱいあるよ? 例えば日々の肌の手入れもそうだし、新しい服も欲しいし、それに――」


「なんで悩みがそう女子女子しいんだ」


「え、いまさら?」


「……そうだな、いまさらだな」


 コージローの正面できょとんと聞いてくる悠火の格好はキャミソールにホットパンツというラフな格好ではあるが、それ故に白い肌と髪が強調されていて目に悪い。


 ぺたんと女の子座りで座っている姿といい、ぱっちりとした瞳といい、その姿はどこからどう見ても女の子にしか見えなく、反論しようとしていたコージローは突っ込むことすら馬鹿らしくなって言葉を飲み込んだ。


 一年と少し前に悠火が本格的な女装に目覚めた時は驚いたものの、普段から悠火は男らしい格好をしていなかったし、喫茶雪うさぎの手伝いをしている時は女物の制服を着用していたこともあり、驚きもあったがむしろ妙に納得してしまったところもあった。


 そこから細部が磨かれて、今の悠火に至る訳だが、よくもまあこれほどまでに美少女(笑)になったものである。


「というかその肌のどこに手入れが必要なんだ。服にしても、クローゼットに大量にあるだろう」


「いやいやコージロー、女の子を甘く見過ぎだから」


 代わりにコージローがそう聞くと、男の癖に女の子を語り始めた悠火は、箸を置いてキャミソールの紐に指をかけて肩を露出させて見せた。


「ほら、こことかさ、最近ヘッドマウント装置を付けて寝てることが多いから、汗とかで少し赤くなってたりするでしょ?」


「…………」


 確かに言われてみれば、ほんのりと赤く色付いているように見えなくもない。


「ほっとくと跡が残っちゃうこともあるからこまめに手入れしないとだし、そもそも手入れが必要な肌になってから手入れするんじゃ遅いんだから。毎日ちゃんと手入れしてるからそう見えるだけで、化粧水に美容液に乳液に結構お金かかるし、ランニングコストも馬鹿ににならないんだよ?」


「そ、そうなのか?」


 ……説明をされながらも、コージローは気がそぞろではなかった。


 悠火は肩口の部分を露出させ、かぶれて赤くなっているという部分を見せてくるが、コージローの目にはむしろ熱をもって赤らんでいるようにしか見えなくて妙に艶めかしく映り、なんとなく気まずくなって目を逸らす。


「あ、ちょっとコージロー、なに目を逸らしてるの?」


「……いいから服着ろ。風邪引くぞ」


 誤魔化すようにコージローは言うが、けれどもいつもよりも少しだけ上擦った声を見逃すほど、悠火はコージローと浅い付き合いではなかった。


「あれれ? もしかしてコージロー、わたしの肌見て興奮しちゃったの?」


「……するか、馬鹿」


「そんなこと言って、ほんとは見たいんでしょ?」


「はぁ……冗談言ってないで、さっさと飯を食え」


「むぅ、残念だね」


「……なんで残念なのかはさておき、本当に早く飯を食わないと冷めるぞ」


「千年の恋が?」


「飯が、冷める、っつってるだろうが」


「はいはーい」


 今度は素直に頷いて和風オムライスを食べ始める悠火に、コージローは別の意味での溜息を吐き出し、自分も一口オムライスを口の中に放り込み、実は少しだけ動揺していた気持ちも一緒に飲み込んだ。


 こうした冗談を言われたことが無かったわけでもないが、CAOを初めてから悠火がより女の子らしくなった気がして、どうにも調子が狂ってしまう。


「……それで。実際どうなんだ、また何かあったんだろ」


「ひょれはひゃふひょほほふは」


「食ってから話せ」


 もぐもぐもぐもぐ……ごくん。


「はふ、まあね。ちょっと思わぬところから金塊が転がり落ちて来たけど落ちた先が奈落だったみたいなそんな状況で」


「どういう状況だ。全然わからん。もう少し具体的に頼む」


「ん。実は、コージローがご飯作りに来る前なんだけどさ。初心者さんを育成してた時に[ランダムクエスト]を見つけたんだよね」


[ランダムクエスト]とは、文字通り、出現時間、条件、場所、全てが完全にランダムで現れるかなりレアで特殊なクエストのことだ。


 誰もが受けることが出来るような通常のクエストとは違い、ランダムクエストは見つけた本人が一度きりしか受けることが出来ず、時間制限が設けられていることや、特殊な条件を満たすとクリアになることが多く、1時間以内に指定のエリアのモンスターを1000匹倒せというような鬼畜な内容から、単なるおつかいをしてきてほしいという簡単な物や、病気のNPCに励ましの言葉をかけろ等という酷く抽象的なものまで、内容は多岐にわたる。


 その分報酬は通常のクエストとは比べて良い物を貰えたりもするわけだが、ランダムクエストを見つける確率なんて、毎日ログインしていても一ヵ月に一つ見つけられるかどうかくらいの確率である。


 それを見つけただけでも運が良いというのに、見つけたクエストの内容がまた、悠火にとって渡りに船とでも言うべき良い物だったのだ。


「……おい、初心者育成って、まさかパワーレベリングでもしてるんじゃないんだろうな」


「え、そこ? ……違うって、知り合いの友達がCAOを始めたから、色々と教えてあげてほしいって頼まれて、少し狩りに行ってただけだから」


 内容を思い出して没頭しそうになる悠火の思考を止めたのはコージローのそんな台詞だった。


「少し、か。既にレベル70とかか? 誤魔化してないか?」


「いやいや、まだ20だって……コージローはわたしのことどういう目で見てるの」


「言っていいのか?」


「遠慮しとく」


 どうせネトゲ廃人だと思っている、という返答以外は有り得ないと悟った悠火は、早々に撤退を決め込んだ。


 実際パワーレベリングのプランもあったし、その気になれば70どころか80くらいまでなら一気に行けるのでは……なんて考えながらにやにやしていると半眼のコージローと目が合い、悠火は「あはは……」と乾いた笑みを漏らして視線を逸らした。


「……ま、まあ話を戻すけど。そのランダムクエストの内容が個人的にはかなり興味深い内容だったんだけど、特殊な感じでね」


「ほう」


「……そのクエスト内容は、こう書かれていました」


「何でいきなり語り口調なんだ」


「そこには、こう記されていたのです……」


「……まあ、いいが」


 雰囲気を作るために言ってみたが、気だるげなコージローの反応に流され、若干恥ずかしい気持ちになりながらも、悠火はつい数刻前に見つけたランダムクエストの内容を脳内で反芻しながら言葉にする。


「……『深海に眠る都市、その最奥に現れるトリアステル=ルイン(第三の聖櫃)の影を討伐せよ』」


 知らず厳かになって、静かに響いた言葉を振り返りながら、悠姫はこのクエスト内容の特異性を再認識していた。





 ――あの後。


[レニクス工場跡]の隠し部屋でその一文を見た悠姫は、降って沸いたクエストの内容に数十秒間、まともに思考が出来ないほどの衝撃を受けていた。


 容量が足りていないパソコンに無理矢理膨大なデータを送り込もうとしているかのように、脳が拒否反応を起こし、思考が白に染まる。


 ほんの数行の文字にも関わらず、文字を脳が処理することが出来ず、まるで自分が知らない未知の文字を見ているかのような奇妙な感覚に支配されながらも思考は壊れたラジオのように同じ質問を、執拗なほどに、自分に問いかけるが、問いに対して答えが返ってくることはない。


 酸欠に陥ったかのように視界が狭まり、呼吸すら忘れていたのか視界に警告メッセージが表示される。


 赤く染まった視界の中、それでも悠姫はクエストウインドウに表示されたその数行の文字から、目を離すことが出来なかった。


 視界の中に浮かぶ文字はまるで血塗られた言葉のように真っ赤な血を流しながら悠姫の首へと、死神の手が伸び、じわりじわりとその細い首に力を――


「――ゆうねーさま!」


「はっ……ぁっ! はぁっ……はぁっ……ア、アリス……?」


 ――絞められると思われた手は悠姫の肩へと添えられた。


 心配そうなアリスの声に悠姫はやっとのことで呼吸を取り戻す。


「……大丈夫、ですか」


「はぁ……はぁ……う、ん……だ、大丈夫……」


 余程酷い顔をしているのだろう、大丈夫だと返す悠姫を見るアリスの瞳には心配の念が色濃く映し出されている。


 何度か深呼吸を繰り返し、早鐘を打つ心臓に酸素を送り込み落ち着かせなだめる。


 ふとルカルディアでも効果があるのだろうかと思ったが、気休めかそれともプラシーボ効果によるものか、はたまた本当に現実の理論が通じたのか、十数秒もすれば早鐘を打つ心臓はだいぶ落ち着き、呼吸も楽になった。


「……よし、ごめんね……アリス。驚かせちゃったよね」


「いえ、気にしてませんが……どうか、したんですか?」


 だいぶ落ち着いたように見える悠姫の様子に、アリスはほっとして問いかける。


「えっと、それなんだけど……」


 その問いに悠姫は視界の端に映るメッセージに視線を戻し、そこに書かれている文字をゆっくりと、今度はちゃんと理解するように読み解こうとしてその前に、とアリスへと確認の意味を込めて質問を投げる。


「……もう一度確認するけど、アリスにはクエストのメッセージとか表示されてないんだよね」


「クエスト……は、わからないですけど、とりあえずメッセージらしきものはないです」


「そっか……ん?」


 短く答えて悠姫が再びクエストメッセージに視線を向けると、右上端に小さく[要求レベル90]という文字が書かれており、ああ、なるほど、と納得する。


 アリスがクエストを受けられなかった理由は単純にレベルが足りなかったということだろう。


『深海に眠る都市、その最奥に現れるトリアステル=ルイン(第三の聖櫃)の影を討伐せよ』。


 繰り返し読んでもクエスト内容には理解できないところはあるにはあるが、これがどういうクエストなのか、大方の察しがつく程度には悠姫はCAOをやりこんでいた。


 今回悠姫が受けたクエストは、最もシンプルに分類すれば『討伐クエスト』にカテゴライズされるクエストだ。


 文面の『深海に眠る都市』というのは恐らくは、進入クエストをクリアすることによって行き来できるようになる[海底都市アクアポート]のことで、[アクアポート]はPC時代にあった大型アップデート:【災厄の四聖獣】によって実装された、文字通りの海底に存在する都市の名前だ。


 大型アップデート:【災厄の四聖獣】は、かつて神の使いと呼ばれ、神々の恩寵を受け、人々からも崇められていた守護獣が、神々がルカルディアを捨て[失われた十一の聖櫃]によって世界から消えたその後、聖性と恩寵を失って次第に深い絶望と狂気に捕らわれ理性を失い世界に牙を剥き始めた……という実に王道的な大型アップデートだ。


 我を失った四聖獣が暴れる前に、唯一ルカルディアに残った[第一の聖櫃]がダンジョン等の深くに彼らを封印をすることで何とか被害を抑えることが出来たが、それにより通行手段が失われた場所もいくつか存在し、それが[海底都市アクアポート]や[幻想都市ミラ]といった、四聖獣の討伐を含むレイド戦闘のある進入クエストを攻略しなければ到達することが出来ない都市だ。


 このクエストの目的は『海底都市アクアポートの北西。[クルシェ水龍神殿]B4Fに出現するトリアステル=ルインの影を討伐する』ものだと推測できるが……そもそものこの『トリアステル=ルインの影』というのが不可思議な存在だ。


「とりあえず、シアとニンジャも呼んで……」


 呟いてひとまず二人にギルドチャットで連絡を入れて、悠姫は再びクエストの内容に思考を傾ける。


 額面通りに受け取ればどんなものなのか想像はつくが、それがどういった存在なのか……具体的には、このルカルディアでその存在がどんな意味を持っているのか、また、何故今になって都合良くこんなクエストが見つかるのか、ルカルディアの歴史に関わる何かしらの情報が得られるのではないかと胸を躍らせそうになる半面、悠姫は得体のしれない何かに監視されているような視線を感じて身震いした。


 もちろん、振り返り見たところで誰も存在しないが、そう思ってしまうほどに、このランダムクエストはルカルディアという世界を愛し、その秘密を解き明かしたいと思っている悠姫にとって都合の良いクエストで――だからこそ、このクエストの内容はあまりにも異端だと感じたのだ。


 前にも述べたが、オンラインゲームのメソッドとは基本的に誰か一人が優遇されるようなものではない。課金制のオンラインゲームならば運営にお布施という名の現金を貢げば貢ぐほど強くなれるものではあるが、少なくともCAOはそういった課金制のオンラインゲームとは一線を画し、純粋にプレイ時間ややりこみ具合によってプレイヤーの強さは決まってくるものだった。


 物語の主人公のように最初からチート能力を持っていて最強だったり、世界にたった一つしかない宝剣を手に入れて英雄になったり、強敵に合えば都合良く覚醒したりなんかしない。


 オンラインゲームは、誰もが最初は初心者で、スタート地点は一緒で、けれどもやり込めばその分だけレベルは上がるし、強くなれる。


 特に一つのオンラインゲームに人生をかけている勢いでプレイしているガチ勢の廃人レベルともなるとまるでチート行為でもしているかのような動きをしたり、ダメージを叩き出したりもする。それでいて初心者に優しかったり、高難易度クエストのクリアの手助けを無償でしていたりするとなれば英雄視されることもあるくらいだ。


 もちろんドロップ運や経験、その他諸々の状況にも左右されるので、与えられるリソースが完全に平等とは言えないが、それでも累計してゆくと確率は収束してゆくし、効率の良いレベリングの方法などはすぐに掲示板や攻略サイトに載るので、少し調べれば見つけることは容易い。

それだからこそ。


 今回悠姫が見つけたこのクエストは悠姫にとって都合の良過ぎる話だった。


 それはそう――むしろこのクエストが、悠姫の為に作られたのではないか? そんな作為的めいた物を感じざるを得ない程に。


「ユウヒ様! どうしたんですか?」


「何かあったでござるか……って、な、なんでござるかこれは」


「わわっ、すっごーい! 壁に穴が空いてるよ!」


「あ、シア、ニンジャ、来たんだ」


 そんなことを考えているうちにシアとニンジャが駆けつけてきて、悠姫は思考を強制的に中断させて話しかける。


「え……ユウヒ様、これ本当にどうしたんですか?」


「や、話せば長く……はならないけど、ちょっと二人ともこっちに来てもらえる?」


「はい」


「む?」


「あー、うん、いいよ。ありがと」


 素直に悠姫の言葉に従うシアと、不思議そうな顔をしながらも悠姫の方へと寄ってくるニンジャの様子を見守るが、二人が悠姫のほんの一メートル程手前まで来ても何の反応も示さなかったことで、悠姫は先ほどのクエストがランダムクエストであることを確信し、さらには発生条件が既に消失してしまっていることを察して再びクエストウインドウを表示させた。


「……もしかして、クエストか何かあったんですか?」


「鋭いね、シア」


「当たり前じゃないですか、だって、わたしはユウヒ様のことずっと見てますから……」


「え……」


「……なんでそんな嫌そうな顔してるんですか?」


「や、シアのストーキングはいつものことだから良いけど……」


 被害妄想なのかもしれないが、先ほどの監視されているような視線を思い出し、悠姫は言葉を濁す。VR世界で直感も何もあるものではない無いだろうが、最近何かしら妙な体験をしているだけに笑い話と済ませることが出来ない。


 システムにまで関与する権限を持つNPC、クラリシア=フィルネオス、フィーネの存在や、そのフィーネに特別扱いをされていること、さらにはUFLでCAOのPVを見た時にフラッシュバックしたウィーニード=ストラトステラの言葉。


 仮に、どれか一つだけならば、特別なクエストを見つけたと手放しで喜ぶことも出来たかもしれない。しかしそれがいくつも重なってくると段々と不安になってくるものがある。


 良いことばかりが起きると「あれ、わたしこの後死ぬんじゃね?」と思ってしまうのがネットゲーマーの思考というものだ。偏見ではあるが。


「それで姫。どんなクエストがあったのでござるか?」


「ああ、うん、それなんだけど」


 そう前置いて、悠姫は二人に先ほどのクエストの内容を話し始めた――





「――ってことがあってね」


「なるほどな」


 場所は戻って、悠火の部屋のリビング。


 説明を終わらせた悠姫はコージローが淹れてくれたコーヒーを一口すすり、一息つく。


「レベル上げを途中で切り上げるのもなんだからその後もう少しアリスとアリサのレベル上げをして落ちたけど……正直どうしようかなーって悩んでるところなんだよね」


 煮え切らない態度の悠火に、コージローは僅かな違和感を覚えて問いかける。


「何か悩むことでもあるのか? ユウなら喜び勇んで攻略に乗り出しそうなもんだが」


「うーん……それは、そう、なんだけどね」


 コージローの言う通り、喜び勇んでクエスト攻略に乗り出したい気持ちはあるにはあるのだが、しかし現実的な問題と感覚的な問題の二つが悠火の意欲にブレーキをかける。


「仮にクエストを進めるにしても、大前提として海底都市アクアポートに行くにはレイドボスを倒さないといけないんだよね。サービス開始からまだひと月も経ってないから、装備が全然足りないというか、そもそも人が足りないっていうか、クエストの期限が一週間もないっていうのも辛いところだし、それに……」


「それに?」


「んん……何でもない」


 CAO内で感じた妙な視線……疑心暗鬼になっていたせいでそう感じたのだと言ってしまえばそうなのかもしれないが、ざらりとした風が肌を撫ぜるような、あの背筋がぞっと凍るような感覚は笑い話で済ませてしまうことなど出来ない。


「……良くわからんが、レイドボスっていうのは、そんなに強いのか?」


 コージローが知らず地雷を踏み抜いたことにより、ぴくり、と悠火の肩がわずかに上がる。


「え、コージロー何言ってるの? レイドボスだよ?」


「そう言われても、ボスなんて倒しに行ったことがないからわからんぞ」


 当たり前のようにレイドボスだから。で片付けようとした悠火だったが、レイドボスどころか普通のボス級モンスターを相手にすることがほとんどないコージローにはそもそもの尺度がわからなかった。


 廃人プレイヤーと一般プレイヤーの越えられない隔たりがここにもあった。


「コージロー、狩場とかでボスに轢かれたこととか無いの?」


「ダンジョンとかフィールドでならあるが、あれも即死って程じゃないだろ。要はレイドボスってのはそれの少し強い版だろ?」


「……………………少し。ね」


 それは例えばATKが数十倍あったり、高倍率の回避不可の範囲スキルを使って来たり、HPやDEFが目を疑うほどに高かったり、貫通の状態異常や、酷ければ即死スキルを放って来たり、特殊なギミックをクリアしながらじゃないとダメージを与えることすら困難だったり、スキルの順番を間違えただけなのに反射ダメージで死んだり、その他諸々の厄介な性質全てが少しというのならば……確かにレイドボスとは、少し強い程度のボスなのだろう。


 超絶レアな装備を揃え、製錬値も全てMAX、属性耐性も当然ながら全属性MAX、さらには状態異常も全て遮断でき、もしも対人でもしようものなら確実に叩かれ、攻略しようと躍起になられた挙句、着地地点は破壊不可オブジェクト扱いされるようになる――そんな装備を揃えている超超超超絶廃人プレイヤーならば、かろうじて納得はゆくだろう。


 確かに、そんな装備があればレイドボスの攻撃も、普通のボスの攻撃よりも少しだけ強い程度に感じられるのかもしれない。


「……っパないね! コージロー!」


「どうしたんだ。いきなり」


「え、だって廃人すら霞む超絶レアな、まさに俺TUEEEEEな最強装備でキャラを固めてるんでしょ?」


「どうしてそうなった。というか、俺をお前ら廃人と一緒にするな」


「は、廃人じゃないし! 世の中には働くのも辞めてネトゲに人生を捧げてる人も居るんだから、わたしに謝って!」


 憤慨する悠火だったが、コージローはそれを一笑に付す。


「対して変わらんだろ。……まあ何となく言いたいことはわかったけどな。つまり、レイドボスっていうのは……かなり強いってことなんだろう?」


「……かなりって言う見識もちょっとどこまで想像してるかわからないけど……レイド――大規模戦闘用に作られたボスだから。たぶんコージローが思ってる以上に絶望的な強さだよ。初見で攻略なんてまず不可能だし、スキルや行動パターンの解析だけで数日から数週間かかることもある上に、それだけやっても倒せる気すらしないレイドボスなんてのも居るしね」


 CAOではVR化前に、どうしても攻略することが出来ないクエストやレイドボスはいくつもあった。そしてそれと同じだけ未踏破の都市やダンジョンも多く存在していた。


 例えば、シルフォニア大陸南東、廃エンドコンテンツとも言われている『神々が遺棄した島』なんかは代表的な攻略不可能マップだったし、それとは別に『死者が眠る墓地の谷』に稀に出現しては唐突に消える死を運ぶ風、『ヴァンダーガイスト』や、時計塔地下13階、ダンジョン攻略に時間制限があり、どんなパーティでも攻略できなかった『時の迷宮』クエスト。先に出て来た『災厄の四聖獣』のアップデートで実装された、幻想都市ミラを守護する『暁の魔人グラム』だってそうだ。焔の剣で死を撒き散らす灼眼の魔人に、いったい何千人のプレイヤーが屠られたことだろうか。悠火も一時期死にに行くのが日課になっていたくらいだ。


「倒せないレイドボスって、それはそれでどうなんだ。もう調整ミスとかバグとかの部類じゃないのか? それは」


「やー、あー、うーん……」


 コージローの問いに、悠火は目を泳がせながら唸る。


 悠火の知る限りCAOでそんな話は無かったが、別のオンラインゲームでそれは稀に良く聞く話ではあるのだ。


 調整ミスで即死級のスキルを延々連発するレイドボスや、ダメージが全部0になるほどの超DEF、MDEFなんて序の口。スキルの範囲の桁を間違えて視界外のプレイヤーがいきなり死ぬという現象が起きたり逆に索敵範囲の設定を忘れていて遠距離攻撃を撃てばそれだけで狩れてしまうレイドボスなんかも存在していた。


 又、バグの方面ではダメージを与えてもHPが減らないなんてことや、そもそも攻撃が当たらないこともある。酷い場合だと一定のダメージまでHPを削るとレイドゾーンのプレイヤー全てがフリーズして強制的にゲームから落とされるなんてこともあった。まさに必殺。HP等というちゃちなものじゃない、いとも容易く行われるえげつない行為と言わざるを得ないまさに禁じ手。外道。この外道! そう叫びたくなるようなことも……稀に良く起こるのだ。


 それくらいオンラインゲームと調整ミス、バグというのは切っても切り離せない関係にある。


「んー……CAOに限ってそんなことはないだろうし、レイドって基本エンドコンテンツだから、レベルをカンストして装備も充実し始めたプレイヤーが束になって戦略を立てないと太刀打ちすらできないくらいじゃないと話にはならないんだよね。ほら、簡単に攻略出来たらすぐ終わっちゃうじゃない」


「……そんなもんなのか?」


「そんなもんだよ」


「ふむ……」


 コージローはまだ少し納得いかないようだったが、ぶっちゃけ攻略できないくらいの方がやり込んでいる人からすればやりがいがあるというものだ。


 システムの裏をかくことだけに情熱を燃やす廃人なんて、それこそごまんと居る。


 そういった廃人が居るからこそ、ゲームが成り立っているのだというのは悠火の持論だ。


「で、話は戻すけど、さすがに今回のレイドボスはうちのギルドで行ってもたぶん無理そうだし、ちょっと悩んでるっていうのもあるんだよね」


 妙に乗り気しないという点を省いても、海底都市進入クエストのレイドボスは今のレベルでは挑戦するに躊躇われる相手なのだ。


 最初期の方の入門とも取れるようなレイドゾーンならばお試し感覚でいけるが、中盤から実装された高難易度のレイドゾーンに至っては生半可な覚悟をもって挑むと後悔しか生まないことになる。


 仮定しよう。


 挑戦する為に揃えた装備なんかはまだ別の場所で使えるものだったりもするが、一度の挑戦で使う消耗品の数々のことを考えれば失敗した時のリスクが大きすぎるのだ。


 加えてどう頑張ったところで今のレベルだと勝率は良くてもコンマ数%を超えることはないのは火を見るよりも明らかで、クエストの制限時間が一週間もないとなればいっそ諦めてレベル上げや装備を整えるのに時間を費やした方が無難というものだろう。


「そういうものなのか。ユウやこの前戦っていたキリエって人なら、レイドボスなんかにもソロでやりあえるのかと思ったが、そうでもないんだな」


「む」


 やっとのことで認識の齟齬が埋まってきたのかそう尋ねてくるコージローに、しかし悠火は味の無いふやけた煎餅を噛んだような微妙な表情を浮かた。


 視線あっちこっちへと右往左往。視線が揺れるのにつられて白い髪がゆらゆらと揺れる。


「……や。そりゃね。超強いよ? 強いけど。強いけど……別に時間を掛ければ……うん。装備とかあれば……倒せないことも無きにしも非ずかも? だからね。コージロー。絶対無理って決めつけるのは、ちょっと早計じゃないかな?」


「いや決めつけてはないが」


 きっ、と目尻を上げて見て言ってくる悠火に、コージローは淡々と返した。


 確かに一言も決めつけの言葉なんて言っていないが、悠火は頬を膨らませながらなおも追及する。


「でも無理なんだろって思ったでしょ? ね、思ったんでしょ? はいはい必死乙(笑)。ぷーくすくす。とか思ってるんでしょ!」


「思って……いや本当にそこまでは思ってない。そもそも大規模戦闘用のボスで無理だって言ったのはユウだろうが」


「そ、そうだっけ? ……で、でもわたしはうちのギルドで行ってもたぶん無理だって言っただけで、わたしが無理だとも絶対無理とは言ってないもん!」


 ギルドで行って無理なものを、悠火一人でどうにか出来る訳がないが、無理なんだろ? 即死なんだろ? と煽られると、意地でも頷きたくなくなるのは廃人の宿命だった。もはや呪いと言っても良い。


 例え傍から見て不可能だと思う悪夢のようなレイドボスでも、何十、何百、何千とトライ&エラーを繰り返して攻略の糸口を見つけ、討伐し、あまつさえルーチン化出来るようにパターン解析を進めるのがオンラインゲームにおける廃人という人種だ。


 その熱意を現実に向ければどれだけ社会貢献できるだろうかはさておき、もちろん悠火もその例に漏れず、極度の負けず嫌いを発揮して言い訳をするが、けれども論理的に考えて明らかに破綻しているのは誰の目にも明らかだった。


「もんってお前……」何をかわいこぶってるんだと続く言葉を何とか飲み込み、コージローは代わりに深く溜息を吐き出す。


 悠火が意地を張り出すとろくなことにならないということを、コージローは体験として知っている。


 ここで正論を連ねて論破なんてしてみたならば、それこそソロでレイドボスを討伐出来るまでずっとCAOにログインし続けかねない。


 毎日毎日仕事もせずにニート廃人まっしぐら。


 そしてそうなると困るのはむしろコージローの方だ。


 悠火の健康面も心配だが、それ以上に喫茶雪うさぎのスタッフが減るのはかなりの痛手だ。


 特に悠火は喫茶雪うさぎの看板娘と言っても良いほどにお客さんから人気がある。大げさにでも何でもなく、悠火がバイトをやめれば売り上げは落ちることになるだろう。


 それをわかっているだけにコージローは耐え忍ぶしかなかった。


「はぁ……ともあれ、決めるのは俺じゃないからな。明日の仕事に支障が出ない程度になら別に無茶してもいい」


「むぅ……なんか釈然としないけど、そこはもうちょっとやさしい言葉をかけるところじゃないの」


「かけたところで無茶するなら、最低ラインを決めた方が余程合理的だろ」


「そうかもだけど……って、あれコージローもう帰るの?」


 言って立ち上がろうとするコージローに悠火は尋ねる。


「どうせこの後もログインするんだろ?」


「そうだけど」


 ログインしないということの方が有り得ないという聞き方をされると反論したくはなるが、コージローの指摘は正しいので悠火は素直に頷く。


「だったら――」


 コンコン。


 ――と、唐突に聞きなれない物音がコージローの言葉を遮って響いた。


「うん?」


 やや遅れてそれが玄関の扉をノックする音だと気が付いて、悠火は立ち上がりながら呟く。


「おや、こんな時間に誰かな。ちょっと見てくるね」


「ユウ、それ死亡フラグって言うんじゃないか」


「その発想が出てくる時点でコージローも染まって来てるね」


「染めた本人がどや顔で言うな」


「ふふん」


 そのまま「まあどうせ新聞の勧誘か何かだろうけどねー」なんて言いながら軽い足取りで玄関に向かい、覗き穴から外を見てみる。


「……え?」


 だがしかし、そこに見えた人物の姿に悠火はぴしりと身体を固まらせることとなった。


「な、なんで、紫亜……?」


 玄関扉の覗き穴から見えた人物は、悠火が呟いた通り、最近のお気に入りなのか長い黒髪をおさげにして纏め、薄手のカーディガンを羽織り、何のためにかはわからないが手に大きな荷物を持った女の子……理月紫亜だった。


『――ユウヒ様? そこに居るんですね?』


「っ!?」


 まさか呟きに言葉が返ってくるなんて思っていなかった悠火は、びくん! と覗き穴を覗いていた姿勢のまま跳ね上がるという器用なことをして息を飲んだ。


『そこに居るんですよね? ユウヒ様。……開けてくれませんか?』


 …………怖!


 言葉の内容自体は特におかしなところは無かったが、紫亜が言うだけでどこか狂気を孕んだ呪いの言葉に聞こえるのは何故だろうか。


 ノブに手を伸ばそうとする紫亜を見た瞬間、悠火は脊髄反射な速度で玄関の扉の鍵をかけ、チェーンまでかけた。


『え、ちょ、ちょっとユウヒ様! なんで鍵をかけるんですか!?』


「ひぃっ!」


 ガチャガチャと回されるノブはまるでホラー映画のワンシーンのようで、悠火はクイックターンで玄関を離れてリビングで帰宅準備をしているコージローに掴みかかった。


「こ、ここここ、コージロー! どうしよう! 紫亜が、紫亜が来ちゃった!」


「はぁ? 何言って……って理月さんが? 来たのか? ……というかユウはなんでそんな怯えてるんだ? 仲良いだろう、お前ら」


「た、確かに仲は良いけど!」


 確かに悠火は紫亜と仲が良い。ネット上ではCAOがVR化以前の時代からの知り合いで、最近では喫茶雪うさぎにバイトとしてやってきたことから以前よりも距離は縮まっているのは明らかなのだが、けれども仲が良いのと紫亜がヤンデレなのはまったく別の問題だ。


「だったら良かったな。友達が遊びに来てくれるなんていつぶりだ? ははは」


「わかってて言ってるよねコージロー!? なにその乾いた笑い! 目を逸らしながら言ってる時点で確信犯だよ!」


「そうは言ってもな」


「せやかてユウ。じゃないよ!」


「落ち着けユウ。言ってないぞ」


 脳内で妙な関西人の関西弁フィルターがかかるくらいに悠火は混乱していた。


 CAOのバッドステータスで言うなら混乱:3辺りか。


 コージローから見ても紫亜の悠火への溺愛ぶりは少々行き過ぎているようにも思えないこともない。


 例えばそれは何度言っても悠火のことを「さん」付けで呼ぶのに慣れないらしく、職場でもしょっちゅう悠火のことを「様」付けで呼んでいることや、ことあるごとに悠火の姿を目で追っているのもそう。最近は仕事の内容にも慣れてきたこともあり、余裕が出て来たのか隙を見て軽いスキンシップを図ろうとすることも例に上げることが出来るだろう。


 仕事の面でも特に粗相をすることもなくなってきたので、スタッフが増えて開店時間が増えるのはコージローにとって喜ばしいことだが、このままでは喫茶雪うさぎが[百合喫茶]などと言われないか戦々恐々としている。

だがそれはそれとして、


「ま、ユウも理月さんも19だし、別に何かあっても問題にはならないだろ」


「な、何かって何さ?」


 ネトゲばっかりして同年代の友人というものがほとんどいない悠火に、歳の近しい現実の友人というものが出来るのは良いことだとコージローは思っている。


 ましてや相手も同じ趣味を持っていて、慕ってくれているのならば文句も無い。


 言うならばお父さん……というよりはまんまお母さんのような心情だ。


 友達が少ない娘が家に友達を連れて来た、そんな感じ。


 例えその慕ってくれている、という度合が行き過ぎだとしても、そこは自分にどうこう出来る範疇を超えているとコージローは最初からばっさりと切り捨てている。


 ここで普通に返しても良いのだが、コージローは先ほど悠火にからかわれそうになったことを思い出し、少しだけ意地悪に返してやろうとメガネを押し上げながら、言った。


「何って……そうだな。具体的に言うと――避妊はちゃんとしろよ。ユウ」


「ぶっ! げ、げほっ! げほっ! な、ななななななな!?」


 急に生々しい話を振られて、悠火はむせ返った。


「何てこと言うのコージロー! せ、セクハラ!」


『ちょっ……セクハラって何ですかユウヒ様!? 何されてるんですか!? ここを早く開けてわたしも混ぜてください!』


「し、紫亜は黙ってて!」


『何でですか!?』


 何が、何でですか!? なのか。

驚いて大きな声を出してしまったからか耳聡く悠火の声を拾う紫亜を一喝して黙らせ、悠火はきっ、とコージローを睨みつける。


「さすがに冗談だがな」


「も、もう! コージロー! 冗談が過ぎるよ!」


「理月さんといちゃいちゃするのは良いが、明日も仕事なんだからほどほどになってことだ」


「い、いちゃいちゃって……」


 それもう死語だから、なんてツッコミが出来る程に悠火の思考は定まっていなく、紫亜に引っ付かれている自分を想像すると、顔が赤くなっていくのが分かる。


 そんな悠火の様子を見ていたコージローはやれやれとメガネを押し上げながら悠火に尋ねる。


「彼女に好意を持たれていること自体は嫌ではないんだろ?」


「それは……そう……だけど」


 度が過ぎているというか、紫亜の好意は本当にまっすぐで、それ自体は嫌ではないが、まっすぐに向けられたその好意に対してどう返して良いのか悠火にはわからない。


「だったら、俺が居ても邪魔なだけだろ。ま、なるようにしかならんさ。がんばれよ、ユウ」


「うー……」


 そう言って話を切り上げ、唸る悠火の隣をすり抜けて玄関へと向かうと、コージローはがちゃがちゃとならされている取っ手を見て苦笑しつつもチェーンと鍵を外した。


「ユウヒ様早くここを開けてくださ――っ!」


「おっと」


 外すと同時に紫亜に手によって開かれた扉にやや体勢を崩しながらも、コージローは玄関から一歩、外へと出る。


「……雪小路さん?」


「こんばんわ、理月さん」


 同時に紫亜とコージローの目が合い、俄かに緊迫した空気が流れるが、それを手で制してコージローが紫亜に何か一言二言告げると、紫亜から立ち昇っていた剣呑な雰囲気は嘘のように霧散していった。


「じゃあな、ユウ。風邪引くなよ」


 そうしてそのままコージローは紫亜の隣をすり抜けて帰って行った。


「……あはは」


 後に残った悠火は、恨みがましい視線を向けてくる紫亜に、乾いた笑みを浮かべることしか出来なかった。





 ……数分後。


 悠火はリビングで正座をしていた。


 目の前には隣に大き目の荷物を置いた紫亜が、ハイライトの消えかけた目で悠火を見ており非常に居心地が悪い。


「……ユウヒ様、なんですぐに開けてくれなかったんですか?」


「や、だってそれは……」


 問いに、悠火は言葉を濁す。


 ――ユウヒ様? そこに正座してください、という紫亜の言葉に促されるままに正座した悠火は、今まさに尋問されている最中だった。


「それは……何ですか?」


「……だって、なんか怖かったし」


 少しだけ悩んだ末に、悠火は素直に答えた。


「こ、怖いって何ですか! こんな健気な女の子に向かって酷いです!」


「えぇ健気……? でも、うぅん……」


 健気な女の子はそもそも夜分に家に押しかけてきて玄関の取っ手をがちゃがちゃと鳴らしたりはしないはずだ。……しないよね?


 けれどもCAOを一年間も理由も告げずに休止していたにもかかわらず、ずっと悠火の帰りを待っていてくれた彼女、リーシアこと理月紫亜を健気だと言えないこともない。


 紫亜が待っていてくれたから、悠火はすんなりとCAOに復帰して溶け込むことが出来たのだろうし、もしかしたら紫亜と会っていなければひよりと出会うことも出来なかったかもしれない。それにリーンや久我やニンジャの件にしたって、紫亜が居なかったら素直に向き合うことすら出来なかっただろう。


 思えば――ギルド[Ark Symphony]を作って、他のギルドに移住した昔のギルメンがやってきた時なども、紫亜が間を取り持ってくれていることが多かった。


 彼ら、彼女らは紫亜がずっと待っていたことを知っているし、その紫亜が何も言わないのだからとすんなりと悠火の復帰を受け入れてくれた人も少なからず居た。


「な、なんでそんなに本気で悩むんですか!? もう、わたしはユウヒ様が心配で来たっていうのに、門前払いなんて泣いてしまいそうです」


「それはごめん……って……心配でって、何で?」


「はい?」


「や、心配って、わたし紫亜に心配かけるようなことしたっけ」


 何を当たり前のことを聞いているんですか? と言わんばかりの疑問符で返されて、悠火は再度問い直す。


 いきなり紫亜がやって来て、思わず鍵を閉めてしまったことの一番の要因は、紫亜が何をしに来たのかわからなかったことだ。


 紫亜にヤンデレ気質があることは誰の目にも明らかなことではあるし、コージローの冗談ではないが、悠火は夜這いでもしに来たのかと勘違いしてしまうのも致し方ないだろう。


 だからこそ、紫亜の口から出て来た、心配、という言葉はまるで聞いたことのない言語のように悠火の耳朶を打った。


「あ、いえ。ユウヒ様がログアウトする時に元気が無いように見えたので。だからつい、心配のし過ぎかと思ったんですが家まで来てしまったんです」


「……そうなんだ」


 ……心配してくれて家まで来てくれて、それなのにわたしは勝手な妄想で怖がって締め出しちゃうなんて、悪いことをしたかな……。


 そこまで考えたところで悠火は紫亜の隣に置かれた大きな荷物が視界に入った。


 そういえば、あれ……と芽生え始めていた罪悪感がぴたりと止まる。


「……それはそうと紫亜、わたしずっと気になってたんだけど、聞いていい?」


「え、はい? あ、もしかしてわたしのスリーサイズですか? ユウヒ様にならわたしの全身をまさぐって調べてもらっても良いですよ!? むしろ舐めまわすように……いえ、実際舐めてもらってもかまいません! むしろそうしてください!」


「はぁ……」と、悠火は思わず溜息を漏らす。


「紫亜も、もう少ししおらしくなれば――」


 続けて言おうとしたところで、ふと悠火はもしかして紫亜のこの変態発言はひょっとしてわざとやっているのではないのだろうか? という可能性を思いつき言葉を止めた。


「……ユウヒ様?」


 急に言葉を止めた悠火のことを不審に思ったのか、紫亜がわずかに疑問の色を含んだ声音で問いかけてくる。


 ……ヤンデレな所や変態なところに視線が行きがちだが、紫亜だって普通の女の子だ。


 悠火がCAOに復帰して初日には不安で聞きたい言葉を紡ぐことが出来ないくらいに繊細で、悠火のことを誰よりも考えて支えてくれている、そう、確かに健気な女の子だろう。


 現に、こうして悠火が思考を巡らせている間も、紫亜は何も言わずにじっと悠火の言葉を待っていてくれている。


 ――つまり、今回の紫亜の変態発言も、実は紫亜なりのコミュニケーション手段であり、変態っぽい発言をして場を和ませようとしているだけなのではないだろうか。


 それこそ実際に話に乗ってみたら、「ほ、本気にしないでくださいユウヒ様っ!」なんて言って逆に戸惑って身を引くくらいに。


 ……そう思った悠火は、よし。と気を取り直し、これまで紫亜の変態発言に振り回されていたことも含めて意趣返しの念も込め、こほんと小さく咳払いすると正面の紫亜へと真っ直ぐに視線を向けた。


「――紫亜、本当に良いの?」


「え……は、はい?」


 問いに戸惑いがちに返してくる紫亜の声音と表情を見て、悠火は、やっぱり。と確信する。


 いくら何でも紫亜のような見た目可愛い女の子が本気で変態的な発言ばかりするはずはないと思っていたが、やはり冗談で場を和ませようとしていたのだ。


 悠火はそのまま言葉を続ける。


「紫亜が思っている以上に、わたしも紫亜のこと、好きなんだからね? ずっと待っててくれてうれしかったし、こうして一緒に居られるのも、その……うれしいし……だからね、本当に紫亜の身体を撫でまわしても……良い……の……?」


 ……なにこれはずかし!


 意趣返しのつもりだったが、いざ口に出して言ってみると予想以上に恥ずかしく、最後の方は尻すぼみになってほとんど聞き取れないくらいの声量となってしまっていた。


 言っていることの最後以外は本当だが、素直に感情を伝えることに慣れていない悠火は顔から火が出るほど恥ずかしかった。


「ユ、ユウヒ様……」


 そんな悠火のうれし恥ずかしな台詞を聞いた紫亜は、一瞬だけ言葉を失い、


 ……でも、これで紫亜も――と、そう思う悠火の思考を裏切るように、直後、爆発した。


「――きゃうんっ!? ゆ、ユウヒ様がわたしのこと好きって……っ! も、もう一度言ってください! いえむしろもちろんウエルカムですから! ユウヒ様、思う存分わたしの身体を撫でまわしてください! しあぱいちゅっちゅしてくださいっ!」


「きゃああああ!?」


 ――果たして、何が『やっぱり』だったのか。


 悠火が確信した物は、偽の金貨だった。幻想だった。ただの罠だった。というか自分で墓穴を掘って落ちただけだった。


 途中から言っていて恥ずかしくなってきて頬を染めながら言っている姿は、どう見ても羞恥プレイでしかなかった。言うなればセルフ羞恥プレイだ。


 押し倒さんがばかりの勢いで抱き付いてくる紫亜を、悠火はぎりぎりで押し戻して抗う。


「ちょ、まっ、待って! 紫亜待って!」


「だってユウヒ様これからわたしの身体をまさぐるんですよね!? やん、ユウヒ様のえっち! もっとしてください!」


「お、落ち着いて! ごめんなさいごめんなさい! 冗談、冗談だから!」


「冗談で済んだら警察は要りません! さあさあ、早くわたしの身体を余すところなく舐めまわしてください!」


「冗談で済ませないと警察沙汰だからね!? ちょ――っ、紫亜!? 何で服を脱ぎ始めてるの!? ていうか舐めまわすとか言ってないから!」


 どこから突っ込めばいいのやら、服をたくし上げる紫亜の手を押さえながら、悠火は必死にまくしたてる。


 ……誰だ、紫亜の変態発言が場を和ませようとする冗談だって言ったのは! ――わたしでした!


「冗談! 冗談だから!」


 そして冗談などではなく、紫亜は真正の変態だった。


「………………むぅ」


 けれども必死に抵抗する様子があまりにも真に迫っていたせいか、紫亜も徐々にやりすぎたのかと思い、不満そうではあるが膨れながらも服にかけていた手を離した。


「何でですか? わたしはユウヒ様が撫でまわしたいっていうから、服を脱ごうとしただけなのに……」


 言っていることは理論的には間違いではなかったが、倫理的には間違いしかなかった。


「そ、それは、だって」


「だって?」


「冗談だと思ったから乗ってみたら、紫亜、本当に襲い掛かってくるんだもん……」


「わたしが冗談であんなこと言うはずがないんじゃないですか」


 真顔で言う紫亜に、むしろ冗談であって欲しかったのだが、と悠火は思う。


「はぁ、でも、本当に冗談だったんですね……」


 若干落ち込んだ声で相槌を打つ紫亜に、「あ、で、でも」と悠火は慌てて告げる。


「その……紫亜のことが好きっていうのは、嘘じゃないから……ね? いつもお世話になってるし、好意的に見てるのは、うん、間違いじゃないから」


 ここで情を消しきれないのが、悠火の良いところでもあり悪いところでもあるだろう。


「ユ……ユウヒ様っ!」


「きゃあ!?」


 感極まった紫亜が抱き付いてくるのを止めることが出来ず、可愛らしい悲鳴を上げてしまってから、紫亜をべりべりと引き離す。


「は、な、れ、てっ!」


「きゃんっ♪」


「も、もう……。て、ていうか話が脱線しまくってたけど、聞きたいのはそんなことじゃなくてそれ。その鞄のことなんだけど」


「え、これですか?」


「うん、それ」


 玄関の覗き穴から見た時から気になっていたが、ここまでずっと聞きそびれていたことがそれだ。


 いやむしろ予想はついている。あまり想像したくないが、紫亜という人物の性格を考えれば十中八九そうだろうという予想はついている。それも必中する自信があるくらいに、むしろ予言として先に言ってしまっても良いくらいに当たりはついている。


「それ、なに?」


「――もちろん、お泊りセットですけど。あ、見ますか?」


 それでも一縷の望みをかけて問いかけた悠火に返ってきたのは、まさに予想通りの答えだった。大き目の鞄を開けて中身を見せようとする紫亜に、悠火は「や、いいから」と制止してこめかみを押さえる。


「……えっと、紫亜? 心配して来てくれたのはうれしいけど、何でお泊りセットなんて持ってきてるの?」


「それは、ユウヒ様を不安からお守りするために、傍に居てあげたいと思いまして」


「で、その心は?」


「ユウヒ様と濃密な一夜を過ごすための良い機会だと思いまして。襲っても良いですよね?」


「良いはずないじゃない」


 何を根拠に襲って良いと判断するのか、悠火は理解に苦しむ。


「ユウヒ様♪ 襲っても良いですよね♪」


「可愛らしく言ったところでダメだから。むしろ何で可愛く言ったし」


「えー、何でですかユウヒ様、一夜を同じベッドで過ごした仲じゃないですか」


「ちょ、普通に寝ただけだし、しかもCAOの中の話でしょ! そもそも何でって言われると、理由がいっぱいすぎて、むしろ絞るのが難しいんだけど」


 紫亜を泊めたくない理由をあげ始めれば、それこそキリがない。


 紫亜の性格的な問題でむしろ悠火の方が性的な意味で危なそうだし、そこまで行かなくとも紫亜は悠火が本当は男だということを知らないのだから、性別がばれる可能性もある。どれだけ可愛い容姿をしていても悠火は男だ。女性である紫亜を部屋に泊めるというのは倫理的な面でまずい。


「えぇ、本当にダメなんですか? いいじゃないですか、ユウヒ様。泊めてくれるなら、何をしてくれてもいいですよ?」


「よし、泊めてあげるから今すぐ帰って」


「どういうことですか!?」


 矛盾をさらりと言って、驚く紫亜の様子に溜息を吐きながら、悠火はじっとりと紫亜を見る。


 ……だって泊めたら何されるかわからないし気が付くと下着とか無くなってそうだしそれにただでさえわたしが男だってことは紫亜に秘密にしてるんだからばれると怖いしむしろばれてから襲われる方が怖いというか明らかに何かやらかそうとしてる目だし……。


「……あの、ユウヒ様? 何でそんな目をしてるんですか?」


「自分の胸に手を当てて聞いてみたら?」


「やん、ユウヒ様、自分で自分の胸を揉ませるなんて、えっちですね!」


「あはは、死ねばいいのに」


 割と本気でそう思いながら、悠火は断固として告げる。


「――とにかく。絶対に、泊めないからね!」





 そして1時間後。


「あ、ユウヒ様、お風呂上りました」


「…………そう」


 髪を乾かして洗面所からやってきた紫亜を見て、悠火はどうしてこうなった。と心中で嘆く。


 即堕ち2コマシリーズ並みの展開の速さに、悠火は運命を呪った。まるで物語のストーリーが初めからそう決められていたかのような完全なる予定調和だった。


「……紫亜、ちゃんと前留めようよ」


「良いじゃないですか、どうせユウヒ様しか見る人がいないんですから」


 リラックスした様子の紫亜とは違い、自分の部屋だというのに全然落ち着くことが出来ていなかった。ちらちらと見える紫亜の肌が目に毒でまともに視線を合わせることが出来ない。


 ……わたしが困るから言ってるんだけど。


 そう思えど、何で困るんですかなんて追及されたらより困ることになるだけなので、目下反論は封殺状態だ。


 こんな夜更けに紫亜を一人で帰らせるというのはいささかかわいそうな話ではないだろうか。なんて、そう思ってしまったことを本気で後悔しそうになる。


 そもそもこんな時間にやってきている時点で、紫亜にとって夜道など恐るるに足りないのかもしれない。泊めずに帰す方が良かったのかもしれないが、例えヤンデレの上に変態で、襲い掛かってきたところで逆に撃退してしまいそうなイメージがあったとしても紫亜とて女の子だ。


 なまじ喫茶雪うさぎでの職務態度やCAOでの動きを見ていると、紫亜は極度の運動音痴だ。もし仮に本当に夜道で変な輩にでも絡まれたら太刀打ちすることが出来ないのは明白だ。


 そう思い仕方なく泊めてあげることにしたのだが、早くも後悔に追い出しておけばよかったと思うことしきりだった。


「ああ……これがユウヒ様の匂いなんですね……はすはす……」


「紫亜、普通に発言が気持ち悪い。普通に規制されてるところだよ」


「ええ、チャットがですか?」


「存在が」


「存在が!?」


 少なくとも悠火が警察に届け出を出せば存在が規制されることになるレベルだ。


 自分の行為をまったく不思議に思わない紫亜も紫亜だが、そういった変態チックな行為に対して紫亜だし仕方ないなんて思ってしまっている悠火も大概ではある。


「ところでユウヒ様、ログインしないんですか?」


「や、するよ。するけど……」


「けど?」


「紫亜、リンクミラー持ってきてるよね?」


 CAOにログインする為に使われる機械は、大きく二つのデバイスに分けられている。


 一つは大本となるサーバーとの接続、脳波の検知や様々なプログラムを走査する入出力機械である[コンフィーネント]というアタッシュケースほどの大きさの機械で、こちらは量販店などでも購入することが出来るいわゆるゲーム機本体のようなものだ。


 そしてもう一つはヘッドマウントディスプレイに似た形状の機械、通称[リンクミラー]と呼ばれる、[コンフィーネント]に繋ぐ装置だ。


[コンフィーネント]には[リンクミラー]を差し込む端子が4つ用意されているので、[リンクミラー]さえ持って来れば別の場所からもログインすることが出来るようになる、言わば古い世代のゲーム機の本体とコントローラーの関係だ。


 もちろん昔のゲーム機とコントローラーの関係と違う点も、いくつか存在する。


 その中でも最たる違いを挙げるなあば、それは[リンクミラー]には個人の利用契約が必要となる点だろう。


[コンフィーネント]は家電量販店などでも購入することが出来ると言ったが、[リンクミラー]はLOEの直営店のみで購入可能なデバイスである。


 前にも話に出たことはあると思うが、CAOは12歳以下のプレイヤーがログインする場合、保護者が同伴する必要がある。さらに15歳以下のプレイヤーに対しては厳しめのハラスメント警告が適用されるし、異性の接触にしても結構厳しい審査をされる。


 けれどもVRゲーム内では、ある程度好きにキャラクターメイクが出来る為、見た目だけでは年齢も性別もわからなくなってしまう。


 故に[リンクミラー]は購入段階で声や脳波、個人情報などの登録を済ませることにより、アバターの外見に関係なくハラスメントの基準を算出しているというわけだ。


「はい。もちろん持ってきていますよ? だからユウヒ様がログインしてから、わたしもログインしようかと」


 そう言って紫亜は、鞄の中から[リンクミラー]を取り出して悠火へと見せる。


「待って。先にログインしたら何されるかわからないから、先に紫亜がログインするまでわたしはログインする気起きないんだけど」


「そ、そんな! わたしが先にログインして無防備に横たわるユウヒ様の肢体にねっとりじっくりと指を這わせて堪能しようと思っているとでも言うんですか!?」


「紫亜。普通に願望ダダ漏れだから」


「だ、大丈夫です! 少しだけしか触りませんから!」


 触ることを前提で言う紫亜に、悠火は頭が痛くなってくる。


「……や、わたしは紫亜が先にログインして、ひよりんかリーンからちゃんと繋いだのを確認できるメールが来ない限り、絶対ログインしないから」


「し、信用ゼロですね……」


「日頃の行いのせいでね」


「くっ!」


 悔しそうに歯噛みしているが、どうしてそこまで悔しがることが出来るのか、悠火にはそちらの方が疑問だった。


「わかりました。ではわたしが先にログインするので、ユウヒ様は無防備に横たわるわたしの身体を好き放題してから――」


「はいはい、早くログインするー」


 まだ戯言を言おうとする紫亜の手から[リンクミラー]を奪い取り、無理矢理頭にかぶらせベッドへと横たわらせると、続けて[リンクミラー]の側面部から伸びるケーブルの先のコネクターを手に取り、[コンフィーネント]の2番目の端子へと繋ぐ。


「むー……じゃあ先に行ってますね」


「はいはい、わたしもすぐ繋ぐからね」


 超絶不満そうな声を適当にあしらって、[コンフィーネント]から繋がっているモニターを起動し、メーラーを開くとひよりとリーンの二人宛てにメール文章を作成する。


 そこまでしなくても[コンフィーネント]の接続ランプを見れば一目瞭然で、グリーンのランプが付いていればログインしていることがわかるが、万が一ということもある。それほど警戒されるくらいに、紫亜は信用が無かった。いや、ある意味信用されているのか。


「ほんとにもう……もう少しまともなら、こんなことしなくていいのに」


 愚痴を漏らしながら、悠火は自分も繋ぐ準備をするべく[リンクミラー]へと手を伸ばす、その途中で、


「あれ?」


 いつも自分が使っているシャンプーの香りに混じって、嗅いだことのない良い香りが鼻孔を擽り、悠火は思わず動きを止めて紫亜の方へと視線を向けた。


 ゆるく二つに結ばれた艶やかな黒髪は水分を吸ってしっとりと腰辺りまで続き、おなかの上に添えられている手はシミ一つ無く、胸元が開かれていて見える肌はお風呂からあがってまださほど時間が経っていないせいか、ほんのり上気していた。まるで毒りんごを食べて眠りに付く白雪姫……と形容する場合は悠火の方が適切かもしれないが、それに等しい聖性を持っているかのような穏やかな寝顔と、呼吸のたびに上下して、服の上からでもはっきりと形を主張する双丘のふくらみが悠火の視線を釘づける。


 ……ごくり。


 唾を飲む音がやけに大きく聞こえて悠火は思わず息を殺す。


「……そう、だよね……」


 今まで意識しなかったし、意識しないようにしてきたが、紫亜だって黙っていれば普通以上に可愛い女の子だ。しかも好意を抱かれているのは悠火自身が見てもわかるくらいで、そんな女の子が無防備に自分の部屋のベッドの上で寝ているのだ。


 それを今更ながらに意識してしまった。


 考えないようにと理性が命令を下すが、けれども身体はそれに反して動かない。


「……紫亜?」


 囁くように声をかけてみるが、紫亜の反応はない。


 もう既にCAOにログインしているのだろう。


「……紫亜」


 何か言って心を落ち着かせようと思うものの、喉が渇き言葉が続かない。


 ほんの数分前に『ではわたしが先にログインするので、ユウヒ様は無防備に横たわるわたしの身体を好き放題してから――』なんて言っていた言葉が脳内でリピートされ、ダメだと思いつつも手が紫亜の身体に伸び――ようとして、自分でも気が付かない程無意識に降ろし、ベッドについていた手が紫亜の髪に触れ、悠火は僅かばかり冷静さを取り戻した。


「……さらさら」


 悠火の透き通るような白髪とは違い、光すら飲み込みそうなくらい艶やかな漆黒の髪。


 ……そういえば、子供頃ってこんな黒髪に憧れてた時があったね。


 さらさら、さらさらと指先で紫亜の髪を弄んでいると、自然と心が落ち着いてきて、悠火は懐かしい記憶へと身を投じる。


 ――子供の頃、悠火は自分の真っ白な髪が嫌いだった。


 調和を重んじ、異端を迫害することが遺伝子の海の遥か彼方から脈々と受け継がれている人類という種において。もっとも種の本能に従い行動を起こす年代、つまり幼少期とは、普通から外れた者にとってはまさに地獄とも言えるべき年代だろう。


 人と違うということが個性であり、個性は重んじられるものだと偉人がうそぶいたところで、個性を剥奪しようと思う者や不必要と切り捨てる者は厳然と存在するし、連なる迫害の系譜はどれほど人が進歩しようとも消えることは無い。


 真っ白な髪に、真っ白な肌。男の子なのにまるで女の子のように整った相貌。女の子でもそういないだろうという高いソプラノの声。


 それだけあれば周りから後ろ指をさされるには、十分な理由だった。


 子供は純粋で、だからこそ残酷だ。


 一人だけ違う髪の色は特別ではなく異端と断じられ、まるで人とは違う生き物のような扱いを受けいじめの対象にされるのは、予定調和のように当然の流れだった。


 今でこそ自分の髪の色を素直に受け入れることが出来、あまつさえ女装して完璧な女の子の振る舞いを獲得する為に日々努力するなどといった予想外のカミングアウトをかますほどになっているが、悠火にもそういう時代があったのだ。


 過去を懐かしみながら、さらさら、さらさら……と指先で紫亜の髪をいじっていると、胸の鼓動がだいぶ落ち着いてきた。


 しかしそうなると不思議なもので、今度は少しの緊張と感傷が混じった、不思議な感覚が悠火の胸に去来する。


 人付き合いと言えばまずネトゲのことを思い浮かべる悠火にとって、人との関係性というのは酷く脆い印象を抱いていた。


 オンラインゲームに繋ぐ人と言うのは基本的に誰も彼もが寂しがり屋で人との繋がりを求める癖に酷く自分勝手だ。


 声も顔も性別も、性格すらもわからない電子の海の中での逢瀬だからこそ、素の自分を出すことや、なりたい自分になることが出来るし、もしそれで嫌なことがあれば繋がなければそれで関係は断たれる。そうでなくともアバターの名前を変えればまったくの別人になってやり直すことすら出来るのだ。


 叩けば割れそうな薄い氷で出来た繋がり。


 けれども一方的に断ってしまった繋がりですらも諦めずに――少なくとも悠火から見れば――無垢に自分を想い続けて待っていてくれた紫亜やフィーネの気持ちを考えると、言葉にし難い感情が胸の奥から溢れてくる。


 ベッドまで垂れている自分の白髪と、紫亜の黒髪を混じり合わせて指で梳いてみる。


 質感の違う二つの髪が混じりあい、解けていくのを見ていると先の感覚がより強さを増した気がして、その感情に悠火は瞳を閉じて考える。


 ……嫌な気分じゃなけど……なんだろう、これ。


 ――その感情の名前を敢えて表現するならば普通の人が『愛しさ』とでも呼ぶものなのだろうが、それを自覚出来る程に悠火は自分の感情に聡く在れる程の人付き合いなどして来なかった。


 ネトゲ廃人の弊害が、こんなところにも表れていた。


 ――ピコン!


「ひゃい!? び、びっくりした……メールか」


 暫くその不思議な感情について考えていたら、唐突に[コンフィーネント]から電子音が響き、悠火はびくりと飛び上がって立ち上がり、メールを確認する。


「あ、ちゃんとログインしてるみたいだね……」


 先とは別の意味で高鳴る鼓動を抑えながら、悠火はもう一度だけ紫亜へと視線を向ける。


「……すぐにログインするからね、紫亜」


 やさしく響く言葉と共に紫亜の髪をもう一梳きだけして、[リンクミラー]をかぶる。


 そして悠火は[ルカルディア]へとログインした。


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