七話[真実]
ひよりが早朝にそんな出会いを経て特訓をしていることなど露とも知らず。
悠姫がログインしたのは月曜の午前十時過ぎのことだった。
今日の悠姫は[雪うさぎ]のアルバイトが休みで、あちらでは今頃シアが四苦八苦しながら頑張っているはずだ。
アルバイトを始めて僅か三日目で一人とは、かなり緊張するのではないかと思われるが、けれども今日は月曜の平日だ。そこまでお客さんが来るとは思えないので、慣れることの意味も兼ねて今日はシアだけとなっている。
もちろんコージローも気にかけてくれるようだし、昨日は一昨日よりも皿を割る枚数も少なかった。今日辺りパーフェクトでいけるんじゃないだろうか。
「あれ?」
そんなことを考えながら誰かログインしていないかを確認する為にフレンドリストを表示してみると、そこにはリーンの名前があった。
『リーン?』
『か、欠橋悠姫?』
声をかけてみるとすぐに反応が帰ってきた。
図書館には居ないところを見ると、どこかに出かけているのであろう。
『リーンも今日は休みなの?』
『わたくしですの? ……わたくしはもう、テスト休みに入ってますわよ?』
『は……? え! リーンって高校生なの!?』
まさかの事実に、悠姫は驚きの声を上げる。
『な、何ですの!? わたくしが高校生だったら、何かおかしところがありますの!?』
まさかお嬢様口調でロールしている女の子が、高校生だなんて思う訳もないだろう。
てっきり悠姫と近い年齢かそれ以上だと思っていた。というよりも年下にあれだけ辛辣なことを言われていたのだと思うと、今更ながらに少しへこむ悠姫だった。
『……やー、びっくりだね』
『む……っ、わたくしだけ知られるのは不公平ですわ! 欠橋悠姫! アナタはいくつなんですの!?』
『女性に年齢とか訊ねるのはダメだよ、リーン?』
悠姫は女性ではない癖に、女性であることを盾に取ったテンプレを言った。
『教えてくれないのでしたら、後で酷いことにしますわよ!』
噛み付かんとばかりに言うリーンに、リーンにはあまり冗談を言わない方が良いなと思いつつ、悠姫は別に隠すことでもないので告げる。
『わたしは今19だね。高校を卒業して、アルバイトしてる感じ』
『そ、そうなんですわね……』
リーンが言って少しの間。何をしているのか気になったが、ギルドチャットでは相手の様子は伺うことが出来ない。
リーンがテスト休みだということは、同じ高校生だろうひよりもテスト休みに入っているのかな、等と思いながらも、高校と言っても色々あるだろうし、そうじゃないのかな……とログインしてこないひよりに悠姫は少しやきもきする。
『……で、今日はわたし休みだからログインしたんだけど、リーンは何してるの?』
『わたくしは少し露店を見ていましたわ。何かしますの?』
十日も経てば、露店も増える。
セインフォートの南通りは今や結構な数の露店が並び立つ、立派な露店通りとなっている。
まだ家を買うほどのお金を持っている者も少ないのでNPCのお店ではあるが、小さな食堂やレストランのようなお店も存在する。
『うーん、露店見て少しゆっくりするのも良いけど、お店とかでゆっくりするなら[第一の聖櫃]にでも行こうかな』
天気も良いことだしフィーネの所に行ったらお茶も出るかもしれないし。と思いながら悠姫は今日の第一目標をそう決める。
『そうですの……と、時に欠橋悠姫? ……わたくしは今暇しているのですけれども、その……何か言う事は、ないのかしら?』
『あ、そだ。リーン』
『はい!』
『臨時広場に良さそうな臨時とかある?』
『何でそこですの!?』
さすがにこの時間だとまだないとは思うが、あるならそろそろ臨時にも顔を出してみるのも良いかと思い始めたので聞いてみたのだが、帰ってきたのは流れるようなツッコミだった。
『え?』
『え、じゃないですわ! この場合、[第一の聖櫃]へ行くのに、わたくしも一緒にどうかと誘うべきところでしょう!? 何故久我やニンジャの時は気軽に誘っていて、わたくしの時はスルーしますの! ずるいですわ!』
『別にスルーしてるつもりはないけど……えっと、じゃあリーンも一緒に行く?』
『……し、仕方ありませんわね? そこまで言うのなら、ついていってさしあげますわよ?』
リーンのあまりにも素直じゃない態度に悠姫は苦笑しながら『じゃあ図書館で待ってるね』と言って、設定をギルドチャットからオープンチャットへと戻す。
メアリーが居れば頼んでおいた他の情報についても確認しておきたかったところだが、残念ながらメアリーはログインしていないようだった。
何気なしに備え付けの椅子に腰を下ろし、悠姫は天井を仰ぎ見る。
考えないといけないことは色々とあった。
EPの迷惑行為に対しての対策もまだ良い案が思い浮かばないし、セリアとの決闘のこともある。いっそのことで大々的なイベントになるようにと前座に色々と盛り込もうとしたけれども、それもどうなることか。
セリアとの決闘の日時は三月十五日。次の日曜日だ。
まだ猶予があるとはいえ、未だなにも進展の無い状況というのは心情的にかなり辛いものがある。
加えてひよりの問題が悠姫の心に重くのしかかる。
悠姫がログインしていた時にはひよりはログインしてこなかったが、さっき見たフレンドリストに表示されていたひよりのレベルは一つ上がって78になっていた。
それはひよりが今朝セリアに教えてもらった[二重詠唱]ができるように特訓をしていた結果なのだが、知らない悠姫からすればただひよりに避けられているように感じるだけだ。
……もしかしたら、嫌われたのかな。
ひよりが悠姫に嫌われたらどうしようと思うのと同じく、悠姫もひよりに嫌われるのが怖いと思っていた。
初心者を廃人の道へと踏み込ませてしまったが故の責任感というものもあるが、けれども悠姫はひよりがとても頑張り屋で、素直な女の子だということを知っている。
せっかく仲良くなれたというのにすれ違いでその関係を失ってしまうのは悲しい。
そのことを、悠姫はVR化した新生CAOで痛いほどに学んだ。
……シアもリーンも、きっと久我やニンジャだってそうだったんだよね。
かつて昔の悠姫のギルドに所属していたメンバーもそうだっただろう。
一年前。悠姫は自分の都合で誰にも何も言わずにCAOから姿を消したその日。
悠姫が休止を決めたのは、悠姫にとってやらなければいけないことがあったからであり、そのことを否定する権利は誰にも与えられてはいない。
けれどもそれによって怒りを覚えた人が居た。ぽっかりと胸に穴が空いた人が居た。目標を失った人が居た。上客を失った人が居た。悲しみを覚えた人が居た。
――ずっと待っていた人が居た。
多くの人が欠橋悠姫の突然の休止に感情を揺らし、今の悠姫のような、いやひょっとしたら比べ物にならないほどに心を痛めることになったのだ。
……せめて一言だけでも言っておけば良かった。と今では素直にそう思う。
例えそれで休止することの決意が鈍ってしまったとしても、告げておくべきだったのだと。
仮想世界であるルカルディア。
その世界が好きだった悠姫でさえ、そこでの出来事はパソコンの中でしか存在しない出来事だと思っていた。
一人のユーザーが居なくなったところで変わらず[ルカルディア]は続いてゆくが、けれどもプレイしているのは皆同じ人間であり、人である以上感情がある。
ゲームの中の話であってもそれは何も変わらない。
シアやフィーネに至っては一年間もずっと待たせてしまったのだ。
もしも自分がその立場だったらと思うと、悠姫は自分にはそんな長い間ずっと待ち続けることなんて出来ないだろうと思う。
だからこそ悠姫は、ひよりとすれ違ったままで終わってしまうのは嫌だと思った。
VR化に伴って変わったインターフェースが与えてくれたのは悪いものだけではない。
仮想世界で実際に会って話すことで、初めて本当に気が付くことが出来るものというのも確かに存在した。
「――欠橋悠姫?」
「きゃっ!?」
そんなことを考えていたらいつの間にやらリーンが図書館に戻って来ていて、天井を眺めていた悠姫の視界に唐突に彼女の顔が現れて、悠姫は可愛らしい悲鳴をあげる。
「い、いきなりどうしたのかしら?」
「ご、ごめんごめん。ちょっと考え事してて……」
「考え事……というのは、やっぱりセリア=アーチボルトとの決闘の事ですの?」
「あー……うん、まあね」
問いに対して、そのことも考えていたので悠姫は頷く。
「けれどもそうは言っても、セリア=アーチボルトは魔法職でしょう? 相性的にアナタの方が有利なのではなくって?」
「定石で言えばそうだけど、でも相手はあのセリアだしね」
仮にも廃人と呼ばれるプレイヤーで、さらには掲示板などでもバトルジャンキーのような扱いを度々受けている彼女のことだ。
勝算も無しに勝負を挑んでくるなんてことは有り得ないだろう。絶対に何か隠し玉を持っているに違いない。
VR化に伴って変化したシステムで、物理職である悠姫にはわからないような、魔法職特有の何かが必ずあるはずだ。
「まあでも決闘は次の日曜だし、わたしもそれまでに対策を練習しておくかな」
一応の構想はあるのでそう言って、悠姫はソファから立ち上がりリーンへと視線を向ける。
「欠橋悠姫。わたくしに負けるまで、負けるのは許されませんわよ?」
「あはは、がんばるよ」
少しだけ拗ねたように言うリーンに、悠姫は微笑を浮かべて答える。
そう言われてしまったら、負けることが出来ない。
負けられない理由が一つ、増えてしまった。
「それじゃ、いこっか」
そしてそう言って、二人は[第一の聖櫃]へと向かうのだった。
遥か蒼穹の彼方に浮かぶ[方舟]。
[第一の聖櫃]には、変わらず物悲しいBGMが流れていた。
壊れたオルゴールを鳴らすような、途切れ途切れの音だ。
「そういえば、聖櫃に流れてるBGMって、聖櫃によって違うんだよね」
VR化後は都市やフィールドやダンジョンに至るまでの全ての場所にBGMが無くなったが、けれども聖櫃にだけは変わらずBGMが流れている。
「そうですわね。わたくしは、[第四の聖櫃]のBGMとかが好きですわ」
「[第四の聖櫃]かぁ。わたしは今の[第三の聖櫃]のBGMも好きだけどね」
「わ、わたくしも嫌いではありませんわよ?」
天候を創りし[第三の聖櫃]と、大地を創りし[第四の聖櫃]。
その[聖櫃攻略戦]のBGMは、どちらも壮大な雰囲気に仕上がっていた。
[第三の聖櫃]で現れる[尖兵]はエレメンタル系のモンスターが多く、序盤のレベルが低めのところに出て来る[尖兵]は属性攻撃主体の物理系に分類されるモンスターだが、中盤から後半にかけてはそれらを盾として後ろから大魔法を連発してくる[尖兵]が出現してくる。
大抵はここの各属性の飽和攻撃によって、プレイヤーが[尖兵]に殲滅されて[聖櫃攻略戦]は幕を閉じることになるのだ。
「というか、もしかしてリーン、サントラとか持ってる?」
「持っていますわよ?」
「くぅ、うらやましい……わたし買えなかったんだよね」
まさかと思って聞いてみたら本当に持っていたらしく、悠姫は本気で地団太を踏む。
Crescent Ark Onlineのサウンドトラックは過去に一度きり、限定数量販売されたものしか存在していない。
その一度というのも、悠姫がまだ学生時代に発売されたもので、当時の悠姫にはそんなサントラを買うお金も時間も存在しなかった。
後から入手しようにも、オークションに出ているようなものはどれも値段が馬鹿のように高く、服や化粧にもお金がかかるので未だに入手できていなかった。
「ち、近ければ、貸しにもいけたのでしょうけれども」
ちらっ、ちらっ、と悠姫を見ながら言うリーンに気が付かず、悠姫は少し考える。
「うーん、わたしは――」
そう前置いて悠姫は住んでいる都道府県をリーンに言って聞いてみるが、リーンが住んでいる都道府県は悠姫の場所からは結構な距離があった。
「そこだと実家が同じ県だけど、特に帰る予定もないしね……」
「ど、どちらにせよ、欠橋悠姫とふ、二人で会うなんてそんなこと、いけませんわ!」
最近になって悠姫はリーンのこれが照れ隠しによるものなのだとわかってきた。
ことあるごとに久我にリーンはツンデレだと吹き込まれて、リーンの事がツンデレに見えて来ていた。軽い洗脳だった。
「あ、もしかしたらシアとか、持ってるかな」
「? 何故ここでシアが出て来るんですの?」
「え、それは……や。なんでもない」
「…………? まあ、それよりも欠橋悠姫は何の為に[第一の聖櫃]に来たんですの?」
危うくシアが付近に引っ越してきたことを言いそうになり、悠姫はそうごまかすと、リーンはそんな悠姫を少しだけ不思議そうな目で見ていたが、特に気にすることもなかったようで話を続けた。
「特に用事っていう用事は無いよ? 強いて言うなら気晴らしとか、そういうところだね」
そう言って悠姫は歩く方向を変えて[第一の聖櫃]の右舷部を目指す。
リーンは導かれるままに悠姫の進む方向へとついてゆく。
「こっちに何かありますの?」
「ふふ、すぐにわかるよ? ほとんどの人は転生以外で[第一の聖櫃]なんて来ないだろうから知らなくて当然かもしれないけど……ほら――見えた」
「なんですの、ここは?」
そう首を傾げて言うリーンの目の前にあるのは壁面にある扉だ。
「いいからいいから」
「あ、か、欠橋悠姫、いきなり――」
そう言って悠姫は扉を開きリーンの手を取って扉の外へと一歩出る。
いきなり手を握られたことで驚いたリーンが慌てて抗議しようとするが、けれどもその言葉はそこから見える風景によって霞み、失われた。
遥か空の彼方に浮かぶ[第一の聖櫃]。
[第一の聖櫃]の内部に居るだけでは、空の上に居るのだということは実感し辛かったが、けれどもその場所から見える風景を見れば、嫌でもここが空の上だということを実感することになる。
透明な材質で出来た足場へと一歩踏み出せば、そこからは普段自分たちが拠点としているシルフォニア大陸の首都セインフォートがまるで豆粒のように小さく見える。
雄大な山脈は[黒曜石]の産地で知られる[オルフレド山脈]。
火口が見える活火山は[ロスティカ鉄火山]だろう。
そこから離れて、川がいくつにも分岐して流れている傍の灰色の大地は[ファーメナス湿地]。
その川が息吐く先にある生い茂る森は、入ると出れなくなると言われている[迷宮の樹海]。
行ったことのあるフィールドも、まだ行ったことのないフィールドも、数多くあるが、[第一の聖櫃]から見えるシルフォニア大陸はいつも見ている大地とはまるで別物だ。
空と言う途方もない海に抱かれて存在する、広大な小さな大地。
魂を奪われるような、風景がそこにはあった。
それに見えるのはシルフォニア大陸だけではない。
北東のリリネア大陸や、南東の[神々が遺棄した島]も見える。
[神々が遺棄した島]は、CAOにおける最高難易度を誇るフィールドやダンジョンが存在する島で、[朽ちた複合都市クレシエント]に何人か居るNPCを起点としたまさに廃エンドコンテンツと言っても良いほどの[狩られ場]だった。
荒廃した大地に、あちこちに突き立つかつて冒険者だった人らしき者の武器の数々。かつては高度な文明を持っていたであろうことだけがかろうじてわかる朽ちた都市の残滓。
徘徊するモンスターの種類は様々だがフィールドには機械系のモンスターが多く、一体一体が並みのレイドボスくらいはある馬鹿げたHPに高DEF高MDEF。耐えることなど想定している訳がないだろうと言わんがばかりの超ATK。
そして極め付けは[欠けた十一の聖櫃]に存在する[尖兵]よりも高いレベル。
その大陸は一体どういう状況を仮定して作られたのかすら分からない、歩き回ることすら困難な大陸で、一応フィールドにもダンジョンにもレイドボスは存在するのだが、[神々が遺棄した島]のレイドボスはいままで誰にも狩られた形跡がなく、経験値もドロップも何もかもが謎に包まれている。
一度大手ギルドが200人単位のレギオンレイドを組んで討伐に向かった時も、ハイレベルプレイヤーを集めたお祭りとして向かった時も、ほとんどが雑魚敵に壊滅させられてレイドボスにすら辿り着くことが出来なかったくらいだ。
[神々が遺棄した島]には何かの意図があるのだと思うが、ひょっとしたらただの未実装コンテンツ扱いとなっていてモンスターデータも有り得ない程高く設定しているだけなのかもしれないとも思えるほどの難易度だった。
「すごいでしょ?」
「……はい」
悠姫がしたり顔の笑みを浮かべて尋ねると、リーンは素直に頷いた。
「でも、足元は見ちゃダメだよ」
「え? きゃああああ!?」
そんな絶景を前にして風景に見入ってしまっていたリーンは、悠姫のそんな言葉にやっとのことで我に返って、直後、下を見て足元が透明な材質の何かで出来ていることに気が付き、悠姫に助けを求めるように抱き付いた。
「あ、危ないリーン落ちる落ちる!?」
「ちょ!? ああああ、暴れないでくださいまし!?」
実際に暴れているのはリーンの方なのだが、気が動転してしまっているリーンはそのことに気が付いていない。
リーンの身体が小さくて軽いおかげで倒れはしなかったものの、整備用の通路は幅が狭い。さすがの悠姫もこの高さからの救命具無しスカイダイビングはごめんだった。
「ちょ、リーン落ち着いて!」
「落ちます! 落ちますわ欠橋悠姫!?」
何とかなだめようとするものの、リーンは完全にパニック状態だ。
バステよりもリアル状態異常が多くて、仮想世界がヤバかった。
「ごめんね、リーン!」
こうなったらもうしょうがないと、悠姫は力ずくでリーンを落ち着かせるために、彼女を力ずくに抱きしめる。
「きゃあ!? か、かかかか欠橋悠姫!? な、ダ、ダメですわそんないきなり! やっ……あ、んっ……」
最初の内はいきなり抱きしめられて驚いてはいたものの、けれども段々リーンの身体から力が抜けてゆき、悠姫は何とか落ち着いてくれたかとほっとする。
「……リーン、落ち着いた?」
悠姫もそのままでずっといるのは恥ずかしいのでそう言ってリーンを少しだけ離して問いかけると、リーンは潤んだ瞳で悠姫を見上げていた。
「……欠橋悠姫、わ、わたくしを抱きしめるなんて、そんな……」
「――悲鳴が聞こえて見に来てみましたが、どうやらお楽しみ中のようですね」
「きゃああ!?」
割って入ってきた声に、リーンは再び悲鳴をあげて扉に背を当てる勢いで跳ね上がった。
視線を向けると銀の甲冑に身を包んだ[第一の聖櫃]の守護者。
[天元騎士イヴ=アンジェ]の姿がそこにあった。
「あれ、イヴ? こっちに来ていていいの?」
「はい。どうせ今日も誰もやってきませんし、暇をしているところに悠姫様が訪れたので、ご挨拶をと思いましたが……お楽しみをお邪魔してしまったようで申し訳ありません」
淡々とそう言いながらイヴは頭を下げる。俗世的なところに気を回すことが出来るほどに彼女のAIは高性能らしい。
「お、お楽しみって、わたくしは別に――っ!」
「心拍数が上がっておられます。それに先ほども満更ではない顔をしておりましたが」
「ち、違いますわ! そ、そんなことありませんからね! って何をにやにやしていますの欠橋悠姫!」
「え、わ、わたしにやにやなんてしてないよ!?」
からかわれているリーンが珍しくてその様子をただ見ていただけだというのに、とんだ冤罪を押し付けられて悠姫は驚きのあまり即座に否定する。
「ふっ……」
「何がおかしいんですの!?」
その様子を見ていたイヴが含み笑いを漏らし、リーンがそれを目敏く察知して噛み付く。
「いえ、仲がよろしいのだと思いまして」
その言い方にリーンは一瞬言葉を返そうとしたが、けれどもすんでのところで飲み込む。
自分で違うと言うのは癪だったのだろう。
「ふん。偉そうにしていますが、いまのわたくしが本気を出せば一人でもアナタとわたりあってみせますわよ?」
「ふむ……それは一興ですね。試してみますか?」
「いやいやいやいや。二人ともこんなところで暴れないでね!? 落ちるからね!?」
何故か火花を散らす二人をなだめながら、悠姫はここに居ては危ないと二人を何とか扉の中へと押しやる。
「はぁ……はぁ……」
せっかく悠姫のお気に入りの風景をリーンに見せて上げようと思って案内したというのに、悠姫は何故か肩で息をしていた。
だがしかし元はと言えばちゃんと最初にそういう場所だと言う説明をしていなかった悠姫の責任なので自業自得だった。
「大丈夫でしょうか? 悠姫様」
「……何とかね」
しれっというイヴに、彼女の思考回路がどうなっているのか真剣に気になった。
悠姫様と言う割には敬意を払うような態度は無く、どちらかというと現状を楽しんでいるようにも見える。
[第一の聖櫃]を守護する為に造られたと言いながらも、随分人間味あふれる守護者である。
「それで? この前やり合った場所でまた勝負を致しましょうか?」
「リーンも煽らないの……まだあの時からそんな経ってないんだから、戦っても発狂モードでやられるでしょ……」
「そ、そこはスキルでごり押しですわ!」
強引な攻略方法を考えているようだが、けれどもそう言った強引な手段は戦力に余裕がある場合に取る手段で、それしか出来ないからやるというのはどう聞いても失敗フラグだ。
「リーンのスキルは先日の戦闘で見させて頂いております」
「くぅ~~っ! ……きっ!」
どこか得意気に見える表情でイヴが言い、リーンはハンカチがあったら両手で握って噛みそうな勢いで悔しがり、そのとばっちりで悠姫が睨まれる。
さすがに理不尽な流れだった。
「というよりも何で欠橋悠姫は様付けで、わたくしは呼び捨てなのですの!」
「悠姫様は、我が主の騎士ですので」
「……きっ!」
悠姫は何の落ち度もないはずなのに再びリーンに睨まれて乾いた笑みを浮かべる。
「あは……は……、そ、それはともかくとして、イヴにちょっと聞きたいんだけど」
「はい? なんでしょうか」
矛先を逸らすために悠姫は別の話題をイヴに振る。
「今やってる[聖櫃攻略戦]……[第三の聖櫃]の話だけど、イヴはトリアステル=ルインについて、何か知ってたりする?」
それは聖櫃に纏わる歴史に関しての問いであり、現在攻略中の[第三の聖櫃]に関するものだった。
天候を創り出した神[第三の聖櫃(トリアステル=ルイン)]。
彼女は世界の基盤となる広大な大地の上に人々の生活に必要となる循環の根源たる天候と、さらには空の彩りを創り、人々の心に感情を与えた。
世界に住まう全ての人々が空を見上げた時、不変ではなく変化し続ける天候が存在するように、人々が停滞しないように、トリアステル=ルインは天候を創ったのだ。
彼女もまたルカルディアに住まう人々を愛していた。
――そんな彼女が何故世界を見捨てたのか。
他の神々にしたってそうである。
世界を捨てる前の神々は誰もが一様に世界を愛していた。それは間違いのない事実である。
そうでなければ世界はここまで美しく存在していないだろうし、人類もとうの昔に絶滅してしまっていただろう。
それなのに。
――何故彼らは世界を捨てたのか?
悠姫の問いに、イヴは答える。
「……申し訳ありません、悠姫様。私にはその問いに答える為の知識がありません」
向き合って、イヴは深く頭を下げてそう言った。
「私が造られたのは、他の神々が[欠けた十一の聖櫃]によって世界を去った後のことです。なので、それ以前の記憶は持ち合わせてないのです」
「ふ、ポンコツですわね」
「……そっか、そうだよね」
リーンの空気の読めない挑発はさておき、考えてみれば確かに当然である。
彼女は[ルカルディア]から神々が去った後、新しい人類を創るのに力を使い切って聖櫃の機能が十分に果たせなくなった[第一の聖櫃]を護る為に造られた守護者だ。
神々との面識はおろか、その時代のことを知っているはずがなかった。
「けれども、もしも知りたいのであれば我が主に聞いてみるのは如何でしょうか。きっと悠姫様なら答えてもらえるとは思いますが」
「……ん」
イヴの勧めはもっともだと思いつつ、けれども悠姫は彼女にそれを聞くのはあまり気乗りしなかった。
恐らく聞けば答えは返ってくるだろう。
けれども世界を支える為に自らの身体を[第一の聖櫃]の動力部と融合させてまでして新たな人類を創り、世界を脅威から護ってきた彼女に、過去の仲間の事を軽々しく聞いて良いものか。
悠姫にとって、彼女はこの世界で特別な存在だ。
自立型のAIを持つNPCだと知っていても、彼女は一年間ずっと、悠姫の約束を覚えて待っていてくれた。それによって救われたのだと言った。
世界に散りばめられた秘密を解析すれば得ることが出来る知識なのかもしれないのに、悠姫はそんな彼女に不躾な質問をして悲しませたくなかった。
「ありがとねイヴ。質問はしないけど、フィーネには会いに行こうかな」
「そうですか……いえ。私は問われたことに返事をしただけで、礼など不要です」
謙遜するイヴに、本当にこの子はどんなAIを積んでいるのだろうかと一日ずっと話し相手として貸し出しを希望したかった。
「でしたら、わたくしは欠橋悠姫がクラリシアさんとお話をしている間、このポンコツをギタギタにしておいて差し上げますわ」
「そのポンコツにギタギタにされたら、もう外を歩けないでしょうね」
「あーっはっは! そこまで言ったら戦争ですわね! もう知りませんわよ!」
「ふふ、わかりました、受けて立ちましょう」
余程相性が悪いのか、リーンはそう言ってイヴに宣戦布告をし、イヴはイヴでリーンに皮肉で返す。
「はいはい……もう好きにしなよ……」
そう言って悠姫はそのまま三人連れだって前にクエストで訪れた時にイヴと戦った広間までやってきて、後ろで互いに貶しあうリーンとイヴを無視して下への階段を降ってゆく。
遠くから「少しは力を付けたようですが、付け焼刃でどこまで耐えられますか?」「ぬかしなさい、吠え面かかせてやりますわ!」「そのままそっくり返しましょう!」「血祭りにして差し上げますわ! [ブラッディインストール]!」[死になさい! [セントティアーズ]!]などと言ったやり取りが聞こえて来て、本当にどれだけ相性が悪いんだろうかあの二人は、と思わずに居られなかった。
カツン……カツン……。
[聖櫃の深層部]へと続く階段に、規則正しい足音が響く。
ほどなくして悠姫はフィーネが眠る青い水晶体の前へと辿り着き、彼女を呼ぶ。
「フィーネ、来たよ?」
悠姫がそう言うと、ふっ……と転移してきたようにフィーネが目の前に現れた……は良いのだが、彼女は何故か悠姫を見て頬を膨らませていた。
「…………」
しかもやたらとじと目で悠姫をじっと見ている。
「え、あれ……フィーネ、もしかして怒ってる?」
「……だって悠姫様、ここ数日遊びに来てくれませんでしたから」
まさかと思いながら悠姫が遠慮気味に問うと、フィーネはぶっすーとしたふて腐れた態度でそう言ってそっぽを向いた。
可愛らしい態度ではあったが、仮にも神の系譜に名を連ねる者がその態度はどうなのだろうか。どう見ても完全に年端もいかぬ少女の反応だった。
「で、でもフィーネ、一年も待ってて数日くらい……」
「再会してからずっと通っていてくれたのに、唐突に三日も会いに来てくれないなんて酷い、と私は思いますけど。悠姫様はそうは思いませんか」
「う……」
再び真っ直ぐにフィーネに見られて、悠姫は確かにとは思う。
悠姫もひよりと三日会っていないだけで色々と悩んでしまっているし、フィーネももしかしたら色々と考えてしまっていたのかもしれないと考えると、一笑に付してしまえることでもなかった。
「や……ごめんね? フィーネ。でも、ここ数日色々問題があって忙しくて……」
「それは知っています。けれども延々と朝まで狩りに行く時間があるのならば、立ち寄ってくれても良かったとは思いますけれども?」
「……ですよね」
悠姫は完全に返す言葉が無かった。
転生の時にその人の過去に合ったことを話題にして会話する彼女だ。悠姫の行動など全て筒抜けだったらしい。メアリーも目じゃない情報収集力だった。
「けれども悠姫様が今悩んでいる問題というのは、それほどまで厄介な案件なのですか?」
[第一の聖櫃]の神もイヴと同様に俗世にも興味がおありだったらしく、悠姫は少しだけ考えた後に、別に話したところで問題は無いかと思い、彼女に現在起こっている[Endless Paradox]やそれに便乗した一部のプレイヤーによる迷惑行為のことを話す。
「……ということでね? [加護の祈り]もあるから実力差で強引に解決出来るような問題じゃないし、ちょっとややこしくてね」
レベルやプレイヤースキルで言うならば、恐らくEPのメンバーよりも、悪人ロールで便乗している一部のプレイヤーの方が高い。
EPのメンバーは元々MMORPG時代にただの構成員だった、抑圧されていた者ばかりである。
リーダーのラードルフにしたって[メインクラス]が対人に特化しているものだから有利なのであって、プレイヤースキル自体はそこまで高くはない。
兵士としての行動を求められるレイドギルドに置いて突出した技能は求められない。
彼らを諌める立場である上位の廃人勢は彼らが反逆しようとした時の為にシステムを解析して誰よりも強くなる為の術を修練するが、けれども構成員である彼らにはそんなものは教えられないし求められてもいない。
一人が目立った動きをしたところで、それで戦線が崩されれば何も意味も成さないレイド戦闘に置いては、完璧なヘイトコントロールや戦術というものこそが至高である。
高いレベルに、決められたステータス。
レアな装備に身を固めて模範通りの動きをトレースするだけのただの兵隊。
だからもしもフィールドやダンジョンで対人戦闘が可能となれば、嫌でも実力で序列が出来上がる。
それはそれで問題が起こりそうではあるが、いまのチンピラのような迷惑行為をされるよりは幾分かマシだろうとは思う。
悠姫が困ったようにそう言うと、直後、フィーネは恐ろしいことを言い放った。
「――じゃあ切りましょうか? [加護の祈り]」
――――――――――。
しばらく思考することも忘れて、悠姫は呆然とフィーネを見つめていた。
言葉の意味が理解出来なかった。フィーネが今なんて言ったのか、その言葉を理解しようとすることを本能的に頭が拒絶していた。
発せられた言葉は理解している。
けれども言葉の意味を脳が拒むような、言語の持つ意味自体が崩壊しているような、理解に至らない奇妙な感覚が悠姫を襲う。
「――どうかなされましたか、悠姫様?」
変わらず問いかけるフィーネがまるで今までとは別の生き物のように見えた。
そして、それは本来、間違いではない。
フィーネ。クラリシア=フィルネオスは[第一の聖櫃]の主で、神だ。
年端もいかない少女のような反応をして、拗ねて見せていても、彼女はルカルディアを創った神の一柱であり、人ではないのだ。
「……え? [加護の祈り]を――フィーネ、いまなんて言ったの? ――切る?」
十数秒。それだけの時間を要して何とか思考を取り戻した悠姫がフィーネに問うと、
「はい。[加護の祈り]は元々[新人類]が争わなくても良いように、互いに傷つけ合わないようにと創ったものですし、別に切っても良いですよ?」
いとも簡単に、あっさりと、そう言ってフィーネはいつもと変わらない笑みを浮かべた。
確かに[加護の祈り]は元々[第一の聖櫃]が創ったとされる祝福だ。だからそれを解くことも[第一の聖櫃]には可能なのだろう。
――だがしかしそれはあくまでバックグラウンド、[背景]としての話であり、本当にシステムに干渉出来るものだとは思ってもみなかった。
そして仮にもしもフィーネの言うことが正しく、彼女に[加護の祈り]を解くことが可能であるならば、彼女はシステムにも介入しうるほどの力を持っているということだ。
そんなことは――。
「――どうしますか?」
問いかけて来るフィーネが悠姫には今までとまるで違う別の生き物のように感じて唾を飲み、目頭を押さえる。
……そして次に緋色の瞳を開けて見た時には、彼女が今までと変わらない普通の女の子に見えた。
……フィーネは、フィーネ……だよね?
「ごめんねフィーネ。ちょっと、考えさせて……」
「わかりました、悠姫様」
どくんどくんとやけに煩く聴こえる心音を手で押さえるようにしながら言う悠姫に、フィーネは終始不思議そうな顔で首を傾げながらもそう了承して頷いた。
「フィーネ……わたし、今日はもう落ちるね?」
混乱が冷めやらぬままに悠姫はそう言って「悠姫様、また来てくださいね。……約束ですよ」と言うフィーネに見送られて、ギルドチャットで『……ごめん、今日は落ちるね』とリーンに言って[ルカルディア]からログアウトした。
後にはフィーネだけがその場に残り、フィーネは悠姫がログアウトした残滓をいつまでも、いつまでも眺めていた。